受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

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やっぱり今日でストックしたアイシャ編全部出します。


八十七話

 

その日も、馬車は揺れていた。

 

道はあまり良くなかった。

車輪が石を踏むたびに、ごとん、と体が浮く。

荷物がずれないように押さえながら、私は膝の上にぬいぐるみの胴体を置いていた。

今日は、脇のところを整えるつもりだ。

 

お兄ちゃんのぬいぐるみは、まだお兄ちゃんには見えない。

 

似なかったらどうしよう。

似すぎて寂しくなったらどうしよう。

 

そんなことを考えながら、私は糸を通した針を持った。

 

その時、近くから声が聞こえた。

 

 

「だからよ、そこで一番安いもんを選ぶ意味が分かんねぇって言ってんだよ」

 

 

ノコパラの声だった。

 

私は、針を持ったまま顔を上げた。

 

ノコパラは、片膝を立てて座り、不満そうに眉を寄せている。

その手には、買ってきた保存食の袋があった。

袋の口は少し開いていて、中には硬そうな干し肉が詰まっている。

 

ブレイズさんは荷台の横で腕を組んで、いつも通りの無表情に近い顔をしていた。

ただ、ほんの少しだけ目元が面倒そうになっている。

 

それが余計にノコパラを怒らせている気がした。

 

 

「値段と日持ちを考えれば、妥当だ」

 

 

「妥当じゃねぇよ。安いだけだろうが」

 

 

「安く、日持ちし、腹に入る」

 

 

「だから、それだけで選ぶなって言ってんだよ。味もしねぇし、おまけに硬え。こんなん毎日食ってたら口の中がパサつくだろうが」

 

 

「水を飲めばいいだろう」

 

 

「そういう話じゃねぇだろ」

 

 

……また、始まった。

 

近くにいたルーデウスお兄さんが、少し困った顔をしてこちらを見た。

 

 

「アイシャ、いいんですか?」

 

 

「え?」

 

 

「その……少し揉めているようですが」

 

 

私はノコパラとブレイズさんを見て、それからルーデウスお兄さんを見た。

 

 

「大丈夫、大丈夫」

 

 

「大丈夫ですか?」

 

 

「うん。いつも通りのことだもん」

 

 

私は軽く言った。

 

ノコパラとブレイズさんの声は、確かに少し大きくなっている。

でも、私はそれをそこまで危ないものだとは思っていなかった。

だって、二人が言い合うのは珍しいことじゃない。

旅の間に、何度も見てきた。

 

 

「二人はよくケンカするけど、仲が悪いわけじゃないらしいよ」

 

 

「らしい?」

 

 

「うん。お兄ちゃんが言ってたの。あれは仲良しの裏返しなんだって」

 

 

「カインが?」

 

 

「そ」

 

 

私は少しだけ得意気になって頷いた。

 

 

「本当に仲が悪かったら、あんなに何度も言い合わないんだよ。嫌なら近づかないし、言いたいことも言わない。ちゃんと相手に言いたいことがあるから言うんだって」

 

 

「なるほど……そういうことですか」

 

 

ルーデウスお兄さんは、すぐに納得したようだった。

 

 

「ほっといても、いつも勝手に仲直りしてるよ」

 

 

「それなら、少し様子を見ますか」

 

 

「だね」

 

 

私はまた針を持った。

 

糸はもう通してある。

あとは、胴体の横を小さく縫っていくだけ。

馬車の揺れに合わせて手首を少し浮かせる。

針先がずれないように、布を指で押さえる。

 

お兄ちゃんが言っていたのだ。

あれは仲良しの裏返しだって。

本当に駄目な喧嘩なら、もっと空気が悪くなる。

でもノコパラとブレイズさんの言い合いは、たしかにうるさいけど、武器を抜くような感じじゃない。

どちらかが本当に傷ついて、黙り込んでしまう感じでもない。

 

だから、放っておけばいい。

 

私はそう思って、針を布へ通した。

 

けれど、言い合いは一向に収まらなかった。

 

ノコパラは、買い出しの判断についてずっと言っている。

ブレイズさんは、必要なら直す、次は気をつける、と短く返している。

それだけなら終わりそうなのに、ノコパラはその短さがまた気に入らないらしい。

ブレイズさんはブレイズさんで、言い返されると面倒そうな顔になる。

その顔を見て、ノコパラがまた噛みつく。

 

ずっとそれの繰り返しだった。

 

 

「収まりませんね……」

 

 

ルーデウスお兄さんが、小さく呟いた。

 

私は顔を上げた。

 

ルーデウスお兄さんも、だいぶ困った顔をしている。

最初は、私が言った通りに様子を見てくれていた。

でも、ここまで長く続くと、さすがに止めた方がいいと思ったのかもしれない。

 

 

「いつもは、もう少し早く終わるんですか?」

 

 

「……うん」

 

 

正直、いつもどのくらいで終わっていたかは分からない。

でも、今日は長い気がする。

少なくとも、私のぬいぐるみ作りに支障が出るくらいには長い。

 

エリス姉も、明らかにイライラしている。

 

腕を組み足先で馬車の床を、とんとんと鳴らしていた。

 

よくない兆候だ。

 

 

「エリス、落ち着いてください」

 

 

ルーデウスお兄さんが慌てて宥める。

 

 

「なによ。落ち着いてるじゃない」

 

 

「その足音は落ち着いている人の足音じゃないでしょう……」

 

 

「うるさいんだから仕方ないでしょ」

 

 

「まあ、それは否定しませんが……」

 

 

エリス姉は、納得する前に怒るのが早い。

でも、ちゃんと説明すれば分かってくれる人でもある。

そこまで持っていくのが大変なだけなのだ。

 

ルーデウスお兄さんは、ノコパラさんとブレイズさんの方へ一歩寄った。

 

 

「二人とも。少し落ち着きましょう」

 

 

声は穏やかだった。

 

ノコパラは、舌打ちしそうな顔のままルーデウスお兄さんを見た。

ブレイズさんも、腕を組んだまま視線だけを向ける。

 

二人とも、いったんは止まった。

 

 

「ノコパラの言い分は、つまり、値段だけでなく食べやすさも考えるべきだ、ということですよね」

 

 

「そうだ。安けりゃいいってもんじゃねぇ。旅で毎日食うんだぞ。噛むたびに顎が壊れそうな肉を選んでどうすんだって話だ」

 

 

「つまり、値段より味を優先したい、と」

 

 

「値段よりって言い方は少し違うな。安いに越したことはねぇ。だが、安いだけのゴミを買うなって話だ」

 

 

「なるほど。安さは大事。ただし、質が最低限を下回るなら損になる、ということですね」

 

 

「そういうこった」

 

 

ノコパラは、満足そうに頷いた。

 

次に、ルーデウスお兄さんはブレイズさんを見た。

 

 

「ブレイズさんの言い分は、味よりも価格と保存性を優先すべき、ということですね。旅の途中で食料が不足するのは危険ですし、多少味が悪くても、安く大量に買えて長持ちするなら、そちらを選ぶ価値がある。そういう判断ですか?」

 

 

ブレイズさんは腕を組んだまま、静かに頷いた。

 

 

「ああ。嗜好品じゃない。保存食だ。腹に入って、腐らず、持ち運べる。それが一番だ」

 

 

「ここは魔大陸じゃねぇんだぞ」

 

 

ノコパラがすぐに返した。

 

 

「町はある。道もある。補給もできる。魔大陸で何日も何日もまともな飯にありつけねぇ時とは違う。だったら、保存性だけ見て味を捨てる必要はねぇだろ。多少高くても、食えるものを選んだ方がいい」

 

 

「カインのおかげで、味が大事なのは俺も分かっている。だが、味を知ったからといって油断するのは違う。食える時に食えるものを持つ。使える時に使えるものを確保する。そこを崩すと、後で困るだろう」

 

 

「だから、それが過剰だって言ってんだよ」

 

 

「過剰なくらいでいい時もある」

 

 

「いつまでも最悪に合わせてたら、得できる時に損すんだろ」

 

 

「得より安全だ」

 

 

「安全だけ見てたら、ずっと貧乏くじ引くぞ」

 

 

また、声が尖り始めた。

 

ルーデウスお兄さんが、慌てずに間へ言葉を差し込む。

 

 

「では、こうしましょう」

 

 

ルーデウスお兄さんは、ノコパラとブレイズさんを順番に見た。

 

 

「干し肉を二種類に分けるのはどうでしょうか」

 

 

「二種類?」

 

 

