夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
「努、見失うな。貴様自身の在り方を」
【1】
ごうごうと風を切る。振り落とされないように脚を回し続ける。
大気の内側から、ただ目の前の背中──オルフェーヴルを追いかけ続ける。
前を走る相手の影に入ることで空気抵抗を減らして、より少ない力で走り続けることができる走り方。いつかのランニング中、ヴィルシーナさんが後方の妹たちを連れてくる時にも利用していたものだ。
姉妹同士で列車のように連なり、先頭の彼女が風除けになることで後続のシュヴァルさんたちの負担を減らす。そうして三人は、驚くほどスムーズに坂の上まで追いついてこられていた。
理屈は同じ。ただ、それを本番のレースで実践するのはそう簡単じゃない。
練習の時みたいに一緒に走るならいい。でも互いに鎬を削り合うレースの中では、こちらを突き放そうと加速し続ける相手の背に肉薄する必要がある。
前提になるのはあいつに置いていかれないだけのスピード。そしてそれは、何とかこの夏の間に培うことができた。
ついていけるだけでも、今はこうやって体力を温存しながら走ることができている。
……けど、それだけだ。
今までずっと遠くにあった後ろ姿。そこにこれだけ近づけた事実に、何も感じないことはないけど。
それだけじゃ、勝つには至らない。
相手より先へ行くためには、どこかで必ず追い抜かないといけない。
まだ中盤。オルフェーヴルだってこれがトップスピードじゃないだろう。
いずれ最終直線での勝負になった時、後ろにいたままじゃ不利なのは変わらない。
────だから、
最終コーナーが迫る。行くならここしかないと思った。
まだ感覚を掴めたばかりで、正直自信はないけど。
あたしは、その一歩を踏み出す。
向かうのはオルフェーヴルが作り出した傘の外。当然、空気抵抗のアドバンテージはここまでになる。
その先は思い通りにならない物理法則の嵐の中。一度飛び出してしまったら、もう元の場所まで戻ってこられるような命綱もない。
気ままな気流の中を滑り落ちるように。小さな舟一つで激流の中を漕ぎ進むように。
大自然の力を受けながら、ただ自分のバランス感覚だけを頼りに姿勢を維持して、一心にコーナーを駆け抜ける。
加速。直線への合流とほぼ同時。
顔を上げたその先に、もうあの後ろ姿は見えなくなっていた。
「!」
「っ……追いついた、っすよ……!」
隣に見えたその横顔には、少なからず驚きの色が表れていたと思う。
それもまた、ようやく見られたものではあったけど。
今はまだ途中。本当に目に焼き付けたい景色は、この先だ。
【2】
「だぁあああああッ!!」
「ハァァァァァァァ!!」
ゴールまでの直線勝負。
スタート地点以来、再び横に並んだ二つの足音。
内側を走るあいつと、外側を走るあたし。
砕ける地面。鋭い風切り音。互いの息づかいさえも遥か後方に消えていく。不自然な静けさの中で、ただ自分の鼓動だけが耳に届いていた。
心臓は激しく脈打って、脚の回転だけに燃料をくべ続ける。
それでもまだ、この膠着を振り切るには足りない。
まだいける、まだ……ッ!!
いっぱいになった意識の中で、必死に探し続けていた。
捧げられるもの。全身のエンジンを燃やし続けるための何か。
夢、決意、憎悪、劣等感……何だっていい。
ここで勝つ。勝って、超えて、ただあんたの先に。
……じゃなきゃ、あたしは。
「っ……くぅ……ッ!!」
あの人に、何も報いることができないのに。
──────────
ダンッ!!
……とても長い、まるで永遠のような空白だった。
踏み砕かれるゴールライン。天を衝くほどに重々しいその音が、錯覚の静けさを吹き飛ばしていく。
「はぁ、はぁ……うっ……」
「ッ…………」
膝に手をついて、俯いたまま息を荒げているシオン。隣に立つオルフェーヴルは真っ直ぐ立ってこそいるが、その顔は天に向けられたまま動かない。
「……どちらが勝ったか、は」
「分からない。同時だった、と思うけど」
動揺が隠せないらしい
目に焼き付けた最後の一瞬を、頭の中で何度も繰り返し続ける。それでも判断は変わらない。二人がゴールラインに飛び込んだタイミングは、ほとんど同じだったのだと。
引き分け……か?
