受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

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八十九話

 

「アイシャ……」

 

 

扉の向こうで、ノコパラの声がした。

 

私は、布団の中で息を止めた。

 

お母さんじゃなかった。

 

それだけで、少しだけ体の強張りが変わった。

安心したわけではない。

ノコパラなら大丈夫だと思ったわけでもない。

ただ、お母さんの声ではなかったから、さっきの場面がそのまま追いかけてきたわけではないような気がしただけだ。

 

扉の向こうで、小さく音が鳴った。

 

ノコパラが取っ手に手をかけたのだと分かった。

 

私は、びくっと肩を跳ねさせた。

 

開いてしまう。

 

そう思った。

 

扉が開いて、ノコパラが入ってくる。

布団にくるまった私を見て、泣いている顔を見て、また何かを言う。

さっきみたいに、逃げられない言葉を置いてくる。

 

そう思った。

 

でも、取っ手は回らなかった。

扉は開かなかった。

ただ、木の取っ手に手が触れたような音だけがして、それから少しの沈黙があった。

 

 

「あー……いんのか?」

 

 

いつものノコパラなら、ここで何か嫌味を言う気がする。

「引きこもってんじゃねぇよ」とか。

「泣いてんのか」とか。

そういう、こっちが少しむっとするような言葉を選びそうだった。

 

でも、今の声は違った。

 

迷っているような声だった。

 

 

「いや……そりゃいるよな。走って入ってったんだから」

 

 

それから、扉の外で布が擦れる音がした。

背中を壁に預けたのだと、なんとなく分かった。

そのまま、ずるずると座り込むような音が続く。

 

私は、返事をしなかった。

 

したくなかった。

できなかった。

 

返事をしたら、何かを言わなきゃいけなくなる。

さっきのことを話さなきゃいけなくなる。

謝るのか、怒るのか、泣くのか、自分でも分からないものを、言葉にしなきゃいけなくなる。

 

そんなの無理だった。

 

ぬいぐるみの胸に顔を押しつけたまま、息を殺す。

布に涙が染みて、少し冷たい。

それでも離せなかった。

 

扉の外で、ノコパラがまた息を吐いた。

 

 

「……さっきは悪かった。言い過ぎた」

 

 

私はぬいぐるみの胸に顔を押し付けたまま、瞬きをした。

 

ノコパラの言葉が、布団の中まで入ってくる。

 

私が謝らなきゃいけないのに。

私が逃げたのに。

私がひどいことを言いかけたのに。

 

先に謝られた。

 

どうしたらいいのか分からなかった。

 

 

「止めなきゃまずいと思ったのは本当だ。あのまま言わせたらまずいことになる。そこは、今でもそう思ってる」

 

 

ノコパラの声は、扉越しだから少しくぐもっていた。

 

 

「けど、言い方が悪かった。雑だったっつーか悪かったな……すまん」

 

 

言い方。

 

さっきノコパラが言ったことは、確かに刺さった。

私が言おうとした言葉は、謝っても戻らない言葉だ。

それを言えば、私も苦しむ。

顔を見るたびに思い出す。

頭にこびりついて離れなくなる。

 

全部が痛かった。

 

けれど、間違ってるとは言えなかった。

 

謝らなきゃいけないのは、私の方なのだ。

さぼったのも、言いすぎたのも、逃げたのも、お母さんを傷つけようとしたのも、私だ。

 

 

「いつもの癖が出た」

 

 

ノコパラはそう言って、少しだけ笑ったような息を漏らした。

 

でも、笑い声ではなかった。

 

 

「お前も知ってると思うが、俺は口が悪い」

 

 

知ってる。

 

私は布団の中で小さく思った。

 

 

「前はそれでよかった……いや、よくはねぇな。よかったことにしてもらってただけだ」

 

 

ノコパラは、自分で言って、自分で訂正した。

 

 

「俺は今、それを直そうとしてる……まあ、さっき聞いた通り、そう簡単に直るもんじゃなかったな。長年かけて染み付いた癖が、一朝一夕で綺麗に治るわけじゃねぇらしい」

 

 

私は、布団の中で小さく息を吸った。

 

私も、癖だったのかな。

 

相手の弱いところを探すこと。

そこを突けば黙ると考えること。

相手の気持ちじゃなくて、相手の反応を見ること。

 

そういうのも、私の癖なのかな。

 

 

「でも、直さなきゃいけねぇとは思ってる。こんな俺でもよ……せめて、大切な仲間相手には正しく言葉が伝わって欲しいと思ってんだ……」

 

 

床が少しだけ鳴った。

 

ノコパラが座り直したのかもしれない。

 

 

「前は、それをカインがやってくれてた」

 

 

お兄ちゃんの名前が出た瞬間、息がしづらくなった。

 

さっきまで、ずっと頭の中で鳴っていた名前。

言いかけて、ノコパラに止められた名前。

言えばお母さんを傷つけるとわかっていた名前。

 

その名前を、ノコパラが静かに口にした。

 

 

「俺の言葉から棘を抜いて、ブレイズの言葉には足りねぇ部分を足して、俺が言いすぎた出っ張りを引っ込めて、ブレイズが説明不足なところは補って……場が壊れないようにしてた」

 

 

私は、ぬいぐるみの胸に顔をもっと押しつけた。

 

お兄ちゃん。

 

やっぱり、お兄ちゃんだ。

 

お兄ちゃんはそういうことができる。

誰かの言葉を聞いて、その中にある足りないところを見つける。

痛いところを痛いまま出さずに、ちゃんと受け取れる形にする。

喧嘩になりそうなものを、喧嘩にならないようにする。

 

私にはできなかったこと。

 

 

「俺とブレイズがまともにやれてたのは、俺らがまともだったからじゃねぇ。ただあいつがうまくやらせてくれてただ」

 

 

お兄ちゃんなら、うまくできた。

ノコパラの言葉から棘を抜いて、ブレイズさんの足りない言葉を足して、場を壊さずに済ませられた。

みんながちゃんと向き合える形にできた。

 

だったら私は?