ノコパラが眉を寄せた。

 

ブレイズさんも黙ってルーデウスお兄さんを見る。

 

 

「はい。まず、ブレイズさんの言う通り、安くて日持ちする保存食は必要です。いざ補給できなくなった時、食べられるものがあるだけで全然違います」

 

 

ルーデウスお兄さんはそこで一度、ノコパラの方へ顔を向けた。

 

 

「ですが、ノコパラの言うことも正しいです。毎日食べるものが不味すぎると、気力が削れます。旅の空気も悪くなる」

 

 

「ほら見ろ」

 

 

ノコパラが少しだけ顎を上げた。

 

 

「まだ最後まで言っていません」

 

 

ルーデウスお兄さんは苦笑しながらも、すぐに続けた。

 

 

「だから、安くて硬い保存食は非常用として少し多めに確保する。普段の食事用には、多少値段が上がっても食べやすいものを選ぶ。毎日食べる分と、いざという時の分を分けて考えるんです」

 

 

「……」

 

 

ノコパラはすぐには返事をしなかった。

 

ブレイズさんも黙ったままだ。

 

馬車の車輪がごとんと大きく跳ねた。

私は膝の上のぬいぐるみを慌てて押さえる。

まだ中身もちゃんと詰まっていない胴体が、ぺしゃっと私の掌の下で少し潰れた。

 

ルーデウスお兄さんは揺れに合わせて少し体勢を崩したけれど、すぐに持ち直して、さらに言葉を重ねた。

 

 

「普段使いの食料はノコパラが選ぶ。非常用の保存食はブレイズさんが選ぶ。最後にアイシャが予算を見て調整する。これなら、どちらの意見も活かせると思います」

 

 

ルーデウスお兄さんが私に目配せをしてきた。

私は、返事の代わりに、ぱっと笑って親指を立てる。

「さむずあっぷ」だ。

 

妥当な案だと思う。

 

ノコパラの「食べやすさも大事」という話も入っている。

ブレイズさんの「非常時に備える」という話も入っている。

普段食べるものと、いざという時のものを分ける。

お金のことも、最後に私が見るなら計算できる。

 

これなら止まる。

 

そう思った。

 

ルーデウスお兄さんはやっぱりすごい。

いつも少し変なことを言ったり、エリス姉に怒られたりしているけど、こういう時はちゃんと大人みたいに話をまとめられる。

お兄ちゃんがルーデウスお兄さんを大事な友達だと言っていた理由が、分かる気がした。

 

けれど。

 

 

「それ自体は……まあ、悪かねぇよ」

 

 

ノコパラが、低くそう言った。

 

私は、ぱっと顔を上げた。

 

悪くない。

つまり、ルーデウスお兄さんの案は通ったのだと思った。

普段用と非常用で分ける。

ノコパラが食べやすいものを選んで、ブレイズさんが日持ちするものを選んで、最後に私が予算を見る。

それなら、ちゃんと形になる。

 

よかった。

 

そう思ったのに、ノコパラの顔は全然よくなさそうだった。

 

眉間にしわが寄ったままだし、口元もむすっとしている。

納得した人の顔ではない。しわは、少しも薄くなっていなかった。

 

 

「案は悪くねぇ。普段用と非常用で分ける。それは分かる。んなもん、言われりゃ俺だって納得する」

 

 

「では、それで――」

 

 

ルーデウスお兄さんが少し安心したように言いかけた、その時だった。

 

 

「けどな。俺が気に入らねぇのは、そこじゃねぇんだよ」

 

 

馬車の中の空気が、また少しだけ止まった。

 

 

「ブレイズ。お前のその態度が気に入らねぇんだよ」

 

 

「態度?」

 

 

「その返しだよ。その、何が分かんねぇんだって顔だ。こっちはちゃんと理由を言ってんのに、てめぇは最初から『何をそんなに騒いでるんだ』みてぇな顔して聞いてんだろ」

 

 

「そんなつもりはない」

 

 

「つもりがあるかどうかじゃねぇ。そう見えるって言ってんだよ」

 

 

「見え方まで全部は直せん」

 

 

「直す気がねぇ返事をすんなって言ってんのが分かんねぇのか?」

 

 

ブレイズさんは腕を組んだまま、ため息を吐いた。

 

 

「俺は、必要なことを言っただけだ。保存食は保存できることが大事だ。味の話を軽く見たつもりはない」

 

 

「だから、それを言う顔が腹立つんだよ」

 

 

た、態度が気に入らないから……

 

え? 態度?

 

私は、目をぱちぱちさせた。

 

今までの喧嘩って、ずっと食料の話だったはずだ。

安さとか、保存性とか、味の質とか、そういう話だったはず。

だからルーデウスお兄さんは、普段用と非常用に分ける案を出した。

それで、両方の話がちゃんと入った。

私も、それなら終わると思った。

 

なのに。

 

怒っている理由は、ただの態度。

 

つまり、今までの言い合いは、食料とか関係なくて、態度が気に入らないから続いてたってこと?

 

難しいよ……

 

なにそれ。

 

じゃあ、最初から態度について言い合えばいいじゃん。

 

「その干し肉は硬くて食べづらい」じゃなくて、「その態度が気に入らない」って言えばいいじゃん。

そうしたら、ルーデウスお兄さんだって、食料を二種類に分ける案じゃなくて、ブレイズさんの顔について考えたはずだ。

 

……顔について考えるって何だろう。

顔をどうにかするのは難しい。

でも、言い方とか、聞き方とか、そういう話にはなったかもしれない。

 

こんなの、分かるわけない。

 

言ってくれなきゃ分からない。

 

私は、計算ならできる。

 

お金がいくらあって、今日いくら使えて、明日にどれだけ残さなきゃいけなくて、非常用にどのくらい分けておけばいいか。

そういうのなら、頭の中で数字を並べればいい。

数字は、勝手に変な形にはならない。

一度決めた数字は、足せば増えるし、引けば減る。

少なくとも、昨日までの数字が今日になって急に別の意味になったりはしない。

 

でも、人の気持ちはそうじゃない。

 

言葉に出した時は干し肉の話だったのに、その中身は態度について。

態度の話だったはずなのに、今度は「ちゃんと聞いていない」とか「見下された」とか、別のところに伸びていく。

 

形がないし、すぐに変わっていく。

 

そもそも嘘ということもある。

 

前にお兄ちゃんが、私に言ったことがある。

 

『アイシャは、俺と一緒で人の気持ちという変数が苦手なんだな』

 

へんすう。

 

お兄ちゃんの前の世界にあった、計算とか、何かの考え方の言葉らしい。

中身が変わる箱みたいなものだと、お兄ちゃんは言っていた。

私はその時、ちょっとむっとした。

だって、私は計算が得意なのだ。

変な箱があったって、ちゃんと中身を見れば分かると思った。

 

でも、今なら分かる。

 

人の気持ちは、へんすうだ。

 

箱があることは分かる。

その中身が変わることも、お兄ちゃんに教えてもらったから知っている。

 

でも、いつ変わったのかが分からない。

何に変わったのかも分からない。

今、箱の中に何が入っているのかも分からない。

 

干し肉なのか。

値段なのか。

態度なのか。

見下されたことなのか。

もっと前から溜まっていた何かなのか。

 

分からない。

見えない。

だから、計算できない。

 

世界はそういうわけのわからないモノで作られている。

 

昔は、そういうものも別に理解しないままでもいいと思っていた。

 

だって、分からなくても困らなかったから。

私がちゃんと仕事をして、ちゃんと役に立って、ちゃんと指示を聞いていれば、なにも言われなかった。

相手の気持ちがどこでどう変わったかなんて、考えなくても、やることは分かった。

 

そうやって目の前の問題を解決して実益を出しさえすれば、へんすうが分からなくたって大丈夫だったのだ。

 

けど、お兄ちゃんに言われてからは、なるべく考えるようにしている。

 

でも、やっぱり難しい。

 

こういうのが分かるようになる人が、大人なのかな。

それとも、やっぱりお兄ちゃんが特別なのかな。

 

私がそんなことを考えている間に、ルーデウスお兄さんは、少し悲しそうな顔をしていた。

さっきまで「うまくまとめられそうだ」と思っていた顔がしぼんでいる。

 

 

「……やはり、付き合いの浅い僕ではここまでが限度みたいですね」

 

 

ルーデウスお兄さんが、ぽつりと言った。

 

そんなことない。

 

