夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─   作:鵜鷺りょく

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「あたしのトレーナーは、あなたしかいないんですから」




天狼星は彼方より Ⅷ 「シオンとお疲れトレーナーのお話」

 

【1】

 

「うーん……」

 

 砂浜でオルフェさんと別れた後。少し遠回りをしてから、あたしは合宿所まで帰り着いていた。

 廊下に人気はなくて、行きは賑わっていた食堂もただ明かりが付いているだけ。すっかり遅くなってしまったし、皆もとっくに部屋に戻ってしまったんだろう。

 ……あたしもそうしようかな。

 堂々巡りになっていた考え事を一旦置いて、一つ溜め息が零れる。少し喉が渇いていたので、その前に飲み物だけ買っていこうかと進路を変えた。

 

「?」

 

 向かった先は休憩スペースの奥。

 誰もいないと高を括っていた自販機の前には、意外な先客の姿があった。

 

「やあ、こんばんは」

「あ…………どうもっす」

 

 ヒラヒラと手を振って、親しげな笑みで挨拶をする男性。その担当ウマ娘とだってさっき顔を合わせたばかりなのに、どうしてこうも変な偶然が続くんだろう。

 数歩多めに離れて立ち止まる。そんなあたしを見て、天池トレーナーは言った。

 

「はは。すっかり嫌われてしまったかな」

「……すみません。そこまでではないつもり、なんですけど」

「いいさ。それに意識して止まない相手のパートナーともなれば、これくらいが接しやすいとも思わないかい?」

「……」

 

 雰囲気だけなら、あんまり気分を悪くしているようには見えないけど。

 いつも余裕げな笑みを崩さないこの人との会話は、相変わらず考えていることが分かりづらくて少し困ってしまう。

 

「大方、君も今帰ってきたばかりというところかな。あれだけのレースをした後だ。お互い落ち着かないのも道理ではあるけど」

 

 ガコンと、自販機の取り出し口が音を立てる。

 取り出したのはスポーツドリンク。先にもう一本麦茶を買っているところを見ると、そちらは多分彼女のものなんだろう。

 

「そういえば、さっき外でオルフェさんと会いましたよ」

「お、本当かい? ちなみにどの辺りまで行ったかは分かる?」

「いや、途中で別れちゃったんで……ただ、結構向こうの方までは行ってたかと」

「そうか……消灯時間までに戻ってくれればいいけど」

 

 そう零す横顔からは、何とも言いがたいような不安さが滲み出ていた。

 色々と難しい人ではあるけど、この合宿中に見てきたやり取りから考えても、やっぱりオルフェさんには何かと振り回されがちなんだろうなと思う。その点については、ちょっとだけ同情の気持ちも感じていた。

 

「……まあでも、それも仕方が無いか」

「?」

「勝ちはしたけど、今日のレースではこちらも随分追い詰められた。まさかこの夏だけでここまで食らい付いてくるなんて、さすがの彼女も驚いたんじゃないかな」

 

 流暢に語りながら、もう一度自販機のボタンを押す。

 取り出し口から持ち上げたもう一本のスポーツドリンクを、天池トレーナーはこちらに差し出した。

 

「おめでとう。かつてのダービーであった二バ身の差が、今ではたったの一歩だ。今はそのめざましい成長を存分に誇るといい」

「……ありがとう、ございます」

 

 祝辞のような言葉。それと一緒に、ドリンクがあたしの手へと贈られる。

 キンと冷えた指触りが心地いい。それに、ちょうど喉も渇いていたところだ。あの人のトレーナーからとはいえ、ここまで積み上げてきた努力が認められた証だと考えれば、きっととても気持ちよく口にできただろう。

 

 ……あたしが、現状に心から満たされていたなら。

 

「でも、まだっすよ。まだあたしは、今回の結果に満足なんてしてない」

「……ほう?」

「たった一歩でも、あの人に負けたことは事実ですから。今ある精一杯を出して負けたなら、その差はこの先も必ず脅威になる。それを無視できるほど、舞い上がってなんかいられないっす」

 

「あたしはいつか、絶対オルフェーヴル(あの人)に勝つんですから」

 

 その声は、自分でも意外に思えるほどはっきりしていた。それはきっと、この夏を通してあたしが自分自身の成長を感じることができていたから。積み上げてきたものが無駄じゃないって、そう信じられるようになったから。

 だからこそ、これからも前を向いて進んでいける。この先も、あの背中を追い越すために。

 

『余を越えた先に、それがあると?』

 

 ……あの言葉の意味を、今はまだ分からなくても。

 目指す場所は、それでも間違ってないって思えるから。

 

「それは、彼の受け売りかい?」

「? 何のことっすか」

「……すまない。どうやら違ったようだね」

 

 おかしなことを聞いた後、天池トレーナーはすぐに納得したような顔を浮かべる。

 

「思うことは同じ、か……やれやれ。ちょっとくらい鼻を高くしてくれていた方が、こちらとしても気が楽なのにな」

「……そうっすか」

 

 やっぱり。何かわざとらしいとは思ったんだ。

 本当に油断ができない。実際のところ、今日のレース結果をどんな風に感じていたかによっては、あたしはまんまとその口車に乗せられていたかもしれない。

 もしかして、試されたのかな。

 そんな可能性も考えつく。そこにどういう狙いがあったとしても、やっぱりこの人と一対一で話すのはちょっと大変だと思った。

 

「本当にすまなかったね。すっかり性格の悪い言い方をしてしまった。

 お詫びと言っては何だけど、ここでちょっと耳寄りな情報を渡しておこう。ちょうど()の話題も出かけたところだし」

「彼……?」

 