人の目で追える限界の先。これがもし公式戦なら、まず間違いなく映像判定に持ち込まれていたことだろう。
それほどまでに、二人はギリギリの領域で競り合っていた。ただの併走トレーニングから急遽発展したこの模擬レースにおいて、まるでかつてのダービーを思わせるほどの熱量で。
十分な成果じゃないか。
現時点の二人の力量は互角。その分析結果さえあれば、今はそれで。
……言えるわけがあるか、そんなこと。
必死で考えを巡らせる。その場に残った手がかりを探そうと、身体は再び動き出す。
夏合宿の締めくくり。互いの全てを出し切って、まさに総決算というに相応しいだけの鍔迫り合いを見せてくれた。そんな二人に、引き分けでも十分だ、なんて。
彼女たちのこれまでを見届けてきた
「…………天池」
「?」
そのすぐ後。自分はゆっくりと視線を傾けていた。
もしかしたらそこにと、深く、ゆっくりと呼吸をしながら。
土煙が晴れたばかりのゴールライン。
そよ風に揺れる芝生の中に、刻まれた二つの足跡。
白線をぶった切った内側の足跡に対し、外側の足跡は、紙一重の差で届いてはいなかった。
「……」
結局のところ、それは一つの判断材料でしかないのだろう。
だが今はそれが唯一だ。この場にある全てを持ち寄って、トレーナー両名が限りなく客観的な情報に沿って判断を下すのだとすれば、それは。
「異存は、ないね」
「……ああ」
やや間があって、そう答える。
受け入れることに葛藤はあった。天池もまた、その問いかけを発するまでにはいくらか思考する時間があったと思う。
けれど、決意の瞬間は同じだったはずだ。
それは振り返った先の光景を目の当たりにした時。今は互いに顔を上げ、向かい合うウマ娘たちの姿に確信を得てしまったから。
凜とした表情を保ち、その場に直立するオルフェーヴル。
シオンの肩は震えていて、何かを堪えるように固く拳を握りしめていた。
自分たちの判断がなくとも、彼女たちは分かっていたのだ。限界まで削り合った横一直線、その瀬戸際の中でさえ。
どうしようもなく渇望していたであろう、その結果を。
「俺たちの……負けだ」
言葉が胸の内に染みていく。どうしようもなく悔しくも、深く深くまで。
一緒に吸い込んだ風は、それでも清々しく。
今はただ、精一杯に戦い抜いたその背中が誇らしいと。
そう思うことを、彼女は許してくれるだろうか。
【3】
──────────
夜。まだ夕食の時間にある食堂は、いつも通りに賑やかだった。
耳に届く生徒たちの声。早めに食事を済ませていたあたしは、それに耳を傾けながら玄関の方へと向かった。
どこか落ち着かない気分の中、ほの明るい夜に誘われるように。
ざっ ざっ
踏み締めた砂浜が軽い鳴き声を立てる。
人気のない波打ち際。すっかり耳慣れた小気味よい足音と、包み込むような潮騒。穏やかに微笑む月明かりには、つい何度も視線が移っていってしまいそうだった。
長かった夏合宿ももうすぐ終わる。明日はお休みだし、この場所もしばらくは走り納めだろう。
何だか居心地のいい最後の夜。ずっと走っていたいと、そう感じさせるほどに。
「……?」
足音が次第にズレ始める。自分のそれが別の誰かのと重なっていたと気づいた時には、一陣の風が真横を通り過ぎていった。
一瞬呆気にとられながらも、前に現れたその背中が誰のものかはすぐに分かる。
考えるよりも先に、あたしは足を速めていた。
「ここで何をしている」
「……いや、こっちの台詞なんすけど」
意外にも、最初に話しかけてきたのはあちらだった。
別に示し合わせたわけでもないのに。奇遇にも同じ時間に出てきてしまっていたらしいオルフェさんは、前を向いたままで話を続ける。
「ふん。どうも近頃は、行く先々で何かと騒々しかったものでな。自覚もなく余の時を奪わんとする不心得者ばかりで、些か腹に据えかねていたのだが」
「あー……確かに合宿中は、見かける度にいつも囲まれてましたもんね。あたしからしたら羨ましくも……って、待つっす。もしかしてあたしも、その出待ちか何かだと思われてます?」
「違うのか」
「違うっすけど!?」
心外もいいところだった。つい語調が強くなる。
大体自分のが後から来たくせによくも……──まあ、ついそう思ってしまうくらい迷惑に感じさせられていたってことなら、気持ちは分からなくもないけど。
「ふむ……どうやら嘘ではないらしいな」
「だからそう言ってるでしょ。気になるって言うなら、今からでもあたしは逆方向に行くっすけど」
「いや、よい。……ついでだ。何か興の乗る話でもして見せよ」
「……は?」
どうやら誤解は解けたらしい……けど。直後にあまりにもシームレスに無茶ぶりを仕掛けられてしまった。