 

さっきの私は、お母さんを傷つける言葉を言おうとした。

相手の痛いところを見つけて、そこを突こうとした。

お母さんの言葉を止めるために、黙らせるために、言葉を選んだ。

 

お兄ちゃんなら、きっとできたのだ。

 

あの場でも、うまくやっただろう。

 

お母さんを傷つけずに。

私の寂しさも見つけて。

手を抜いたことはちゃんと注意して。

でも、私が工夫していたところも見落とさずに。

全部をちょうどいい形にしてくれた。

 

私はお兄ちゃんには遠い。

 

そういうことを、言われている気がした。

扉の向こうのノコパラは、そんな言い方をしていないのかもしれない。

でも、私にはそう聞こえた。

 

だって、実際そうなのだ。

 

私はお兄ちゃんみたいにはできない。

 

この前も、そんな話をした。

ノコパラとブレイズさんの喧嘩の時。

私の言葉は借り物で、場に合っていなかった。

 

お兄ちゃんなら、もっと上手くやれた。

私は、お兄ちゃんのようにできなかった。

お兄ちゃんはみんなの言葉を拾えて、私は拾えない。

お兄ちゃんは誰かを傷つけずに済ませられて、私はできない。

 

そんなの、私が一番知ってる。

 

布団の中で、私はぬいぐるみの胸に顔を押しつけたまま、かすれた声を出した。

 

 

「分かってるよ……どうせ、私はお兄ちゃんみたいにはできないってさ」

 

 

扉の向こうが、一瞬静かになった。

 

泣いた後の声は、自分でもわかるぐらい変だった。

 

でも、言葉だけは出てきた。

 

 

「お兄ちゃんは特別だもん。私なんかとは違うもん。お兄ちゃんならできたことも、私はできない。私がやろうとしたってどうせ失敗する。お兄ちゃんみたいに、みんなの言葉を上手く拾ったり、誰も傷つけないようにしたりなんてできない」

 

 

言いながら、どんどん苦しくなっていく。

 

本当にそう思っているのか。

それとも、そう言えばまた誰かが黙ると思っているのか。

自分でも分からなかった。

 

でも、苦しかった。

 

 

「お前なぁ……」

 

 

ノコパラの声が、扉の向こうで少しだけ困ったように落ちた。

 

 

「俺は、そこまで言ってねぇよ」

 

 

「でも、そういうことでしょ」

 

 

私は、布団の中で丸まったまま言った。

 

 

「お兄ちゃんにはできた。でも私にはできなかった。お兄ちゃんはすごい。私はまだ全然遠い。そう言いたいんでしょ」

 

 

「あー……普通じゃないとは言ったが、そういう意味で捉えてたか。いや、あの流れをそう捉えても仕方がねぇか……」

 

 

私は返事をしなかった。

 

そういう意味じゃないなら、どういう意味なのだろう。

 

でも、どうせ似たようなことだと思った。

お兄ちゃんはすごい。

私は違う。

それだけの話だ。

 

 

「まあ、それも間違っちゃいねぇよ。カインがすげぇのは否定しねぇ。あいつが普通か普通じゃねぇかで言えば、間違いなく普通じゃねぇだろうな」

 

 

当たり前だ。

お兄ちゃんはすごい。

そこを否定しようものなら、相手が誰であっても私は怒る。

 

 

「けどな、俺が言いてぇのはそれだけじゃねぇ」

 

 

ノコパラの声が強くなった。

 

聞きたくないような気もした。

でも、耳は勝手に聞いてしまう。

扉の向こうの声を、逃がさないように拾ってしまう。

 

 

「普通じゃないってのはな、すげぇって意味だけじゃねぇ……当たり前じゃねぇってことでもある」

 

 

その言葉は、すぐには胸に入ってこなかった。

 

お兄ちゃんが普通じゃないことは知っている。

特別なことも知っている。

でも、当たり前じゃない。

 

それは、少し違う言い方だった。

 

 

「あいつがいつも誰かの言葉を拾って、誰かの感情をほどいて、相手が受け取れる形にして返してくれること……」

 

 

扉の向こうで、ノコパラの声が低く響く。

 

 

「そんなもん普通じゃねぇ……当たり前にあるものじゃねぇんだ」

 

 

当たり前じゃない。

 

 

「俺だって本当は分かってたはずだったんだよ。普通のガキが、あんなふうに人の間に立てるわけねぇって。俺みたいな奴の言葉の形をいちいち変えて、相手が飲み込めるようにしてることがどれだけ面倒で、どれだけ難しいことか……そんなもん誰にでもできることじゃねぇってことぐらい……分かってたはずだった」

 

 

私は、頭の中でお兄ちゃんを思い出した。

 

困ったように笑って、言葉を変えるお兄ちゃん。

誰かの怒りを真正面から否定しないで、でもそのまま暴れさせもしないお兄ちゃん。

相手が飲み込める形にして、そっと差し出すお兄ちゃん。

 

 

「でもよ……あいつは、それをあまりにも自然にやってくるんだよ」

 

 

その言葉で、お兄ちゃんの顔が浮かんだ。

 

困ったように笑う顔。

私が何かを言う前に、少しだけ首を傾げる顔。

私が怒ったら、怒った理由より先に、怒っている私の顔を見てくれる目。

 

 

「見返りを求めずに、いつもやってきやがるんだよ」

 

 

そうだ。

 

お兄ちゃんは、見返りなんて求めなかった。

私が「ありがとう」と言わなくたって、気にする素振りすらみせなかった。

私が甘えて当然みたいに手を伸ばしても、ちゃんと握ってくれた。

私が何かをやれば、当たり前に見てくれた。

 

 

「怒らず、偉ぶらず、恩に着せず、こっちが気づかなくても、別に文句も言わずにやってくるから……」

 

 

お兄ちゃんは、私に「見てやったぞ」なんて言わなかった。

「気づいてやったぞ」なんて顔もしなかった。

「褒めてやったんだから感謝しろ」なんて、絶対に言わなかった。

 

ただ、見てくれた。

ただ、気づいてくれた。

ただ、褒めてくれた。

 

 

