夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─   作:鵜鷺りょく

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「自分たちだけが成長したとは、思わないことだよ」




天狼星は彼方より Ⅵ 「シオンとオルフェの模擬レースのお話」

 

【1】

 

 太陽が最高点へと辿り着く少し前。手の影から覗いた空には雲一つさえ無い。

 汗ばむ身体とは対照的に、その内側は澄んだ空気に満たされていた。頭の中もクリアなまま、これから走るコースの情報が緩やかに整理されていく。

 そんな白昼。

 夏合宿最後の、合同トレーニングの日。

 

「一度だけだ」

「……え?」

 

 スタート位置へと向かう直前。ウォーミングアップを終えたあたしのところへやってきたそいつは、唐突にそんなことを口にした。

 一瞬呆気にとられてしまうけれど、どうやらそれ以上を語るつもりはないらしい。

 

「……それは、今日の併走のことを言ってるんすか」

「併走、か……ふん。その程度の気概ならば、ついぞ貴様は余に迫ることなどできぬであろう」

「!」

 

 ひりつく空気。肌が痺れるようにざわついた。

 それは明らかな闘志。こんなにも真正面からそれを喰らったのは、きっと初めてのことだった。

 

「コースは芝の2400。余が直々に命じて設けてやった機会だ。その意味、分からぬ訳ではあるまい」

「日本ダービーと……同じ」

「左様。そして、レースの結末はいついかなる時もただ一つ。ゆえに」

「その一回で、あたしたちは全てを示さなければならない」

 

 併走ではなく、レース。

 この夏までに噛み締めたもの。この夏の中で新たに得たもの。全部を出し切って勝つ。

 今目の前にいる、このオルフェーヴルに。

 

「……望むところっすよ。この夏を締めくくるなら、それくらいで丁度いい」

「ほう? 言うではないか」

 

 当たり前だ。明らかに挑発されているって分かっているのに、こっちだって黙っていられるか。

 浮つく足を踏み留めて、視線を正面に縫い止める。

 そんなあたしの返答を聞き届けた後で、オルフェさんは身を翻した。

 

「今しばし時をやる。疾く準備を整えるがよい」

 

 その後ろ姿が遠ざかっていく。

 それがいくら離れても、背中から漂う気迫は絶えず伝わってくるのだった。

 

「……トレーナーさん」

「ああ。聞いてたよ」

 

 背後に向かって語りかける。返ってきた声は戸惑うことなく落ち着いていた。

 

「最終日の直前に、わざわざこの距離を提案してきたからな。何かあるとは思ってたけど」

「……」

「君も言った通り、丁度いい機会だ」

 

 隣に並び立ったトレーナーさんと、お互いの視線を合わせる。

 

「ここで暴君の鼻を明かす。まずは作戦会議だな」

「! はい、よろしくお願いします!」

 

 気持ちは同じ。あたしたちにも迷いはない。

 最後の後押しをもらって、重々しいその一歩を、あたしはようやく踏み出した。

 

 

 ──────────

 

 

 思えば随分と、遠くまで来たような気がする。

 しんしんと降りしきる雨の記憶は、それ自体はずっと頭の片隅にあって。合宿が始まったばかりの頃は悪い夢として現れたりもしていた。

 これまで積み上げてきたものを打ち砕かれた瞬間。前を行くその背中がどれだけ遠くにあるのかと、骨の髄にまで刻みつけられたあの日。

 先へ進むのが怖くなって、やり直したいなんて何度思ったか分からないけど。

 

 それでも、あたしはもう一度立ち上がれた。

 

 その敗北を忘れたわけじゃなくて。ただ後ろを振り返り続けていたわけでもなくて。

 いつか雪辱を果たす時だけを目指して、ここまでやってきた。

 

 それが、今なんだ。

 

「……」

 

 潮風が凪いだ後のトラック。

 静寂の中、あたしたちは再びスタートラインに並び立った。

 地面を踏み慣らす。姿勢を屈めて、ただその一瞬だけに神経を尖らせる。

 

 そして、スタートの合図が鳴った。

 

「ふっ……!」

 

 出遅れはない。

 安堵する暇もなく思考を次へ切り替える。

 

 位置はコースの内側。自然、押し出されるようにしてあたしが前に立っていた。

 

 ……ここもダービーの再現ってわけっすか。

 

 お互いに脚質は追込型。脚を溜めて、終盤で一気に相手を抜き去っていくタイプだ。普段のレースでも序盤から前に出ることはまずない。

 だから最初がこの形になるのは分かる。本当は自分の得意分野に持ち込みたいけど、無理にそうしようとすれば致命的な隙にもなりかねない。

 だったら、ここは今のペースを維持。

 後方からのプレッシャーに乱されないように気をつけながら、今はなるべく余計な体力を使わないように──

 

「何を悠長にしている」

「……!」

 

 思考の最中。地面を蹴り上げる爆音が耳に届く。

 直後、目端を通り過ぎる金色の影。

 

 うそ、ここで加速……!?

