夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
今も忘れない、大切なスタートライン。
One Sunny Day & Overture 「シオンのメイクデビューのお話」
【1】
風に揺れるターフの上へ、一歩を踏み出す。
立ち止まって、楕円形に切り取られたレース場の空を見上げる。
こういうのを、もう何回繰り返してきたんだろう。何だか不意に、そんなことを思った。
「すぅ……はぁ……」
立ち上がる歓声に、ざわつく肌。鳴り止まない鼓動を落ち着けるために、胸の辺りにそっと触れる。深く息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
ここまでがお決まりだ。……結局、あたしはずっと変わらない。
そうやって、今までたくさんの景色を見てきた。勝っても負けても、その度に見つけてきたものは、振り返ればそこにある。
「──よし。行こう」
例えばそれが、今は遠い、あの始まりの日のことだったとしても。
──────────
待ちわびたメイクデビューの日。初めて訪れた小倉レース場の控え室で、あたしはずっとソワソワしていた。
トレーナーさんが席を外している間のこと。ちょこんと一人椅子に座り込んでいたかと思えば、何かの拍子にパッと立ち上がったり。部屋の中をウロチョロして、結局また席に戻ったり。
その時は、とにかくじっとしていられなかったんだと思う。
叶うのなら、広い場所で思いきり走っていたかった。一旦頭を空っぽにして、気持ちをリセットできたらって。
そんなこと、本番のレース前に許してもらえるはずもなかったけど。
「よっ……はっ……」
出来ることと言えば、軽いストレッチくらいだった。気持ちよく手足を伸ばしていると、次第に身体も乗ってくる。
その動きは、自然と踊っているみたいになった。小さい頃に習っていたバレエの基本動作だ。辞めてからはもう随分と経つのに、今でも何かの拍子に表へ出てきてしまう辺りは、それだけ身体がしっかり覚えているってことなんだろう。
アラベスク、パッセ、アチチュード……。
ポーズをスムーズに再現するほど、自分の中にリズムが戻っていく。
(ふふっ……)
正直、いい思い出ばかりじゃなかったと思うけど。こうしていると、それでもだんだん楽しくなってきて。
軸足に体重を載せる。ここまで来れば、控え室も案外広く感じるようになっていた。
最後を飾るピルエット。
勢いをつけて、大きく横に一回転。シュタッと着地が決まって、つい満足げな吐息も零れた。
こうして、小さなステージは終幕。腕を懐へ招き入れるように曲げて、誰もいないはずの場所に一礼をする。
「……あれ?」
興奮もようやく落ち着き始める。その中で、あたしは小さな違和感に気が付いた。
感じる視線。顔を上げれば、そこには確かに誰かの姿があって。
「お疲れ様。綺麗な身のこなしだったな」
「…………」
控え室の入口の前。立っていたのは、トレーナーさんだった。
……いつ、戻ってきたんだろう。
トレーナーさんのことだ。入る前にはちゃんとノックもしてくれたと思う。それなのに、あたしは全然気づかず、すっかり踊ることだけに夢中になっていたってことで。
「っ~~……!?」
重なる視線。綺麗な身のこなしだった、と。そんな褒め言葉も今さら効いてきて。
きっと、顔は真っ赤になっていた。そこからあたしがどんな言い訳をしていたのかは、あんまり覚えていない。
【2】
「……もしかして、最初から見てました?」
「あー、えっと……多分?」
元の椅子に戻って、しばらく手で顔を隠していた。意味がないって分かっていても、そうせずにはいられなかった。
あたしが尋ねると、トレーナーさんは気まずそうに頬を掻く。
踊りを褒めてくれたのは、ほぼ間違いなく正直な気持ちだったと思う。いっそ、「本番を前に遊んでいるなんて余裕だな?」くらいの冗談や皮肉だったら、ここまで動揺しなかったかもしれないのに。
そうじゃないって分かるから、こんなにも恥ずかしいんだ。
「ごめん。戻ってきた時、ちゃんと声かければよかったな」
「い、いえ。元はと言えば、あたしが勝手にやってたことなんで」
軽く八つ当たりみたいになっていたかもしれない。
完全に自業自得でしかないし、とても謝ってもらうようなことじゃなかった。
(……何で、あんなこと)
振り返ると、自分でも訳が分からなくなっていた。
今朝は早めにホテルを出て、この控え室に着いてからは、トレーナーさんと二人でしばらく話していた。その間は気も紛れていたのに。
時間になって、手続きをしにトレーナーさんが部屋を出ていってからは、少しずつ我慢が利かなくなっていった。
深呼吸とか、目を閉じて瞑想するとか、一人で色々試してもみたけど、全然ダメで。だんだん、じっとしているのも辛くなってきて。
膝の上で合わせた手の平は、まだ震えていた。
「シオン?」
「──」
今日は、デビュー戦。