ルーデウスお兄さんは、ちゃんと頑張ってくれた。

二人の話を聞いて、両方を認めて、ちゃんとした案を出してくれた。

それなのに、その案だけでは止まらなかった。

 

 

「理屈としては正しいことは提案できても、二人の間にある空気までは、僕にはまだ読み切れませんでした。すみません」

 

 

エリス姉がむっとした。

 

本当に分かりやすい。

エリス姉は、ルーデウスお兄さんが少しでも傷ついたような顔をすると、すぐ怒る。

相手が誰であっても、きっと関係ないのだ。

ルーデウスお兄さんを傷つけたと思った瞬間、その人はエリス姉の中で怒る相手になる。

 

 

「なによ、それ……ルーデウスが謝ることじゃないでしょ!?」

 

 

腕を組んだまま、ノコパラとブレイズさんの方を睨む。

その目は、分かりやすく怒っていた。

エリス姉の怒りは、いつもまっすぐだ。

よくも悪くも、隠れることがない。

 

 

「ルーデウスがちゃんと案を出したんだから、それでいいじゃない。文句ばっかり言ってないで、言う通りにしなさいよ」

 

 

「エリス、落ち着いてください」

 

 

「なによ! 『せーろん』ってやつでしょ?」

 

 

「それはそうなんですが、今は正論が必要な場面ではなくてですね……」

 

 

ルーデウスお兄さんが慌ててエリス姉を止めようとする。

 

けれど、ノコパラの眉間には、またしわが寄った。

 

 

「んだよそれ。そいつが言ったら全部正解ってか」

 

 

「……そうよ!」

 

 

「正しいから黙れって話なら、てめぇもブレイズと同じだろ」

 

 

「誰が同じよ!」

 

 

「エリス、落ち着いてください。火に油です。今のエリスはかなり油です」

 

 

「……」

 

 

エリス姉がルーデウスお兄さんの方を向いて怒る。

ルーデウスお兄さんは両手を上げて、困ったように笑った。

でも、その笑いは、まだ弱い。

 

その時、ルーデウスお兄さんが私を見た。

 

その笑顔は、あまり嬉しそうじゃなかった。

 

つい最近も見た顔だ。

 

その顔を、私はつい最近も見た。

 

お兄ちゃんのことを聞きたくて、でも踏み込みすぎたくなくて、ルーデウスお兄さんが困った顔をしていた時。

 

そして、その顔をちゃんとした笑顔に戻したのは――

 

私だった。

 

その時、ルーデウスお兄さんは言った。

 

『アイシャは、カインに似ていますね』

 

お兄ちゃんに似ている。

 

そう言われたことが、私は嬉しかった。

すごく嬉しかった。

お兄ちゃんみたいだと言われるのは、私にとってとっても特別な褒め言葉だった。

 

だから今、ルーデウスお兄さんが困った顔をしているなら、私がなんとかしてあげたいと思った。

 

だって、私がお兄ちゃんに似ているなら。

少しでも似ているなら。

こういう時、お兄ちゃんならきっと、困っている人の顔を見て、その人に合う言葉を探すはずだから。

 

 

「ふふん。しょうがないなぁ」

 

 

私は、わざとらしく胸を張ってみせた。

 

ルーデウスお兄さんの目が、ぱっと明るくなる。

 

 

「おお……アイシャ、何かいい手があるんですか?」

 

 

期待のこもった顔だった。

 

さっきまでの困ったような苦笑いが、ちょっとだけほどけている。

それを見たら、私はますます頑張らなきゃいけない気がした。

 

よし。

 

お兄ちゃんみたいに、私が喧嘩をぱぱっと解決してあげなくちゃ。

 

そう思って、私はノコパラとブレイズさんを見た。

 

二人がどんな人なのかは、何年も一緒に旅をしてきたから知っている。

 

ノコパラは口が悪い。

すぐ文句を言うし、値段にうるさいし、安くできるところを見つけると目が少し光る。

ドケチと言ってもいい。

でも、ただお金を使いたくないだけの人ではない。

その先に得があるなら、ちゃんと食いつく。

自分が損することは嫌いだけど、必要な得のためなら頭を使う人だ。

 

ブレイズさんは堅実だ。

言葉は少ないけれど、現実を見ている。

危ないことを軽く見ないし、足元を固めることを大事にする。

派手ではないけど、ちゃんと必要なところに立ってくれる人だ。

何かが崩れそうな時に、黙って支えてくれるような人。

 

そこまでは分かる。

 

……でも、それを使ってどうすればいいのかまでは分からない。

 

黙らせるだけなら、方法はいくつかある。

ノコパラだったら、お金の話をすればいい。

今ここで言い合って時間を使う方が損だと言えば、きっと一瞬は黙る。

それで表面だけは整うかもしれない。

 

弱いところを突けば、二人とも黙る。

 

そういう方法なら、いくつも浮かんでしまう。

 

でも、それじゃ駄目だ。

 

相手の弱いところを押して、無理やり黙らせるのは違う。

場を静かにするだけならできるかもしれない。

でも、それはちゃんと解決したことにはならない。

ノコパラの中に残った怒りも、ブレイズさんの中に残った引っかかりも、そのままになる。

 

私は、お兄ちゃんみたいにやりたいのだ。

 

お兄ちゃんみたいに、その人をちゃんと見て。

その場に合った言葉を選んで。

怒っている人が、自力で力を抜けるようにして。

あとからちゃんと笑えるようにしたい。

 

でも、何を言えばそうなるのかは分からない。

 

その時、ふと前のことを思い出した。

 

前にも、ノコパラとブレイズさんが言い合いになったことがあった。

あの時も、空気が少し悪くなって、私はどうしようと思った。

けれど、私が一言言ったら、二人とも止まった。

二人が私を見て、空気が変わって、喧嘩はそこで終わった。

 

その時に使った言葉。

 

お兄ちゃんに教えてもらって、ちゃんとうまくいった言葉。

 

それなら、今回も――

 

 

「二人とも!」

 

 

できるだけ、はっきりした声を出した。

 

怒っているみたいにならないように。

でも、ちゃんと聞こえるように。

子供の声だからと流されないように、少しだけ胸を張って言った。

 

ノコパラがこちらを見る。

ブレイズさんも視線を向ける。

エリス姉も、ルーデウスお兄さんも私を見る。

 

馬車の中が、一瞬だけ静かになった。

 

私はその静けさを逃さないよう、以前に成功した言葉をそのまま言った。

 

 

「喧嘩するなら、ごはん抜きだよ!」

 

 

みんなが黙った。

 

その反応を、私は「うまくいった」と思いかけた。

 

だって前も、こうだったから。

 

私が言ったら、みんなの視線が集まった。

そこで空気がふっと変わって、張りつめていたものがゆるんで、喧嘩は終わった。

だから、今回もそうなると思った。

 

そうなるはずだと思っていた。

 

けど、次に聞こえたのは、私が思っていたような軽い返事じゃなかった。

 

 

「ほら、見なさいよ!」

 

 

最初に声を上げたのは、エリス姉だった。

 

 

「アイシャにまで気を遣わせてるじゃない! 小さい子にそんなこと言わせるなんて、恥ずかしくないの!?」

 

 

私は、少しだけ息を呑んだ。

 

違う。

 

エリス姉は、私を庇ってくれている。

それは分かる。

悪い意味で言っているわけじゃない。

私が困っていると思って、助けようとしてくれている。

 

でも、違う。

そうじゃない。

 

今は、そういうふうに言ってほしかったんじゃない。

 

 

「ハッ!」

 

 

ノコパラは、短く笑った。

 

ノコパラはゆっくりとエリス姉の方を見た。

口元が笑っている。

でも、目は全然笑っていなかった。

 

 

「外から見てる分にゃあ楽だよな。正しいことだけ言ってりゃ、さぞ気持ちがいいだろうよ」

 

 

「何よそれ」

 

 

エリス姉の声が低くなる。

 

 

「こっちの話も聞かずに、アイシャを盾にして説教か」

 

 

「盾になんかしてないわよ! アイシャが困ってるから言ってるの!」

 

 

「だから、それを盾にしてるって言ってるんだよ」

 

 

ノコパラの声が大きくなる。

 

馬車の中に、怒鳴り声がぶつかった。

 

私は、膝の上で手を握った。

 

違う。

違うの。

そういう意味で言ったんじゃないの。

 

私はエリス姉にノコパラを責めてほしかったわけじゃない。

ノコパラを悪者にしたかったわけでもない。

誰かに私のために怒ってほしかったわけじゃない。

 

私は、ただ。

 

