シンボリ家のアドルフちゃん   作:たつたがわりゅうのすけ

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クライネ

 次の休み、私は父の約束通り、美術館に連れて行ってもらえることとなった。

 

 

 やはり私は、美術が好きなのだろう。年甲斐もなく、胸の奥に小さな期待が静かに膨らんでいくのを、否定する気にはなれなかった。

 

 向かう先の美術館は、特別な名を冠するような場所ではない。街並みに溶け込むように建てられた、どこにでもありそうな、ごく普通の美術館だ。外観も控えめで、誇示するような装飾はない。目的を持って来る者だけを、静かに迎え入れる建物――そんな印象だった。

 

 

 その感想は、中へ入っても変わらなかった。

 

 

 展示室を歩けば、子ども連れの親が身をかがめて「走らないよ」と小声で諭している姿が目に入る。少し離れた場所では、老夫婦が肩を並べ、言葉を交わすことなく一枚の絵を見つめ続けていた。若いカップルは解説文を途中まで読み、顔を見合わせて小さく頷き合う。ベンチに腰を下ろし、何もせず天井と作品を交互に眺めている人もいる。

 

 

誰一人として、同じ見方をしていない。それでも、この空間にいるという一点だけで、奇妙な統一感があった。それぞれが、それぞれの距離感で、美術館という空間を受け取っていた。

 

 

 普通の美術館だ。目を奪われるほどの名作が並んでいるわけでもなければ、通好みのマイナー作品が主張してくるわけでもない。展示の構成も、過不足なく整っている。それでも、不思議なことに私の目には、この『普通の美術館』が、前世で訪れたどの美術館よりも豊かに映っていた。

 

 

 理由は、単純だった。この場所にある作品は、そのすべてが、今の私にとって初めて出会うものなのだ。まったく見覚えがない、というわけではない。構図、筆致、色彩の選び方、画面の重心。そういったものには、確かに覚えがある。時代の空気も、技法の流れも、知識としては頭に残っている。だが――肝心の「人物」が、決定的に違っていた。

 

 

 例えば、ナポレオンと白馬を描いた『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』

 

 

 前の世界では、人間の英雄が誇張された身振りで馬を従え、歴史を踏み越える瞬間を切り取った一枚だった。だが、この世界で描かれているのは、一人の芦毛のウマ娘だ。

 

 

 耳は高く立ち、長い尾は風を受けて翻る。軍装を思わせる衣装は、機能性と装飾性を兼ね備え、どこか舞台衣装にも似た華やかさを帯びている。瞳は大きく、意志の強さを瞳に宿している。二足で大地に立ちながらも、踏み出した脚の筋肉の張りや重心の低さには、確かに“走る者”の身体性がある。人間とも馬とも異なる、だが両方の要素を確かに引き継いだ存在。その身体を前提として、あの英雄的構図は再構築されていた。

 

 

 他の作品も同様だった。

 

 

 歴史画、宗教画、寓意画――前の世界では人間が担っていた役割を、この世界ではウマ娘たちが担っている。それぞれが異なる髪色、耳の形、尻尾を持ち、勝負服や私服を思わせる衣装に身を包みながら、画面の中で確かな存在感を放っていた。

 

 

 私は一つ一つ、作品を目に焼き付けた。私の家は母が良いところの出らしいが、特別裕福なわけではなく、普通の家庭だ。それゆえ、毎週美術館に行くということは叶わないだろう。

 

 

 一つ、また一つと目に焼き付けていく、そんな中。私は、一枚の絵画の前で足を止めた。

 

 

 描かれているのは、レースに勝利した直後のウマ娘だった。彼女は画面の中央に立ち、片腕を高く掲げている。ただ、それだけの構図だ。背景にあるのは芝生と、淡くぼかされた観客席。特別な象徴も、寓意的な仕掛けもない。英雄を神話へと押し上げるような誇張も、歴史的事件を暗示する重みも、そこには見当たらなかった。

 

 