「そうやって何度もやられると、人ってのは馬鹿でよ、だんだんそれを普通だと錯覚してきちまう」

 

 

……私は、お兄ちゃんを普通だと思ったことなんてない。

お兄ちゃんは特別だ。

誰よりも特別で、すごくて、遠くて、優しくて、私の大好きな人だ。

 

お兄ちゃんが見てくれるだけで、私はちゃんと頑張ろうと思える。

お兄ちゃんが褒めてくれるだけで、私の中で火がつく。

お兄ちゃんが頭を撫でてくれるだけで、今日の全部が意味のあるものになる。

 

だから、私はお兄ちゃんを普通だなんて思っていない。

普通なわけがない。

そんなの、分かってる。

 

けど。

 

今ノコパラが言いたいのは、そういうことじゃないのだと、ぼんやり分かった。

 

 

「俺もそうだった。ブレイズもそうだった」

 

 

ノコパラは、そこで少し間を置いた。

 

私は、その間が嫌だった。

 

次に何を言うかが、なんとなく分かってしまったからだ。

 

 

「……アイシャ。お前もそうだったんじゃねぇのか?」

 

 

胸の奥に、何かが落ちた。

重いものだった。

私は、すぐには言い返せなかった。

 

違う。

 

そう言いたかった。

 

でも、そうなのかもしれない。

 

いや、きっとそうなのだ。

 

お兄ちゃんはいつも私を見てくれた。

褒めてくれた。

工夫に気づいてくれた。

私が泣きそうなら、何も言わなくても気づいてくれた。

甘えれば受け止めてくれた。

私が少しだけ背伸びしていることも。

できる子でいたいと思っていることも。

褒めてほしいところを、ただ結果だけじゃなくて、その中身まで見てほしがっていることも。

お兄ちゃんは、ちゃんと拾ってくれた。

 

私はそれを、お兄ちゃんが特別だからできるものだと思っている。

 

でも、それと同時に。

 

どこかで、その特別を当たり前のように受け取っていた私もいる。

 

お兄ちゃんが特別だと知っているのに、その特別を私のために向けられることを当たり前のように思っていたのだ。

 

 

「今日お前がやったことはよ、つい最近まで俺たちがやってたことと、根っこは同じだ」

 

 

ノコパラの声が、扉の向こうから静かに届いた。

 

 

「カインがいないはずなのに、今までカインの優しさを当たり前のように受け取り過ぎて、いつも通りのモンがそこにあると思ってたんだろうよ」

 

 

胸が苦しくなった。

 

 

「カインがいなくなったってのに、カインの優しさまでいなくならねぇなんて……そんな都合のいい話、あるわけねぇのにな」

 

 

その言葉は、静かだった。

 

怒ってはいなかった。

責めているようにも聞こえたけど、それだけではなかった。

ノコパラが自分にも言っているような声だった。

 

でも、私にだって刺さった。

 

私は、お兄ちゃんがいない場所で、お母さんに同じものを求めた。

 

お兄ちゃんと同じように見てほしいと願った。

同じように拾ってほしいと期待した。

私が何を考えたのか、何を工夫したのか、どうしてそうしたのか。

そこまで気づいてほしいと思った。

 

お兄ちゃんがしてくれたように。

 

でも、それは返ってこなかった。

 

だから私は怒った。

 

お母さんを責めて、黙らせる言葉を探して、お兄ちゃんと比べる言葉を言おうとして、逃げた。

 

 

「……お前が母親に腹を立てる理由も分からねぇわけじゃねぇよ」

 

 

私は、ぬいぐるみに顔を押しつけたまま、動かなかった。

 

 

「見てほしかったんだろ? カインがしてくれたように自分の全部をよ」

 

 

胸が跳ねた。

 

言わないで欲しかった。

 

それを言われると、また泣きそうになる。

 

 

「それをカインはやってた。あいつは、そういうのを見つけんのが異様にうまい。いや、うまいなんてもんじゃねぇな。気持ち悪いくらい自然にやる」

 

 

「気持ち悪くない……」

 

 

布団の中で、小さく言った。

 

声はくぐもっていたけど、扉の向こうには聞こえたらしい。

 

ノコパラが、少しだけ息を吐いた。

 

 

「ああ、悪かった。言い方が悪いな。すげぇんだよ、あいつは。分かってる。そこは俺も認めてる」

 

 

ノコパラの言葉で、胸の奥の棘が緩んだ。

 

でも……

 

 

「ただな、カインがやってたそれは、普通のことじゃねぇんだ。お前の母親が、カインみてぇに気づけなかったからって、それだけでお前を見てなかったことにはならねぇ」

 

 

すぐに別の棘が刺さった。

 

 

「カインとずっと一緒にいたお前からすりゃ、『気づいてくれなかった』ってことは、『見てくれてなかった』に近いんだろうよ」

 

 

そうだ。

 

お母さんは気づかなかった。

私が魔術で服を乾かしていたことに。

私が手を抜いていたことに。

それでも結果を落とさないように調整していたことに。

私が少しずつ、仕事に熱を入れられなくなっていたことに。

 

気づかなかった。

 

だから、お母さんは私をちゃんと見てくれていなかった。

 

 

「リーリャさんも、見落としてたもんはあっただろうし、お前が寂しかったのも嘘じゃあねぇんだろう。けど、カインと同じことができなかったからって、それだけで見てなかったって決めつけるのは、あまりにも酷だ」

 

 

私は、ぬいぐるみを抱きしめた。

 

この子は、お兄ちゃんの形をしている。

 

髪も、服も、腰の小さな剣も、私が一生懸命考えて作った。

抱き心地だって、顔を埋めた時に痛くないようにした。

手触りも、重さも、大きさも、たくさん考えた。

完璧だと思った。

 

でも、この子はお兄ちゃんじゃない。

 

そんなこと、もう分かっていた。

今気づいたことじゃない。

完成した日の夜に、私はもう気づいていた。

 

ぬいぐるみは褒めてくれない。

ぬいぐるみは気づいてくれない。

私が何を考えて、どこを工夫して、どうしてそうしたのか、見てくれない。

お兄ちゃんの形をしていても、お兄ちゃんの優しさまでは持っていない。

 

