受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

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九十話

 

足りないものが分かった瞬間、私の頭は心よりもずっと早く動き出していた。

 

それは、いつものことだった。

 

困ったことがあると、私は考える。

 

何を用意しておけば、何を考えれば、何をすれば、欲しい結果に近づけるか。

 

洗濯物の乾き具合を見て、風と熱の加減を決めるように。

買い物の値段と量を見て、一番無駄のない組み合わせを出すように。

相手の顔色や声の高さを見て、どの言葉なら通るかを考えるように。

 

私の頭は、勝手に道を探す。

 

欲しいものがあるなら、そこへ行く道を考えてしまう。

 

だから、見えてしまった。

 

見たくなかったものまで。

 

私は、お兄ちゃんのことを知っている。

 

……知りすぎている。

 

お兄ちゃんは強い。

 

剣も、魔術も、判断も、共感性も、私にはまだ届かないところにある。

大人たちが怖がるものを前にしても前に出る。

誰かが止まってしまうような場面で動ける。

痛いはずなのに、怖いはずなのに、そういう顔を後ろに隠して、必要なら自分から一歩踏み出せる。

 

お兄ちゃんは賢い。

 

人の言葉の隙間を見る。

言っていないことまで気づける。

相手が本当に怒っている時と、ただ怒っているふりをしている時を分ける。

誰かが嘘をついた時、その嘘の形だけじゃなくて、どうして嘘をついたのかまで考えられる。

私が思いついたことを話すと、お兄ちゃんはそれを頭ごなしに否定しないで、どこが使えて、どこが危なくて、どこを直せばもっとよくなるのかを、ちゃんと見てくれる。

 

お兄ちゃんは優しい。

 

でも、その優しさは、何でも許してくれるだけの甘いものではない。

お兄ちゃんは、誰かを傷つけないために、自分の中で何度も言葉を削る。

誰かが泣かないように、自分の痛みを飲み込む。

 

そして、お兄ちゃんは怖がる。

 

お兄ちゃんは、人を信じたいくせに、信じるのが怖い。

誰かに頼りたいくせに、頼った先で手を離されることを、たぶんすごく怖がっている。

近づいてきた人が、本当に自分のそばにいてくれるのか、いつかいなくなるのか、そのことをずっと気にしている。

だから、あんなふうに優しくしてくれるのに、自分からは深いところまで踏み込めない。

 

お兄ちゃんは、抱え込む。

 

自分の重いものを、自分だけのものにして持ってしまう。

誰かに渡したら壊れると思っているのか。

誰かに見せたら嫌われると思っているのか。

平気な顔をして、その顔の奥でずっと何かを握りしめている。

 

そういうお兄ちゃんを、私は知っている。

 

たくさん知っている。

 

お兄ちゃんが好きだから。

 

好きだから見ていた。

好きだから、勝手に覚えてしまった。

好きだから、お兄ちゃんの声の変わり方も、困った時に目を逸らす癖も、笑っているのに少しだけ疲れている時の顔も、私の中に残っている。

ひとつひとつ、私の中に溜まっている。

 

普通なら、それは好きの証でしかなかった。

大好きな人の小さな癖を覚えていること。

声の変化で気持ちが分かること。

困った時の顔も、優しくする前の間も、全部大事にしまっていること。

 

本当なら宝物のはずだった。

 

でも、今の私の頭の中では、それが別の形に変わっていく。

 

私の中には、お兄ちゃんの特別を集めた箱がある。

 

強さも。

優しさも。

怖さも。

弱さも。

責任感も。

人を信じきれないところも。

それでも人を信じたいと思っているところ。

 

その大切なものを、私は今、道具のように並べ始めていた。

今まで見つめていただけの光が、使い方のあるものになっていく。

頭の中で勝手に線が引かれ、記号に変わっていく。

 

その箱の中にあるものを使えば、お兄ちゃんが私しか選べなくなるような形を作れてしまう。

 

そう思いついた瞬間、心が嫌な音を立てた。

 

でも、頭は止まらなかった。

 

お兄ちゃんは遠い。

 

私の言葉は、きっと簡単には届かない。

ただ好きだと言うだけでは、お兄ちゃんの奥までは届かない。

お兄ちゃんは優しいから聞いてくれる。

受け止めてくれる。

でも、それがそのまま、お兄ちゃんの心が私を選ぶことにはならない。

 

だったら。

 

お兄ちゃんの世界にある他の道を、ひとつずつ暗くしていけばいい。

 

そういう考えが、頭の中に浮かんだ。

 

お兄ちゃんが誰かを信じようとするたびに、その道が危ないものだと思わせればいい。

やっぱり他の人間は駄目なのだと、少しずつ少しずつ、心の奥に沈めていけばいい。

誰かに期待して、うまくいかなくて、傷ついて、また閉じていくたびに、その閉じた心の内に私だけが残るようにすればいい。

 

お兄ちゃんが歩ける道を、ひとつずつ見えなくして、私へと向かう道だけが最終的に残るようにすればいい。

 

私だけは裏切らない。

私だけは分かっている。

私だけは、お兄ちゃんの怖いところも、弱いところも、全部知っている。

そう思わせることができれば。

 

お兄ちゃんは、きっと私を選ぶ。

選ばされる。

でも、形の上では「選んだ」ことになる。

 

お兄ちゃんは、自分で私の手を取る。

お兄ちゃんは、自分の言葉で私のそばにいると言う。

お兄ちゃんは、困ったように笑って、きっと私を安心させる。

 

