シンボリ家のアドルフちゃん   作:たつたがわりゅうのすけ

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シンボリアドルフ

 私は無事に退院することができた。

 

 

 奇跡的に後遺症は残らず、医師からも「今後の生活に支障はない」と告げられた。

 

 

 ──そして、約束通り迎えが来た。

 

 

 迎えは母親自身が来るらしい。私に刺激を与えないためか、ボディーガードらしき人たちは車に残し、母親ひとりでこちらへ向かってくる。

 

 

「さあ、行きましょう……貴女の新しい家に」

 

 

 そう言って、母親は微笑み、手を差し伸べてきた。

 

 

 新しい家。新しく始まる生活を思えば、胸が高鳴るはずだった。けれど、今はそうならなかった。

 

 

「……」

 

 

 その手を取ろうとする。たったそれだけのことだ。それなのに、私の手は動かなかった。

 

 

 指先に力を入れようとして、うまくいかない。手袋をしているわけでもないのに、感覚が一枚薄い。

 

 

「どうかしましたか?」

 

 

 母親が心配そうに私の顔を見る。

 

 

「……」

 

 

 母親は一瞬だけ迷うような間を置いたあと、私の手首にそっと触れた。握るというより、確かめるような触れ方だった。

 

 

 そのまま、力を入れすぎないように気をつけながら、ゆっくりと引く。

 

 

 引かれたという感覚はなかった。ただ、身体の重心がわずかに前へ移った。足の裏が床を擦る。病院の床は、思っていたより滑らなかった。

 

 

「……大丈夫ですよ。ゆっくりでいいのです」

 

 

 母親の声が、すぐ近くから聞こえる。私は何も答えず、ただ引かれるままに一歩、歩いた。自分で踏み出したのか、そうでないのかは、よく分からなかった。それでも、母親の手は離れなかった。

 

 

 そうして、私は車に乗った。

 

 

 

 

 

 

 

 +++

 

 

 

 

 

 

 

 移動した先にあったのは、一軒家ではなかった。

 

 

 門をくぐっても、まだ敷地が続いている。窓の数が多い。建物までが遠い。車を降りたあとも、しばらく歩いた。

 

 

「さあ、ここが今日から貴女の家です」

 

 

 母親はそう言った。

 

 

 私は建物を見上げる。視線を上げても、屋根の端がすぐには見えなかった。

 

 

「……音が響きそうだな」

 

 

 口から出た言葉は、それだけだった。

 

 

 家の中は、外から見た通りに広かった。

 

 

「まずはこちらです」

 

 

 母親はそう言って、玄関を上がらせる。床は冷たくも柔らかくもない。靴を脱ぐと、足の裏が音を立てた。

 

 

 廊下は真っ直ぐで、長い。歩くたびに、足音が遅れて返ってくる。静かすぎて、少しだけ自分の呼吸が気になった。

 

 

「こちらがリビングです。食事は基本、ここで」

 

 

 部屋は広い。椅子も机も、すでに人数分揃っている。使われていないのに、使う前提で置かれている。

 

 

「お風呂と洗面所はこの奥に。夜でも、誰にも気を遣わなくて大丈夫ですよ」

 

 

 そう言われて、少しだけ視線を落とす。誰にも気を遣わなくていい、という言葉が、耳に残った。

 

 

「それから──」

 

 

 最後に案内されたのは、廊下の一番奥の部屋だった。

 

 

「ここが、貴女の部屋です」

 

 

 扉を開けると、ベッドと机、クローゼットがある。窓は大きく、鍵も付いている。

 

 

「必要なものは、すべて揃えています。もし足りないものがあれば、遠慮なく言ってください」

 

 

 母親はそう言って、私を見る。

 

 

 部屋は、静かだった。外の音がほとんど聞こえない。ここなら、余計な声に邪魔されず、考えを一つにまとめられる──そう思った。

 

 

「……ああ」

 

 