前みたいにできればと思って。

 

前みたいに、私が一言言ったら、みんなが少し止まって。

喧嘩していたことが少しだけばからしくなって。

ごはん抜きは嫌だなって、ほんの少しでも笑って。

それで、もう一度ちゃんと話せるようになると思って。

 

それで。

 

それで……

 

 

「てめぇら、どいつもこいつも分かったような顔しやがって」

 

 

ノコパラが立ち上がりかけた。

 

エリス姉も、反射みたいに身を乗り出した。

 

 

「やるなら相手になるわよ!」

 

 

「エリス!」

 

 

ルーデウスお兄さんが慌てて声を上げる。

 

ブレイズさんも、体を動かしかけた。

止めようとしたのか、間に入ろうとしたのかは分からない。

でも、その前に、もっと低い声が馬車の中へ落ちた。

 

 

「ノコパラ」

 

 

ルイジェルドさんだった。

 

その声は大きくない。

怒鳴っていない。

でも、馬車の中の空気を一瞬で止めた。

 

ノコパラの動きが止まる。

 

ルイジェルドさんは、ノコパラを見ていた。

 

 

「エリスに手を出すわけではないだろうな」

 

 

ノコパラの頬が、ぴくりと動いた。

 

その目には怒りが残っていた。

けれど、ルイジェルドさんの視線を正面から受けて、ノコパラは奥歯を噛むように口元を歪める。

 

しばらく、何も言わなかった。

 

馬車の外から、車輪が土を削る音が聞こえる。

馬の蹄の音も。

風で葉っぱが擦れる音も。

 

やがてノコパラは、吐き捨てるように言った。

 

 

「……出すわけねぇだろ」

 

 

「ならばいい」

 

 

ルイジェルドさんは、それだけ言った。

 

ノコパラは乱暴に腰を下ろして、顔を背ける。

まだ怒っている。

でも、声は出さない。

何も言わない。

 

……結局、ノコパラを黙らせてしまった。

 

そっか……私は今、間違えたんだ。

 

その事実が、ゆっくりと落ちてきた。

 

落ちるというより、沈んでいくみたいだった。

小さな石を水の中に落とした時みたいに、ぽちゃんと音はしないのに、心の底の方へ沈んでいって、そこから冷たい波が広がっていく。

 

自分の言葉が、場をほどくどころか、別の責める材料になった。

 

エリス姉は私を守ろうとしてくれた。

それは分かる。

エリス姉は悪くない。

私が困っていると思って、怒ってくれたのだと思う。

 

ルイジェルドさんも、仲間同士で手が出ないように止めてくれた。

それも間違っていない。

あの人は、子供や仲間が傷つくことを嫌う人だ。

だから、ノコパラが立ち上がりかけた時、ちゃんと止めた。

 

でも、その全部が重なって、ノコパラは黙った。

 

怒りが解けたからじゃない。

納得したからじゃない。

 

ただ、これ以上言えば悪者になるから。

これ以上動けば、ルイジェルドさんに止められるから。

これ以上怒れば、私を困らせた人になるから。

 

だから、黙った。

 

私は今、お兄ちゃんの真似をしたけど失敗した。

 

いや、違う。

お兄ちゃんの真似ですらない。

私は、お兄ちゃんからもらったものを、そのまま言っただけだ。

 

お兄ちゃんがくれた言葉。

お兄ちゃんが、あの時の空気を見て、あの時のみんなの顔を見て、あの時の私でも言える形にしてくれた言葉。

私はそれを、同じように口にしただけ。

前に成功したのは、その時に合った言葉をお兄ちゃんがくれたからであって、それが今の状況に合うわけじゃない。

 

それなのに、私は考えなかった。

 

前にうまくいったから。

お兄ちゃんに似ているって言われたことが嬉しかったから。

ルーデウスお兄さんが期待してくれたから。

今もできると思ってしまった。

 

私がお兄ちゃんに似てる?

 

違う。

 

それも、お兄ちゃんにもらったものをそのままルーデウスお兄さんに伝えただけ。

 

あの時、私がルーデウスお兄さんを笑わせたのも、もしかしたら同じだったのかもしれない。

私がすごかったんじゃなくて、お兄ちゃんからもらった言葉や、お兄ちゃんから教えてもらったやり方を、そのまま使えただけ。

 

それが、たまたまあの時の正解だっただけ。

 

今は違った。

 

今のノコパラに必要だった言葉は、きっと「ごはん抜き」じゃない。

今のブレイズさんに必要だった言葉も違う。

エリス姉に必要だった言葉も、ルーデウスお兄さんに必要だった言葉も、全部違った。

 

私は、それを見られなかった。

 

人の気持ちを、少しは分かるようになってきたと思っていた。

 

前よりは、見えるようになったと思っていた。

 

お兄ちゃんがいない間も、ただ言われたことをするだけじゃなくて、誰が何を考えているのか、どうしてそういう顔をするのか、少しずつ考えるようになった。

ノコパラが嫌味を言う時、それが本当に相手を嫌っているからなのか、照れ隠しなのか、心配しているのに素直に言えないだけなのか。

ブレイズさんが短く返す時、それが面倒くさいからなのか、余計なことを言わないようにしているのか、本当にその一言で足りると思っているのか。

 

そういうものを、前よりは考えるようになった。

 

でも。

 

分かるようになってきたからって、それをどうすればいいのかまでは、全然分からない。

 

怒っているのが分かる。

傷ついているのが分かる。

すれ違っているのが分かる。

でも、そこにどんな言葉を置けばいいのかは、また別の話だった。

 

火があるのは分かる。

でも、そこに水をかければいいのか、風を遮ればいいのか、燃えるものをどければいいのか、それとも何もしない方がいいのか。

それが分からない。

 

お兄ちゃんは、それができた。

 

相手の気持ちを見つけて、その気持ちを乱暴に引っ張り出さずに、ちゃんと相手が自分で受け取れる形にして渡していた。

 

私はそれを近くで見ていたから、何となくできるような気がしていた。

 

でも、分かった気になっていただけだ。

 

私は、膝の上で握っていた手を少しだけ緩めた。

 

その時だった。

 

顔を背けていたノコパラと、目が合った。

 

本当に偶然だった。

 

私は見ようとしたわけじゃない。

ノコパラも、きっと私を見ようとしたわけじゃない。

ただ、馬車が揺れて、ノコパラの視線が少しだけ戻ってきて、その先に私がいた。

 

ノコパラは、私の顔を見たまま、少しだけ口を開いた。

そして、目を閉じた。

片手で顔を覆い、そのまま天井を仰ぐ。

 

馬車の天井には、もちろん何もない。

ちょっと汚れた木の板があって、揺れるたびに小さく軋むだけだ。

でも、ノコパラはそこに何か答えがあるみたいに上を向いていた。

 

その顔は、すごく分かりやすかった。

 

私でも分かる。

 

『やっちまった』

 

そんな顔だった。

 

やがて、ノコパラは長く息を吐いた。

 

 

「……悪かった」

 

 

低い声だった。

 

でも、さっきまでみたいに尖ってはいない声だった。

 

ノコパラは顔から手を離し、まずルーデウスお兄さんを見た。

 

 

「ルーデウスはちゃんとまとめようとしてくれた。それに噛みついたのは俺だ。悪かった」

 

 

ルーデウスお兄さんは、少しだけ驚いた顔をした。

 

 

「いえ……僕も、表面だけで見ていたところはありますから」

 

 

「そういう逃げ道を作らないでいい。今は俺が謝ってんだ。すまなかった」

 

 

「……はい。分かりました」

 

 

ルーデウスお兄さんは目を丸くした。

 

ノコパラは次に、エリス姉を見た。

 

 

「エリス。悪かった」

 

 

「……え?」

 

 

「お前がアイシャを心配して言ったのは分かってたのに言い返しちまった。すまん」

 

 

「そう……分かればいいのよ」

 

 

エリス姉は、ふんと鼻を鳴らした。

 

許すのが早い。

 

怒るのも早いけど、相手がちゃんと誠心誠意謝れば、わりとすぐ引く。

そこはエリス姉らしいと思った。

気持ちがまっすぐだから、怒る時もまっすぐで、許す時もまっすぐなのかもしれない。

 

 

「でも、次にアイシャを盾とか言ったらぶん殴るわよ」

 

 

「ああ、遠慮なく殴ってくれ」

 

 

「あと! 次からはもっと早く謝りなさいよね。謝れるなら最初から謝ればいいじゃない」

 

 

「それができたら苦労してねぇよ」

 

