「できた……」
私は、膝の上に置いていたそれを、そっと両手で持ち上げた。
小さな明かりが、布の表面をやわらかく照らしている。
夜の部屋は静かだった。
外からは、宿の廊下を誰かが歩く音も、もうほとんど聞こえない。
遠くで馬が鼻を鳴らすような音がして、それからまた静かになる。
そんな中で、私の手の中にある小さなぬいぐるみだけが、やけにくっきり見えた。
ぬいぐるみを、そっと掲げる。
あまり強く握ると形が崩れてしまいそうで、でも落としたくなくて、指先に少しだけ力を入れる。
縫い目を隠すように整えた服。
小さく丸めた腕。
ちょっとだけ困ったようにも見える、でも優しく笑っているようにも見える顔。
髪の色は何度も迷って、暗い糸と少し明るい糸を混ぜて、やっとそれっぽくなった。
それから、腰のところ。
作るつもりはなかったのに、気づいたら作ってしまった小さな剣。
お兄ちゃんがいつも腰につけている剣を思い出したら、どうしても付けたくなった。
最初は難しいからやめようと思った。
ぬいぐるみなのだから、そこまで作らなくてもいいと思った。
でも、一度気になってしまうと、作らない方が落ち着かなくなった。
私は持ち上げたぬいぐるみを、右から見て、左から見て、少し傾けて、また正面から見た。
「……完璧」
自分で言って、少しだけ胸を張った。
いや、少しじゃない。
けっこう……かなり胸を張った。
もちろん、本物のお兄ちゃんとは違う。
本物のお兄ちゃんは、もっと背が高くて、もっとあったかくて、もっと優しい顔をしていて、もっと困ったように笑って、もっと頭を撫でる手が気持ちよくて、もっと声が胸の奥に届く。
そんなのは分かっている。
でも、ぬいぐるみとしては完璧だった。
ちゃんとぬいぐるみっぽく、可愛くデフォルメできている。
それでいて、お兄ちゃんっぽさもある。
ただ似せようとして怖くなるわけでもなく、ただ可愛くして誰だか分からなくなるわけでもない。
ちゃんと、お兄ちゃんのぬいぐるみだ。
「ふふ……」
私は、ぬいぐるみを見上げたまま笑った。
我ながら、いい出来だと思う。
私はぬいぐるみを離して眺めたあと、今度は胸の前に引き寄せた。
「よし……さっそくこれをぎゅーってして寝よう」
そうと決めたら、もう寝る準備をするしかない。
灯りを消して布団へ入った。
ぬいぐるみのお兄ちゃんを胸に抱き寄せる。
それから……ぎゅうっとする。
柔らかい。
ちゃんと抱きしめられる。
腕の中にすっぽり収まる大きさにしたのは正解だった。
小さすぎると寂しいし、大きすぎると荷物になる。
でも、この大きさなら、布団の中でも抱ける。
旅の荷物に入れても、たぶん何とかなる。
お母さんに見つかったら、少しだけ驚かれるかもしれないけど、怒られはしないと思う。
「怒られたらかばってね、お兄ちゃん」
小さく呼んでみた。
もちろん、この子は何も言わない。
でも、抱きしめるとちゃんとそこにいる。
私は顔を近づけて、ぬいぐるみの頭に頬を寄せた。
布の匂いがする。
あと、ちょっとだけ私の匂いもする。
お兄ちゃんの匂いではない。
そんなのは、分かっている。
でも、別にいいのだ。
これは本物のお兄ちゃんじゃない。
でも、私が作ったお兄ちゃんだ。
私が、お兄ちゃんのことを考えながら、一針ずつ縫ったものだ。
だから、この子には私の「お兄ちゃんに会いたい」が詰まっている。
「えへへ……お兄ちゃん」
もう一度呼ぶ。
今度は、ほんのちょっと声が甘くなった気がした。
今回も、もちろん返事はない。
でも、ぬいぐるみを抱いていると、何となく話してもいい気がした。
変なところから話し始めてもいい。
途中で話が飛んでも、誰にも何も言われないから。
「今日ね、ノコパラがまたブレイズさんに文句言ってたよ」
私は、布団の中でぬいぐるみを抱えたまま、ぽつぽつと話し始めた。
「でも、今日はそんなに喧嘩にならなかったの。前に比べたら、ちゃんと二人とも考えてる感じだったよ。ノコパラは相変わらず口が悪いけど、途中で言い方を直そうとしてた。ブレイズさんも、ちょっとだけ言葉を足してた。ほんとにちょっとだけだけど」
そこまで言って、少し笑ってしまった。
ブレイズさんの「ちょっとだけ」は、本当にちょっとだけだ。
でも、前よりは違う。
必要だと思った時に、少しだけ足すようになった。
ノコパラも、全部を皮肉にしないで、一回飲み込むようになった。
全部が急に変わったわけじゃない。
ノコパラはまだノコパラだし、ブレイズさんもまだブレイズさんだ。
でも、少しだけ変わった。
ほんの少し。
そのほんの少しでも、私はお兄ちゃんに話したくなる。
楽しかったことも。
ちょっと困ったことも。
誰かが少しだけ変わったことも。
私が気づいた小さなことも。
そういうものを全部、お兄ちゃんに話したくなる。
腕の中には、ぬいぐるみのお兄ちゃんがいる。
本物じゃない。
声もない。
体温もない。
でも、抱きしめると柔らかい。
私が縫ったところが指に触れる。
腰につけた小さな剣が、布団の中で少しだけ指に当たる。
硬くないように作ったから痛くはない。
でも、そこにあると分かる。
それが、なんだか嬉しかった。
私は、ぬいぐるみの頭を指でそっと撫でた。
布だから、髪は揺れない。
本物のお兄ちゃんに、私がこうやって頭を撫でたら、困った顔をするかもしれない。
「それは、俺がやる側じゃないか?」なんて言うかもしれない。
でも、たぶん最後には好きにさせてくれる。
そんな顔を思い浮かべると、胸の奥があたたかくなった。
「それからね、ルーデウスお兄さんのことなんだけど」
私は、声をひそめた。
お母さんに聞かれたら困るというのもある。
けど、お兄ちゃんにこっそり報告するみたいな気分になったからだ。
「お兄ちゃんが言ってた通り……ううん、それよりもっと変態さんだった」
ルーデウスお兄さんは、普段はちゃんとした顔をしている。
私に話しかける時も丁寧だし、周りのこともよく見ている。
魔術もすごい。
エリス姉が怒りそうになると、慌てながらもちゃんと止めようとする。
ノコパラとブレイズさんの言い合いにも、理屈でちゃんと案を出してくれた。