当たり前だ。

 

ぬいぐるみだもん。

 

お母さんだって同じなのだ。

 

お母さんはお兄ちゃんじゃない。

 

お兄ちゃんの優しさを、そのまま持っているわけじゃない。

 

そのことが、布団の暗さの中で、ゆっくりと腑に落ちてきた。

 

私は、ぬいぐるみを抱く腕に力を込めた。

苦しい。

なんだか、胸の中がぎゅうぎゅうになって、どこにも逃げ場がないみたいだった。

 

 

「カインが普通じゃねぇ。それだけのことだ」

 

 

ノコパラは、少しだけ苦く笑ったようだった。

 

 

「……まあ『だけ』って言うには、お前にとってカインの存在はでかすぎたんだろうけどな」

 

 

……いつだってお兄ちゃんは、私のやる気の真ん中にいた。

 

私が頑張る理由の中心にいた。

 

服を畳む時も、料理を作る時も、荷物を確認する時も、誰かの顔色を読む時も、私はどこかでお兄ちゃんのことを考えていた。

 

お兄ちゃんなら、ここを見てくれるかな。

お兄ちゃんなら、ここまで気づいてくれるかな。

お兄ちゃんなら、私がこう考えたことを、分かってくれるかな。

 

そう思うと、ただ仕事を終わらせるだけじゃなくて、もっとちゃんとしようと思えた。

もっと綺麗にしよう。

もっと早く、でも雑じゃなくやろう。

次に使う人が困らないようにしよう。

言われたことだけじゃなくて、その先まで考えよう。

 

それが楽しかった。

 

お兄ちゃんが見てくれるかもしれないと思うだけで、胸の奥に小さな火がついた。

その火があると、私は自分から動けた。

もっとできる子になりたいと思えた。

できる子だと思われたいだけじゃなくて、ちゃんと中身まで見てほしいと思えた。

 

でも、今はお兄ちゃんがいない。

お兄ちゃんがいないのに、私は同じように頑張ろうとして。

同じように見てもらえると思って。

同じように返ってくるはずだと思って。

 

返ってこなかったから、お母さんに怒った。

 

お兄ちゃんじゃない人に、お兄ちゃんと同じものを求めて、お兄ちゃんと同じように返ってこなかったから、私は勝手に傷ついた。

勝手に傷ついて。

勝手に怒って。

勝手に言葉を尖らせて。

お母さんを黙らせようとした。

 

 

「俺はな、カインの優しさをいつの間にか当然のもんみてぇに扱ってた」

 

 

ノコパラは続けた。

 

 

「俺の言葉から棘を抜いてくれる。ブレイズに伝わる形にしてくれる。ブレイズの足りねぇところは、俺に分かるように足してくれる。いつの間にか『そういうもん』として扱ってた」

 

 

扉の向こうで、木の音がかすかに鳴った。

 

ノコパラが、頭でも扉に預けたのかもしれない。

 

 

「だが、そんなもん、あるのが当たり前なわけねぇんだよ」

 

 

その言葉は、さっきより重かった。

 

 

「誰かがこっちの話を最後まで聞いてくれることだって、本当は当たり前じゃねぇ。まして、こっちがろくでもねぇ言い方をしてんのに、怒らず、見捨てず、ちゃんと考えて返してくれるなんて……そんなの奇跡みてぇなもんだ」

 

 

奇跡。

 

お兄ちゃんがしてくれていたこと。

 

私には、毎日の中にありすぎて、手を伸ばせば触れる場所にありすぎて、それがどれだけすごいことなのか、ちゃんと分かっていなかったのかもしれない。

 

お兄ちゃんは特別だと知っていたのに。

 

特別なものを、当たり前に受け取っていた。

 

 

「それを忘れると、駄目になる」

 

 

ノコパラの声が、また苦くなる。

 

 

「優しさだの、配慮だの、譲歩だの。そういうもんを当然だと思った瞬間、人は動物以下に成り下がる。自分がどれだけもらってるか忘れて、相手が返してくれなかったものばかりを数えて、自分が何を返してねぇのかは見なくなる」

 

 

「……っ」

 

 

「そういう奴はな、自分の話しかしなくなる」

 

 

ノコパラの言葉が、静かに続いた。

 

 

「俺が寂しかった。俺が傷ついた。俺はこう思った。俺はこうしてほしかった。そういうもんを吐くだけ吐いて、相手に何をしたかは後回しだ。迷惑をかけたことも、傷つけたことも謝らねぇ。謝る前に自分の気持ちとやらを盾にして、相手に受け止めさせようとする」

 

 

それは……さっきの私だ。

 

お母さんに見てほしかった。

 

お兄ちゃんみたいに褒めてほしかった。

私がどれだけ寂しかったか、分かってほしかった。

 

そればっかりだった。

 

私は、まだ謝っていない。

 

手を抜いたことも。

お母さんに強く言い返したことも。

お母さんが傷つくと分かっていて、そこを押したことも。

逃げたことも。

 

ひとつも、まだ謝っていない。

 

 

「……それが、少し前までの俺だ」

 

 

扉の向こうで、ノコパラが低く言った。

 

声はいつもみたいに軽くない。

嫌味を言う時の、わざと相手を苛立たせるような調子でもない。

喉の奥に砂でも詰まっているみたいに、ざらざらしていた。

 

 

「だから、俺が偉そうに説教できる立場じゃねぇのは分かってる。が……だからって、同じようなところに足突っ込んでる奴を、見なかったことにしていいわけでもねぇだろ」

 

 

ノコパラは、言葉を探すように間を置いた。

 

 

「カインの優しさはな、そこらに転がってる石ころみてぇなもんじゃねぇんだ」

 

 

胸の奥が、きゅっと縮んだ。

 

お兄ちゃんの優しさ。

私がずっと浴びてきたもの。

泣けば来てくれて、寂しそうにすれば気づいてくれて、頑張れば褒めてくれて、私が言葉にできないものまで、ちゃんと拾ってくれたもの。

 

 