 返事をしたつもりだった。けれど、自分の声がちゃんと出ていたかは分からなかった。

 

 

「新しい環境ですし、今日はもう疲れたでしょう。明日、貴女の家族を紹介するので今日はもう休んでください」

 

 

 そう言って、母親は部屋から離れていった。

 

 

 部屋に音がなくなった。聞こえるのは自分の呼吸音だけ。

 

 

 私はベッドに横たわる。

 

 

 柔らかさを確かめるように、背中の重さを均等に分けた。天井は高く、灯りは静かで、影の位置がほとんど動かない。この部屋では、眠る前に考えることができる──そう判断して、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 +++

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、私は出された朝食を食べた後、庭に出ていた。

 

 

 どうやら、紹介するはずの家族が揃うまで少し時間があるらしい。

 

 

 庭は広かった。人の身で走り回るには十分な広さだ。整えられてはいるが、飾り気は少ない。歩ける場所と、そうでない場所が、はっきり分かれている。

 

 

 踏めば音が出る砂利。踏んでも音が出ない芝。どこを通れば、どれくらいの音が残るかが分かりやすい。

 

 

 私は無意識のうちに、音の出にくい方を選んで歩いていた。

 

 

 風が吹く。葉が揺れる音は一定ではない。だが、不快ではなかった。規則性がない分、気に留めなくて済む。

 

 

 しばらく歩いて、足を止める。

 

 

 視界の端に、線が見えた。庭の奥、芝の上に引かれた細い直線。

 

 

 近づいてみると、それは装飾ではなかった。地面に残った、踏み固められた跡だ。何度も、同じ距離、同じ方向を往復したような線。

 

 

 私は、その長さを目で測る。端から端まで。歩数にすれば、何歩分か。

 

 

 数えようとして──途中でやめた。理由は、特にない。

 

 

 ただ、胸の奥に、言葉にならない引っ掛かりが残った。ここは、考える場所としては少し開けすぎている。音も、視線も、逃げ場がない。

 

 

 私は踵を返し、屋敷の方へ戻る。

 

 

 戻りながら、気づく。呼吸が、さっきよりも深くなっていることに。

 

 

 走ってはいない。けれど、身体のどこかが、前に進む準備を始めていた。その理由だけが、まだ分からなかった。

 

 

 芝の端まで戻ったところで、足音が聞こえた。

 

 

 軽い。けれど、迷いがない。

 

 

「もう外に出てたんだ」

 

 

 声の方を見ると、年上の少女が立っていた。頭には私と同じようにウマ耳がある。高価そうな服を着ているが、動きやすそうに工夫されていた。

 

 

「はじめまして、今日から君の姉になるシンボリルドルフだよ」

 

 

 そう名乗りながら、彼女は庭を一瞥する。それから、私の足元に視線を落とした。

 

 

「……その靴、走れる?」

 

 

「靴……か?」

 

 

 私も自分の足元に目をやる。そこら辺に売っているごく普通の靴だ。

 

 

「うん」

 

 

 姉は即答だった。

 

 

「ここ、意外といいんだよ。距離もあるし、邪魔も入らない」

 

 

 彼女は庭の奥、踏み跡の残る線を指差す。

 

 

「向こうの木まで。先に触った方が勝ち」

 

 

 私は、その線を見る。昨日、数えかけてやめた距離だ。

 

 

「嫌ならいいよ」

 

 

 姉はそう言いながらも、すでに少し前に立っていた。位置取りが、自然に"スタート"になっている。

 

 

「……負けたら、どうなるんだ」

 

 

「別に何も」

 

 

 姉は笑った。

 

 

「でも、勝ったら覚えておく。あ、走れる人だってね」

 

 

 その言葉が、胸の奥で引っ掛かった。

 

 

 走れる。評価の基準として、それは分かりやすい。

 

 

「準備は?」

 

 

「……大丈夫だ」

 

 

 そう答えた瞬間、姉はもう前を向いていた。

 

 

「じゃあ──」

 

 