そういう形に、できてしまう。

 

私はそれを見て、喜べばいい。

 

お兄ちゃんが私を選んでくれたんだって。

 

そう思えばいい。

 

……できる。

 

そう思ってしまった。

 

お兄ちゃんは責任感が強い。

 

私がわがままを言うと大抵はどんなことだって叶えてくれる。

そして、私のわがままが過ぎるとお兄ちゃんは困った顔をする。

困って、悩んで、時々は駄目だと言う。

でも、本当に私がしゅんとした顔をして、それでも欲しいと手を伸ばしたら、最後には絶対に折れてくれた。

 

お兄ちゃんは私を突き放さない。

 

私が欲しいと言えば、すぐにくれるわけじゃない。

何でも許してくれるわけでもない。

でも、最後には私の気持ちをなかったことにできない。

私が傷つくことを、ただのわがままだと切り捨てられない。

 

それを、私は知っている。

 

何度も何度も、知ってしまっている。

 

私は、それでたくさん幸せになった。

たくさん甘えた。

たくさん撫でてもらった。

たくさん許してもらった。

それがうれしくてうれしくて、私はもっとお兄ちゃんが好きになった。

 

でも、その積み重なった幸せが、今は切り札に見えてしまった。

 

泣けばいい。

寂しそうな顔をすればいい。

お兄ちゃんが一番拒みにくい言葉を選べばいい。

子供のように甘えて、でもただの子供じゃない目で見上げればいい。

そうすれば、お兄ちゃんはきっと逃げられなくなる。

 

子供をあやすように、お兄ちゃんを飼い慣らしてしまえばいい。

 

そんな言葉が頭に浮かんで、気持ち悪くなった。

 

でも、否定できなかった。

 

お兄ちゃんの弱いところを私は知っている。

 

どこに触れれば困るのか。

どこを撫でれば安心するのか。

どこを押せば、自分の痛みを後回しにしてでも私を優先してしまうのか。

 

好きだから分かる。

 

好きだから使える。

 

お兄ちゃんがほしい。

お兄ちゃんに選ばれたい。

お兄ちゃんの隣にいたい。

お兄ちゃんが、私の手を取ってくれる未来がほしい。

 

その気持ちが強ければ強いほど、頭は勝手に道を探す。

 

こんなやり方は駄目だと、心のどこかでは分かっているのに、考えることだけは止まらない。

 

どうすればお兄ちゃんは私を離せなくなるのか。

どうすれば私だけを安心できる場所だと思うのか。

どうすれば、お兄ちゃんの世界の中で、私だけが消えない光になるのか。

 

そして、一番怖いのはそれが幸せに見えてしまうことだった。

 

その方法を取れば、きっと私は隣にいられる。

お兄ちゃんは私のそばにいてくれる。

私の頭を撫でてくれる。

私が不安になれば、大丈夫だと言ってくれる。

私が後ろめたくなっても、お兄ちゃんはきっと困ったように笑って、「そんなことない」と言う。

 

アイシャは悪くない。

気にしなくていい。

俺がそうしたかったんだ。

 

きっと、そう言ってくれる。

 

私が作った罪悪感まで、お兄ちゃんは引き受けてくれるだろう。

私が悪いことをしたと思えば、お兄ちゃんはその悪さを薄める言葉を探してくれる。

私が苦しそうにすれば、自分の方が苦しくても、私の苦しさを先にほどこうとしてくれる。

 

そうすれば、見た目はきっと綺麗だ。

 

私は幸せ。

お兄ちゃんも笑っている。

周りから見れば、仲がよくて、支え合っている二人に見えるかもしれない。

 

でも、私の中にはずっと疑問が残る。

 

これは本当に、お兄ちゃんが選んだものなのか。

 

私が、そうなるように作っただけじゃないのか。

 

私が泣く場所を選んで。

私が言葉を選んで。

私が逃げ道を少しずつ消して。

最後に残った手を、お兄ちゃんに取らせただけじゃないのか。

 

その疑いは消えない。

 

どれだけお兄ちゃんが優しく笑っても。

どれだけ私のそばにいてくれても。

どれだけ大丈夫だと言ってくれても。

 

私は、心のどこかでずっと考える。

 

これは、私が欲しくて作った偽物の幸せなんじゃないのかって。

 

前の私だったら。

もっと何も知らなかった私だったら。

そこに自分から騙されにいけたのだと思う。

 

好きなんだから仕方ない。

お兄ちゃんも笑っているんだから、これでいい。

私が幸せで、お兄ちゃんもそばにいて、誰も大きな声で泣いていないなら、それは幸せなんだ。

 

そうやって、都合のいい言葉で蓋をしてしまえたかもしれない。

 

私はお兄ちゃんが好き。

好きで好きで、どうしようもない。

だから、この気持ちは特別で、何よりも大事で、この気持ちのためなら、少しくらい相手の人生を曲げても仕方ない。

 

私は子供だし。

私は寂しかったし。

私はお兄ちゃんが必要だし。

お兄ちゃんも最後には笑ってくれるし。

 

そんなふうに、自分に言い聞かせられたかもしれない。

 

人の気持ちがよく分からなくて、自分の気持ちだけが世界の真ん中にあった頃の私なら騙されたふりをして、幸せの中へ入っていけた。

 

でも、今は無理だ。

 