「欲しくなったら拾えるもんじゃねぇし、誰もが持ってるもんでもねぇ。カインがそこにいるから、あいつが差し出してくれる。あいつが考えて、選んで、手間かけて、こっちに渡してくれてる。そういうもんだ」

 

 

扉の向こうで、ノコパラが指先か何かで床を軽く叩いた。

こつ、と小さな音がした。

 

 

「だから、あいつがいなくなりゃ……そりゃあなくなる」

 

 

私は息を止めた。

 

 

「カインがいねぇ場所に、カインの優しさだけ都合よく残ってるわけねぇんだ」

 

 

その言葉は、さっきまでのどの言葉よりも、静かに落ちてきた。

 

怒鳴られたわけじゃない。

責め立てられたわけでもない。

でも、胸の中にあったものが、逃げ場をなくしたみたいに固まった。

 

そうだ。

 

お兄ちゃんはいない。

なのに私は、どこかで探していた。

 

お兄ちゃんがくれたものと同じものを、誰かが返してくれるんじゃないかって、どこかで勝手に思っていた。

 

お兄ちゃんじゃない人に、お兄ちゃんと同じ目を求めていた。

お兄ちゃんと同じ耳を求めていた。

お兄ちゃんと同じ声を求めていた。

 

そんなの、無理に決まってるのに。

 

 

「俺らは、カインの優しさを当たり前みてぇに受け取っちゃ駄目だったんだ」

 

 

ノコパラの声が、少しだけ沈んだ。

 

 

「ちゃんと、大事なもんとして受け取らなきゃいけなかった。あいつがわざわざ差し出してくれてるもんだって、ちゃんと分かってなきゃいけなかった」

 

 

私は、布団の中で小さく唇を噛んだ。

 

お兄ちゃんは、いつも差し出してくれていた。

差し出してくれていたのに、私はそれを、受け取ったあとにちゃんと大切にしていただろうか。

嬉しかった。

幸せだった。

もっとほしいと思った。

でも、それだけだった気がする。

 

 

「……まあ、あいつがいなくなってからこんなことに気づいてる時点で、全然できてなかったんだろうがな」

 

 

お兄ちゃんの優しさを、大切なものとして受け取る。

 

私は、そうできていたのかな。

 

お兄ちゃんが褒めてくれた時。

頭を撫でてくれた時。

私が泣きそうになる前に気づいてくれた時。

私が言葉にできない気持ちを、私より先に見つけてくれた時。

 

私は、嬉しかった。

 

すごく嬉しかった。

 

嬉しいから、もっと欲しくなった。

一度もらえたから、次も欲しくなった。

お兄ちゃんならくれると思った。

私が手を伸ばせば、困った顔をしながらも、最後にはちゃんと握ってくれると思った。

 

それは、大切にしていたのとは少し違うのかもしれない。

 

 

「俺たちは、年だけ食ったガキだったんだろうな」

 

 

暗い布の向こうに、扉は見えない。

 

でも、その扉の向こうでノコパラがどんな顔をしているのか、少しだけ想像できた。

きっと、苦い顔をしている。

嫌そうに眉を寄せて、自分で自分を馬鹿にするように笑っている。

 

 

「俺も、ブレイズも、大人ぶってただけだ。現実を知ってるだとか、魔大陸で苦労しただとか、お前ら子供よりは物を知ってるつもりだった。旅の仕方も、金の使い方も、喧嘩の仕方も、引き際も、そこそこ分かってるつもりだった」

 

 

ノコパラのため息が聞こえてきた。

 

 

「けど、あいつから見りゃ、深いところを預けられる相手には見えなかったんだろうよ。俺たちは、どうしようもないほどガキだった。自分の言葉一つまともに世話できねぇ。自分の感情の面倒も見きれてねぇ。そんな奴らに、あいつが自分の一番重たいところを預けられるわけがねぇ」

 

 

お兄ちゃんは、いつも私のわがままに付き合ってくれていた。

 

私が疲れたら、お兄ちゃんの服を掴んだ。

怖くなったら、お兄ちゃんの近くに寄った。

寂しくなったら、わざと眠いふりをして、撫でてもらった。

そうすると、お兄ちゃんは嫌な顔なんてしないで、私を寄りかからせてくれた。

 

じゃあ、お兄ちゃんは?

 

お兄ちゃんが疲れた時は、誰に寄りかかっていたんだろう。

お兄ちゃんは、誰に甘えられたのだろう。

誰の前なら、ちゃんと弱くなれたのだろう。

 

 

「カインが誰かに頼らねぇのは、あいつ自身の問題だけじゃなかったんだ」

 

 

ノコパラは続ける。

 

 

「頼らなかったんじゃなくて、頼れなかった。少なくとも、俺たちはあいつから見て、深いところを預けられる相手じゃなかったんだろうよ」

 

 

胸が痛かった。

 

お兄ちゃんは、私のことをちゃんと見てくれていた。

 

でも、私はお兄ちゃんのことをちゃんと見ていたのかな。

 

お兄ちゃんが笑っている時、その奥にある疲れを見ていたのかな。

お兄ちゃんが困った顔をした時、本当に何に困っているのか考えたのかな。

お兄ちゃんが「大丈夫」と言った時、その大丈夫が本当なのか、ちゃんと見ようとしたのかな。

 

私は、お兄ちゃんが優しいことを知っていた。

 

お兄ちゃんが傷ついていることも、知っていたはずだった。

 

なのに。

 

知っているだけだった。

見えているだけだった。

その深いところまで、手を伸ばそうとしていたのか分からない。

 

 

「アイシャもそうなんだろ?」

 

 

「……え?」

 

 

「俺たちが頼りねぇから、お前は俺たちに溜まったもんを、相談する気にもならなかったんだろ」

 

 

相談。

 

その言葉が、少し変に聞こえた。

 

頼りづらかったというより。

相談する気がなかったというより。

 

困ったらお兄ちゃん。

分からなかったらお兄ちゃん。

寂しかったらお兄ちゃん。

自分の気持ちがぐちゃぐちゃになったら、お兄ちゃん。

 

つまり……

 

 

「……頼るとか、考えてなかった」

 

 

私は、ぽつりと言った。

 