やっぱり、お兄ちゃんの友達なんだなと思えるところはたくさんある。
でも。
それはそれとして、変態さんだった。
「今日もね、エリス姉に変なことして殴られてたの。すごい音がしたんだよ。ばしーんって」
言ってから、私はぬいぐるみの顔を見た。
優しく笑っている顔。
もちろん、本物のお兄ちゃんみたいに眉を下げたりはしない。
でも、私はなんとなく、その顔が少し困っているように見えた。
お兄ちゃんだったら、どう言うだろう。
『ルーデウスは、まあ……そういうところがあるからな』
そんなふうに、目を逸らしながら言うかもしれない。
それとも、友達を庇うように、でも完全には庇いきれないみたいな顔をして、『悪いやつじゃないんだ』みたいに言うかもしれない。
それから、少しだけ真面目な顔になって、
『でも、余計なことをしたらちゃんと怒っていいからな』
とも言う気がした。
「うん。そこはちゃんと怒るね」
私は、ぬいぐるみの顔を見てハッとした。
「そうだ、お兄ちゃんは知らないだろうからエリス姉のことも話すね。エリス姉はね、ルーデウスお兄さんの生徒でお嬢様なんだって」
エリス姉は、お嬢様らしい。
らしい、というのは、私はまだそれをうまく受け取れていないからだ。
お嬢様と聞くと、もっと静かで、綺麗に座っていて、ゆっくりお茶を飲んで、上品な言葉で話す人を思い浮かべる。
昔、お兄ちゃんが私をお姫様扱いしてくれた時に想像したような、ふわふわしたドレスの女の子。
少なくとも、怒ったらすぐ拳が出たり、依頼に行くと嬉しそうに剣を振ったりする人ではないと思う。
「……すごく、どーんって感じ」
私は、自分で言ってから、少し首を傾げた。
どーん。
合っている気がする。
「怒る時はどーんって怒るし、走る時もどーんって走るし、戦う時もどーんって前に出るの。考えてないわけじゃないと思うけど、考えるより先に体が動くの」
そこで少し考える。
「なんていうか……火みたいな人かな」
言ってから、しっくりきた。
うん、火みたいだ。
近づくと熱い。
急に大きくなる。
油を注ぐとすぐ燃える。
でも、寒い時にはそばにあると心強い。
暗いところでは、すごく明るく見える。
「でも、ちゃんと優しいよ」
エリス姉は、分かりにくい時もある。
怒っているのか、照れているのか、ただ勢いで言っているのか、私にはまだ判断が難しいこともある。
けれど、悪い人じゃない。
ルーデウスお兄さんが困った顔をすると、すぐ怒る。
私が困っていると思ったら、ノコパラにも噛みつく。
自分が正しいと思ったら、まっすぐ突っ込んでいく。
そのせいで少し話がこじれることもあるけれど、それは誰かを守ろうとしているからでもある。
「エリス姉は、まっすぐすぎるのかも」
私は、ぬいぐるみの腕を指で撫でた。
「曲がる前にぶつかる感じ。だから、ちょっと危ないけど、見ていて分かりやすいから……私とは違うね」
私は、すぐ考える。
どう言えばいいか。
どうすれば相手が動くか。
どうすれば損しないか。
どうすれば自分の望む形に近づくか。
「お兄ちゃんなら、エリス姉のこと、どう言うかな」
お兄ちゃんなら、私が今なんとなくでしか言葉にできなかったことを、もっとちゃんと言葉にしそうだと思った。
エリス姉は火みたいな人。
私はそう思った。
でも、それだけではたぶん足りない。
私がうまく言えないことを、私の代わりに全部言ってしまうのではなくて。
私が見つけかけているものを、そっと指で示してくれる。
たぶん、そういうふうにしてくれる。
私がエリス姉を火みたいだと言ったら、きっとその火が何を照らしているのかまで考えてくれる。
私がどーんって感じだと言ったら、それが悪口にならないように、でも私の感じた勢いを消さないように、ちゃんと別の言葉にしてくれる。
私が手で触った感触のようにしか言えないものを、お兄ちゃんならちゃんと誰かに伝わる言葉に出来る。
ぬいぐるみを抱きしめる腕に力が入る。
布の感触が、胸にやわらかく押し返してくる。
小さな腕が私の指に触れる。
腰に付けた布の剣が、布団の中でほんの少しだけ当たる。
痛くはない。
でも、そこにあると分かる。
それが嬉しかった。
私は、今日までのことをたくさん話した。
ノコパラとブレイズさんのこと。
ルーデウスお兄さんのこと。
エリス姉のこと。
お母さんのこと。
ルイジェルドさんのこと。
言葉を重ねるごとに、胸の奥にあった寂しさが、ゆっくり薄れていく。
ずっと空いていたところ。
お兄ちゃんに話したいと思うたびに、風が吹くように冷たくなっていたところ。
誰かに助かったと言われても、偉いと言われても、なかなか埋まらなかったところ。
そこに、やわらかいものが少しずつ入っていく。
完全に埋まったわけではない。
それは、本物のお兄ちゃんがいるのとは全然違うからだと思う。
でも、それでも楽になった。
息がしやすくなった。
私は、ぬいぐるみの頭に頬を寄せた。
やっぱり、作ってよかった。
心からそう思った。
完成したぬいぐるみは、私が思っていたよりずっとよかった。
見た目も完璧。
抱き心地も完璧。
腰の剣までちゃんと作ったのも、すごくよかった。
これがあれば、大丈夫な気がした。
これでやる気が戻る。
明日からは、またちゃんと頑張れる。
最近少しだけぼんやりしていた。
仕事をしていても、どこかで早くぬいぐるみを進めたいと思っていた。
褒められても、何かが足りなかった。
頑張っているはずなのに、気持ちが前へ出てこなかった。
でも、もう大丈夫。
この子ができたから。
寂しくなったら抱きしめればいい。
話したくなったら話せばいい。
今日あったことを聞いてもらえばいい。
そうすれば、空っぽが少し埋まる。
そうしたら、明日からはまたちゃんとできる。
できる。
そう思うと、眠気がやわらかく近づいてきた。
まぶたが重くなる。
ランプの明かりが、布団の向こうでぼんやり滲む。
外の物音も、少しずつ遠くなる。
馬が鼻を鳴らす音も、誰かが廊下を歩くかすかな音も、風が窓の隙間を撫でる音も、全部が眠りの中へ溶けていく。