もう、そこへは行けない。

 

だって私は、人の気持ちを考えるようになってしまった。

 

この世界は、私の気持ちだけで動いているわけじゃない。

私が寂しいからといって、誰かの心を私の方へ曲げていいわけじゃない。

私が好きだからといって、お兄ちゃんの心まで私のものになるわけじゃない。

 

お兄ちゃんの心は、お兄ちゃんのものだ。

 

その当たり前が、今は痛いくらい分かる。

 

そして何より。

 

お兄ちゃんの優しさの下に、ずっと消えない痛みがあることを、私はもう知っている。

 

あの優しさは、何も傷ついていない人の余裕じゃない。

 

満たされていて、余っているから分けてくれるものじゃない。

誰かを信じたいのに、信じきれない苦しさ。

見捨てられることへの怖さ。

それでも誰かを傷つけたくないという責任感。

そういうものの上に、ぎりぎり立っている優しさだ。

 

その優しさは軽くない。

 

私が泣けば差し出される手は、ただ柔らかいだけの手じゃない。

その手を伸ばすたびに、お兄ちゃんは自分の怖さを飲み込んでいるのかもしれない。

自分の痛みを後ろへ押しやっているのかもしれない。

自分が本当はどうしたいのかを、私の涙の後ろに隠してしまうのかもしれない。

 

そこに触れたら。

 

私がそこを自分のために使ったら。

 

お兄ちゃんは、きっと苦しむ。

 

苦しんでも、笑う。

苦しんでも、私を責めない。

苦しんでも、「アイシャのせいじゃない」と言う。

 

だから、もっと駄目なのだ。

 

責めてくれればいいのに。

怒ってくれればいいのに。

拒んでくれればいいのに。

 

お兄ちゃんは、きっとそうしない。

 

だから私が止まらなきゃいけない。

 

もう、昔のようには戻れない。

 

何も知らないふりはできない。

 

好きだから仕方ない、では済ませられない。

寂しいから許される、では終われない。

お兄ちゃんが笑ってくれるならそれでいい、なんてもう言えない。

 

そして、その想像の先に浮かんだお兄ちゃんの顔が決定的だった。

 

優しい顔だった。

 

穏やかで、安心するはずの顔だった。

 

困ったように眉を下げて、それでも私を責めない顔。

私が悪いことをしたと分かっていても、まず私が泣いていないかを見てしまう顔。

私の手を取って、「大丈夫だ」と言ってくれる顔。

 

なのに。

 

少しも安心できなかった。

 

その顔が、昔のお母さんの顔と重なったからだ。

 

私を見ているようで、私を見ていない顔。

 

私そのものではなく、私の奥にある役割を見ている顔。

私が何をしたいかではなく、私が何に使えるかを見ている顔。

ルーデウスお兄さんに仕える子。

役に立つ子。

できる子。

よく働く子。

 

そういうものを見ていた顔。

 

私は、それが嫌だった。

 

嫌で、苦しくて、寂しくて、お兄ちゃんに見つけてもらって、やっと自分が何を嫌がっていたのか分かった。

 

なのに。

 

私がこのままお兄ちゃんを追い詰めて、自分だけが残る形を作ったら。

 

お兄ちゃんは、私を見るのだろうか。

 

それとも。

 

安心できる場所としての私を見るのだろうか。

怖くなった時に逃げ込める場所としての私を見るのだろうか。

裏切らない人間としての私を見るのだろうか。

自分を責めなくて済む相手としての私を見るのだろうか。

 

それは……嫌だ。

 

必要だからそばに置かれるのは嫌だ。

便利だから手を伸ばされるのは嫌だ。

怖い時に逃げ込む場所として、私が選ばれるのも嫌だ。

他の人間は駄目で、私だけが大丈夫だから、だから私が残るなんて嫌だ。

私が差し出す安心や役割の方を好きになられるのは、もっと嫌だ。

 

そんなのは、私が欲しいものじゃない。

 

そんな形じゃ、私の欲しいものにならない。

 

私は、お兄ちゃんに見てほしい。

 

私そのものを見てほしい。

 

役割ではなく私を。

 

アイシャを。

 

それなのに、私が作れる道は、お兄ちゃんに私を見せる道じゃない。

 

お兄ちゃんの目を、私の役割へ向けてしまう道だ。

 

それでは意味がない。

 

そんな形で叶うくらいなら、叶わない方がまだましだ。

 

そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。

 

ましだなんて言いたくなかった。

 

叶わないなんて、考えたくもなかった。

 

お兄ちゃんを諦めるなんて絶対に嫌だ。

お兄ちゃんが私じゃない誰かを選ぶ未来なんて、想像するだけで息が詰まる。

 

……嫌だ、というところまでは分かった。

 

お兄ちゃんを追い込むのは嫌。

お兄ちゃんの優しさを使ってしまうのも嫌。

お兄ちゃんを逃げられないようにして、最後に私のところへ来るしかない形にしてしまうのもやっぱり嫌。

 

でも、分かったからといって、この苦しみが消えてくれるわけではない。

 

むしろ、形がはっきりしたせいで、前よりずっと強くなった気がした。

何が欲しいのか分からないまま泣いていた時よりも、何が嫌なのか分からないままお兄ちゃんのぬいぐるみに顔を埋めていた時よりも、今の方がずっと苦しい。

 

だって、もう分かってしまったから。

私は、お兄ちゃんに選ばれたい。

そばにいたい。

見てほしい。

私がいいと思ってほしい。

 