 合図はなかった。

 

 

 ただ、姉の足が動いた。それを見た瞬間、私の身体も、考える前に前へ出ていた。

 

 

 芝を蹴る音。風が頬を叩く。視界が、一本の線に収束する。

 

 

 距離は、把握できる。足運びも、乱れていない。

 

 

 理由は分からない。けれど、身体は知っていた。

 

 

 並ぶ。一歩、また一歩。

 

 

「……へえ」

 

 

 姉の声が、横から聞こえた。

 

 

 次の瞬間、木に触れたのは、ほぼ同時だった。

 

 

 私は息を整える。胸が、少しだけ熱い。

 

 

「ね」

 

 

 姉は息も乱さず、私を見た。

 

 

「もう一回、やろうか」

 

 

 その言葉に、私はすぐには答えなかった。

 

 

 ただ──さっきよりも、足の裏が地面を捉えているのを感じていた。

 

 

「また今度──」

 

「そこまでです」

 

 

 額に手を当てて、「やれやれ」とでも言いたげな母親が立っていた。

 

 

「退院したとは言え、アドルフはまだ病み上がりなのですよ。それなのに準備運動もなく走らせるなんて……また怪我でもしたらどうするのですか?」

 

 

 怒っているのか? 表情も、声色も、言葉のテンポもいつも通りだ。でも、どことなく、そう感じた。

 

 

「……すみません」

 

 

 姉が、そっぽを向きながら謝る。

 

 

「ハァ……貴女は誰に対して謝罪しているんですか?」

 

 

 母親が、姉の頬を指で抓ってこちらを向かせる。

 

 

 姉が涙目で私の方を向いて、必死に再度謝る。

 

 

 その様子がどこかおかしくて、私の頬は意図せず緩んでしまった。

 

 

「……」

 

 

 母親の時間が少しの間止まる。

 

 

「お?」

 

 

 姉が意外なものを見るような目で見てくる。

 

 

「どうしたんだ?」  

 

 

 母親は私のその声掛けによって、「ハッ」と意識を取り戻した。

 

 

「いえ……なんでもありません」

 

 

「そうか?」

 

 

「はい。それよりも、貴女の名前をまだルドルフに教えてないでしょう」

 

 

 自己紹介をする前に姉に勝負に誘われていたので、すっかり忘れていた。

 

 

 私は姉の方に視線を戻す。

 

 

「私の名前はアドルフ」

 

 

 自己紹介をする。しかし、すぐに否定される。

 

 

「違うでしょう?」

 

 

 わけがわからなかった。私の名前はアドルフだ。それは絶対に違わない。記憶が飛び飛びになっているが、これだけは自信を持って言える。

 

 

 ──本当に?

 

 

 ノイズが走る。失った記憶が、脈動する。

 

 

「貴女の名前はシンボリアドルフでしょう?」

 

 

「あ……」

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にストンと何かが落ちてきた。

 

 それは否定ではなく、訂正──もっと正確な呼び方を示された感覚だった。

 

 

 

 その言葉のあと、庭に短い沈黙が落ちた。風が芝を撫で、さっきまで走っていた線の上を通り過ぎていく。

 

 

「シンボリアドルフ……」

 

 

 私は小さく、自分の名前をなぞるように口にした。アドルフという音に比べて、前に一音増えただけなのに、不思議と重さが違う。呼ばれる前提で用意されていた名前、という感じがした。

 

 

「うん。それが正式な名前」

 

 

 母親は静かに頷く。

 

 

「省略して呼ぶことを止めてはいません。ただ、この家では"シンボリ"が付く。それだけです」

 

 

 "この家では"。その言葉が、庭よりも広い何かを示しているように聞こえた。

 

 

「じゃあさ」

 

 

 姉──シンボリルドルフが、ぱっと表情を明るくする。

 

 

「私はルドルフ、君はアドルフでいいよね。長いと呼びにくいし」

 

 