私は、ぬいぐるみをもう一度ぎゅっとした。
強くしすぎないように。
形が崩れないように。
でも、離れないように。
明日から、またちゃんと頑張れる。
そう思いながら、私は腕の中の小さなお兄ちゃんと一緒に、ゆっくり眠りに落ちていった。
―――
次の夜も、私はお兄ちゃんのぬいぐるみを抱いて寝ていた。
昨日と同じように、布団の中に入って、胸のところへぎゅっと引き寄せて、顔を埋める。
ぬいぐるみの小さな胸に、頬と鼻先を押しつける。
本物のお兄ちゃんなら、私の顔の方がちょっとつぶれる。
お兄ちゃんの胸はちゃんと硬さがあって、呼吸で上下して、あたたかくて、服越しに体温が伝わってきて、私はきっともっと強く抱きついて、息がしにくくなる。
お兄ちゃんは困ったように笑って、でも振りほどいたりはしない。
たぶん、「苦しくないか?」とか言ってくれる。
でも、今つぶれているのは、ぬいぐるみの胸の方だった。
私が顔を押しつけると、柔らかい布がへこむ。
中に詰めた綿が、ふにっと形を変える。
私が力を抜くと、ぬいぐるみの形もゆっくり元に戻る。
その感触は、ちゃんと気持ちいい。
私が選んだ布は柔らかいし、縫い目も顔に当たらないようにした。
抱きしめた時に痛くならないように、腰の小さな剣も柔らかく作った。
完璧だった。
昨日の私は、そう思った。
今日も、見た目は完璧だと思う。
ぬいぐるみとしては、本当にいい出来だ。
お兄ちゃんっぽさもあるし、可愛くもできている。
抱き心地だっていい。
腕の中に収まる大きさも、重さも、柔らかさも、ちゃんと考えた通りだった。
でも。
やる気は戻らなかった。
昨日の夜、私はこれで大丈夫だと思った。
この子ができたから、明日からまたちゃんと頑張れると思った。
お兄ちゃんに話すみたいに話せる相手ができたから、また前みたいに動けると思った。
でも、今日一日を終えて布団に入った今、胸の中にあるものは、思っていたものとは違った。
あたたかくない。
朝、布団から出て、服を整えて、髪を直して、道具を確認して。
いつも通りに動いた。
ちゃんと動いた。
仕事もした。
お母さんに言われる前に、いくつかのことは自分で済ませた。
でも、昨日みたいに、完成したぬいぐるみを見上げて「完璧」と思った時の、ふわっとした気持ちはもうなかった。
胸の中がぽかぽかして、明日も頑張ろうと思えるような熱は戻っていなかった。
達成感だって、あまりない。
ただ、手を動かした感覚だけが残っていた。
それだけだった。
私は、ぬいぐるみをもっと強く抱きしめた。
腕の中で、布の体がまた少しつぶれる。
小さな頭が、私の顎の下に当たる。
本物じゃない。
分かっている。
分かっているのに、もっと近づけたくて、もっと深く抱きしめたくて、私はぬいぐるみを胸に押しつけた。
寂しさは、少し薄まる。
空っぽが、埋まる気がする。
でも。
まだ、空いているところがある。
ぬいぐるみで少し穴が埋まったからこそ、逆にまだ埋まっていない穴の形が見えてきた。
昨日までは、ただ大きな空っぽだった。
色んな空っぽが全部が一緒になって、ひとつの大きな寂しさだった。
でも、ぬいぐるみができて、その寂しさの一部だけが埋まった。
抱きしめるものはできた。
話しかける相手みたいなものはできた。
お兄ちゃんの形をしたものは、腕の中にある。
だからこそ、まだ埋まっていないところがあると分かってしまった。
ぬいぐるみは、褒めてくれないのだ。
私が頑張ったことを、見つけてくれない。
私が何をしたかだけじゃない。
どうしてそうしたのか。
どこを考えたのか。
何を工夫したのか。
どこで迷って、それでもどう選んだのか。
そういうところまでは、見てくれない。
少し考えれば、そんなのは当たり前だった。
だって、ぬいぐるみだ。
ぬいぐるみは、お兄ちゃんの形をしている。
でも、お兄ちゃんが私にくれたものを、この子がくれるわけじゃない。
そう思ったとたん、腕の中のぬいぐるみが軽くなった。
昨日の夜は、分からなかった。
ぬいぐるみが完成したことが嬉しくて。
お兄ちゃんの形をしたものが腕の中にあることが嬉しくて。
今日あったことを話せる相手ができた気がして。
これで大丈夫だと思った。
でも、朝が来て、一日が過ぎて、また夜になって。
昨日と同じようにぬいぐるみを抱きしめているのに、昨日と同じ温かさは戻ってこなかった。
ぬいぐるみができたことで、私がお兄ちゃんに求めていたものの手触りが、掴めてしまったのだと思う。
自分が欲しかったのは、お兄ちゃんの形だけではなかった。
お兄ちゃんがそばにいることだけでもなかった。
もちろん、そばにいてほしい。
それは本当だ。
お兄ちゃんの手の温かさも、声も、私を見て困ったように笑う顔も、全部ほしい。
寝る前に話を聞いてほしいし、頑張ったら頭を撫でてほしいし、寂しくなったらぎゅっと抱きしめてほしい。
でも、それだけじゃなかった。
私が欲しかったのは、お兄ちゃんが私を見てくれることだった。
私が何をしたかだけじゃなくて、どうしてそうしたかまで見てくれること。
結果だけではなく、その中にある考えや工夫まで拾ってくれること。
できたことを「できて当たり前」で済ませずに、ちゃんと「頑張ったな」と言ってくれること。
ただ「すごい」と言われたかったわけでもない。
私が何をしたのか。
どうしてそうしたのか。
どこで迷って、何を選んだのか。
誰のために、どう工夫したのか。
そこまで見てほしかった。
お兄ちゃんは、そうしてくれていた。
だから、私はもっと頑張れた。
お兄ちゃんに見てもらえるから。
お兄ちゃんが気づいてくれるから。
お兄ちゃんが、私の中にある考えをちゃんと見つけてくれるから。
私は、ただ仕事をするだけじゃなくて、もっとよくしようと思えた。
どうすれば早く終わるか。
どうすればきれいにできるか。
どうすれば相手が困らないか。
どうすれば、お兄ちゃんが見た時に、驚いてくれるか。
どうすれば、頭を撫でて「よく考えたな」と言ってくれるか。
そういうことを考えるのが、楽しかったのだと思う。
それが、私のやる気になっていた。