 

「ノコパラたちが嫌とかじゃなくて。頼りないって思ってたかもよく分かんない。ただ……そういう時に浮かぶのは、お兄ちゃんだったから」

 

 

「同じことだよ」

 

 

ノコパラは、低い声でそう言った。

 

 

「俺たちが、お前にとって頼る相手に見えてなかったってことだ。頼りづらいでも、思いつかねぇでも、そこに大きな差はねぇ。お前から見りゃ、俺たちなんて頼りねぇ大人だったんだろう」

 

 

私は何も言えなかった。

 

 

「お前が、今いないカインを引き合いに出したくなる気持ちも分かる。お前にとって、あいつは唯一まともに寄りかかれる相手だったんだろうからな」

 

 

唯一。

 

その言葉は、怖いくらいぴったりだった。

 

私の心が本当にぐちゃぐちゃになった時、そのぐちゃぐちゃを持っていく相手として一番先に浮かぶのは、いつだってお兄ちゃんだった。

 

 

「今、カインはいねぇ。あいつに頼りたいのは分かるが、いねぇもんはいねぇ。だから……難しいかもしれねぇけどよ、俺らにも少しは頼ってくれたら助かる」

 

 

私は、ぬいぐるみの頭を見下ろした。

 

 

「もちろんこっちも努力するが、カインを基準にすんなよ?」

 

 

小さなお兄ちゃんは、何も言わない。

 

 

「俺はあいつと同じもんを渡せる自信は、欠片もねぇかんな」

 

 

扉の向こうで、ノコパラがゆっくり息を吸う音がした。

 

 

「まあ……カインがいなくなって、お互い変わらなきゃいけねぇ時が来たんだろうよ」

 

 

「……うん」

 

 

お兄ちゃんがいない場所で、お兄ちゃんがいなくても大丈夫なように、少しずつ変わらなきゃいけない。

 

お兄ちゃんがしてくれていたことを、当たり前に受け取るんじゃなく。

それが大切なものだったと分かった上で、自分たちでもやる。

 

私は、腕の中のぬいぐるみを見下ろした。

小さなお兄ちゃんは、何も言わない。

困ったようにも、笑っているようにも見える顔で、ただ私の腕の中にいた。

 

私は、ぎゅっとしていた指を一本ずつほどいた。

 

今は抱きしめて隠れる時じゃない。

 

私はぬいぐるみを枕元へそっと置いた。

乱暴に置かないように。腰につけた小さな剣が引っかからないように、頭の向きが変にならないように、いつもよりずっと丁寧に。

 

 

「……待っててね」

 

 

そう言ってから、私は布団を出た。

 

袖で目元をこする。

たぶん、全然綺麗には拭けていない。

目は赤いだろうし、髪もぐしゃぐしゃだし、顔もひどいと思う。

 

でも、扉の向こうにいるノコパラは、そういうのを見ても笑わない気がした。

 

……少なくとも今は。

 

私は立ち上がって、扉の前まで歩いた。

少しだけ息を吸って、扉を開ける。

 

ノコパラは扉の横に座っていた。

片膝を立てて、背中を壁に預けて、いつもの少しだらしない姿勢なのに、顔だけは妙に真面目だった。

 

私と目が合うと、ノコパラは少しだけ眉を上げた。

 

 

「出てきたか」

 

 

「……ん」

 

 

「偉い、って言うと怒るか?」

 

 

「怒らないけどやめて」

 

 

ノコパラは短く笑った。

 

私はその前に立ったまま、手をぎゅっと握った。

何を言えばいいのか、まだ全部は分からなかった。

でも、何も言わないまま戻るのは違う。

 

だから、頭を下げた。

 

 

「嫌な思いさせちゃって……ごめんなさい」

 

 

ノコパラは、すぐには答えなかった。

 

その沈黙が怖くて、私は頭を下げたまま指先に力を入れた。

 

やがて、ノコパラが小さく息を吐いた。

 

 

「俺には、ありがとうでいいんだよ」

 

 

「……え?」

 

 

顔を上げると、ノコパラは口の端を上げていた。

 

 

「助けられたと思ったら、ありがとう。悪いことしたと思ったら、ごめんなさい。そこを間違えると、謝る方も謝られる方も面倒くせぇことになっからな!」

 

 

そう言った、ノコパラは妙に満足そうな顔をしていた。

 

 

「……かっこつけ」

 

 

思わずそう言うと、ノコパラは鼻で笑った。

 

 

「ハッ! 俺はカインとは違ぇからな。かっこつけられるところは、ちゃんとかっこつけさせてもらうぜ」

 

 

「威張るところなの?」

 

 

「威張れるところが少ねぇんだから、ちょっとでも威張れそうな時に威張っとくんだよ」

 

 

それがあまりにもノコパラらしくて、私は息が抜けた。

 

でも、すぐにノコパラの目が真面目に戻る。

 

 

「それと、謝る相手が違ぇんじゃねぇのか?」

 

 

分かっていた。

 

ノコパラに謝っただけでは終わらない。

一番謝らなきゃいけない人は別にいる。

 

 

「……お母さん、私のこと嫌いになってたらどうしよう」

 

 

口にした瞬間、また涙が出そうになった。

 

 

「そこまで簡単に嫌いになる母親なら、最初からあそこまで傷ついた顔はしねぇよ」

 

 

「……」

 

 

「傷つくってのはな、どうでもいい相手には起きねぇんだ。少なくとも、あの人はお前をどうでもいいなんて思ってねぇと思うぜ」

 

 

私は、袖で目を拭った。

 

 

「……ありがと、ノコパラ」

 

 

「おう。それでいい……行ってこい」

 

 

「うん」

 

 

私は廊下へ一歩踏み出した。

 

足はまだ怖かった。

お母さんの顔を見るのは怖い。

何を言えばいいのか、全部は分からない。

 

でも、最初に言う言葉だけは分かる。

 

『ごめんなさい』

 

まず、それを言わなきゃいけない。

 

私は、胸の前で手を握って、お母さんのいる方へ歩き出した。

 

 

 

 

―――

 

 

 