優しさで折れてほしいんじゃない。

責任感で受け止めてほしいんじゃない。

私が泣くから、寂しがるから、昔から近くにいたから、放っておけないから、そういう理由で手を取ってほしいんじゃない。

 

そんな形では嫌だと分かったからこそ、本物が欲しいと思ってしまう。

ごまかしじゃないものが欲しい。

形だけじゃないものが欲しい。

お兄ちゃんの困った笑顔の奥に、私を傷つけないための我慢じゃなくて、お兄ちゃん自身の気持ちがあってほしい。

 

欲しくて、たまらない。

 

でも、そこへどう行けばいいのかは、ちっとも分からなかった。

 

どうすれば、お兄ちゃんに選んでもらえるのだろう。

 

私は布団の中で、目を開けた。

 

部屋は暗い。

窓の外から入る夜の色だけが、天井の端を薄く浮かび上がらせている。

隣のお母さんの寝息は静かで、枕元のお兄ちゃんのぬいぐるみは、さっき置いた形のまま動かない。

小さな剣も、小さな手も、お兄ちゃんの形をしているのに、やっぱりお兄ちゃんではなかった。

 

私は、そのぬいぐるみを見ながら考えた。

 

お兄ちゃんに選ばれるくらい、素敵な女の子になればいいのかな。

 

そう思った瞬間、頭の中にいくつもの道がばらばらに並んだ。

 

素敵って何だろう?

 

強くなればいいのかな。

 

お兄ちゃんの隣で戦えるくらい。

お兄ちゃんが一人で抱え込まなくて済むくらい。

危ない時に守られるだけじゃなくて、私もお兄ちゃんを守れるくらい。

そうなれば、お兄ちゃんは私を今とは違うふうに見るのだろうか。

 

でも、どれくらい強くなればいいの。

 

剣を覚えればいいのか。

魔術をもっと磨けばいいのか。

身体を鍛えればいいのか。

そもそも、お兄ちゃんが抱えているものは、ただ強ければ届く場所にあるのだろうか。

 

じゃあ、賢くなればいいのかな。

 

私は頭がいい。

それは分かっている。

計算もできる。

覚えるのも早い。

相手の反応を読んで、次の言葉を考えるのも得意だ。

 

でも、お兄ちゃんは私の賢さを知っている。

 

それだけで私を選んだりはしないだろう。

お兄ちゃんは、私ができる子だから好きになるような人じゃない。

それは嬉しいことのはずなのに、今は困ってしまう。

 

綺麗になればいいのかな。

 

子供じゃなくなって、背も髪も伸びて、誰が見ても大人の女性として見てくれるようになればいいのかな。

お兄ちゃんが、妹や子供みたいにではなく、ちゃんと私を異性として見るようになれば、何か変わるのかな。

 

でも、お兄ちゃんは、外側だけで誰かを見る人じゃない。

 

それに、私がどれだけ綺麗になったって、お兄ちゃんがそれを見て困った顔をするだけなら、それはきっとまた優しさに戻ってしまう。

子供扱いしないでほしいと思うのに、背伸びだけで近づいたら、お兄ちゃんは余計に困る。

 

じゃあ、心を大人にすればいいのかな。

 

子供じゃなくなれば。

お兄ちゃんに守られるだけの小さな子ではなくなれば。

甘えて抱きついて撫でてもらうだけの存在ではなくなれば。

 

そうしたら、お兄ちゃんは私をちゃんと一人の女性として見てくれるのだろうか。

 

でも、大人ってどういうことだろう。

 

年を取れば勝手になれるの?

背が伸びればいいの?

言葉づかいを整えればいいの?

泣くのを我慢できるようになればいいの?

寂しい時に、ぬいぐるみを抱いて布団に隠れなくなれば大人なの?

 

今日の私は、全然大人じゃなかった。

 

お母さんに怒って、痛いところを突いて、言ってはいけないことを言いかけて、逃げて、泣いて、ぬいぐるみに縋った。

そんな私が、ただ時間を経るだけで大人になれるのだろうか。

お兄ちゃんの隣に立てるような私になるのだろうか。

 

……分からない。

 

役に立てばいいのかな。

 

お兄ちゃんが困った時に、すぐ助けられるようになれば。

お兄ちゃんが疲れている時に、何も言わなくても支えられるようになれば。

お兄ちゃんが抱え込んでいるものを、少しでも私が持てるようになれば。

 

それは、いちばん私らしい気がした。

 

私はできる子だから。

役に立つのは得意だから。

必要なものを先に用意して、足りないところを埋めて、言われる前に動くことなら、たぶんできる。

お兄ちゃんが望む前に、ちゃんと差し出せるようになれば、もしかしたら。

 

そこまで考えて、胸がまた冷たくなった。

 

それだけじゃだめだ。

 

必要とされたいわけじゃない。

 

いや、必要とされたい。

それは本当だ。

お兄ちゃんに、アイシャがいてくれて助かったと言われたら、きっと嬉しい。

お兄ちゃんの役に立てるなら、私はどんなことでも頑張れる。

 

でも、それだけでは駄目なのだ。

 

役に立つからそばに置かれるのは嫌だと、さっき思ったばかりなのに。

必要だからという理由だけで選ばれるのは嫌だと、思ったばかりなのに。

それなのに、私はすぐに「役に立てばいいのかな」と考えてしまう。

 

どうしても、そこへ戻ってしまう。

 

私が得意なもの。

私がすぐにできるもの。

私が分かりやすく価値を示せるもの。

 

そういうものへと、頭が勝手に逃げようとする。

 

馬鹿だ。

 

ほんと馬鹿。

 

強くなる。

賢くなる。

綺麗になる。

大人になる。

役に立つ。

 

どれも間違いではない気がした。

でも、どれも正解だとは思えなかった。

 

強くなれば、お兄ちゃんは私を選ぶの?