あたしにとっては初めての遠征になる。遠く学園を離れて、この九州の地までやってきた。元々上がりやすい性分なのもあるし、色んな意味で落ち着かないことばかりだった。
これから始まる、長いトゥインクル・シリーズへの第一歩。ここで勝てば、すぐに条件戦やその先のオープン戦への道も開ける。重賞ほどじゃなくても、たくさんの注目が集まるレースなのは間違いない。
(みんなが、見てる)
観客も、レースの関係者も。これから一緒に走るライバルたちも。単に勝てるかどうかだけじゃなくて、ここでどんな走りをするのかも含めてだ。
だからこそ、恥ずかしい姿は見せられない。
今まで積み上げてきたものを、ちゃんと全部出さなきゃって。……だけど、そんなことばっかり考えていたら、やっぱり。
「……そういえば、戻ってくる途中に売店があったんだ」
頭の上で、おかしな言葉が聞こえた気がした。
いつの間にか俯いていた顔を上げる。
「さすが九州だな。お土産コーナーも珍しいものが色々あって、つい目を引かれたよ」
「……」
「シオンは、何か買いたいものとかあるか。お土産とか」
「あ、あたしっすか?」
頭にはひたすらハテナが浮かんでいた。
戸惑いつつも、あたしは少しだけ考えを巡らせる。
「うーん……定番なら、やっぱり明太子っすかね。ネイチャさんが、ご飯に合うものとか好きなんで。喜んでくれるかなって」
「色々あったぞ。昆布を混ぜたやつとか、変わり種もそこそこ」
「面白そうっすよね。あとは……そうだ、イカしゅうまい。この辺りでも売ってたらいいんすけど、そっちはシュヴァルさんに」
「確か肉まんとか好きなんだっけ。なら、そういうのも好きそうだな」
「へへ。それから、クラスのパーマーさんたちには──」
話していくうちに、学園の友達の顔が思い浮かんでくる。お茶碗を片手にウキウキしているネイチャさんとか、焼売をパクパク頬張っているシュヴァルさんとか。
……笑ったら、二人には悪いけど。
それはやっぱり、すごく微笑ましい光景に思えて仕方なかった。
「そっか。じゃあ、帰りはなるべくゆっくり時間を取って、色々見て回らないとだな」
「はいっ。そうしてもらえると助かります」
応える声は弾んでいた。
ずっとレースのことばかりだったから。その後のことを考えているのが、ちょっとだけ新鮮だったんだと思う。
「…………」
ただ、一通り話し終えると……。
気づけば、どっちからでもなく黙りこんでしまっていた。少しの間だけ、控え室に気まずい空気が流れる。
そのうち、トレーナーさんが頭に手をやった。
「悪い……これじゃ、ただの話の脱線だよな」
「! いやっ、そんなことは──……というか、もしかしてトレーナーさん、あたしのために」
「ちょっとでも、リラックスできたらと思ったんだけど」
慣れないことはするもんじゃないな。そう言って、苦笑いをする。
「緊張するなとか、そういうことを言いたいんじゃないんだ。確かに今日は大事な日だし、君のこれからを左右する大事な一戦でもある。そう思ったら、落ち着くのも難しいな」
「……はい」
あたしの気持ちをそっとなぞるみたいに、トレーナーさんは言った。
……この人に余計な心配をかけたくない。
ここまでもう十分支えてもらったんだし、後は、あたしがちゃんとすればいいだけだって。
そう思っていたけど。実はもう、とっくにお見通しだったのかもしれない。
「だったら、そのままでいいと思う」
「え?」
「今以上のことをする必要なんてない。今日一緒に走る子たちは、みんな今日のレースが初めてなんだ。どの子も気を張ってるだろうし、大なり小なり完璧じゃない。こんな自分じゃいけないって思うほど、いつもの走りはできなくなるよ」
膝を曲げて腰を落とす。
自然に、トレーナーさんの目線はあたしと同じ高さにあった。
「今日は、ウインバリアシオンの走りを知ってもらう日だ」
「……!」
「ここまで積み上げてきたものは、ちゃんとシオンの中にある。君が君らしく走ること以上に、大切なことはないんだ」
そうやって、何の躊躇いもなく言い切ってみせる。
真っ直ぐに据えられた瞳は、ただあたしのことだけを映していて。
「それはきっと誰かに届く。あの日、俺がそうだったみたいに」
いつの間にか、その目だけを見ていた。
落ち着かなかった耳もじっとして、今はトレーナーさんの言葉だけを聞いている。
(……変わらないんだな。トレーナーさんは)
もしかしたら、それはあたしの方かもしれない。高鳴る胸の鼓動は、きっと最初に出会った時と同じだった。
ふっと、笑い声が零れる。
いつの間にか、手の震えは小さくなっていた。
【3】
控え室にいた残り数分は、またトレーナーさんと話しながら過ごした。
言葉を急いだりせず、いつも通りに。作戦はもう決まっていたって言っても、もしそこに他の誰かがいたら、とても本番前には似合わないおかしな雰囲気に見えたんじゃないかと思う。
確かに、ちょっとゆっくりはし過ぎたのかもしれない。ターフへ続く地下通路に響く足音は、今はあたし一人だ。
おかげで、少しくらい大きな深呼吸をしていても、変に目立つこともなかった。
ワァァァァァァ……!