 言ってしまえば、どこにでもありそうな一枚だ。名だたる画家の代表作でもなければ、時代を画す革新性があるわけでもない。百年後に教科書へ載るような作品でもないだろう。そういう意味では、決して「名画」と呼ばれる類ではない。

 

 

それなのに――私は、この作品から目を離せなかった。

 

 

 理由はすぐには分からなかった。色彩か。構図か。あるいは題材そのものか。そうした要素を一つ一つ切り分けてみても、決定的な何かは見当たらない。だが、視線だけが、どうしても彼女のもとへ戻ってしまう。

 

 

 思考の渦に沈み込んでいた私の背後から、父の声がかかった。

 

 

「クライネ、この絵が気に入ったのかい? 確かに……カッコいいよね」

 

 

――カッコいい?

 

 

その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。

 

 

……そうか。そういうことだったのか。

 

 

 私は、この作品を前にして、色遣いや構図、技法といった理屈を探していた。前世で身につけた、癖のような思考だ。意味を見出そうとし、価値を定義しようとしていた。だが、本当は違う。理由は、もっと単純で、もっと幼い。

 

 

 ただ――カッコいい。

 

 

 それだけだった。

 

 

 勝利の瞬間に立つその姿が、誇張もなく、虚勢もなく、それでも確かに強く、美しかった。誰よりも速くゴールに辿り着いた者だけが立てる場所に、彼女は立っている。その事実が、何よりも眩しかった。

 

 

 私も、こんな絵を描いてみたい。

 

 

 誰かを讃えるためでも、歴史に残すためでもない。ただ、見た瞬間に「カッコいい」と思える、その感覚を、そのまま形にしてみたい。気づいた瞬間、胸の奥が、わずかに熱を帯びた。難しい理屈は、もう要らなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 結局、私は残りの時間のほとんどを、あの作品の前で過ごした。

だが、後悔はなかった。あの一枚のおかげで、これから自分がどこへ向かうのかが、はっきりと見えたのだから。振り返ってみれば、十分すぎるほど有意義な時間だった。

 

 

「ふふ、クライネったら。そんなにあの絵が気に入ったの?」

 

 

 母が前の席からひょいと顔を出し、楽しげに声をかけてくる。それを横目で見て、運転席の父が少し羨ましそうな表情を浮かべた。まだ運転に慣れていない父は、ハンドルから視線を外す余裕がなく、会話に加われないでいる。

 

 

「あの絵のおかげで、自分の目標が見つかったんだ」

 

 

 そう答えると、母は目を細め、興味深そうに首を傾げた。

 

 

「へぇ……どんなの?」

 

 

 私は一度、小さく息を吸い込む。誤魔化さず、今の自分の本音を選ぶ。

 

 

「見た人が、理由もなく立ち止まってしまうような……ただ“カッコいい”って、そう思える絵を描きたい」

 

 

 一拍置いて、続けた。

 

 

「そのためには、まず本物を間近で見続けないといけないと思う」

 

 

「……? ということは?」

 

 

「トレーナーとか、レースに関わる仕事に就くのが、最初の目標かな」

 

 

 母は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。

 

 

「なるほどね。絵を描くために、走る側に近づくわけか」

 

 

 バックミラー越しに、父の口元がわずかに緩むのが見えた。

 

 

「それじゃあ、これからいっぱい勉強しないとね!レース関係の仕事はどこも人気で倍率高いわよぉ〜?」

 

 冗談めかした口調だったが、その言葉は、不思議と重くは感じなかった。

 

 

 私は窓の外へと流れていく景色を眺めながら、静かに頷く。

 

 

――大丈夫だ。

 

 

 今日、あの一枚の前で立ち止まった理由だけは、もう迷わない。

 

 

 

 

 

 

プップーー!!