賢くなれば、私の方を見てくれるの?

綺麗になれば、困った顔じゃなくて、ちゃんと欲しそうな顔をしてくれるの?

大人になれば、私の言葉を信じられるものとして受け止めてくれるの?

役に立てば、役割ではなく、私を私として求めてくれるの?

 

どれも答えがない。

 

私は、布団の中でゆっくり目を開けた。

 

暗い部屋の中、枕元に置いたぬいぐるみがぼんやり見える。

小さなお兄ちゃん。

私が作った、お兄ちゃんの形。

何も言わない。

何も教えてくれない。

 

いつもなら、問題を見ればすぐに道が見える。

 

何かを覚えろと言われたら、覚え方を考える。

仕事を任されたら、手順を組む。

早く終わらせる必要があるなら、無駄を削る。

綺麗に仕上げる必要があるなら、どこを整えればいいかを見る。

誰かに気に入られたいなら、その人が何に反応するかを読む。

 

それが分かれば、あとはやるだけだ。

 

なのに、お兄ちゃんだけは違った。

 

いつもの道が見えない。

 

道が霧の中に消えてしまう。

 

どこへ向かえばいいのか。

何を積み上げればいいのか。

何をできるようになれば、お兄ちゃんが私をちゃんと見るのか。

 

お兄ちゃんに選ばれる私。

 

その私は、どんな私なのだろう。

 

強い私?

賢い私?

綺麗な私?

大人っぽい私?

役に立つ私?

 

それとも、全部違うの?

 

考えても考えても、答えは出ない。

 

最後には、いつも同じところへ戻ってしまう。

 

 

「……やっぱり、お兄ちゃんはすごいなぁ」

 

 

布団の中で小さく息を吐いた。

 

目を閉じても、眠れない。

目を開けても、暗い天井しか見えない。

 

お兄ちゃんに選ばれたい。

 

その願いだけを持っている。

 

でも、その願いをどう持てばいいのか、私はまだ分からなかった。

 

そんな、分からないままの夜が何度も過ぎていった。

 

 

 

―――

 

 

 

一か月が過ぎた。

 

もう少しで、フィットア領の難民キャンプに戻ってくる。

 

宿の部屋の天井も、窓の外の道も、朝に触れる水の冷たさも、荷物をまとめる時の床のきしみも、日ごとに違うものになっていく。

服は洗濯するし、荷物も確認するし、食事の手伝いもする。

お母さんに言われる前に動ける日もあれば、ぼんやりしてしまう日もあった。

 

少なくとも、魔術でこっそり服を乾かして済ませることはやめた。

普通に干して、乾き具合を見て、普通にやる。

それがかえって面倒で、少しだけむっとする日もあったけれど、それでもやった。

お母さんと目が合う時、最初のうちは胸がちくっとしたけど。

 

表面だけを見れば、一か月前よりもちゃんと出来てたと思う。

 

でも、道は見えなかった。

 

お兄ちゃんにどう選ばれればいいのか。

私は何を変えればいいのか。

何を育てればいいのか。

どんな自分になれば、お兄ちゃんの優しさを消費せずに、ちゃんと私を見てもらえるのか。

 

それだけは、ずっと分からなかった。

 

ノコパラは、私の変化に気づいていたと思う。

 

時々、何かを言いたそうにしていた。

視線がこちらに寄って、すぐ逸れる。

近くを通る時に、わざと足音を大きくする。

何かを聞こうとして、結局やめる。

そんな小さな動きが、少しずつ増えていた。

 

気にかけてくれているのは分かる。

 

でも、相談なんかできなかった。

 

だって、どう言えばいいのか分からない。

 

お兄ちゃんに選ばれたいけど、お兄ちゃんの弱さは使いたくない。

そばにいたいけど、役割として求められるのは嫌だ。

私を見てほしいけど、見てほしいと願うこと自体が、お兄ちゃんの優しさに寄りかかることになりそうで怖い。

諦めたくないけど、叶え方を間違えるのはもっと嫌だ。

 

こんなの相談にできるわけがない。

 

言葉にした瞬間、どこかが嘘になる気がした。

普通の相談のようにすれば、軽くなる。

恋の悩みみたいにすれば、違うものになる。

綺麗な話にすれば、私の中の嫌なところが抜け落ちる。

ただ苦しい話にすれば、私の欲が隠れてしまう。

誰かに聞いてもらうために整えた時点で、本当の形からずれてしまいそうだった。

 

このぐちゃぐちゃは、ぐちゃぐちゃのままだ。

 

好きがある。

欲しいがある。

嫌がある。

怖いがある。

汚いやり方を思いついてしまった自分がいる。

それでも、それを嫌だと思える自分もいる。

お兄ちゃんを苦しめたくない気持ちと、お兄ちゃんを諦めたくない気持ちが、同じくらい強い欲として並んでいる。

 

