シンボリ家のアドルフちゃん 作:たつたがわりゅうのすけ
違和感感じたらごめんやで!
私はその夜、カウンセリングを受けた。
客観的に見て、私は事故のせいで両親を失い、さらには記憶を喪った孤児だ。精神的なダメージが残っている可能性が高い。そう判断されたのだろう。
結果は、何の異常も見つからなかった。
極めて正常で健康。普通の人と変わらない
しかし、その事実こそが何よりも異常だった。
この出来事を境に、私はこの家で浮いた。
虐めや嫌がらせを受けるわけではない。
ただ、遠巻きにされているだけだ。
何が原因なのかは、誰にも分からない。
医師は首を傾げ、カウンセラーは慎重な言葉を選び、使用人たちは私を気遣うような距離を保った。唯一、母親とルドルフは前と変わらずに付き合っている。
──それが一番、扱いづらい。
私は泣かない。
夜中に叫びもしない。
突然何かを思い出して取り乱すこともない。
だから皆、どう接すればいいのか分からなくなったのだ。
両親を亡くした子どもは、悲しむべきだ。
記憶を失った子どもは、混乱しているはずだ。
そのどちらにも当てはまらない私は、想定外の存在だった。
食事の席で、必要以上に声を掛けられることはない。
だが、完全に無視されるわけでもない。
皿は常に温かい。
服は寸分違わず用意されている。
部屋は毎日、きれいに整えられる。
完璧な配慮。
だからこそ、そこに感情がないことが分かってしまう。
私は「可哀想な子」ではなく、
「扱いを誤ってはいけない子」になっていた。
廊下ですれ違うと、視線が一瞬遅れる。
会話が途切れ、空気が張り詰める。
そして私が少し遠ざかると、ヒソヒソと声が交わされる。
私はそのたびに思う。
──ああ、私はこの家の家族ではない。
この家は広く、豪奢で、歴史がある。
けれど、私の本当の居場所は、どこにも用意されていなかった。
夜、ベッドに横になって天井を見つめる。
知らない模様。
知らない部屋。
知らない家。
本来なら、不安になるはずだった。
だが、胸の奥は静まり返っている。
波立つ感情が、どこにも見当たらない。
その静けさが、私をさらに浮かせていた。
+++
部屋は静かだった。
壁も床も特別な装飾はない。ただ、与えられた空間という印象だけが残る。窓から差し込む光は柔らかく、時間帯を教えるほど強くはなかった。
机の上に画用紙を置き、鉛筆を握る。
なぜ描こうと思ったのかは分からない。ただ、描かなければならない。そう思った。
最初の一本は躊躇なく引けた。次も、その次も同じだ。
考えるより先に手が動く。頭の中に明確なイメージはない。それでも、手は自分の意思を持ったかのように動き続ける。
画用紙に次々と線が加えられ、やがてそれは人の形を成していく。
私は人物画が苦手だった。
苦手というより、興味が湧かなかったのかもしれない。どうしても人より、建物や背景に目が向く。その結果、感情の希薄な絵になってしまう。
だから、これは本来ならおかしい。
この絵には感情がある。
視覚ではなく、心に訴えかけてくる何かが。
──私の絵ではない。
私は、もう一度絵を見る。
輪郭。姿勢。重心。
画面の中央にはウマ娘が立ち、片腕を高く掲げている。背景には芝生と、淡くぼかされた観客席。
無意識に、解析するような視線になっている自分に気づく。
背筋に、わずかな寒気が走った。
恐怖ではない。
──既視感だ。
私は、この感覚を知っている。
この絵を。
──いつだ? どこでだ?
記憶を辿る。
屋敷の廊下に飾られた絵画。
──違う。こんなありふれたものではなかった。
目を覚ました病院。
──違う。病院に絵はなかった。
記憶を失う前?