 

「何よそれ」

 

 

「俺の性格が悪いって話だ」

 

 

「それもそうね!」

 

 

「おい」

 

 

ノコパラは、短くそう返した。

 

いつもなら、ここでまた余計な一言を足して、エリス姉を怒らせる気がする。

でも、今日は足さなかった。

口元が少し引きつっているから、本当は言いたいことがあったのだと思う。

それを、ちゃんと飲み込んでいる。

 

その次に、ノコパラはルイジェルドさんを見た。

 

 

「騒がせた。手を出す気はなかったが、そう見えても仕方ねぇ動きをした。悪かった」

 

 

ルイジェルドさんは、少しだけ目を瞬かせた。

 

本当に少しだけ。

けれど、驚いているのは分かった。

 

 

「あ、ああ……分かればいい」

 

 

ルイジェルドさんが遅れて頷く。

 

ルイジェルドさんは、いつも落ち着いている。

魔物が出ても、誰かが騒いでも、エリス姉が怒っても、ルーデウスお兄さんが変なことを言っても、あまり大きく表情を変えない。

でも今は、その「分かればいい」という返事の前に、小さな間があった。

 

私も、ノコパラがこんなふうに謝るところなんて一切見たことがない。

ノコパラは悪いと思っていても、すぐに素直な言葉にしない。

文句を言いながら直したり、別のところで帳尻を合わせたり、わざと分かりにくい形で譲ったりすることが多い。

気づいたら改善しているけど、絶対に「俺が悪かった」とは言わない。

そんな感じの人だ。

 

でも、お兄ちゃんは前に言っていた。

 

ノコパラは口が悪いし、ひねくれているけれど、本当に必要な時はちゃんと頭を下げられる奴だ、と。

 

だから、これは不思議なことではないのかもしれない。

 

私が知らなかっただけで。

私が見えていなかっただけで。

お兄ちゃんは、それを知っていたのだ。

 

 

「あんたにも、迷惑かけた。馬車ん中で騒いで悪かった」

 

 

ノコパラは、少しだけ視線を落として、お母さんにもそう言った。

 

お母さんは、静かに目を伏せた。

 

 

「私自身は、迷惑などと思っておりません。旅の中で意見がぶつかること自体は、珍しいことではありませんから」

 

 

「だが――」

 

 

「ですが、謝罪をなさるのでしたら、私ではなくこの子に」

 

 

そう言って、お母さんは私に視線を向けた。

 

私の肩が、少しだけ跳ねた。

 

ノコパラも、こっちを見て目が合う。

 

 

「……アイシャ」

 

 

「う、うん」

 

 

私は思わず背筋を伸ばした。

 

ノコパラは、少しだけ唇を曲げた。

いつもの皮肉を言いそうな顔になりかけて、すぐにやめた。

それから、ちゃんと頭を下げた。

 

 

「悪かった。お前に気を遣わせた。嫌なもん見せたな」

 

 

「……」

 

 

私は、すぐには返事ができなかった。

 

ノコパラが謝っている。

 

それだけで、頭の中が少し追いつかなかった。

 

だって、ノコパラだ。

あのノコパラだ。

口を開けば文句か嫌味が出て、素直に言えば済むところをわざわざねじって、相手が少し怒るような言い方を選ぶことがある人だ。

 

そのノコパラが、今、私に向かってちゃんと謝っている。

 

変な感じだった。

嬉しいとか、怖いとか、そういう簡単な気持ちではない。

ただ、本当に変な気持ちだった。

 

 

「俺が止まらなきゃいけなかった。お前が止める前に、俺が自分で気づくべきだった」

 

 

ノコパラは、そこまで言ってから少しだけ顔をしかめた。

 

 

「……すまなかった」

 

 

もう一度、そう言った。

 

私は、膝の上で手を握ったまま、首を横に振ろうとした。

 

謝られると困るのだ。

 

だって、私の言葉で余計に場がこじれた。

私がうまく言えなかったせいで、エリス姉がノコパラを責めちゃって、ノコパラがさらに怒って、ルイジェルドさんが圧をかけて止めることになった。

 

だから、ノコパラだけが謝るのは、何か違う気がした。

 

けれど、私が何か言う前に、ノコパラはもう次の相手へ顔を向けていた。

 

ブレイズさんにも謝るのかな。

 

そう思った瞬間、またほんの少し変わった気がした。

 

だってそれは、さっきまでの謝罪とは全然違う。

 

ルーデウスお兄さんに謝るのとは違う。

エリス姉に謝るのとも違う。

ルイジェルドさんやお母さんに頭を下げるのとも違う。

もちろん、私に謝るのとも違う。

 

ブレイズさんに謝る。

 

それは、ノコパラにとってきっと、世界で一番嫌なことなはずだ。

 

ノコパラとブレイズさんは、古い友人だ。

 

古い友人。

そう言っていいのだと思う。

でも、仲がいいかと聞かれたら、少し困ってしまう。

 

友人という言葉が合っているのかは、やっぱり分からない。

二人はよく喧嘩する。

しかも、ただ意見が違って言い合うだけじゃない。

互いの嫌なところを知っていて、そこをわざと突くこともある。

相手がどう言われると腹が立つか、よく分かっている。

だから、ちょくちょく本当に性格の悪い喧嘩になる。

 

嫌いなのかな、と思うこともある。

 

でも、本当に嫌いなら一緒にいないと思う。

どうでもよかったら、あんなに腹を立てないと思う。

私にはまだ少し難しい関係だ。

 

ノコパラはブレイズさんを見たまま、口を開きかけた。

 

けれど、すぐには声が出なかった。

 

ほんの少しだけど、肩がぷるぷるしていた。

怒りで震えているのか、屈辱で震えているのか、我慢で震えているのかは分からない。

でも、今のノコパラが、全力で何かと戦っていることだけは分かった。

 

ブレイズさんは、それを黙って見ていた。

 

いつもの落ち着いた顔。

けれど、ほんの少しだけ目元が動いている。

まるで、『無理だろう』と思っているみたいだった。

 

ノコパラが自分に謝るなんてありえない。

謝ろうとしても、どうせ最後には嫌味か文句になる。

ノコパラが自分に謝るわけがない。

謝るくらいなら、舌を噛み切る方を選びそうだ。

 

そんなふうに思っているのかもしれない。

 

私も、そう思ってしまった。

 

けど……

 

 

「……す、すまん」

 

 

そう言った。

 

それだけだった。

本当に、それだけ。

 

短くて、ぶっきらぼうで、謝罪としては足りない気もする。

でも、その一言は、ちゃんとブレイズさんに向いていた。

誤魔化しでも、嫌味でも、皮肉でもなかった。

 

ただ、すまん、と言った。

 

それだけなのに、ものすごく大きなことが起きた気がした。

 

 

「わ……」

 

 

声が出そうになって、私は慌てて口を閉じた。

 

ノコパラが、ブレイズさんに謝る。

 

そんな光景見たことがない。

目の前で起きていることなのに、全く信じられなかった。

 

ノコパラがブレイズさんに文句を言うところなら何度も見た。

嫌味を言うところも、呆れるところも、怒鳴るところも、何なら相手の嫌なところを正確に突くところだって見たことがある。

 

でも、謝るところは見たことがなかった。

 

ブレイズさんも、明らかに驚いていた。

 

目がすごく見開かれた。

普段ならほとんど動かない表情が崩れた。

背筋が固まったように見えた。

それくらい、珍しいことだったのだと思う。

 

それから、ブレイズさんはいつもの調子を取り戻そうとしたのか、ぽつりと言った。

 

 

「……明日は槍でも降るのか?」

 

 

ノコパラのこめかみに、青筋が浮かんだ気がした。

 

これは怒る。

 

私はそう思った。

 

だって、今のはひどい。

ノコパラが、あれだけ頑張って謝ったのに。

震えるくらい嫌そうにして、それでも言ったのに。

それを茶化されたら、怒って当然だと思う。

むしろ、怒らなかったら、それこそ空から槍が降るかもしれない。

 

けれど、ノコパラは怒鳴らなかった。

 

こめかみには、はっきり青筋が浮かびかけている。

口元も引きつっている。

絶対に腹は立っている。

ものすごく腹は立っている。

 

でも、ノコパラはそれを飲み込んでいた。

 

奥歯を噛む。

鼻から息を吸う。

一度目を閉じる。

そして、ゆっくり息を吐く。

 

それから、ノコパラはブレイズさんをじっと見つめた。

 

 