全部が絡まっている。

一本だけ引っ張ればほどけるようなものではなかった。

間違えて引っ張れば、もっと固く結ばれてしまいそうだった。

 

頼ってほしいとノコパラには言われてる。

 

でも、こんなものを渡せるわけない。

 

渡された方だって困るに決まっている。

 

一度だけ、ルーデウスお兄さんの顔が浮かんだことがある。

 

自分でも不思議だった。

 

すごい人だ。

魔術こともそうだし、お兄ちゃんと同じ生まれる前の記憶がある人だ。

私の知らないこともたくさん知っている。

時々、変な顔をしてエリス姉に殴られているけれど、それでも頭はいい。

周りを見る力もある。

困った時には、ちゃんと考えようとしてくれる人だとも思う。

 

でも。

 

こういう話に向いているかと言われたら、どうしても首を横に振りたくなる。

 

恋の話をしたら、たぶん変な方向へ転がる気がする。

真面目に聞いてくれるかもしれない。

真剣に考えてくれるかもしれない。

でも、その真面目さの中に、何か余計なものが混ざりそうな気がする。

急に変な想像をしたり、変に照れたり、変に経験者みたいな顔をしたり、あるいは本当にまともなことを言っているのに、どこか少しだけ信用しきれない空気が出たりする気がする。

 

失礼かもしれない。

 

でも、そう思ってしまったのだから仕方ない。

 

私は、心の中でその選択肢をそっと閉じた。

 

ふと考えた。

 

もしかして、お兄ちゃんもこうだったのかな。

 

自分の中にあるぐちゃぐちゃを誰かへ渡しても、どうにもならないと思っていたのかな。

話したところで、軽くされるか、分からないと言われるか、変な形にされるか、ただ困らせるだけだと思っていたのかな。

 

だから、誰にも言わなかったのかな。

だから、一人で抱え込んでいたのかな。

 

自分の中にあるものが重すぎて、相手に持たせるのが怖かったのかもしれない。

 

私は、お兄ちゃんが頼らないことを寂しいと思っていた。

もっと頼ってくれたらいいのにと思っていた。

受け止めたいと思っていた。

 

でも、今の私はどうだろう。

 

私だって渡せてないじゃないか。

 

ノコパラにも。

お母さんにも。

ルーデウスお兄さんにも。

誰にも。

 

渡しても、どうにもならない気がするから。

 

そのことに気づいた時、私はお兄ちゃんの孤独の形を、ほんの少しだけ指で触ることができた気がした。

 

もちろん、全部じゃない。

お兄ちゃんが抱えているものは、きっと私の想像よりずっと重い。

私が分かった気になるのは、失礼だ。

 

それなのに私は自分が悲しいからと、お兄ちゃんにそのぐちゃぐちゃを渡して欲しいと思ってしまっていた。

 

けどそこで、ルーデウスお兄さんの名前が一瞬でも浮かんだことが、私は凄く不思議だった。

 

ノコパラでも、お母さんでもなく。

ルイジェルドさんでも、エリス姉でもなく。

どうして、一瞬でもルーデウスお兄さんならと思ったのか。

 

私は、そこを考えることにした。

 

考える。

 

自分の中の気持ちを自分でほどく。

 

前はお兄ちゃんがやってくれていたことだ。

 

私が怒っている時、本当は悲しいのだと気づかせてくれたり。

私が得意げになっている時、その奥に褒めてほしい気持ちがあると見抜いたり。

私が分からない私のことを、お兄ちゃんは時々、私より先に拾ってくれた。

 

でも、今はお兄ちゃんがいない。

 

だったら、自分でほどくしかない。

 

お兄ちゃんがいなくなって、私には一人でいる時間が増えた。

 

お兄ちゃんに聞けない。

お兄ちゃんに見つけてもらえない。

ぬいぐるみは何も言わない。

お母さんにも、ノコパラにも、全部は話せない。

 

だから、考える時間が増えた。

 

何を思ったのか。

どうしてそう思ったのか。

その下にあるものは何か。

そのまた下に隠れている、見たくないものは何か。

 

一つずつ、自分で触れていく。

 

お兄ちゃんがいなくなって、私はお兄ちゃんにしてもらっていたことを、自分でやるようになっていた。

 

そのおかげで、前よりは自分の気持ちを言葉にするのがうまくなってきている。

 

ルーデウスお兄さん。

 

どうして、あの人の名前が浮かんだのだろう。

 

ノコパラではなかった。

お母さんでもなかった。

ルイジェルドさんでもなかった。

一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、ルーデウスお兄さんなら何か知っているかもしれないと思った。

 

その理由を、私は指先で糸をほどくように考えていった。

 

ノコパラは大人だ。

ブレイズさんも大人だ。

ルイジェルドさんなんて、私からすればずっとずっと年齢差がある人で、強くて、落ち着いていて、ちゃんとした人だ。

お母さんだって、私にたくさんのことを教えてくれるちゃんとした人だ。

 

でも、ルーデウスお兄さんは、皆とは少し違う。

 

私の中で、あの人は明らかに私より上にいる人なのだ。

 

私が、自分より上にいると手放しで思える身近な人は、そんなに多くない。

本当に少ない。

お兄ちゃんと、ルーデウスお兄さんくらいだ。

 

そのことを認めると、このぐちゃぐちゃが少し落ち着いた気がした。

ルーデウスお兄さんに相談したいわけではない。

相談できるとも思わない。

でも、名前が浮かんだ理由はなんとなく分かった。

 