上へ続く坂を登って、そのまま外に出る。
湿気を含んだ、肌に張り付くような八月の空気。風が運ぶレース場の歓声はそれ以上に熱くなっていて、それまでの静けさを簡単に吹き飛ばしていった。
(これが、本番のターフ……)
客席から見ていた時とまるで違う。どうしても圧倒されそうだった。
これから向かうパドックまでは、まだもう少し歩く。この中をか……とは思うけど、これも慣れていかないといけないことだ。
今は、まだ不格好かもだけど。
それだって、いつかはあたしの形になっていくはずだから。
「……」
そっと目を閉じれば、さっきの控え室で交わした会話が蘇ってくる。
──あの日、俺がそうだったみたいに。
今年の春、あたしは一人のトレーナーさんと出会った。
その人は少し不器用で。自分の口下手なところを気にしていたりもして。だけど、たくさんの輝きの中からあたしなんかを見つけてくれた、真っ直ぐな情熱を持った人だった。
その言葉はいつだって勇気をくれる。あの人が傍にいてくれるだけで、いつだって力が湧いてきた。
(……ちょっとだけ、似たもの同士なのかな)
ほんの少し会話を切り替えるのも、案外上手くいかなかったりして。……本当は、トレーナーさんも少し緊張していたのかもしれない。
担当ウマ娘のデビュー戦なんて、あの人も初めてだったはずだから。同じ気持ちを抱えていて、それでも平気なふりをしながら、あたしを安心させようとしてくれたんだとしたら。
その気持ちには、やっぱり応えたいと思った。
『──よし。行こう』
頬を叩いて、歩き出す。後ろを振り返るのはここまでだ。
遠くの空はよく晴れている。あの日は雲も多かったけど、
それは今も忘れない、大切なスタートライン。
自分の気持ちも、まだちゃんと知らない。どこまで走ればいいのかだって、きっと分かっていなくて。
ただ、キラキラと輝く
そんなあたしたちが、いつか本当に欲しかったものを見つけるまでの、長い物語の幕開けだった。
【あとがき】
◇ はじめましての方へ ◇
こんばんは。鵜鷺りょくと申します。
プロローグ、お楽しみいただけましたでしょうか。
本作はタイトルの通り、ウマ娘のウインバリアシオンの二次創作小説です。
主役を目指して走り出したシオンと、やや不器用ながらも彼女を支えようとする新人トレーナー。レースと日常から紡がれる、二人の成長物語がここに幕開けとなりました。
少し長いお話になりますが、いつか二人が迎えるゴールラインまでの物語を、ごゆるりとお楽しみいただければ幸いに思います。
◇ 最終話まで読んでいただいた方へ ◇
お久しぶりです。鵜鷺りょくと申します。
『夜明けのプリンシパル』、何と今さらになって追加のプロローグでした。久しぶりに新しく書いたお話でしたが、無事本作らしいシオンたちが描けていれば幸いです。
あとがきの方でちらっと言っていたかもですが、実は今こっそり本作の製本に向けて動いておりまして、そこで組み込んでみようと書いたお話になります。
最後まで知っているからこそ感じるものもある……かもしれません、多分。
まあ製本版の方は、現状いつ形にできるか全く分かりませんが(笑)
Web版の方でも、まだまだ本シリーズは色々動かしていきたいと思っています。これからもどうぞ、ゆっくりお付き合いいただければ幸いです。