「いつまでも、あいつがいた時の感覚でやってんじゃねぇよ」

 

 

あいつ。

 

誰のことか、聞かなくても分かった。

 

お兄ちゃんだ。

 

お兄ちゃんの名前が出たわけじゃない。

でも、ブレイズさんもすぐに分かったと思う。

少なくとも、私はすぐに分かった。

 

胸の奥が、きゅっとなる。

 

会いたい。

そんな気持ちが、何の前触れもなく顔を出す。

私は膝の上にある作りかけのぬいぐるみの手をそっと握った。

 

ノコパラは、ブレイズさんから目を逸らさなかった。

 

 

「相性悪いはずの俺たちが、こんなバカを何も考えずにやってこれたのは、全部あいつのおかげだったんだよ」

 

 

ブレイズさんは、何も言わなかった。

 

でも、その顔が少しだけ変わった。

 

 

「思い返してみろ」

 

 

ノコパラは続けた。

 

 

「俺が口悪くお前に噛みついた時、あいつはどうしてた? 俺を黙らせたか? 違ぇだろ。まず、俺が何に腹立ててんのか勝手に読んできやがった。そんで、俺の言葉を、まともな形に直してくる」

 

 

「……」

 

 

「お前が短い言葉で済ませた時はどうだ? あいつは、お前の言葉を勝手に切り捨てたか? お前の短い言葉を補って足りねぇところを補完してくれただろ?」

 

 

ブレイズさんの目が、ほんの少しだけ開く。

体が大きく動いたわけじゃない。

息を呑んだ音だって聞こえなかった。

でも、私は見ていた。

いつもと同じように座っているはずのブレイズさんの中で、何かが一つ、音もなく落ちたのが分かった気がした。

 

 

「あいつは……」

 

 

ノコパラは、そこで少しだけ顔をしかめた。

 

 

「俺が言いすぎたら止めた。お前が足りねぇ時は足した。俺たちが互いの嫌なところを突き合い始めたら、そこで終わる前に横から割って入った……あいつは、そういうのをずっとやってたんだよ」

 

 

お兄ちゃんは、私以外にもそうやっていたんだ。

 

できていたんだ。

 

そう思った。

 

私は、お兄ちゃんが私を見てくれることを知っている。

私が頑張ったら、ちゃんと拾ってくれることを知っている。

私が言葉にできない時も、顔を見て気づいてくれることを知っている。

私が寂しそうにしていたら、何も言わずに頭を撫でてくれることも知っている。

 

でも、それは私にだけじゃなかった。

 

ノコパラにも、ブレイズさんにも、きっとそうしていた。

誰かの言葉の下にあるものを見つけて、そのまま乱暴に引っ張り出すんじゃなくて、相手が受け取れる形にして戻していた。

 

私以外にも、そうやっていたんだ。

できていたんだ。

お兄ちゃんは、やっぱりすごい。

 

そう思った瞬間、胸の中が温かくなって、同時に苦しくなった。

すごいと思うほど、遠く感じる。

お兄ちゃんに似ていると言われたのが、恥ずかしくなるくらい遠い。

 

お兄ちゃんに似ていると言われて嬉しかった。

でも、こうして改めて見ると、お兄ちゃんがしていたことは、とても簡単に真似できるものじゃない。

私が一度や二度、言葉を借りてうまくいったくらいで届く場所ではない。

 

ノコパラは、ブレイズさんを見たまま、静かに続けた。

 

 

「俺もお前も、大人になるべきだ」

 

 

その言葉は、ノコパラの口から出たとは思えないくらい、まっすぐだった。

 

 

「遅すぎるぐらいだがな」

 

 

ブレイズさんは、何も言わなかった。

 

いつもなら、ここでまた短く何かを返しそうだった。

「今さらだな」とか。

「お前が言うのか」とか。

でも、言わなかった。

 

ノコパラも、それを待たずに続けた。

 

 

「俺が口悪く噛みつくのも、お前が短く済ませるのも、あいつがどうにかしてくれる前提でやってたんだよ。自覚があったかどうかは別だ。だが、結果としてそうなってた」

 

 

「ああ……」

 

 

「でも、今ここにあいつはいねぇ。なら、俺は自分で言い方を考えなきゃならねぇし、お前は自分で言葉を足さなきゃならねぇ。あいつがいねぇのに、あいつがいた時と同じようにやってたら……まあ、こうなる」

 

 

ノコパラの言葉が、馬車の中に静かに落ちた。

 

さっきまで、その干し肉のことで言い合っていた。

安いとか、硬いとか、日持ちするとか、味が悪いとか。

でも、今はそれだけの話じゃなくなっていた。

 

きっと最初から、そうだったのだと思う。

干し肉の話をしていたはずなのに、ノコパラが怒っていたのは、ブレイズさんの言い方や態度で。

ブレイズさんが苛立っていたのは、どうして自分の言っていることが伝わらないのか分からなかったからで。

そこに私やエリス姉やルーデウスお兄さんの言葉が重なって、どんどん形が変わっていった。

 

人の気持ちは、本当に面倒くさい。

 

数字みたいに、最初から最後まで同じ形でいてくれない。

 

ブレイズさんは、自分の膝の上に置いた手を見ていた。

大きな手。

斧を握る手。

危ない時には、迷わず誰かの前に出る手。

 

その手が、強く握られていた。

 

 

「……そう、だな」

 

 

やがて、ブレイズさんが低く言った。

 

いつもみたいに短い。

でも、その短さは、さっきまでとは違った。

面倒だから削った言葉じゃない。

必要なところだけ残した言葉でもない。

 

そんな気がした。

 

ブレイズさんは、ゆっくり息を吐いた。

 

 

「すまなかった」

 

 

それは、明確にノコパラへ向けた言葉だった。

 

 

「俺は、なぜ伝わらないのか分からずに苛立っていた。必要なことは言っている。間違ってはいない。そう思っていた」

 

 

ブレイズさんは続けた。

 

 

「だが、違ったな。伝わるように言っていなかっただけだ。俺の言葉は足りていなかった。足りないままでも伝わっていたのは、カインが補ってくれていたからだった。俺の言葉を、お前に届く形に直していた。俺はそれを、自分の言葉が通じていたのだと勘違いしていたのかもしれない」

 

 

ブレイズさんの口から聞くお兄ちゃんは、私が知っているお兄ちゃんと少し違う。

でも、きっと同じ人だ。

私に優しくしてくれるお兄ちゃん。

頑張ったところを見つけてくれるお兄ちゃん。

ノコパラとブレイズさんの言葉の間に入って、二人が自分でも分かっていない気持ちを、分かりやすい形にしていたお兄ちゃん。

 

 

「カインのおかげでしかなかった。俺はそれに甘えていた」

 

 

そう言った時、ブレイズさんの顔が苦くなった。

 

 

「すまなかった」

 

 

ノコパラは、すぐには答えなかった。

 

ただ、少しだけ視線を落として、それから鼻を鳴らした。

 

 

「……俺も同じだ」

 

 

「そうだな」

 

 

「そこで素直に頷くなよ」

 

 

「今は素直に頷くべき場面だろう」

 

 

「……そういうとこだぞ」

 

 

ノコパラはそう言ったけど、さっきみたいな尖り方ではなかった。

 

ブレイズさんが、今度は私の方を見た。

 

 

「助かった」

 

 

「……え?」

 

 

「止めようとしてくれた。俺たちが気づけていなかったことを、気づかせてくれた」

 

 

私は、何も言えなかった。

 

助かった。

 

そう言われるようなことを、私はできたのかな。

私は助けられたのかな。

それとも、助けようとして失敗しただけなのかな。

 

私がしたのは、前に成功した言葉をそのまま言っただけだ。

お兄ちゃんが教えてくれて、前にうまくいった言葉。

でも、今のノコパラとブレイズさんには合っていなかった。

合っていないどころか、エリス姉がノコパラを責めるきっかけになって、ノコパラを余計に怒らせた。

 

それなのに、助かったと言われた。

 

感情がうまく並ばなかった。

 

嬉しいと言うには、私は何もできていない。

でも、何もできていないと言い切るには、ブレイズさんの顔は本気だった。

私を慰めるためだけに言っているようには見えなかった。

 

 

「慣れんことをさせてすまなかった」

 

 

「……」

 

 

今度は謝られた。

助かったと言われて、そのあと謝られた。

私の言葉で余計に場がこじれたのに。

ノコパラたちだけが謝るのは、何か違う気がした。

 

私がちゃんとできていたなら、そんなふうにはならなかったはずだ。

 