私は、そういうお兄ちゃんからもらったもののお陰で、前に進めていた。
この子は、お兄ちゃんの形をしている。
けれど、お兄ちゃんが持っていたものを持っていない。
私を見てくれる目を持っていない。
私の言葉を聞いてくれる耳を持っていない。
私の頑張りの中にある小さな工夫を言葉にしてくれる声を持っていない。
お兄ちゃんだけがもっているその優しさを持っていない。
だって、ぬいぐるみなんだから。
当然なのに、当然のことなのに。
その当然が苦しかった。
私は、顔をぬいぐるみの胸に押しつけたまま息を吸った。
お兄ちゃんの匂いではない。
そこまで分かってしまうと、また寂しくなった。
でも、ぬいぐるみを離すことはできなかった。
離したら、もっとはっきりしてしまう気がした。
この子では埋まらないところがある。
そのことを、もっと強く感じてしまう気がした。
だから、私は強く抱きしめた。
お兄ちゃんの形をした小さな体を、布団の中でぎゅっと抱え込む。
胸の空洞を、やわらかい綿で無理やり塞ぐみたいに。
まだ空いている穴の形を、見えにくくするように。
―――
あれから数日たった。
やる気は一向に戻ってこない。
お兄ちゃんのぬいぐるみは、夜になると変わらず私の腕の中にある。
眠る前に抱きしめると、やっぱり寂しさは薄まる。
布の胸に顔を埋めて、今日あったことを小さな声で話すと、何もないよりはずっと楽だった。
それは本当だ。
でも、やる気はちっとも戻らない。
ひとつひとつの仕事に、前のような熱が入ってこない。
どうすればもっと綺麗になるか。
どうすれば次に使いやすいか。
どうすればお母さんが確認しやすいか。
どうすればお兄ちゃんが見た時に、よく考えたなって言ってくれるか。
そういうことを考えるよりも先に、「早く終わらせよう」が出てくる。
だから私は、今日も服を魔術で乾かしていた。
温かい風を、弱く、広く、布の表面をなでるように当てる。
強くやりすぎると布が傷む。
急に乾かすと、端が固くなったり、しわが残ったりする。
最初の頃はそこが難しかったけれど、何度もやっているうちに、だいぶ上手くなった。
今では、普通に干すのとほとんど変わらない出来になる。
布の手触りも悪くない。
変に縮んでいない。
匂いも残っていない。
しわも、畳む時に整えれば問題ないくらいだ。
やる気がなくたって、普通の人以上の結果は出せる。
だって、私は天才だから。
そう思っていた時だった。
「アイシャ」
背後から声がした。
私は、びくっと肩を揺らした。
振り返ると、お母さんが立っていた。
いつものように背筋を伸ばして、静かな顔をしている。
怒っているようには見えない。
でも、何も見ていなかった顔ではない。
私の手元と乾きかけの服を見て全部分かった顔だった。
「……お母さん」
私は、とっさに手を下ろした。
風が止まり、服の袖がふわりと落ちた。
お母さんは、服を見てから私を見る。
「洗濯物は、きちんと干さなければいけませんよ」
お母さんの声は軽かった。
怒っているというより、いつもの注意に近い。
食器を置く位置が違った時や、針をしまう向きが悪かった時のような、淡々とした注意。
「魔術で乾かすのは、急ぎの時だけです。普段からそれで済ませるものではありません」
私は、気まずくなった。
でも、すぐに頭の中で言葉が組み上がっていく。
布は傷んでいない。
湿りも残っていない。
匂いもない。
しわも変に固まっていない。
普通に干したものと、ほとんど変わらない。
だから、問題はない。
「……でも」
私は、服の端を指で撫でた。
「ちゃんと乾いてるし、いいよね?」
お母さんは、少しだけ眉を動かした。
「ほら、触ってみて。硬くなってないよ。匂いも残ってないし、縮んでもない。普通に干したのとほとんど同じだから」
私は、服をお母さんの方へ差し出した。
お母さんはその布を受け取り、指先で手触りを確かめた。
端を見て、縫い目のところを軽く押す。
「……確かに、大きな傷はありませんね」
「でしょ?」
「ですが、魔術で乾かすことには欠点があります」
お母さんは、服を丁寧に畳み直しながら言った。
「熱や風の当て方を誤れば、布を傷めます。見た目では分からない細かな変化が蓄積することもあります。縫い目や厚みのある部分だけ乾ききらず、あとから匂いや傷みの原因になることもあるのですよ」
お母さんの言っていることは正しい。
それは分かる。
でも、それは一般的な話だ。
私のこれは違う。
「でも、それは下手な人がやった場合でしょ?」
口に出した瞬間、自分でも少し強い言い方だと思った。
「私はちゃんと調整してるよ。熱も強くしてないし、縫い目のところも見てるし、湿りも残してない。誰にも迷惑かかってないし、服だって大して傷んでないじゃん。今、お母さんも確かめたでしょ?」
「アイシャ」
お母さんの声が少しだけ強くなった。
「そういう問題ではありません。できるからしてよいというものではないのです。一度や二度うまくできたからといって、基本を軽んじてよいわけではありません」
「なんで駄目なの?」
私は、お母さんを見上げた。
「お母さんは、今私が魔術で乾かしてるのを見るまでは、私が服を魔術で乾かしてるってずっと気づいてなかったじゃん」
お母さんの表情が、ほんの少しだけ止まった。
私は続けた。
「お母さんが気づかないくらい完璧にできてたんだよね? だったら問題ないよね?」
言っていることは正しいと思う。
お母さんは、今まで私が魔術で乾かしていたことに気づかなかった。
つまり、それだけ出来栄えは自然だった。
ちゃんとできていたということだ。
結果に問題がないなら、やり方を変えてもいいはずだ。
「アイシャ。あなたなら、手順通りに丁寧に行う事は難しくないはずです。今まで出来ていたのですから、今も出来る筈でしょう?」
「……そうじゃなくってさ、私が手を抜いても、抜かなくても、誰も気づかないんだったら、どっちでやっても一緒じゃん」
お兄ちゃんなら……
お兄ちゃんなら、気づいたかもしれない。
私が魔術で乾かしたことに。
ただ早く済ませたんじゃなくて、布を傷めないように風と熱を調整したことに。