あの人には、お兄ちゃんと同じように、何でもできそうな感じがあるのだ。

 

もちろん同じではない。

 

お兄ちゃんみたいに、私の小さな気持ちを丁寧に拾ってくれるわけではない。

私が拗ねた時に、何も言わずに隣へ来て、頭を撫でてくれる人でもない。

ルーデウスお兄さんは、もっと変で、もっと落ち着かなくて、時々見ていてこっちが不安になるくらい変な方向へ転がる人だ。

 

でも、あの人はあの人で、私の届かないようなところにいる。

 

何か分からない壁を、変な顔をしながらでも越えてしまいそうな人。

普通なら止まるところを、妙な理屈と勢いで通り抜けてしまいそうな人。

私が「無理」と思うようなことを、最後には形にしてしまいそうな人。

 

ノコパラに言われたことを思い出す。

 

大人……つまり、自分よりずっと上にいる相手には、安心して頼れるのだと。

 

自分のぐちゃぐちゃを出しても、相手が壊れない気がする。

自分が間違えても、相手の方がそれを持ち上げて、形を変えて、どこかへ置いてくれる気がする。

私が泣いても、怒っても、私よりずっと上にいる人だから、どうにかなるような気がする。

 

すごく自分勝手な安心だと思うけど、私はそれをお兄ちゃんに感じていた。

 

ルーデウスお兄さんの名前が浮かんだのは、きっとそこだ。

 

あの人にも、私の特別が簡単には届かなさそうな、別の特別さがある。

私が計算したくらいでは読めないところ。

私が甘えたくらいでは、簡単には形を変えられないところ。

 

だから、一瞬だけ思ったのだ。

 

この人なら、私のぐちゃぐちゃを渡しても潰れないんじゃないか。

 

そう考えたところで、私は止まった。

 

胸の奥に、嫌なものが沈んだ。

 

結局、それも同じじゃないの?

 

私はまた、相手の大きさに寄りかかろうとしている。

自分の中で扱いきれないものを、誰かが受け止めてくれるかどうかで考えている。

自分より上にいる人なら大丈夫だと、勝手に決めている。

 

……私は自分を天才だと知っている。

普通の子よりずっといろんなことができる。

お母さんにそう育てられてきたし、自分でもそうだと思っている。

 

でも、その中身はどうなのだろう。

 

本当の私は、ただの子供なんじゃないの?

 

わがままで、自分勝手で、自分の寂しさばかり見ている、ただの子供。

 

好きだから欲しい。

好きだからそばにいたい。

好きだから見てほしい。

 

そこまでは、まだいいと思いたかった。

 

いいよね。

 

だって、好きなんだもん。

 

誰かを好きになって、その人に見てほしいと思うこと自体は、悪いことじゃないはずだ。

そばにいたいと思うことも、名前を呼んでほしいと思うことも、自分を特別に扱ってほしいと思うことも、それだけならきっと悪いことじゃない。

 

でも、私はその先まで考えてしまう。

 

好きだから、お兄ちゃんの弱いところを使う方法まで思いついてしまう。

好きだから、お兄ちゃんの心を狭いところへ追い込む道まで見えてしまう。

好きだから、最後に自分だけを残す未来まで想像できてしまう。

 

そして、それを嫌だと思っているくせに、それでもお兄ちゃんと結ばれたいと思っている。

 

あれは嫌。

これも嫌。

 

優しさで受け止められるのは嫌。

逃げ場がなくなって私のところへ来るのも嫌。

役に立つから求められるのも嫌。

怖い時にだけ握る手になるのも嫌。

お兄ちゃんが私を見るのではなく、私の役割だけを見るのも嫌。

 

嫌、嫌、嫌。

 

そのくせ、欲しいものは手放さない。

 

お兄ちゃんに選んでほしい。

そばにいてほしい。

私を見てほしい。

私じゃなきゃ駄目だと思ってほしい。

 

自分の欲ばかりだ。

 

自分がどうしても欲しいものばかり、大事そうに抱えている。

 

お兄ちゃんを苦しめたくないと言いながら、お兄ちゃんが欲しい。

優しさを利用したくないと言いながら、優しくされたい。

役割として見られたくないと言いながら、お兄ちゃんの特別な場所にはなりたい。

 

めちゃくちゃ。

 

本当にめちゃくちゃだ。

 

どれだけ私が天才だとしても、その中身はこんなにも情けない。

泣いたら誰かが来てくれるのを待っているだけのただの子供だった。

 

布団の中で小さく丸まって、誰かが気づいてくれるのを待っているだけの子供。

 

そう思ったら、急に自分のことがひどく小さく見えた。

 

背が縮んだわけでもないのに。

手足が短くなったわけでもないのに。

心の奥底にいる自分だけが、小さくて、情けなくて、酷くみっともないものに見えた。

 

さっきまで、私は自分の中の考えを言葉にして、ちょっと前に進んだような気がしていた。

お兄ちゃんがしてくれていたことを、自分で少しずつできるようになっているのかもしれないと思った。

自分の気持ちをほどくことが、前より上手くなったかもしれないと思った。

 

でも、ほどいて見えてきたのがこれだと言うのなら、私は何を喜べばいいのだろうか。

 

見えたのは、綺麗なものじゃなかった。

 

賢い答えでもなかった。

 