お兄ちゃんなら、きっと違った。

 

ノコパラが本当に怒っているところをちゃんと見て、ブレイズさんが何を足りないまま言っているのかを拾って、エリス姉がルーデウスお兄さんを庇おうとしていることにも気づいて、誰かが誰かを責める形にならないように言葉を置いたはずだ。

 

でも、私はできなかった。

 

それなのに、ブレイズさんは私に謝った。

助かった、と言った。

慣れないことをさせてすまなかった、と言った。

 

私も謝るべきだと思った。

 

 

「わたし――」

 

 

「謝るなよ」

 

 

ノコパラが、私の言葉を遮った。

 

私は口を閉じた。

 

ノコパラは、少しだけ眉を寄せていた。

 

 

「確かに、お前のかける言葉は違ったかもしれねぇ。今の空気に合ってたかって言われりゃ……まあ、合ってなかっただろうよ」

 

 

分かっていた。

自分でも分かっていたことだ。

でも、誰かの口から言われるとやっぱり痛い。

 

ノコパラの言葉は、逃げ道を作らない言葉だった。

慰めるために嘘をつくのではなく、駄目だったところを駄目だったと言っている。

 

 

「だが、それが普通だ。誰もかれもが、あいつみたいにうまくできるわけじゃねぇ」

 

 

ノコパラは、視線を横へ流した。

 

それはブレイズさんを見るようでもあり、どこにもいないお兄ちゃんを見ているようでもあった。

 

 

「お前は止めようとした。俺たちが見えてなかったもんを、見ようとしてくれた。で、俺に気づかせた。それで十分だ」

 

 

「……でも」

 

 

その先に続く言葉は、いくつもあった。

 

でも、私は失敗した。

でも、私はノコパラを余計に怒らせた。

でも、私の言葉は合ってなかった。

でも、私、お兄ちゃんみたいにできなかった。

 

そういう言葉がたくさんあった。

 

ひとつ言えば、きっと次も出る。

次を言えば、その次も出る。

そうやって、自分ができなかったことばかり並べてしまいそうだった。

 

だから、私は口を閉じた。

 

私は、膝の上の手を見た。

 

指先が、少しだけ白くなっている。

また握っていた。

いつの間にか、ぎゅっと。

 

その力をゆっくり抜いた。

 

私の言葉は、正解ではなかった。

 

今のノコパラにかける言葉としては違った。

今のブレイズさんに届ける言葉としても違った。

前にうまくいった言葉を、そのまま今の場に持ってきただけ。

だから、うまくいかなかった。

 

でも。

 

失敗が全部無意味じゃないってことは、お兄ちゃんから教わった。

 

うまくできなかったこと。

間違えたこと。

思っていた形にならなかったこと。

それが全部、何も残さないわけじゃない。

 

失敗したから、見えるものがある。

失敗したから、誰かが気づくこともある。

失敗したから、次に少しだけ考えられることがある。

 

お兄ちゃんは、そういうふうに言ってくれた。

 

失敗した私を、ただ駄目だと言わなかった。

できなかったことをなかったことにもしなかった。

ちゃんと失敗だと見て、その上で、そこに残ったものを意味あるものにしてくれた。

 

なら。

 

今のこれも、そういうことなのかもしれない。

私の言葉は正解ではなかった。

でも、無意味でもなかった。

 

私の失敗で、ノコパラたちに何かを気づかせられた。

だから失敗でも、「助かった」し、「十分」なのだ。

そう考えたら、私の中でぐちゃぐちゃに絡まっていたものが形を変えた。

 

まだ、ちゃんと納得できたわけじゃない。

 

けど……そういうことなのだと思う。

 

ノコパラは、私が黙ったのを見て、短く息を吐いた。

 

 

「カインみてぇなことは、普通できねぇんだよ」

 

 

ノコパラが、私を見て小さく息を吐いた。

 

いつもの嫌味っぽい顔ではなかった。

ちょっと呆れている。

でも、怒ってはいない。

困った子を見るみたいな顔に近かった。

 

 

「どいつもこいつも、あいつみたいに出来るってんなら世の中もうちょい平和になってる」

 

 

ノコパラは、少しだけ口元を曲げた。

 

 

「だいたい、あいつはいろいろおかしいからな」

 

 

「……お兄ちゃんはおかしくない」

 

 

私はすぐに言い返した。

 

本当に、すぐだった。

考えるより先に口が動いた。

 

ノコパラが、少しだけ目を丸くする。

ブレイズさんも、ルーデウスお兄さんも、こっちを見た。

エリス姉は、なぜか少しだけ面白そうな顔をしている。

 

私は、膝の上の手を握り直して、もう一度言った。

 

 

「お兄ちゃんはおかしくないもん……」

 

 

お兄ちゃんは、すごいだけだ。

 

人のことをよく見ていて。

困っている人に気づいて。

私が何も言わなくても、寂しい時に頭を撫でてくれて。

泣きたい時に、泣いてもいい場所を作ってくれて。

私ができたことだけじゃなくて、できるまでに考えたことまで見つけてくれる。

 

それは、おかしいんじゃない。

 

すごいのだ。

 

ノコパラは、私の顔を見て気まずそうに口元を歪めた。

 

 

「あー……違う違う。そういう意味じゃねぇよ」

 

 

「言葉を直せ」

 

 

ブレイズさんが、静かに言った。

 

 

「うるせぇ、今やってんだよ」

 

 

ノコパラは少しだけ睨んだけれど、すぐに私の方へ向き直った。

 

 

「すごいって意味だよ。普通のやつにはできねぇことを、あいつはできる。だから、おかしいくらいすごいって意味だ」

 

 

「なら最初からそう言って」

 

 

「俺にそういう丁寧さを求めんな」

 

 

「さっき、大人になるべきって言ってたのに」

 

 

「ぐっ……」

 

 

ノコパラは、片手で頭を掻いた。

 

 

「アイシャ。お前もすごいのは確かだ。計算はバカみてぇに早ぇし、覚えもアホみてぇにいい」

 

 

褒められているのは分かる。

でも、ノコパラは褒める時も、だいたい少し嫌味を混ぜる人だ。

今も「バカ」とか「アホ」という言い方が、褒めているのか変な目で見ているのか、ちょっとだけ分かりにくい。

 

恐らく褒めているのだと思う。

 

 

「子供にしちゃ……どころじゃねぇな。普通に大人顔負け、はっきり言って腹立つくらいの天才だ」

 

 

「腹立つの?」

 

 

私は首を傾げた。

 

褒められたのは分かる。

天才と言われるのも、別に初めてではない。

私は自分が賢いことを知っているし、計算が得意なことも、物覚えがいいことも分かっている。

でも、腹立つくらい、というところがよく分からなかった。

 

すごいなら、すごいでいいのではないだろうか。

 

腹が立つの?

 

どうして?

 

ノコパラは、なぜかもっと疲れた顔をした。

 

 

「お前はな、計算は早ぇし、覚えもいいし、たいていのことは何でもできる。大人が半日かけて覚えることを、一回見ただけで覚えたりするだろ」

 

 

「うん」

 

 

「……そこで素直に頷くところだよ」

 

 

「えっ」

 

 

ノコパラは、今度こそはっきり呆れた顔をした。

 

 

「普通の奴はな、そこまで簡単にできねぇんだよ。できねぇから苦労する。失敗する。何回も教えられて、ようやく覚える。なのにお前は、見て、聞いて、ちょっと考えたら大体できる。そりゃ腹も立つだろ」

 

 

「……でも、できるのは悪いことじゃなくない?」

 

 

私はまた首を傾げた。

 

できるなら、できるでいい。

できないよりは、できる方がいい。

それなのに、どうして腹が立つのだろう。

 

ノコパラは、びしっと私を指さした。

 

 

「それだよ」

 

 

「それ?」

 

 

「お前はすげぇ。そこは認める。だがな、共感性ってやつに関しては、まだダメダメだ」

 

 

「きょうかんせい」

 

 

「人の気持ちを、ただ情報として読むだけじゃなくて、ちゃんとその人の中から分かることだよ」

 

 

私は、言葉を口の中で転がした。

 

分かるような、分からないような言葉だった。

 

共感。

 

相手の気持ちを、同じように感じること。

人が痛がっている時に、自分も少し痛いような気がすること。

誰かが嬉しそうにしている時に、自分も嬉しくなること。

ただ相手がどう動くかを読むのではなく、その人の中にあるものを一緒に見ようとすること。

 