手を抜いているようで、手を抜きながらも結果を保てるように工夫していたことに。
気づいてくれたかもしれない。
そう思ったら、目の前のお母さんの言葉が遠くなった。
「一度手を抜くことを覚えると、それが癖になります」
お母さんは続けた。
「最初は問題なくできていても確認が甘くなり、慣れれば雑になり、雑になったことに気づかないまま続ければ、いつか大きな失敗になります。日々の仕事とは、結果だけでなく、そこへ至る手順を整えることも大切なのです」
お母さんは、きっと間違っていない。
手を抜くのはよくない。
基本は大事。
癖になると困る。
それは分かる。
でも。
なんで私が怒られるんだろう。
私はちゃんとできているのに。
手を抜いても、お母さんは気づかなかったくせに。
服を見ても、手触りを確かめても、今まで分からなかったくせに。
目の前で見て、初めて気づいただけなのに。
お兄ちゃんなら……
お兄ちゃんなら、まず見つけてくれたんじゃないかな。
私がどうやってうまくやったのか。
ただ楽をしたんじゃなくて、ちゃんと布を傷めないように調整したこと。
普通に干した時と変わらない仕上がりになるように、何度も試したこと。
それを、見てくれたんじゃないかな。
「アイシャ、聞いていますか」
お母さんの声で、私は少しだけ顔を上げた。
「うん……」
「では、明日からはきちんと干しなさい。魔術を使うにしても、緊急時や天候が悪い時に限ります。普段からそれに頼るべきではありませんよ」
その声を聞きながら、私は服の端を指でつまんでいた。
確かに私はちゃんとしていなかった。
でも。
ちゃんと出来てはいたのだ。
ちゃんとしたやり方ではなかったかもしれないけれど、ちゃんとした結果は出していた。
それなのに、駄目だと言われる。
手を抜くなと言われる。
基本を軽んじるなと言われる。
どうして怒られなきゃいけないのだろう。
胸の奥で、何かがじわじわ熱くなった。
「……お母さんはさ」
気づいたら、私は口を開いていた。
自分の声が少し低くなっているのが分かった。
でも、やめなかった。
やめたいともあまり思わなかった。
「私が頑張っても、何も言ってくれなかったくせに、手を抜いた瞬間だけそうやってしつこく言うんだね」
お母さんの目が、ほんの少しだけ揺れた。
本当に少しだけ。
でも、私は見逃さなかった。
「だってそうでしょ? ちゃんとできてる時はできて当たり前って顔するくせに、ちょっと違うやり方をしたら、すぐに駄目って言う」
「……そのようなつもりはありません」
お母さんの声は、まだ丁寧だった。
でも、その中に戸惑いが混じっていた。
「あなたが出来た時には、きちんと褒めるように気をつけてきました。カイン様にも、結果だけでなく過程を見るようにと助言をいただいてからは特に……」
カイン様に言われてから。
ここだ。
そう思った。
その言葉を出したということは、お母さんは自分でも分かっているのだ。
昔、お母さんが私をちゃんと見られていなかったことを。
役割ばかりを見て、私が何を思っているのか、何を欲しがっているのかを見落としていたことを。
お兄ちゃんに言われてから、ようやく気をつけるようになったことを。
そこに指を入れればいい。
痛いところを押せばいい。
そうすれば黙る。
勝てる。
そう思った瞬間、自分の中に言葉が並んだ。
どれを言えば、お母さんが止まるか。
どこを押せば、お母さんが返せなくなるか。
どの順番で言えば、私の正しさが一番見えるか。
私は、お母さんの言葉を切った。
「でもお母さんはさ、出来たことしか褒めてくれないじゃん」
お母さんの顔が止まる。
私は、その反応を見て言葉を重ねた。
「私が何を考えたか。何を工夫したか。どこで迷ったか。どうしてそのやり方を選んだか。そういう中身までは褒めてくれてないよね?」
お兄ちゃんなら……
頭の中で、またその言葉が鳴る。
お兄ちゃんなら、見てくれるのだ。
結果だけじゃなくて、その中の工夫まで。
私が何を考えて、何を選んで、どうやってそこまで持っていったかまで、ちゃんと見つけてくれるんだ。
「服を畳めたら、よろしい。火加減がうまくいったら、よくできました。買い物の計算が合っていたら、問題ありません。そういうのは言ってくれたよ。でも、それだけじゃん」
言葉が、どんどん出てくる。
溜まっていたものが、出口を見つけてしまっていた。
「どうしてそうしたかまでは聞いてくれない……どうやって早くしたかも、どうやって失敗しないようにしたかも、どうすれば次に使いやすいか考えたことも、そこまでは見てくれないよね、お母さんは……」
「アイシャ……」
「結果だけ見て、出来てたらよし。失敗してたら注意。違うことをしたら駄目。そういうことだけじゃん」
お兄ちゃんなら……
そう思うたびに、言葉が鋭くなっていく。
「それは……」
お母さんが黙った。
その沈黙を見て、胸の奥で何かがさらに膨らんだ。
ずっと我慢していたものが、蓋を押しのけ上がってくる。
「私が魔術で服を乾かしてたことを、服を見て気づくんじゃなくて、その場面を実際に見て初めて気づくのも……まあ、しょうがないよね」
声が早くなる。
「だって……」
私は、服の端を握った。
乾いた布が、指の中で少しだけしわになる。
きれいに乾かしたのに。
ちゃんと仕上げたのに。
その布を、自分の指で台無しにしかけているのに、手を離せなかった。
ここを押せば、お母さんは言い返せない。
お母さんは、昔のことを負い目に感じている。
お兄ちゃんに言われて、私を見るように気をつけていたと言った。
なら、そこに指を入れればいい。
痛いところを押せばいい。
そうすれば、お母さんは黙る。
私は、それが分かる。
「だって、お母さんは私をちゃんと見てくれてなかったんだもんね……」
言った。
胸が熱い。
喉も熱い。
目の奥まで熱くなっているのに、涙は出なかった。
怒りなのか、寂しさなのか、自分でもよく分からなかった。
お母さんの顔が止まった。
表情が大きく崩れたわけじゃない。
お母さんは、そういう人じゃない。