 

 

 

 

 

 

 突然、空気を切り裂くようなクラクションの音が鳴り響いた。

 

 

 思考が、そこで途切れる。

 

 

 視界の端で、父の肩が強張るのが見えた。次の瞬間、母が反射的にこちらへ身を伸ばす。

 

 

 

「クライネ――!」

 

 

 その声は、最後まで聞き取れなかった。

 

 

 時間が、奇妙に引き延ばされる。

 

 

 

 目に映るのは、必死にこちらを庇おうとして、シートベルトに引き戻される両親の姿。父の手が、ハンドルを握りしめたまま、微かに震えている。母の指先が、私に届きそうで、届かない。

 

 

 世界が、白く歪んだ。

 

 

 次の瞬間――

 

 

 凄まじい衝撃が、車内を叩き潰した。

 

 

 金属が悲鳴を上げ、ガラスが砕ける音が重なり合う。体が宙に浮いたような感覚。内臓が遅れてついてくる。耳鳴りが、すべての音を塗り潰す。

 

 

 何が起きているのか、理解する前に、体が強く前へ投げ出された。

 

 

 視界が反転し、暗転する。

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

「あ!誰か!斉藤さんを呼んできて!女の子が目を開けたわ!」

 

 

 聞き慣れない声が、膜越しに届く。いや、「聞こえた」というより、頭の奥を直接揺さぶられた感覚に近い。

 

 

――うるさい。

――誰だ?

 

 

 まぶたが重い。鉛を載せられているみたいだ。開けようとすると、眼球の奥がじくりと痛む。

 

 

……ここは、どこだ?

 

 

 

 天井が、ぼんやりと見える。白い。やけに白い。均一で、感情のない色。どこかで見たことがある気もするが、思い出そうとすると、頭の奥が鈍く軋んだ。

 

 

「おお! 目が覚めたかい!」

 

 

 突然、視界に影が差し込む。近い。顔が近い。反射的に身構えようとするが、体が言うことをきかない。

 

 

「二ヶ月も寝たきりだったから、もう目が覚めないのかと思ったよ」

 

 

二ヶ月――?

 

 

 言葉の意味を、頭がうまく処理できない。寝たきり? 私が?そんなはずはない。さっきまで、確か――。

 

 

 私は何をしていた?

 

 

 そのとき頭を激しい頭痛が襲った。まるで、脳がその記憶を思い出すのを拒むようだ。

 

 

「……無理に考えなくていいよ。ここは病院だ。わかるかい?」

 

 

 病院。

 

 

 その言葉で、少しだけ輪郭が戻る。鼻をくすぐる消毒液の匂い。微かに聞こえる機械音。一定のリズムで刻まれる電子音。

 

 

 私は、ベッドの上にいる。

 

 

 体の感覚を探る。腕はある。指も動く。少し重いが、確かに自分のものだ。足も――ある。よかった。

 

 

「……君、名前は言えるか?」

 

 

 男が、少しだけ声のトーンを落として尋ねる。白衣を着ている。中年。穏やかな表情だが、目は真剣だった。

 

 

 名前。

 

 

 その二文字が、思った以上に重く胸に落ちてくる。

 

 

 私は――誰だ?

 

 

 一瞬、別の名前が喉までせり上がりそうになった。だが、それは霧のように散って、形にならない。

 

 

 私は、ここにいる「私」だ。

 

 

 喉が渇いている。声を出そうとすると、ひどく掠れた。

 

 

「……アドルフ」

 

 

 自分の声なのに、ひどく遠く感じた。

 

 

 男は困ったように息を吐き、頷く。

 

 

「……なるほど」

 

 

 聞きたいことは山ほどあるのに、言葉が追いつかない。頭がまだ、水の中に沈んでいるみたいだ。

 

 

「今は混乱してるだろうけど、無理に思い出そうとしなくていい。少しずつでいいんだ」

 

 

 そう言って、男はベッドの横にある椅子に腰を下ろした。

 

 

「君は交通事故に遭って、しばらく意識がなかった。怪我はあったけど、命に別状はない」

 

 

――命に、別状はない。

 

 

 その言葉が、胸の中で反響する。

 

 

「親御さんもね、毎日ここに来てたんだよ。今日はちょうど帰ったばかりだけど……すぐ呼んでくる」

 

 

 親。

 

 

 その瞬間、胸の奥が、きゅっと締め付けられた。

 

 

 顔がわからない。自分の両親の顔がわからない。

 

 

 私の親とは誰だ?

