シンボリ家のアドルフちゃん   作:たつたがわりゅうのすけ

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シンボリ家のアドルフちゃんになるのは次回です


総統

 西からは連合軍、東からはソ連軍。

 すでに頼みの綱であった西部戦線の防衛ラインであったライン川は連合軍に突破されている。しかし、その事実に怒りや焦りは湧いてこなかった。

 

 ソ連の進軍も衰えを知らず、このままでは3日と持たずに我が首都に雪崩れ込むだろう。

 もしそうなったら、私がムッソリーニのような死に様*1を晒すことになる

 その光景は、想像に難くないはずなのに、心は妙に静かだった。

 

 コップを傾け、ゆっくりとコーヒーを口に含む。本来はあまり好まない味だが、今日は砂糖を多めに入れてある。苦味は存在を消し、舌に残るのはどこか頼りない甘さだけだった。それでも、飲み込むと喉の奥がわずかに熱を帯びる。生きている、という感覚だけは確かにそこにあった。

 

 

「ふぅ……」

 

 

 息を吐く。

 心臓は規則正しく動き、脈も落ち着いている。

 

 

 私は今、驚くほど平静だ。独りで終わらないからだろうか。それとも、ブロンディ*2が先に待っていてくれるからだろうか。

 

 

 答えは出ないまま、思考だけがゆっくりと漂う。

 

 

「あなた」

 

 

 声に呼ばれて顔を上げる。

 ドアの前に、最近結婚したばかりの妻が待っていた。

 敗戦国の重役の妻が、どのような末路を辿るか。歴史書でも見れば、そこにありありと刻まれているだろう。

 それを彼女が理解していないはずがない。

 それでも彼女は、離れなかった。

 逃げることも、目を逸らすこともせず、最後まで私の傍にいることを選んだ。

 ……私には、あまりにも勿体ない女性だ。

 

 

「ああ…あまりブロンディを待たせると、後で噛みつかれてしまうね」

 

 

 妻は小さく微笑む。

 その表情を見ただけで、胸の奥に溜まっていた重さが、ほんの少しだけ和らいだ。

 

 

 私はコーヒーを飲み干して席を離れ、妻の隣に並び、腕を差し出す。

 妻は一瞬だけこちらを見てから、ためらいなく腕を絡めてきた。

 

 

 触れ合った体温が、はっきりと伝わってくる。

 それだけで、現実が少しだけ確かなものになる。

 

 

「あなたと初めて会ったとき、あなたはおかしな口ヒゲを蓄えて、ずっと私の足を見てきてたから、正直言ってあまり良い印象はなかったわ」

 

 

「んなっ!?違う!私は決して……」

 

 

 足を盗み見ていたのがバレていたとは……だから最初に誘ったときは断られたのか……。

 頬が熱くなる。自分からはわからないが、大層赤くなっていることだろう。

 

 

「ふふっ」

 

 

 私の寝室から更衣室を抜け、妻の部屋に入る。

 目的地まで、あと二部屋。

 

 

「……それを言うのだったら、君だって私が女優と交際している噂が出たとき、酷く落ち込んでたじゃないか?」

 

 

 仕返しのように妻の恥ずかしいエピソードを掘り返す。少し幼稚だが、これが最期なのだ。今は思う存分、この時間を楽しみたい。

 

 

「私はあなたが不倫しているのか不安だったのよ。杞憂だったようだけど」

 

 

「?なぜ杞憂だと?」

 

 

「あなたが『性的満足も得たいのなら、他の男と付き合いなさい』と言ったことを私はまだ覚えてるわ。そんなことを言う男が、不倫なんてするわけないでしょう?」

 

 

私は、男としての自信のなさから、彼女を遠ざけるつもりでその言葉を口にした。

だが結果的に、それは彼女を救ったのかもしれない。

 

 

執務室を抜け、会議室を通り、地図室へ向かう。

歩くたびに、時間が少しずつ削られていくような気がした。

 

 

「……君は、やはり強いな。家族全員がベルリンを離れるよう勧めたときも、君は私の元を離れなかった」

 

 

「私は、あなたと生涯を共にすると決めていましたから」

 