夜になっても、私はなかなか眠れなかった。

 

部屋の中は静かだった。

 

昼間にあんなことがあったのが嘘みたいに、宿の部屋はいつもの夜の顔をしている。

 

隣では、お母さんが眠っている。

寝息は静かだったけど、いつもより少し浅い気がした。

 

気のせいかもしれない。

私が気にしすぎているだけかもしれない。

けれど、一度そう思うと、もう普通の寝息には聞こえなかった。

お母さんも、ちゃんと眠れていないのかもしれない。

私があんなことを言いかけたから。

私が、お母さんの一番痛いところに手を伸ばしたから。

 

私は布団の中で、そっと指を握った。

 

謝った。

ちゃんと、謝った。

でも、何をどう言ったのかは曖昧だった。

 

手を抜いてごめんなさい。

ひどいことを言いかけてごめんなさい。

逃げてごめんなさい。

 

そんなことを言った。

 

途中で声が震えて、言葉が詰まって何度も何度も息を吸った。

お母さんの顔を見ようとして、見られなくて、でも見なきゃいけないと思って、また顔を上げた。

 

お母さんは、最後まで聞いてくれた。

怒らなかった。

大きな声で叱ったりはしなかった。

 

私はたぶん、許してもらえたのだと思う。

少なくとも、突き放されはしなかった。

お母さんは私の前髪を直してくれたし、涙で濡れた頬を布で拭いてくれた。

寝る前にはちゃんと「おやすみ」を言ってくれた。

 

でも、それで全部が元通りになったわけじゃなかった。

 

枕元には、お兄ちゃんのぬいぐるみが置いてある。

 

昨日までは抱きしめていた。

 

でも今は、抱きしめられなかった。

 

手を伸ばせば届く。

布の頭を撫でることもできる。

胸に抱き寄せて顔を埋めることもできる。

 

なのに、できなかった。

 

ノコパラの言葉が、まだ胸の奥に残っていたからだ。

 

『カインの優しさは、当たり前のものじゃない』

 

そこらに転がっているものじゃない。

欲しくなったら拾えるものじゃない。

誰かが持っていて、いつでも私に差し出してくれるものでもない。

 

お兄ちゃんが考えて。

選んで。

手間をかけて。

私に渡してくれていたもの。

 

当たり前だ。

 

そんなの、少し考えれば分かることだった。

 

私は、それをずっと受け取っていた。

 

泣けば来てくれた。

寂しそうにすれば気づいてくれた。

頑張れば褒めてくれた。

言葉にできない気持ちも、見つけてくれた。

 

私が欲しいと言えば、困った顔をしながらも、最後には何かしらの形で叶えてくれた。

 

全部、お兄ちゃんだからくれたものだった。

 

お兄ちゃんが優しいから。

お兄ちゃんが私を大事にしてくれていたから。

お兄ちゃんが、私を泣かせたくなかったから。

 

そこまで考えた時、いつもの夢がふっと頭の中に浮かんだ。

 

お兄ちゃんが帰ってくる。

 

私は、ちゃんと待っていたよって笑う。

大人っぽくなった私を見て、お兄ちゃんはきっと驚く。

それから、いつもどおりの困り顔で笑って、私の頭に手を置く。

 

私は、その手を掴む。

 

そして言うのだ。

 

『お兄ちゃんが好き』

 

妹としてじゃなくて。

子供としてでもなくて。

私は、お兄ちゃんのお嫁さんになりたい。

 

そう言ったら、お兄ちゃんはきっと困る。

 

目を丸くして、言葉をなくして、私が本気なのか、冗談なのか、子供の思いつきなのか、一生懸命考える。

お兄ちゃんはそういう人だから。

私の言葉を雑に流したりしない。

ちゃんと受け止めようとしてくれる。

 

その沈黙が怖くて、私は不安になる。

 

『……だめ?』

 

そう聞けば、お兄ちゃんは、きっと私を見る。

 

そして、困ったように笑う。

 

それから諦めたように、でも嫌そうではなく、放っておけなくなったみたいに……

 

『……しょうがないな』

 

そう言って、私の手を取ってくれる。

 

今までは、それが幸せだった。

 

その未来を疑ったことなんてなかった。

お兄ちゃんが私を突き放すところなんて、想像できなかった。

私が本気で欲しがったものを、お兄ちゃんが最後まで拒むとは思えなかった。

 

だって、お兄ちゃんだもん。

 

そう思えば、胸の中は甘く満たされた。

 

でも、今は違う。

 

私は、その言葉の中身を覗いてしまった。

 

お兄ちゃんの言う「しょうがないな」は、何なのだろう。

 

それは、お兄ちゃんが私を選んだ言葉なのだろうか。

 

違う。

 

それはきっと、お兄ちゃんの優しさだ。

 

私が泣きそうだったから。

私が欲しがったから。

私を突き放せなかったから。

私の気持ちをなかったことにできないから。

傷つけたくないから。

 

困って、迷って、それでも優しいから、受け入れてくれるだけなのではないか。

 

そう思った瞬間、夢の中のお兄ちゃんの手が急に重くなった。

 

あたたかいはずの手。

ずっと欲しかった手。

私の小さな手を包んでくれる、大好きな人の手。

 

でも、その手がお兄ちゃん自身の欲で伸びてきたものじゃないのなら。

私を泣かせないために差し出された手なのだとしたら。

 

それは、私がお兄ちゃんの優しさをまた一つ消費しただけじゃないの?