お兄ちゃんが、私に教えてくれたことのひとつだ。

 

 

「私は、ダメダメ?」

 

 

「ダメダメだ」

 

 

私は黙った。

 

当たっていたからだ。

 

私は人を見る。

 

相手が何を欲しがっているか。

何を嫌がるか。

どう言えば動くか。

どこを押せば黙るか。

どんな言葉を使えば、相手がこちらの望む方へ進むか。

 

そういうことは、わりと得意だ。

 

お金の計算みたいに、人の反応を頭の中で並べることがある。

ノコパラには損得。

エリス姉には分かりやすい善悪。

ルーデウスお兄さんには理屈と少しの情。

ブレイズさんには必要性。

お母さんには段取りと正しさ。

そういうふうに考えれば、相手を動かす言葉は見つけやすい。

 

でも、それは、お兄ちゃんがしていたこととは違う。

 

人を動かすこと。

利用すること。

反応を読むこと。

 

それはできる。

 

けど、お兄ちゃんみたいに共感して、理解するところまでは、まだ難しい。

 

相手がどう反応するかを読むのと、相手がどうしてそう思っているのかをちゃんと受け止めるのは違う。

怒っている人を黙らせるのと、その人の怒りをほどくのは違う。

泣いている人を泣き止ませるのと、その人が泣いている理由に寄り添うのは違う。

 

私は、前者なら全然できる。

 

でも、後者はまだうまくできない。

 

 

「……たしかに、そこはまだダメダメかも」

 

 

「認めるの早ぇな」

 

 

「だって、今失敗したもん」

 

 

「まあな」

 

 

「そこは否定しないんだ」

 

 

「嘘ついて慰めても仕方ねぇだろ」

 

 

ノコパラは、少しだけ肩をすくめる。

 

 

「……ってわけで、お前が無理にカインみたいなやり方をしようとしなくてもいい」

 

 

ノコパラは、私を見たまま言った。

 

 

「つーか、やろうとすんな。あいつのは、真似できるもんじゃねぇから」

 

 

「それは……すごいから?」

 

 

「ああ。すごいからだ」

 

 

今度は「おかしい」とは言わず、ちゃんとすごいと言った。

 

私が褒められたわけではないのに、お兄ちゃんがちゃんと褒められると、私まで誇らしくなる。

お兄ちゃんは、私の大事な人だから。

その大事な人が、他の人にもすごいと思われているのは、やっぱり嬉しい。

 

 

「相手の欲しい言葉を、ドンピシャで渡せる人間なんて普通じゃねぇよ」

 

 

欲しい言葉。

 

それは、ただ甘い言葉という意味ではないのだと思う。

ただ褒めることでもない。

ただ慰めることでもない。

相手が本当は何を分かってほしいのか。

何を認めてほしいのか。

どう渡されれば、自分で飲み込めるのか。

 

そういうものを見つけて、ぴったりの形にして渡す。

 

お兄ちゃんは、それができる。

 

 

「怒ってる奴に、怒るなって言うのは簡単だ。黙らせるのも、まあやり方はいくらでもある。脅すなり、損得で縛るなり、周りを味方につけるなりな」

 

 

「……うん」

 

 

「だが、怒ってる奴には怒りの奥にあるもんを拾う。黙ってる奴には足りねぇ言葉を足す。言いすぎてる奴には余計な棘を削ってやる。んで、周りが飲み込める場所まで持っていく。そんなもん、できる奴の方が少ねぇ」

 

 

ふと横を見ると、ルーデウスお兄さんがなぜか少し満足げに頷いていた。

腕を組んで、うんうん、という顔をしている。

ルーデウスお兄さんも、お兄ちゃんのそういうところを知っているのかもしれない。

もしかして、知ってるだけじゃなくて、そういう言葉を受け取ったことがあるのかもしれない。

 

ノコパラは、そんな私の顔を見ていた。

それから、少しだけ笑うように息を吐いた。

 

 

「お前もすげぇよ。そこは間違いねぇ」

 

 

「うん」

 

 

ノコパラは、私の顔を見て、ふっと息を吐いた。

 

 

「……ただ、カインにはまだまだ遠いな」

 

 

その言葉は、抵抗なくすとんと落ちてきた。

 

まだまだ遠い。

 

その言葉で、何かがきちんとした場所に収まったような気がした。

 

 

「そっかぁ……うん! たしかにそうだね!」

 

 

ノコパラが少しだけ目を丸くする。

 

 

「そこでそんな顔すんのかよ」

 

 

「だって、本当のことだもん」

 

 

私は頷いた。

 

すっごく腑に落ちたのだ。

 

私は、お兄ちゃんみたいにはできなかった。

でも。

それは、そんなにおかしなことじゃなかったのかもしれない。

 

お兄ちゃんはすごい。

 

そして、私もすごい。

 

私は自分ができる子だと知っている。

 

私はすごい。

それは、別に間違っていない。

けど、そのせいでどこかで思っていたのだ。

 

お兄ちゃんのすごさも、きっと自分でもできるものなんだ、って。

 

お兄ちゃんがくれた言葉を覚えている。

お兄ちゃんがしてくれたことを覚えている。

お兄ちゃんが誰かに向けていた優しさも、怒り方も、困った時の笑い方も、私はいっぱい見てきた。

その全部が重なって、私は自分にもできるものだと思った。

 

でも、うまくはできなかった。

 

人の気持ちを読むことと、その気持ちに届く言葉を渡すことは違った。

相手を動かすことと、相手を理解することは違った。

黙らせることと、ほどくことは違った。

正しいことを言うことと、その人が飲み込める形で渡すことは違った。

 

そんなこと、簡単にできるわけがなかった。

 

それは、当たり前のことなのだ。

 

だって、お兄ちゃんはすごい人だから。

 

私がすごいことと、お兄ちゃんがすごいことは、同じじゃない。

私ができることと、お兄ちゃんができることは、同じ場所にあるものじゃない。

私の手が届くところにあるすごさと、お兄ちゃんのすごさは違う。

 

ううん。

少しどころじゃない。

お兄ちゃんは、私よりずっとすごい。

 

私はすごい。

お母さんも、ルーデウスお兄さんも、他の人たちも、私が色々なことをできる子だと知っている。

私自身だって、それを知らないふりはしない。

 

でも、お兄ちゃんはもっとすごい。

 

それだけの話だった。

 

できなくて当然なのだ。

簡単にできたら、絶対におかしい。

お兄ちゃんがしていたことは、それくらいすごいことだった。

 

私ができなかったのは、私が駄目だったからだけじゃない。

お兄ちゃんが、とてもすごい人だったからだ。

 

出来なかったことが、悔しくないわけじゃない。

けれど、それ以上になんだか嬉しかった。

 

お兄ちゃんは、私の特別が届かないくらい、とびきり特別な人だ。

 

お兄ちゃんがしていたことは、ずっとずっとすごいことだったのだ。

 

夜空を見上げているみたいだった。

 

手を伸ばしても絶対に届かない。

背伸びをしても絶対に届かない。

どれだけ目を凝らしても、星は遠いままだ。

でも、遠いから嫌なわけじゃない。

見上げればそこにあって、暗いところでもきらきらしていて、目を離せなくなる。

 

お兄ちゃんは、私にとってそういう人だった。

 

私がすごい子だとしても。

みんなが褒めてくれるような、できる子だとしても。

それでも、私が見上げてしまう人。

 

私の特別が届かないくらい、すっごくすっごく特別な人。

 

怖くはない。

 

だって、お兄ちゃんの方から来てくれるから。

私が泣けば来てくれた。

私が寂しそうにしていれば、気づいてくれた。

手を伸ばす前に、お兄ちゃんが先に手を出してくれることだってあった。

 

私がいくら届かなくても、お兄ちゃんが降りてきてくれる。

ずっとそうだったから、遠くても怖くない。

 

そう思ったら、にやけそうになった。

 

もちろん、声には出さなかった。

言ったら、ノコパラに変な顔をされそうだし、エリス姉にも首を傾げられそうだったから。

 

馬車の中の空気は、少しずつ元に戻っていった。

 

ルーデウスお兄さんが、いつもの少し困ったような声で次の予定を確認していた。

エリス姉はまだ不満そうだったけれど、もうノコパラに噛みつこうとはしていない。

ブレイズさんがいつもの癖で短く返事をして、それにノコパラが文句を言いかけて、途中でやめた。

 

私はその中で、もう一度星を見上げるように思った。

 

お兄ちゃんは、やっぱりすごい。

 

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