地図室に着く。

ここは、私たちが正式に結婚した場所だ。華やかな装飾はない。ただ木製の机と椅子が、静かに並んでいるだけだ。

 

机の上には、一丁の拳銃が置かれている。二丁ではない。それは、私なりの意地だった。愛する者を、他人の手に委ねるわけにはいかない。最後くらいは、自分の手で終わらせる。

 

 

「……準備は、いいかい?」

 

 

 声が、思った以上にかすれている。

 

 

 私は拳銃に手を伸ばす。指先に触れた金属は、驚くほど冷たい。

 

 

――重い。

 

 

 銃身の重量ではない。この数年、いや、生涯そのものが、手の中に集約されたような重さだった。

握った瞬間、掌に嫌な汗が滲む。視界がわずかに狭まり、呼吸が浅くなる。……私は、不安など抱いていないと思っていた。だが、身体は正直だった。

 

 

「大丈夫よ」

 

 

 妻の声。その手が、私の手の上に重なる。

 

 

 温かい。はっきりと、確かに。震えが、ゆっくりと収まっていく。

 

 

――私は、この温もりを失うのだ。

 

 

 今さらになって、その事実が胸に落ちてくる。

 私は一度、目を閉じ、深く息を吸い、吐いた。そして、もう一度だけ、妻を見る。

 

 

「……最後に、何か言い残すことはあるかい?」

 

 

「言いたいことは、もう全部伝えたわ」

 

 

 彼女は一拍置いて、続ける。

 

 

「でも……最期に、これだけ……もし、戦争のない世界で、またあなたと会えたら……もう一度……私を愛してくれますか?」

 

 その表情に、悲しみも絶望もなかった。ただ、静かな覚悟だけがあった。

 

 

……君は、本当に酷いやつだ。そんな言葉を向けられてしまえば、まだ一緒にいたいと、そう思ってしまうではないか。

 

 

「……当たり前だ」

 

 

 声が、かすれる。

 

 

「私は、いつでも、どこでも……何であろうと、君を愛している」

 

 

 私は、笑えているだろうか。彼女を、不安にさせてはいないだろうか。

 

 

 下唇を、強く噛みしめる。痛みで、迷いを押し潰す。震える右手に無理矢理言うことを聞かせ、引き金に、ゆっくりと力を込める。

 

 

――重い。

 

 

 一瞬、世界が遠のく。

 

 

 引き金が、落ちた。

 

………………

 

 音が、消えた。

 

 腕の中から、確かな重さが失われる。先ほどまでそこにあった温もりが、跡形もなく消えていた。

私は、しばらく動けなかった。

 

 

 時間が流れているのかどうかも、わからない。

 

 

 やがて、拳銃を下ろす。

 

 

 そこに残っているのは、自分の手だけだ。

 銃口を、自分の額に当てる。冷たい感触が、はっきりと伝わる。

 

 

 もう、私には何も残っていない。地位も、名誉も、友人も、家族も――そして、愛する妻も。

 

 

 ……終わらせよう。

 

 

 今度の引き金に、重さはなかった。

 

 

 衝撃は、思っていたほど強くなかった。音も、痛みも、遠ざかっていく。世界が裏返るような感覚の中で、私は沈んでいく。

 

 

 視界が暗くなる。思考がほどけていく。

 

 

――終わった。

 

 

 そう理解したはずなのに、意識はまだ手放してくれない。

静寂の底で、声がした。

 

 

もし、戦争のない世界で、またあなたと会えたら……もう一度……私を愛してくれますか?

 

 

 その言葉だけが、何度も、何度も反芻される。なぜ、最後に思い浮かぶのが、国でも、思想でも、歴史でもない。ただ、一人の女性の声なのか。

 

 

 重かったものが、次々と剥がれ落ちていく。名も、役割も、罪も、誇りも。最後に残ったのは、問いだけだった。

 

 

――もし。

 

 

 闇が、すべてを覆った。

 

 

 

+++

 

 

 

 アドルフ・ヒトラー

 世界でも屈指の独裁者。そしてホロコーストを引き起こした大量殺戮者でもある。未だに世界は彼の衝撃から抜け出せず、彼をタブー視し、彼の名前や彼を想起される仕草やマークは嫌厭されている。

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 失われたはずの光が、かすかな刺激となって瞼の裏に触れた。暗闇の奥で、何かが揺れている。

 

 

――光?