お兄ちゃんを大事にしたいと言いながら、お兄ちゃんが欲しいと泣いている自分だった。

お兄ちゃんを苦しめたくないと言いながら、お兄ちゃんに選ばれる未来を諦められない自分だった。

正しいやり方じゃなきゃ嫌だと言いながら、その正しいやり方が分からなくて、嫌なやり方ばかりを思いつき、ただ布団の上で膝を抱えているだけの自分だった。

 

どれだけ頭が回っても、私の本質は両手を伸ばして待っているだけの子供だった。

 

そのことを認めるのは、悔しかった。

 

でも、認めないといけない気がした。

 

だって、そこを見ないままじゃ、私はまた誰かを傷つける。

 

お母さんにしたみたいに。

言ってはいけない言葉を使おうとしたみたいに。

相手の痛いところを見つけて、そこを押せばいいと思ったみたいに。

 

私は、またやってしまうかもしれない。

 

そんな私が。

こんな私が。

どうやったら、お兄ちゃんに選ばれるのだろう。

 

考えても分からない。

 

だって相手は、お兄ちゃんだ。

 

人を簡単には信じられない人。

誰かの言葉を、すぐにはそのまま受け取れない人。

優しさを向けられても、その裏に何があるのか考えてしまう人。

好きだと言われても、きっと素直に喜ぶより先に疑ってしまう人。

 

そんなお兄ちゃんに、私が「好き」と言ったらどう思ってしまうだろう。

 

本当にそうなのか、と思うかもしれない。

何が好きなのか、と思うかもしれない。

いつまで続くのか、と思うかもしれない。

私がもっと大人になったら変わるのではないか、と思うかもしれない。

 

そんなふうに、いくつもいくつも考えてしまう面倒くさい人だ。

 

でも私は、お兄ちゃんの面倒くささまで含めて好きになってしまったのだ。

 

その「好き」という二文字は、私の中ではこんなに大きい。

胸が苦しくなるくらい本当なのに。

夜眠れなくなるくらい、泣きたくなるくらい熱いのに。

 

お兄ちゃんの怖さを越えるには、あまりにも幼く、あまりにも軽く聞こえてしまう気がした。

 

お兄ちゃんの強いところが好き。

賢いところが好き。

優しいところが好き。

困ったように笑うところが好き。

私が甘えると、少しだけ迷ってから受け止めてくれるところが好き。

何もかも抱え込んでしまうところは嫌だけど、それでもそうしてしまうくらい誰かを傷つけたくないと思っているところも、どうしようもなく好きだ。

 

お兄ちゃんの弱点だって、私は知っている。

 

怖がりなところ。

信じたいのに疑ってしまうところ。

誰かを遠ざけておきながら、本当は遠ざけたくないような顔をするところ。

優しすぎて、自分のことを後ろに置いてしまうところ。

人に頼るのが下手で、頼られることばかりうまくなってしまったところ。

 

そういうお兄ちゃんが嫌っているだろうお兄ちゃんも、私は好きなのだ。

 

でも、それをどう言えばいいのか分からない。

 

好きです、と言うだけではもちろん足りない。

全部好きです、と言っても薄っぺらく感じてしまう。

お兄ちゃんの全部を知っているなんて言ったら、それはきっと嘘になる。

私が知っているのは、お兄ちゃんの全部じゃない。

私が見てきたお兄ちゃんだけなのだから。

 

……でも、それでも私は好きなのだ。

 

お兄ちゃんが私に見せた顔も。

隠した顔も。

見せまいとしてこぼれてしまった顔も。

私が勝手に拾った弱さも。

 

全部が大切なのだ。

 

けれど、それをどうすればお兄ちゃんに届く言葉にできるのか分からない。

私は言葉をたくさん知っているのに。

お兄ちゃんに届けるための言葉だけが見つからない。

 

だって、私は子供だから。

 

欲張りでわがままな子だから。

 

そんな私の「好き」で、お兄ちゃんの怖さを越えられるとは思えなかった。

 

お兄ちゃんに会いたい。

 

でも、今のお兄ちゃんに会ったら、私は何を言うのだろう。

 

大好きだと言うのだろうか。

会いたかったと泣くのだろうか。

私を見てと願うのだろうか。

それとも、何も言えずに、ただいつものように甘えてしまうのだろうか。

 

分からない。

 

分からないけれど、ひとつだけ分かる。

 

今の私の好きは、お兄ちゃんにそのまま渡せるような形をしていない。

 

こんな好きでいいのかな。

 

こんな好きで、お兄ちゃんのところへ行っていいのかな。

 

夜の部屋は静かだった。

 

外では小さく虫の音がしている。

隣で、お母さんが静かに眠っている。

枕元のぬいぐるみは、暗がりの中で黙っていた。

私だけが、眠れないまま、自分の中にある言葉を抱えていた。

 

 

「……それでも」

 

 

小さく、声が出た。

 

誰にも聞かせるつもりのない声だった。

でも、言わないと胸の中で破裂しそうだった。

 

 

「それでも、やっぱり好きなんだもん」

 

 

言った瞬間、目頭がまた熱くなった。

 

そうだ。

 

結局はそこなのだ。

 

どれだけ自分が子供だと思っても。

どれだけ身勝手だと思っても。

どれだけ叶え方を間違えたくないと思っても。

どれだけ、お兄ちゃんの気持ちを大事にしなきゃいけないと分かっても。

 

本当にどうしようもなく。

 

私はお兄ちゃんのことが好きなのだ。

 

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