 

 

 それを尋ねる勇気が、今はまだなかった。

 

 

 男が立ち上がり、カーテンの向こうへと歩いていく。その背中を見送りながら、私はゆっくりと天井を見上げた。

 

 

白い天井。

病室。

確かに、現実だ。

 

 

 だが――

 

 

 胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚があった。

 

 

 何か、とても大切なものを、どこかに置き忘れてきた――そんな喪失感だけが、理由も分からないまま残っている。私は、まだそれが何なのかを、思い出せずにいた。

 

 

 静かな音を立てて、ドアが開く。

 

 

 入ってきたのは、見覚えのない女性だった。年齢は若くも老いてもいない。白衣ではなく、落ち着いた色合いの服を身にまとっている。その眼差しは穏やかだが、油断のない慎重さがあり、こちらの反応を一つも見逃すまいとする緊張が滲んでいた。

 

 

 彼女は、先ほど呼びに行ったであろう男に小さく会釈し、短く言葉を交わす。それだけで、男は状況を察したのか、私に向かって一度だけ頷き、静かに部屋を後にした。

 

 

 扉が閉まると、病室は一段と静まり返る。

 

 

 女性は、私の横に置かれていた椅子を引き寄せ、ゆっくりと腰を下ろした。距離は近すぎず、遠すぎず。逃げ道を塞がないが、突き放すわけでもない。計算されたような、絶妙な位置取りだった。

 

 

「……はじめまして」

 

 

 柔らかな声だった。

 

 

「急にいろいろな人が出入りして、驚いていますよね。今のあなたに必要なことだけを、順番に話します。……つらいと思ったら、すぐに言ってください」

 

 

 その言葉に、私は小さく喉を鳴らす。頷いたつもりだったが、それが相手に伝わったかどうか、自分でも分からない。

 

 

 彼女は、私の表情を一瞬だけ確かめると、間を置かずに切り出した。

 

 

「あなたの両親は、亡くなりました」

 

 

 短く、だが逃げ場のない言葉だった。

 

 

 そして、彼女は間髪入れずに続ける。

 

 

「これからは、私があなたの親です」

 

 

 私は、驚くほど落ち着いたまま、その言葉を受け止めていた。

 泣きもせず、叫びもせず、胸が締め付けられることもない。

 

 

 考えてみれば、当然なのかもしれない。

 

 

 私はもう、両親の顔も、声も、温もりも覚えていない。記憶の中に存在しない以上、私にとって両親は、すでに他人と変わらない存在だったのだ。

 

 

――それなのに、なぜだろうか。

 

 

 胸の奥を、細い針で突き刺されるような痛みが、不意に走った。理由は分からない。ただ、失われたと理解した瞬間にだけ、遅れてやってくる痛み。記憶ではなく、感情だけが置き去りにされたような感覚だった。

 

 

「あなたには、前の家を離れて、新しい家に来てもらいます」

 

 

 女性は静かに続ける。

 

 

「ただし、それは絶対ではありません。もし、前の家に残りたいと思うのなら――」

 

 

 その言葉を、私は途中で遮った。

 

 

「問題ない」

 

 

 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 

 

「これから、世話になる」

 

 

 それ以上、考える余地はなかった。

 

 

 今ここで迷えば、この胸の痛みの正体に、触れてしまう気がしたから。

 

 

 

 女性は一瞬、痛ましいものを見るような目で私を見つめる。だが、すぐに表情を整え、静かに頷いた。

 

 

「……わかりました」

 

 

 そうして、事務的な口調に戻り、淡々と告げる。

 

 

「それでは、今日から貴女の名前はシンボリアドルフです。退院の日にお迎えにあがります」

 

 

 その言葉を最後に、病室には再び静けさが戻った。私はベッドに横たわったまま、胸の奥の鈍い痛みを、ただ受け入れるしかなかった。

 

 




2話連続して病院とは…これ如何に?あと名前の語呂が普通に悪いよ……
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