当然、あたしはしばらく困惑しているしかなく。
「王との談笑の機会をやると言っている。詫びとしては申し分あるまい」
「一応悪いとは思ってたんすね……いや、だからってそんなの急に言われても困るんすけど……」
オルフェさんなりの精一杯の謝意、ということなんだろう。それで何でこっちが話題を振る側になっているのかは疑問だった。
そんな風に色々と湧き上がる文句は飲み込みつつ、頭を悩ませる。
「……そういえば、一つ聞きたかったんですけど」
そのうち、前々から気になっていたことがあったのを思い出した。
「今回の合宿。なんで、合同トレーニングを引き受けてくれたんすか」
「む……?」
「あなたのことだから、てっきり、自分の時間を割くのは嫌だとか言って断られるかと」
現に、ついさっきも同じようなことを口にしていたし。
お互いのトレーナーが旧知の仲だったから、というのは話が持ち上がったきっかけに過ぎない。最終的にそれを受け入れるかの決定権はオルフェさんにだってあったはずだ。
だから、この人がそこに何を思っていたのか、あたしは少しだけ興味があった。
「つまらぬ話だな」
「し、仕方ないでしょ……他に思いつかなかったんすから」
呆れを隠そうともしないオルフェさん。本当に、一応無茶ぶりには応えてやったっていうのに何て態度だろう。
……とはいえ相手が相手だ。この分だと、まともな答えも返ってきそうにないかな。
「確かめたいことがあったのでな」
「……え」
そう諦めかけていた。
だから、その先に続いた言葉が少し意外で。
「先刻のダービーにて感じた
「……」
「余に追いすがらんとする狂気にも似た執念。それをくべ燃え盛る業火が如何ほどのものか……僅かばかり、興が乗ったのだ」
答える声は、結局最後までつらつらと紡がれる。
相変わらず小難しい言い回しだ。でも多分、あたしばかりがむきになっていると思っていたあのダービーにも、オルフェさんなりに思うところはあったってことなんだろう。
……僅かばかり、か。
トレセン学園に入学して、初めて一緒に走ってから今まで。授業での併走や模擬レースと、この人には何度も挑み続けてきた。
その度に積み上がっていった敗北の記憶。どれもあたしには忘れることの出来ない、悔しさの塊ばかりで。
それがその程度しか伝わっていなかったっていうのは、分かっていても少し複雑ではあった。
「……それは、見極められたんすか。この合宿で」
その問いかけに少しの期待も込めていなかったと言えば、きっと嘘になる。
知りたかった。今ようやく、あのダービーを経て伝わったらしいそれが、オルフェさんにとってはどれくらいのものなのか。
「足りぬ。少なくとも余の治世を脅かす程ではなかろう。……今はまだな」
「……?」
「
何か含みのある言い方をしていたオルフェさんから、唐突に問いが投げられる。
しるべ……目標ってこと?
ここから先、あたしが一体何を目指していくのかと、そういうことだと思った。
だったら、それはずっと変わってない。
「夢のためっす。あたしはあんたを倒して、誰よりも輝く
「……夢。そして期待、か」
オルフェさんが反芻する。こちらの言葉を正面から受け止めて、少しずつ見定めていくように。
そんな姿もまた意外だった。……一体この人は、あたしに何を。
「
「…………え」
少しの沈黙の後。返ってきたオルフェさんの言葉。
その通りだって、あたしはただ、そう答えればよかったはずなのに。
何かを見通されているような気配に、気づけば声を失っていた。
「……まあよい。いずれ分かる時が来よう」
そうしてしばらく答えを返せないでいると、そのうち、ふとオルフェさんの脚が速まるのを感じた。
「気の済むまで挑むがよい。見果てぬ夢、そして信ずる者たちからの期待……貴様の負う全てを以てのみ、ターフにて余に拝謁することを許す」
「努、見失うな。貴様自身の在り方を」
話はそこまでだと、何となくそう告げるように。
立ち止まったあたしの先で、オルフェさんの姿は次第に遠ざかっていく。
……あたし自身の、在り方。
キラキラと輝く夜空の下。どこまでも駆けていくその後ろ姿を黙って見送る。
それは一つの季節の終わり。あと少しまで届きかけていたはずの指先は、もしかしたら都合の良い幻だったのかもしれない。
やっと触れられそうだった星の輝きは、まだずっと遠くに見えた。
※2026/3/23追記
シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
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