どんな時でも、背筋を伸ばして、声を整えて、きちんとしようとする人だ。
でも、今は分かった。
傷ついた。
私の言葉は、お母さんに刺さった。
それが分かった。
やっぱり、こういうのは得意だ。
相手の気持ちを理解することではない。
相手の反応を読むことにだ。
この言葉を言えば、相手は黙る。
この顔をすれば、相手は困る。
この順番で責めれば、相手は言い返せなくなる。
この事実を出せば、相手は逃げ場を失う。
へんすうがいつ変わるのか分からないのなら、分かる場所を使って計算すればいい。
相手の心の中がどう動くのかなんて分からなくても、どこを押せばどう動くかは分かる。
何を言えば相手が止まるか。
何を突けば相手が揺れるか。
何を出せば相手が言い返せなくなるか。
そういう計算なら、私は大得意だ。
相手の気持ちをちゃんと理解することは、まだ難しい。
でも、相手がどこを押されれば困るのかは分かる。
どこを突けば黙るのかは、よく見える。
今も見えている。
だから、私はそこを突いた。
そしてお母さんは黙った。
ほんの少しだけ満足感みたいなものが生まれた。
勝った……と思ったわけじゃない。
でも、言い返されなくなったとは思った。
私の言葉が、お母さんの言葉を止めた。
それだけは、はっきり分かった。
そう思った瞬間、私の中に別の声が響いた。
お兄ちゃんなら……
相手の痛いところを探して、黙らせるために言葉を突き刺したりしない。
相手が言い返せない場所を見つけて、そこを順番に責めたりしない。
私みたいに、正しいことを並べて逃げ場をなくすようなやり方は、きっとしない。
お兄ちゃんならそういうやり方はしない。
でも、お兄ちゃんのやり方なんて私にはできない。
それに、今はそうするつもりもなかった。
だって、相手はお母さんだ。
お母さんなのに、私を見てくれなかった。
お母さんなのに、私の工夫に気づかなかった。
お母さんなのに、出来たことしか褒めてくれなかった。
お母さんなのに、手を抜いた時だけ、見つけて注意する。
そういう言葉が次々に並んだ。
並べれば並べるほど、私は自分が正しいような気がした。
お母さんなのに……お母さんだからこそ。
私の中で、怒りと寂しさが一緒になっていた。
「そう……だったのでしょうか……」
お母さんがやっと言った。
その声は、頼りなくて、細くて、どこか自信がなかった。
「私は……気をつけているつもりでした。カイン様に言われてからは、あなたを役割だけで見ないように、できたことだけで判断しないように……あなたが何を覚えたのか、どう成長しているのか、見落とさないようにと……」
気をつけているつもり。
……つもり。
見ようとしていたつもり。
褒めていたつもり。
結果だけではなく過程も見ていたつもり。
役割だけじゃなくて、私自身を見ていたつもり。
そう、結局つもりなだけなのだ。
実際には、私が魔術で服を乾かしていたことにも気づかなかった。
手を抜いていたことにも気づかなかった。
手を抜きながらも、結果を落とさないように調整していたことにも気づかなかった。
私が少しずつ、仕事に熱を入れられなくなっていたことにも気づかなかった。
私の頑張りに気づかなかった。
私のミスにだって、気づかなかった。
だったら、何を見ていたのだろうか。
お兄ちゃんなら……
頭の中で、その言葉だけが何度も鳴った。
お兄ちゃんなら、きっと気づいた。
結果からでも、私の顔からでも、私が急いでいることからでも。
手を抜いている場面を見なくても気づいた。
お兄ちゃんなら……
その言葉がどんどん大きくなっていく。
お母さんの声が、遠くなる。
乾いた布を握っている指の感覚も、遠くなる。
宿の裏手の空気も、洗濯物の匂いも、全部が薄くなっていく。
頭の中には、その言葉だけがあった。
お兄ちゃんなら……
喉の奥から、その言葉がせり上がってきた。
言えばいい。
言ってしまえばいい。
そうすれば、お母さんはもう言い返せない。
私がどれだけ寂しかったか。
どれだけ見てほしかったか。
どれだけ褒めてほしかったか。
お母さんでは埋められなかった場所があることを、ちゃんと突きつけられる。
そんなことを言えば、きっとお母さんは黙る。
分かっていた。
それが、お母さんを傷つける言葉だということも分かっていた。
でも、止まらなかった。
止める理由より、言ってしまいたい気持ちの方が大きくなっていた。
「あーあ」
自分の声が聞こえた。
ひどく冷たい声だった。
私の声なのに、知らない人の声みたいに聞こえた。
「お母さんじゃなくて……」
言葉が、ほとんど勝手に出ていく。
だめだと、どこかで思った。
これは言ってはいけない言葉だと、薄々分かっていた。
でも、止まらなかった。
止める理由より、言いたい気持ちの方が大きかった。
傷つけたい気持ちではない、と言いたかった。
ただ、分かってほしいだけだと思いたかった。
でも、違う。
きっと、私は傷つけようとしていた。
お母さんを黙らせるために。
お母さんが一番苦しいところに言葉を置くために。
「お――」
「アイシャ」
低い声が割り込んだ。
「やめとけ」
私が息を止めて声のした方を見ると、ノコパラが立っていた。
いつからいたのか分からない。
ノコパラの顔は、いつもの軽い顔ではなかった。
舌打ちしそうな顔でも、嫌味を言う前の顔でもない。
口元は引き結ばれていて、目はまっすぐ私を見ていた。
少し怖い顔だった。
「それ以上は言うな」
ノコパラは言った。
私は、口を開いたまま固まっていた。
言いかけた言葉が、喉の奥で苦しく止まっている。
出してしまえば楽になれたのかもしれない。
でも、止められたせいで、言葉は私の中に残ったままになった。
尖ったまま。
熱いまま。
冷たいまま。
ノコパラは、ゆっくりと近づいてきた。
「謝れば元通りになる言葉と、謝ってもそうならねぇ言葉がある」
その言葉は、怒鳴り声ではなかった。
「今のお前が言おうとしたのは、後者だ」
謝っても元通りにならない言葉。
私は、その意味をすぐに理解したくなかった。
でも、分かってしまった。
さっきの言葉は、言えばきっと戻らない。