 

 

 そう考えた瞬間、それは否定される。これは光ではない。ただ、闇が完全ではなくなっただけだ。ぼんやりとした明るさ。境界の曖昧な白。それが「見えている」と気づくまでに、少し時間を要した。

 

 

……視界、か?

 

 

 何かを見ているはずなのに、焦点が合わない。いや、焦点を合わせようという意思そのものが、うまく働かない。

 

 

病室――

 

 

 そんな言葉が頭をよぎる。だが、すぐに別の記憶が割り込んできた。

 

 

――私は、確かに……。

 

 

 思考が、そこで止まる。続きを辿ろうとすると、頭の奥が鈍く軋む。白い壁がある。清潔で、無機質で、感情を拒むような白だ。簡素なベッド。硬そうで、必要最低限の形しかしていない。

 

 

……妙だ。

 

 

 これは、私の知っているドイツの病院とは違う。何もかもが、私の知っているものとは違う。未来か?そんな考えが浮かぶが、未来に行くなど、そんな非現実的なことが起こるわけないと、その考えを頭から振り払う。

 

 

 いても立ってもいられなくなり体を起こそうとする。いつも通り体は起き上がり、外に向けて歩みを始める。

 

 

――そのはずだった。

 

 

 何も、動かない。腕に力を入れた感触が、ない。足も、胴も、存在しているはずなのに、輪郭が掴めない。縛られているわけではない。押さえつけられている感覚もない。

 

 

 ただ身体が応答していない。いや、それすら正しいのか?どういうことだ。思考だけが浮かび、身体が追いつかない。

 

 

まるで――

 

 

……生まれたばかりの赤ん坊?

 

 その結論に至るには、あまりにも材料が足りない。だが、他に説明がつかない。理解を拒むように、思考を巡らせていると、静かな音を立てて、扉が横に開いた。白衣を着た男が入ってくる。柔らかな表情。緊張は感じられない。

 

 

「元気なウマ娘ですよ」

 

 

 男の口が動く。……意味が、わからない。言葉…だということはわかる。音も、抑揚も、明瞭だ。

だが、内容が頭に届かない。ゲルマン系の言語ではない。それだけは、はっきりしている。

 

 

「そうですか……よく生まれてくれたね……」

 

 

 今度は、別の声。男ではない。近い。とても。

 

 

……この発音。

 

 

 どこかで、聞いたことがある。だが、すぐには思い出せない。記憶の奥を探る。芸術。書物。――日本。……日本語、か?

 

 

 確信ではない。ただ、可能性として浮かんだだけだ。

 

 

……日本だとして。では、私はどこにいる?なぜ、生きている?答えに辿り着く前に、思考が拒絶する。考えれば考えるほど、かつて積み上げてきたものが、音を立てて崩れていく。

 

 

――世界を。

 

 

――ドイツのものにする。

 

 

――アーリア人による秩序を築く。

 

 

 そのために、私は全てを捧げてきた。地位も、人命も、未来も。だが、今の私には、命令する声も、従わせる力も、掲げる旗すらない。あるのは、動かない身体と、理解できない言葉と、自分が何者かすら定かでない意識だけだ。

 

 

ここから、再び世界を掴む?

 

 

――無理だ。

 

 

 いや、仮にできたとして、それに何の意味がある?

 

 

もう一度……私を愛してくれますか?

 

 

 その声が、胸の奥で反響する。

 

 

世界よりも、

 

国家よりも、

 

理念よりも、

 

 

最後に私の中に残っていたのは、たった一人の声だった。

 

 

……もう……いいか……。

 

 

世界をドイツにすることも、秩序を作り直すことも、誰かを導くふりをすることも。

 

 

――もう、いい。

 

 

「あなたの名前、ずぅーっと前から決めてたの」

 

 

 名前。世界を支配する名ではない。歴史に刻まれる名でもない。

 

 

「あなたの名前は、クライネ。私の愛しい娘よ」

 

 