 

好きだと言って。

『だめ?』と泣きそうな顔で聞いて。

お兄ちゃんの逃げ道を塞いで。

最後に「しょうがないな」と言わせる。

 

もしそうなら、それは違う。

それでは、お兄ちゃんに選ばれたことにならない。

私が欲しいと言ったから、お兄ちゃんが優しさで受け止めてくれただけだ。

 

お兄ちゃんが自分から、「アイシャがいい」と思ったわけではない。

 

それは、本当にお嫁さんになるということなのだろうか。

 

違う。

 

そんなのは絶対に違う。

 

私は布団の中で、ぎゅっと両手を握った。

 

私の中で、ずっと大事にしていた夢が音を立てて崩れた気がした。

 

壊れたわけじゃない。

 

きっと、お兄ちゃんは手を取ってくれる。

今でも、それは想像できてしまう。

私が本気で泣きそうな顔をしたら、お兄ちゃんは放っておけない。

お兄ちゃんが私を冷たく突き放すところなんて、やっぱり思い浮かばない。

 

でも、それは優しさだ。

 

お兄ちゃんが私を好きだからじゃない。

お兄ちゃんが折れてくれた結果でしかない。

 

そう気づいた瞬間、今まで一番甘かった夢が一番苦しいものに変わった。

 

お兄ちゃんの優しさは、当たり前のように使っていいものじゃない。

差し出されたからといって、いくらでも甘えていいものじゃない。

お兄ちゃんがくれるからといって、それを自分の夢の土台にしていいわけじゃない。

 

だって、お兄ちゃんは人を信じるのが怖いのだ。

 

優しいからこそ、怖さを我慢してしまう。

優しいからこそ、自分のことを後回しにしてしまう。

優しいからこそ、誰かが泣きそうになると、そこで自分の痛みを飲み込んでしまう。

 

それがお兄ちゃん。

私の大好きなお兄ちゃんだ。

 

だからこそ、私のわがままでお兄ちゃんを苦しめたくない。

 

優しさで受け入れられるのも嫌。

責任感で手を取られるのも嫌。

泣かせたくないからそばに置かれるのも嫌。

私の願いが、お兄ちゃんの優しさをまた一つ消費して叶うだけなら。

 

そんなのは絶対に嫌だ。

 

それでも。

 

だからといって、夢が叶わなくなるのはもっと嫌だ。

 

お兄ちゃんのお嫁さんになれない未来。

 

私じゃない誰かの名前を、やわらかい声で呼ぶ。

私じゃない誰かの手を当たり前のように取る。

私じゃない誰かに、困ったように笑って、最後には自分から近づいていく。

 

私はその横で、笑わなきゃいけない。

ちゃんと祝福しなきゃいけない。

「おめでとう」みたいな言葉を言わなきゃいけない。

お兄ちゃんの幸せを邪魔しない、いい子の顔をしなきゃいけない。

 

……無理だった。

 

想像してしまった。

 

私じゃない誰かが、お兄ちゃんの名前を呼ぶところを。

私が何度も何度も呼んできたその音を、私より少し大人っぽい声で、私より自然に、私より近い場所から呼ぶところを。

お兄ちゃんがそれに振り向いて、あの困ったみたいな優しい顔じゃなくて、安心した顔で笑うところを。

 

お兄ちゃんが誰かに優しくするところなら、私は何度も見てきた。

お兄ちゃんはそういう人だから。

困っている人を放っておけないし、泣きそうな人には手を伸ばすし、誰かが壊れそうなら、自分のことを後ろに置いてでも支えようとする。

 

それは、お兄ちゃんのいいところだ。

 

それなのに。

 

 

「……やだ」

 

 

声に出すつもりなんてなかったのに、唇の隙間から細い息みたいな言葉がこぼれた。

 

部屋は静かだった。

 

お母さんの寝息が、ほんの少しだけ揺れた気がして、私は慌てて布団を鼻のあたりまで引き上げた。

見られたわけでもないのに、悪いことをした時みたいに胸が跳ねる。

 

でも、もう止まらなかった。

 

お兄ちゃんが幸せならそれでいい……なんて言える子になれたらよかったのかもしれない。

お兄ちゃんが笑っているなら、私は遠くから見ているだけでいいと、静かに微笑めたほうがずっと正しいのかもしれない。

 

でも、今の私はそんなに立派じゃない。

お兄ちゃんの幸せを願う気持ちは本当で、苦しんでほしくない気持ちも本当で、それなのに、その幸せの中から私がいなくなるのだけは、どうしても許せないくらい嫌だった。

 

自分でもわがままだと思う。

けど、消えない。

お兄ちゃんに選ばれない私なんて、どこに立てばいいのか分からない。

妹みたいに大事にされて、子供みたいに頭を撫でられて、昔からそばにいたからという理由だけで守られて、その場所をありがたいと思いながら、でも本当はそこじゃないってずっと思い続けるなんて、そんなのはきっと、笑っていても少しずつ中身が削れていく暮らしだ。

 

そんな未来いやだった。

 

いやなんて言葉じゃ足りなかった。

 

私の中の全部が、首を横に振っていた。

 

お兄ちゃんに無理をさせたくない。

 

でも、お兄ちゃんを諦めるなんて、もっとできない。

 

二つの気持ちが、私の中で両方とも本当の顔をして立っていて、どっちかが嘘ならよかったのに、どっちも私の一番深いところから出てきたものだから、私はどちらにも背中を向けられなかった。

 

お兄ちゃんが私を見て、仕方なくじゃなく、可哀想だからでもなく、昔から一緒だったからでもなく、ただ私がいいと思ってくれる場所がほしい。

 

そこまで考えた時、胸の中で何かがすとんと落ちた。

 

私は、ずっと間違えていた。

 

お嫁さんになりたい、という言葉ばかりを大事に抱えていたけど、私が本当に欲しかったのは、その形だけじゃなかった。

白い服を着ることでも、お兄ちゃんに困った顔で頷いてもらうことでもなかった。

 

私は、お兄ちゃんに選ばれたかったのだ。

 

私を選ぶことが、お兄ちゃんにとって我慢じゃない未来。

私の手を取ることが、お兄ちゃんにとって譲ることじゃない未来。

私が笑うためじゃなくて、お兄ちゃんも笑いたいから、私の隣に来てくれる未来。

 

それが欲しい。

 

どうしようもなく、欲しい。

 

私が泣くから仕方ない、でもなくて。

私を傷つけたくないから、でもなくて。

 

お兄ちゃんの方から、私を失いたくないと思う気持ち。

 

それがお兄ちゃんにまだないのなら、足りないのなら……

 

欲しいものが分かった瞬間、私の頭は心よりずっと早く動き出していく。

 

それはいつものやり方だった。

 

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