お母さんじゃなくて、お兄ちゃんがよかった。
それは、ただの不満じゃない。
ただの反論でもない。
今この場の洗濯物の話でも、魔術で乾かしたことの話でもない。
もっと奥の、もっと深いところを刺す言葉だ。
お母さんが私の母親であること。
それでも、私が求めていたものをくれなかったこと。
その代わりに、お兄ちゃんを求めたこと。
そういうものを、全部まとめてお母さんへ突きつける言葉だった。
「それを言えばお前もちゃんと苦しむことになるぞ」
「私も……?」
思わず声が出た。
小さくて、頼りない声だった。
さっきまで、あんなに言葉が出ていたのに。
今は、その一言だけがやっとだった。
「そうだ、お前もだ。顔を見るたびに、今の言葉を思い出すだろうな」
息が止まった。
そんなこと考えていなかった。
お母さんを黙らせることばかり考えていた。
お母さんが言い返せなくなる場所ばかり見ていた。
自分の寂しさを、お母さんに分からせることばかり考えていた。
私がそのあと苦しむことなんて、考えていなかった。
「飯を食う時も、ぼーっとしてる時も、何かを頼む時も、頼まれる時も。何でもねぇ時に名前を呼ばれる時も」
言葉が、ひとつずつ胸に落ちてくる。
私は、それを想像してしまった。
お母さんと一緒にご飯を食べる。
お母さんがいつものように私を呼ぶ。
私が何かを頼む。
お母さんが何かを頼む。
洗濯物を渡す。
髪を結ってもらう。
夜、寝る前に声をかけられる。
そこに、今言いかけた言葉が混ざる。
もし今言っていたら。
私は、それを毎回思い出すのだろうか。
お母さんの顔を見るたびに。
お母さんの声を聞くたびに。
何でもない時間の中で、突然思い出してしまうのだろうか。
お母さんが私を褒めようとしても……
その褒め言葉は、あの言葉を言ったから出てきたのかもしれない。
そう思ってしまうかもしれない。
「言われた方はもっと忘れねぇだろうな」
ノコパラは、お母さんの方を一瞬だけ見た。
お母さんは、何も言わなかった。
ただ、そこに立っていた。
いつものお母さんより遠く見えた。
その目が、いつもよりずっと頼りなく見えた。
たぶん私がそうした。
……たぶんじゃない、私がそんな目にしたのだ。
「お前を見るたびに思い出す。褒めようとしても、叱ろうとしても、手伝おうとしても、頭のどっかに残る」
息が、詰まった。
違う。
違わない。
分からない。
私はお兄ちゃんがよかった。
お兄ちゃんに見てほしかった。
お兄ちゃんに褒めてほしかった。
でも、お母さんがいらないわけじゃない。
お母さんじゃなくていいと思っているわけじゃない。
お母さんを傷つけたいだけだったわけじゃない。
でも、今言おうとした言葉は、そう聞こえる。
そう残ってしまう。
「そういうのはな、一度言えば頭にこびりついて離れなくなるんだよ」
こびりつく。
離れない。
その言葉が怖かった。
お母さんが私を褒めようとしても。
私が何かをできた時、よくできましたと言おうとしても。
その時に、お母さんも思い出す。
『この子は、自分ではなくカイン様がよかったのだ』
そう思うのかな。
思っちゃうのかな。
そう想像した瞬間、目の奥が熱くなった。
じわりと涙が溜まる。
さっきまでは出なかった涙だった。
怒っている時には出なかった。
お母さんを黙らせられると思った時にも出なかった。
お兄ちゃんなら、と頭の中で何度も鳴っていた時にも出なかった。
でも、今になって急に出てきた。
泣きたくない。
今泣いたら、自分が悪いみたいになる。
いや、きっと悪い。
言おうとした言葉は、とってもひどかった。
でも、それを認めるのは苦しかった。
視界の端が滲み、お母さんの姿がぼやける。
「アイシャ……」
お母さんが、私の名前を呼んだ。
その声は、小さかった。
いつものように整えようとしているのに、整いきっていない声だった。
叱る声ではない。
慰める声でもない。
どう呼べばいいのか分からないまま、それでも私を呼んだ声だった。
それを聞いた瞬間、目に溜まっていた涙がもっと熱くなった。
私は、お母さんを見られなかった。
見たら、何かが壊れる気がした。
自分が言おうとした言葉の形を、もっとはっきり見てしまう気がした。
「アイシャ、待ち――」
お母さんが何か言いかけた。
けれど私は、もうそこにいられなかった。
何か言おうとしたけれど、声にならなかった。
謝ることもできなかった。
怒ることもできなかった。
違うと言うことも、そうだと言うこともできなかった。
服の端を握っていた手を離す。
しわになった布が、物干し竿の上で少し歪んで揺れた。
直さなきゃいけない。
せっかく綺麗に乾かしたのに、私が握ったせいでしわになった。
ちゃんと伸ばして、形を整えて、畳みやすいように戻さなきゃいけない。
そんなことは分かっていた。
でも、手は戻らなかった。
ノコパラの横をすり抜ける。
お母さんの方を見ないようにした。
ノコパラの方も見ないようにした。
どちらを見ても、きっと目の奥に溜まっているものがこぼれてしまう。
お母さんの顔に何が浮かんでいるのか、見たくなかった。
見たら、さっきまでの自分がもっと嫌になりそうだった。
私は、逃げるようにその場を離れた。
……違う。
逃げるようにじゃない。
逃げたのだ。
今は、何も感じたくなかった。
宿の中へ入ると、外より暗かった。
昼間なのに、廊下は薄暗くて、木の床は冷たい。
足音が響く。
自分の足音なのに、誰かが追いかけてくる音に聞こえた。
誰にも見られたくなかった。
怒っている顔も、傷ついた顔も、後悔している顔も。
どの顔も、自分のものだと認めたくなかった。
部屋の前まできて、中へと入る。
布団が見えた。
枕元には、ぬいぐるみがある。
昨日の夜、私が抱きしめて眠ったぬいぐるみ。
お兄ちゃんの形をした、柔らかいもの。
私が完璧に作ったはずのもの。
私は、まっすぐそこへ向かった。
ベッドに膝を乗せ、布団をめくってぬいぐるみを掴む。
乱暴だったかもしれない。
腰につけた小さな剣が、布団に引っかかりそうになった。
でも、今は丁寧に抱き上げる余裕がなかった。