 その言葉に、新たな決意は生まれなかった。これ以上、何かを奪おうとは思えなくなった。

 今はただ、この与えられた生を、受け入れるしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 あれから、四年の時が過ぎた。

 

 

 時間というものは、不思議なものだ。意識しなければ、ただ静かに流れていき、振り返ったときに初めて、その長さを実感させる。私は今の世界にも、特に問題なく順応している。衣食住に困ることはなく、周囲から奇異の目で見られることもない。

 

 

 ……もっとも、不満がまったくないわけではない。

 

 

 ウマ娘。

 

 

 前世の馬を人に近づけたような存在――と、最初はそう理解した。だが実際に生活してみると、馬の要素は耳と尻尾、そして異様な身体能力くらいなものだ。走れば速い。食事の量が異常。それだけだ。致命的な欠陥があるわけでもない。

 

 

 そこでだ、私は画家を目指すことにした。

 

 

 前世では、己の未熟さからくる愚行によって、その道は徹底的に閉ざされた。拒絶され、嘲笑され、歪んだ方向へと進んでしまった。今世では、少なくともその轍を踏む理由はない。幸いにも、この家の両親は、私の意思を尊重してくれている。それだけで、十分すぎるほどだった。

 

 

「クライネ、パパの絵は描いてくれないのか?」

 

 食卓に、やや期待を含んだ声が落ちる。父は、こちらを見ていた。真正面から、隠しもせずに。

 

 

「クライネは人の顔を描くの、嫌いだもんね。諦めなさい」

 

 

 間髪入れず、母が口を挟む。その声には、わずかだが得意げな響きが混じっていた。

 

 

「……その右手にある絵は、ママの絵じゃないのか?」

 

 

 父の視線が、母の手元に向かう。母は何事もないように、一枚の紙を軽く持ち上げた。

 

 

「これは幼稚園のお絵描きの時間に、“家族を描きましょう”って言われて描いたものよ。私がお願いしたわけじゃないわ」

 

 

 一拍置いて、母はちらりと父を見る。

 

 

「……まぁ、選ばれたのはパパじゃなくて、私だったみたいだけど?」

 

 

 父が、言葉を失う。ほんの数秒の沈黙。

 

 

「……クライネ〜?」

 

 

 声色が、露骨に変わる。

 

 

「次の休みさ、パパと一緒に美術館に行こう。な? パパと。ね?」

 

 

 必死さが滲んでいる。

 取引。懐柔。あるいは賄賂。

 

 

「ふっ……堕ちるところまで堕ちたわね、あなた」

 

 

 母は肩をすくめる。

 

 

「物で人を釣ろうとするなんて……。クライネとママの絆は、そんな安いもので引き裂かれないもんね〜?」

 

 

 その言葉を聞きながら、私は黙って椅子を引いた。母の隣から立ち上がり、数歩歩いて、父の近くに座る。

 

 

 絆というものは、酷く脆い。状況ひとつで、簡単に切れる。

 

 

「よ〜しよしよし! クライネは素直で可愛いねぇ〜!」

 

 

 父の手が、容赦なく頭を撫で回す。整えていた髪が、あっという間に乱れる。……不快なはずだった。だが、不思議と悪い気はしない。それどころか、心地よさすら感じている自分がいる。

 

 

「くそぉ……しっかりしてそうなのに、変なところでチョロいんだから……!」

 

 

 母のぼやきが聞こえる。

 

 

「私は、チョロくない」

 

 短く、そう答える。

 

 

 この家は、居心地がいい。両親は仲が良く、私をきちんと一人の人間?ウマ娘?として見ている。前の人生の家では、父と衝突してばかりだった。重苦しい沈黙と、刺すような視線が、常に家を満たしていた。

 

 それを思えば――

 

 今は、悪くない。

*1
遺体になった後、群衆によって殴る蹴るの暴行を加えられ、最後はガソリンスタンドに逆さ吊りにされた。

*2
ヒトラーの愛犬。自殺の前日に自らの手で屠った。真意は未だ不明である




ヒトラーの死場所や、妻の呼び方、愛犬を殺した理由など、史実とは異なる点が幾つかありますが、まぁそこはご愛嬌ということで
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