 確認というより、決定だった。母親は一瞬だけ口を開きかけて、何も言わずに閉じた。

 

 

「……ああ」

 

 

 そう答えると、胸のざわつきが少しだけ収まった。呼び名が短くなると、距離も縮まる。理由は分からないが、そういうものだと思えた。

 

 

「よし」

 

 

 ルドルフが満足そうに頷く。

 

 

「じゃあ改めて、家族紹介の続きにしよっか。ね?」

 

 

「ええ」

 

 

 母親は私の方を見て、視線だけで"付いてきなさい"と告げる。

 

 

「まずは中へ。庭は逃げませんから。いつでも使えます」

 

 

 その言い回しに、私は一瞬だけ首を傾げた。逃げない。庭が。けれど、誰もそれ以上説明しなかった。

 

 

 屋敷に戻る途中、私は自分の足取りを意識する。さっき走ったせいか、感覚がはっきりしている。地面の硬さ、重心の位置、呼吸の深さ。病院では感じなかった"自分の身体"が、ここにはあった。

 

 

「ね、アドルフ」

 

 

 隣を歩きながら、ルドルフが小声で言う。

 

 

「さっきのさ」

 

 

「……ん?」

 

 

「最後、ちょっとだけ前に出てた」

 

 

 私は足を止めそうになり、慌てて歩調を合わせる。

 

 

「同時だった……と私は思う」

 

 

「うん、結果はね」

 

 

 ルドルフは前を見たまま続けた。

 

 

「でも、出方が違った。君、迷ってなかった」

 

 

 その言葉に、答えは出なかった。迷っていなかったのかどうか、自分でも分からない。ただ、走り出した瞬間、止まるという選択肢がなかっただけだ。

 

 

「……そうか」

 

 

「うん」

 

 

 それきり、ルドルフは何も言わなかった。

 

 

 屋敷の中に入ると、朝よりも人の気配が増えていた。足音、衣擦れ、控えめな声。視線がこちらに集まり、そしてすぐに逸れる。観察されているというより、評価の準備をされている感覚だった。

 

 

「こちらへ」

 

 

 母親に導かれ、リビングよりもさらに奥の部屋へ入る。

 

 

 そこには、すでに何人かが揃っていた。年齢も性別もまちまちだ。

 

 

「紹介します」

 

 

 母親が一歩前に出る。

 

 

「この子が、シンボリアドルフです」

 

 

 その瞬間、空気が一段、静かになった。視線が私に集まる。逃げ場はない。けれど、不思議と息は詰まらなかった。

 

 

「……よろしくお願いします」

 

 

 私は頭を下げる。その動作が、自然にできたことに少し驚いた。

 

 

「ふむ」

 

「なるほど」

 

「思ったより……」

 

 

 小さな声が、重ならない程度に落ちる。

 

 

 誰かが近づいてきた。

 

 

「君が、アドルフか」

 

 

 低く、落ち着いた声。顔を上げると、長身の女性が立っていた。視線は厳しいが、敵意はない。

 

 

「私は──」

 

 

 名乗りが続く。一人、また一人。名前を覚えきれるかどうかは分からない。でも、不思議と、重要なものだけは残る気がした。

 

 

 最後に、母親が締めくくる。

 

 

「この家では、それぞれが役割を持っています。ですが、アドルフ。貴女には、今は何も求めません」

 

 

 私は母親を見る。

 

 

「まずは、ここで暮らすこと。食べ、眠り、歩き、走ること。それだけでいいんです」

 

 

 走る、という言葉に、ルドルフがわずかに笑った。

 

 

「そのうち、嫌でも分かります」

 

 

 母親の声は、穏やかだった。

 

 

「貴女が、何者なのか」

 

 

 その言葉を聞いたとき、胸の奥で、昨日見た白い踏み跡が重なった。同じ距離を、同じ方向へ、何度も往復した線。

 

 

 まだ、答えはない。けれど──

 

 

 私は、走るのだろうと、漠然と、しかしはっきりと感じていた。

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