私はぬいぐるみを胸に抱き込んで、そのまま布団の中へ潜った。
頭までかぶると、一気に暗くなる。
外の音が布一枚越しになって、ぼんやり遠くなった。
廊下の気配も、宿のざわめきも、全部少しだけ小さくなる。
自分の息だけが近い。
涙をこらえるために噛んだ唇が痛い。
私は、ぬいぐるみを強く抱きしめた。
慰めてほしいわけじゃない。
もしかして、慰めてほしいのかもしれない。
でも、それより先に隠れたかった。
お母さんから。
ノコパラから。
自分が言おうとした言葉から。
その言葉を言えばお母さんを傷つけられると分かっていた自分から。
全部から隠れたかった。
布団の中で、私は小さく丸まった。
ぬいぐるみを抱いたまま、膝を引き寄せる。
体を縮める。
もっと小さくなりたいと思った。
誰にも見つからないくらい。
誰にも呼ばれないくらい。
何も言わなくていいくらい。
涙がこぼれた。
一度こぼれると、止まらなかった。
声は出さないようにした。
出したら、誰かに聞こえるかもしれない。
扉の向こうで、名前を呼ばれるかもしれない。
それが怖かった。
私は、ぬいぐるみの胸に顔を押しつけたまま、声を殺した。
布が涙で少し湿っていく。
せっかく綺麗に作ったのに。
完璧にできたと思ったのに。
お兄ちゃんの形をしたこの子まで、私の涙で濡れていく。
それでも、離せなかった。
「……お兄ちゃん」
布団の中で、かすれた声が出た。
言ってから、もっと涙が出た。
「ごめんなさい……」
小さく、声が漏れた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
お母さんに、なのか。
ノコパラに、なのか。
お兄ちゃんに、なのか。
分からない。
ただ、謝らなきゃいけない気がした。
でも、何に対して謝ればいいのかも分からなかった。
さぼったことかもしれない。
普通に干さなきゃいけない服を、魔術で乾かして済ませていたこと。
ちゃんとやっているふりをして、早く終わらせることばかり考えていたこと。
お母さんに見つかっても、すぐに自分の正しさを組み立てて、反論しようとしたこと。
それとも、言ったことにかもしれない。
お母さんは私をちゃんと見てくれていなかった。
そんなふうに、言ってしまったこと。
お母さんが傷つくと分かっていて、そこを押したこと。
黙らせられる場所を見つけて、そこに言葉を向けたこと。
それとも、逃げたことかもしれない。
お母さんの顔も見ずに。
ノコパラの言葉にも答えずに。
しわになった服も直さずに。
全部置いて、宿の中へ逃げたこと。
どれに謝っているのか分からない。
どれが一番悪かったのかも分からない。
何を間違えたのかも分からない。
服を魔術で乾かしたところ?
お母さんに反論したところ?
お母さんの弱いところを見つけたところ?
それとも、もっと前のこと?
ぬいぐるみを作ればやる気が戻ると思っていたところから?
お兄ちゃんの形があれば、寂しさが埋まると思っていたところから?
全部かもしれない。
胸の中にあるものは、ぐちゃぐちゃに混ざっていて、ひとつずつ取り出せなかった。
怒りも、寂しさも、悔しさも、怖さも、後悔も、全部同じ場所に沈んでいた。
それなのに、涙だけが勝手に出てくる。
私は、ぬいぐるみの頭に額を押しつけた。
「ごめんなさい……」
もう一度言った。
言えば何かが軽くなると思った。
でも、軽くならなかった。
謝っているはずなのに、何に謝っているのか分からないから、胸の中のものはそのままだった。
ただ、言葉だけが布の中に沈んでいく。
お兄ちゃんなら。
また、その言葉が頭の中に浮かんだ。
お兄ちゃんなら分かったのかな。
私が何に対して謝っているのか。
何に対して謝りたいのか。
どこが痛くて、どこが悔しくて、どこが悪かったのか。
自分でも分からないこのごちゃごちゃしたものを、お兄ちゃんなら見つけてくれたのかな。
私がただ「ごめんなさい」としか言えなくても。
誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からなくても。
さぼったことなのか、言ったことなのか、逃げたことなのか、全部なのか……どれなのか分からなくても。
お兄ちゃんなら、私の顔を見て、声を聞いて、私が握っている手を見て、きっと何かを見つけてくれた。
私は、何が嫌だったのだろう。
お母さんに注意されたこと。
手を抜いたことを見つけられたこと。
頑張っても見てもらえなかったこと。
お兄ちゃんみたいに褒めてもらえなかったこと。
それとも、自分が思ったよりずっと嫌な言葉を使えてしまうこと。
分からない。
自分のことなのに分からない。
でも、お兄ちゃんなら私自身が分からないことだって分かる気がした。
「アイシャは、これが嫌だったんだな」とか。
「それは、怒ってるんじゃなくて寂しかったんだな」とか。
「でも、今の言い方はよくなかったな」とか。
そんなふうに、私が飲み込める形で言ってくれる気がした。
怒るだけじゃなくて。
慰めるだけでもなくて。
私がしたことをなかったことにしないで。
でも、私の気持ちもなかったことにしないで。
そういうふうにしてくれる気がした。
その時だった。
布団の外から、かすかに足音がした。
私は、びくっと体をこわばらせて息を止めた。
廊下の床板が、ぎし、と小さく鳴る。
足音は、部屋の前で止まった。
誰かがいる。
そう思った瞬間、体が固まった。
お母さんだったらどうしよう。
ノコパラだったらどうしよう。
誰でも嫌だった。
今は誰にも会いたくなかった。
何か言われたら、また泣いてしまう。
謝らなきゃいけなくなる。
でも、何を謝ればいいのか分からない。
足音は、私の部屋の前で止まった。
布団の中で、私はぬいぐるみを抱く腕に力を入れた。
扉の向こうが静かになる。
誰かがそこにいる。
私は、布団の中で目を閉じた。
見えないのに。
見えていないのに。
それでも、目を閉じた。
扉は開かなかった。
ただ、少しの沈黙のあと、扉の向こうから低い声がした。
「アイシャ……」
ノコパラだった。