──分からない。
何も分からない。
それなのに、確信だけがある。
これは、初めてではない。
私は確かにこれを見たことがある。
描いたのか、描かされたのか、それとも──ただ見ていただけなのか。
鉛筆を握る指に、じんわりと力がこもる。
掲げられた腕。
踏みしめられた芝。
勝利の瞬間だ。
ただ速かったから勝ったのではない。
追い詰められ、限界を越え、それでも前に出た──そんな局面。
なぜ、分かる。
呼吸が、わずかに乱れる。
私は記憶を失っているはずだ。
専門医が断言し、数値が示し、誰もが納得した事実。
それなのに。
「……変だな」
声に出して、ようやく理解する。
これは不安でも、恐怖でもない。
ズレだ。
世界と自分の間に生じた、微細な食い違い。
私は絵に、もう一本線を足す。
輪郭でも陰影でもない。
芝の奥、観客席のさらに向こう。
ほとんど見えないほど薄く、それでも確かに存在する“何か”。
描き終えた瞬間、手が止まった。
──これ以上は、描いてはいけない。
理由は分からない。
だが、ここから先は踏み込んではならない。そんな直感だけがあった。
鉛筆を置く。
胸の奥が、わずかに疼く。
静まり返っていた場所に、小さな波が立つ。
名前のない感情。
懐かしさに似ているが、温かくはない。
むしろ、鋭い。
「……私は」
続けようとして、やめた。
言葉にした瞬間、壊れてしまいそうだった。
画用紙を裏返し、重ねる。
見えなくなったはずの絵が、まだ視界に残っている。
この家に来てから、初めてだった。
“何もない”はずの胸に、
確かに“あったはずのもの”が触れてきたのは。
それが何なのかを思い出すには、まだ時間が足りない。
けれど──
私は知ってしまった。
私の中には、
完全には失われていない何かが、まだ眠っている。
静かに。
深く。
+++
私は外にいた。
月明かりが私を照らし、夜風が全身に突き刺さる。
目的地もなく、歩き出す。
夜露を含んだ芝は、昼間よりも湿っていた。
踏みしめるたび、小さな音がする。
この感触が、嫌いではなかった。
理由は分からない。
屋敷の灯りが、背後で静かに並んでいる。
窓の一つひとつには生活があるはずなのに、どれも私とは無関係に見えた。
歩く。
急ぐ理由は、どこにもない。
気がつくと、一本の木の前に立っていた。
なんとなく見覚えがある。
無意識に、足が覚えていたのだろう。
私は、ゆっくりと幹に触れる。
「こんな木、触って何してんだ?」
上から声がした。
見上げると、枝に腰掛けた一人のウマ娘がいた。
見覚えはない。
だが、その存在感だけが強く残る。
月明かりを背に、こちらを見下ろしている。
姿勢は雑で、警戒心も薄い。
夜の屋敷の庭であることなど、気にも留めていない様子だった。
私はすぐに答えなかった。
自分でも、何をしているのか分からなかったからだ。
木の幹は冷たく、ざらついた感触が掌に残る。
「……あー。お前、噂のやつか」
「噂……とは?」
「事故で両親も記憶も失ったウマ娘が来たって。結構話題だったぞ」
実感は湧かなかった。
噂というものは、当事者に届く頃には形を変えている。
「……ふぅん」
そう答えると、彼女は小さく笑った。
「へぇ。もっと嫌そうな顔するかと思ったけど」
枝の上で体勢を変え、軽く葉を揺らす。
「悪口ってほどでもないさ。どう扱えばいいか分からない、って意味でな」
それは、私自身が感じていたことと同じだった。
私は木から手を離し、一歩下がる。
月明かりが、彼女の輪郭を際立たせる。
長い髪。
無造作に揺れる尻尾。
鋭さより、気まぐれさが先に立つ目。
この屋敷では、少し異質だ。
「……君はここに住んでいるのか?」
「初めましてって挨拶しただろ。覚えてないのか?」
「そうだったか?」
「……まあ、大勢に一気に言われりゃ無理か」
彼女は枝から軽く飛び降りた。
着地音は、驚くほど小さい。
芝を踏む感触。
さっき、私が感じていたものと同じだ。
「なあ」
距離を詰めすぎない位置で、彼女は立ち止まる。
「記憶、ないんだよな?」
「……ああ」
「じゃあさ」
少しだけ、口角が上がる。
「“思い出そう”とするの、やめてみたらどうだ?」
予想外の言葉だった。
「普通は逆だ。でもさ、さっきからお前を見てる感じ──過去が引っ張ってる気がする」
彼女は空を見上げる。