 

 直線の終盤、一気に突き放される距離。

 位置取りは一変。まるでこちらの読みなど一笑に付すように。

 

「刹那の隙さえ、余の前では致命的と心得よ」

 

 オルフェーヴルは、序盤から先頭に立ちはだかる。

 

 

【2】

 

「……!」

 

 ついに幕を開けたオルフェーヴルとの一騎打ち。

 レースは序盤から意外な展開を迎えていた。

 

 オルフェーヴルの打った予想外の一手。

 いつものスタイルなどかなぐり捨てたように、迷い無くハナを進む。それはまるで"逃げ"得意のウマ娘を思わせる戦い方だった。

 

「ダービーの記憶に引きずられたね」

「っ……」

 

 困惑するこちらを余所に、同じくレースを見守っていた天池が口を開く。

 

「悪いけど、先手は打たせてもらったよ」

「……あそこから最後まで走りきるつもりか」

「ああ。秋には菊花賞も控えているからね。それくらいはこなせなければ話にもならない」

 

「──自分たちだけが成長したとは、思わないことだよ」

 

 ……やってくれる。

 視線を戻す。最初の直線を終え、二人は既にコーナーへと差し掛かっていた。

 

 追随するシオンの正面。抜き去るとともに内側へと切り込んできたオルフェーヴル。

 それは文字通りの障壁。堂々と立ちはだかり、相手が自身より前へと立ち入ることを許さない。

 豪脚が大地を抉る。その悲鳴さえ耳に届く。凄まじい勢いはしかし繊細さも併せ持ち、少しのぶれさえも見られないほど安定していた。

 

 ハッタリじゃない。

 あの脚は、最後までもちこたえる。

 

 直感的にそう確信する。そしてそれはおそらくシオンも同じ。

 縮まらない距離。逃げ切られてしまうことへの焦り。

 誰よりも近くでそれを実感しているであろう彼女の心に、それらは徐々に滲み始めるだろう。

 

 第二コーナーを抜けた直線。ここで先頭を奪わなければこのまま──と。

 

「!」

 

 普通なら、とっくにペースを乱されているところだ。

 

「……よく食らい付いているな」 

 

 耳を掠める小さな呟き。それはおそらく、あちらも無自覚に零したものだったのだろう。

 

 ここに至って、シオンの動きもまた意外な展開を作り出していた。

 直線を進む二人。スピードを保ち続けるオルフェーヴルの背後から、シオンはほんの一瞬たりとも離れない。

 それもまた異常なほどの安定感だ。互いにどうしようもないほどの実力差があったのならばこうはならない。それならとっくに振り切られている。

 十分に力をつけた今の彼女だからこそ、成立できている位置取りだった。

 

「この夏に入るまでなら、あるいは焦って飛び出していたかもしれないな」

「……」

「でも、あの子はもうオルフェーヴルを恐れているばかりじゃない」

 

「今自分にできる最善の手を選んで、対等に戦い抜いていける」

 

 恐怖から目を逸らしたわけじゃない。彼女は今度こそそれを受け入れて、自らの力にしてきたのだ。

 強大な相手だからこそ、あらゆる手段で対抗できるようにと。

 

 ……そして、ここから。

 

 直線を抜け、第三コーナーに差し掛かる。未だ間合いは詰まることなく、展開にこれといった動きはない。

 オルフェーヴルが突き放し、シオンはそれを追いかけ続ける。

 

「確かに咄嗟の判断は見事だ。……で、ここからどうする?

 いくら食らい付いたところで、並びさえできなければ話にもならない」

 

 第四コーナー。最後の直線へと繋がる入口。

 

「結局はダービーと同じ展開だ。一度突き放してしまえば、あとは──」

「同じなわけがないだろ」

 

 空気が変わる。遠くにあるはずのシオンの息づかいが、一瞬だけ届いた気がした。

 いけると、彼女も腹を括ったのだろう。

 

「奥の手ってのは、最後まで取っておくもんだ」

 

 その直後、シオンの動きに変化が現れる。

 依然として内を進むオルフェーヴル。そこにもはや活路はないと、そう言わんばかりに、

 

 彼女は、コーナーの外側へと踏み出した。

 

「なっ……!?」

 

 天池が絶句する。逆の立場なら自分もそうだったろうか。

 

 コーナーを進む最中の進路変更。それも外へ向かって。

 そんなことをすれば、次に襲いかかるのは強大な遠心力だ。保った速度が大きいほど、自然界の力が牙を剥く。

 一見しただけでは、自滅行為にしか思えない。

 

 今のウインバリアシオンを知らなければ。

 

「ッ……やぁぁぁぁッ!!」

 

 しかして、その脚は滑らかに曲線をなぞる。

 外側へと弾き出す力を受けながらも、身体に角度をつけていなし、乗りこなすようにして前へと進む。

 

 一連の動作の中でも、彼女の態勢は決して崩れはしなかった。

 

 生来の体幹の良さに加え、より鍛え上げられた足腰の踏ん張り。

 そして、不安定な力場の中で体得した姿勢制御。

 

「あのまま突き放せると思ったか?」

 

 巧みにコーナーを制した末、シオンの速度が上がる。

 本来自由が利かないはずの曲線の中にあって、あたかも大自然の力場の中を舞い踊るかのごとく、その走行は鮮やかに映える。

 それこそが、この夏で身につけた技術の一つ。

 

「……さあ、あとは真っ向勝負だ」

 

 条件は整った。その先はただ、彼女たちが積み上げてきた努力のみが道を指し示す。

 最後の直線の中で、今再び両者が並び立つ。

 





※2026/3/23追記
シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=338048&uid=503660

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