「走りたいなら、前だけ見ればいい。後ろなんて、あとで勝手についてくる」
そう言って、背を向ける。
「まぁ、夜中に木触ってるやつがいたら、声も掛けたくなるだろ」
軽く言って、振り返った。
「改めて自己紹介だ」
一拍。
「私はシリウスシンボリ。今度は忘れんなよ」
夜の芝を蹴り、彼女は駆け出す。
音はすぐに遠ざかり、闇に溶けた。
私は、その背中を見送る。
「過去が足を引っ張ってる……か」
いつかは思い出さなければならないのだろう。
けれど今は、
まだ、その時ではない気がした。
「あ! ここにいたのか」
背後から、少し息を切らした声がした。
振り返ると、月明かりの中にルドルフが立っていた。外套も羽織らず、夜風に長い髪を揺らしている。どうやら私を探していたらしい。
「……どうしてここが?」
「庭に出た形跡があった。足跡がね。君は隠れるのが上手じゃない」
責める調子ではなかった。いつもの、淡々とした声だ。
ルドルフは私の横に立ち、同じように一本の木を見上げる。枝の影が地面に落ち、昼間とは違う表情を見せていた。
「この木……覚えているかい?」
「……いや……何か大切な木だったか?」
ルドルフは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「そう。無理に思い出さなくていい」
その言葉は、先ほどシリウスが言ったものと、奇妙なほど重なっていた。
「夜中に一人で外を歩くのは危険だ。皆、心配する」
「……ごめん」
謝罪は、感情よりも反射に近かった。
ルドルフは首を振る。
「謝る必要はない。君が何を考えてここに来たのか、私には分からない。でも──」
そこで言葉を切り、私を見る。
「ここは、君の家でもある。それだけは覚えておいてほしい」
胸の奥が、ほんの少しだけ軋んだ。
その言葉を、私はまだ素直に受け取れない。
「……皆、口を揃えてそう言う」
「皆?」
「『家族だ』とか、『心配している』とか。でも……」
言葉が詰まる。
感情を説明する語彙が、どうしても見つからなかった。
「でも、それは表面上の話で、私は“そこにいてはいけないもの”みたいに扱われている気がする」
口にした瞬間、夜気が少し冷たく感じた。
ルドルフはすぐには答えなかった。代わりに、遠くの屋敷を一瞥する。灯りは変わらず、静かに並んでいる。
「それはね」
ゆっくりと、慎重に。
「君が“壊れていない”からだ」
私は、言葉の意味を測りかねて黙る。
「人は、分かりやすい悲劇には対処できる。泣く子、怯える子、怒る子。そういう存在には、役割が用意されている」
月光が、ルドルフの横顔を縁取る。
「だが君は違う。失ったはずのものを、静かに抱えたまま立っている。それが──怖いんだ」
怖い。
その感情を、私は他人に向けられたことがなかった。
「……私は、怖いか?」
「いいや」
即答だった。
「少なくとも、私にとっては」
その言葉は、慰めでも断定でもない。ただの事実のように響いた。
「君は今、揺れている。見えないところで何かが動いている。それを感じ取って、周囲が戸惑っているだけだ」
ルドルフは一歩前に出て、木の幹に軽く触れる。
「焦る必要はない。思い出す義務も、期待に応える必要もない」
その手が離れる。
「ただ、生きていればいい」
その言葉は、驚くほど重かった。
生きていればいい。
条件も、役割も、意味もない。
ただ、それだけ。
「……シリウスというウマ娘に会った」
「……そうか」
少しだけ、意外そうな声だった。
「変わったことを言われた。『過去が足を引っ張ってる』って」
「彼女らしい」
小さく、苦笑する。
「でも、間違ってはいない」
沈黙が落ちる。
遠くで、虫の声がかすかに聞こえた。
「もう遅いし、部屋に戻ろう」
ルドルフが歩き出す。
私は、その背中を見ながら一歩遅れてついていく。
芝を踏む感触が、さっきよりも確かだった。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
けれど──
この夜は、確かに私の中で何かを残した。
名前のない違和感と、
ほんのわずかな、前に進む感覚を。
「そういえば、なんで私を探してたんだ?」
「また走ろうって約束したじゃん?」
「そんな約束したか?」
「え?」
ヒトラー=チョビヒゲ独裁者の印象が強すぎて、この要素を消すと実力が足りなくてヒトラーじゃなくなってまう