 親しげな声音。この人があたしの前でその呼び方をするなら、それは多分。

 その姿が頭に思い浮かんだところで、天池トレーナーはニヤリと悪巧みをするように笑った。

 

「何、ただの友人としてのお節介だよ。

 この先、あまり変なところでやらかされても困るからね?」

 

 

 ──────────

 

 

「──あっ」

 

 いた、と。その姿を見つけてすぐに、あたしは小走りで駆け出す。

 トレーナーさんは、ちょうど自習室から出てきたところだった。

 

「あれ、シオン? どうしたんだ、そんなに急いで」

「っ……」

 

 振り向いて驚きながらも、いつもみたいにまずこちらを気遣おうとする。

 そんなトレーナーさんの声に一瞬戸惑ってしまう。これだけ近づいてみても、やっぱり普段と何も変わらない。ついさっき聞いたばかりのその言葉が信じられないくらい、トレーナーさんの様子に違和感はない。

 

 でも、もし本当だったら……。

 

 もどかしい沈黙。これといった根拠もなしにそれを言っても、トレーナーさんはきっと何でもないと笑うだろう。

 それだと困る。ここで見過ごしてしまって、何かがあってからじゃ遅いんだから。

 

「と、トレーナーさんっ……あの、えっと」

「?」

「し、失礼します!!」

 

 悩み抜いた末に、まず一番に手が伸びた。それから背筋を伸ばし踵を持ち上げて、仕方の無い身長差を少しでも縮めようと工夫する。

 内心ちょっと恥ずかしい。それでも、あたしは精一杯に目をこらしてトレーナーさんの顔に触れた。

 

「シオン、何を……」

「!」

 

 ふにっ

 

 不安定な態勢に、少しだけふらつく。勢い余って指先に力がこもった。

 柔らかく反発する肌の感触。異変が起きたのは、そのすぐ後のこと。

 

「!? トレーナーさんっ!!」

 

 それまで何でも無さそうに立っていたその身体が、急にぐらりと傾く。

 触れていた手が離れる。そのままだと後ろへ倒れてしまうことに気づいて、あたしは咄嗟にトレーナーさんの身体を抱き留めた。

 

「っと……わわっ……」

 

 強引に引き戻して、覆い被さってくる重みを受け止めた。

 片足を引いて、何とかバランスを保ちながら姿勢を整える。

 

 ぎ、ギリギリセーフ……じゃなくてっ、

 

「トレーナーさん!? しっかりしてください、トレーナーさん!!」

 

 軽く身体を揺すりながら呼び掛け続ける。それでも返事はなくて、身体もぴくりとも動かない。

 

 ど、どうしよう……まさか、こんなことになるなんて。

 

 焦る頭の片隅に、ほんの十分ほど前の天池トレーナーとのやり取りが残っていた。

 それは他ならないトレーナーさんのこと。聞いた限りだとこの夏合宿中は相当無理して仕事に打ち込んでいたらしくて、疲れを溜め込んでいるだろうから気遣ってやってほしいという内容だった。

 すぐに血の気が引いた。普段のトレーナーさんのことを知っていたら、そんな話を聞いてじっとしていられるはずがなかったから。

 夜遅く、酷い時は早朝にも。建物の前を通り過ぎた時に、トレーナー室の電気が点いているのを何度も見かけたことがある。それなのにトレーナーさんはあんまり疲れとかを表に出さなくて、近くにいることの多いあたしでも、注意するタイミングを逃してしまうことは珍しくなかった。

 

 ……その結果が、これだ。

 

 こんなにも弱っていたことに、全然気付けなかったなんて。

 

「…………すぅ」

「!」

 

 手遅れな後悔に足を取られそうになりながら、それでも何とかこの後のことを考えようと頭を回す。

 すぐ傍から穏やかな息づかいが聞こえてきたのは、その時だった。

 

「えっ…………これ、もしかして」

 

 一旦クールダウン。落ち着いて感覚を研ぎ澄ませる。

 抱きしめている腕越しに伝わる、とてもゆったりと上下する背中の動き。呼吸音も乱れなく一定で……まるで子供の寝息のような。

 

「寝てる……だけ……?」

 

 何とか首を回して、視界の端にトレーナーさんの横顔が映り込む。少なくとも何か苦しそうにしている感じはなくて、その表情はむしろ安らかささえ感じるほどだった。

 すっかり固まってしまっているあたしの腕の中で、トレーナーさんは深い眠りに落ちていたのだ。

 

「…………はぁ」

 

 張りきっていた緊張の糸が解けていく。つい深々と安堵の息を吐いてしまって、それでも身体の力が抜けてしまわないようにだけは注意した。ここでバランスが崩れて、トレーナーさんにケガをさせるわけにもいかないし。

 

 ……ていうか、これ。

 

 大体いつも通りまで落ち着いてきたところ。だんだんと頭も冷えてきた矢先、あたしの思考回路はまた新しい情報に気付き始めて、次第に熱を取り戻していく。

 それが何かというと、つまりはずっと意識しないでいた、あたしの現状について。

 

 少なくとも、こんなにもぴったりトレーナーさんとくっついているのは、間違いなく初めてのことだった。

 

 

【2】

 

 深い水底に浮かんでいるような感覚に包み込まれる。これほど安らかな気分になったのは久方ぶりだと、しばらくはじっと身を委ねていた。

 息苦しさに喘ぐことなく、沈みゆく暗闇に恐怖することもなく。

 ただ遠い水面から差し込む光を仰ぎながら、やがてゆっくりと、目覚めの兆しを感じ取る。

 

 ……そういえば、自分はいつから寝ていた?

 

 ふとそんなことに気付く。同時に身体はそっと浮上を始め、閉じた瞼を仄明かりが刺激する。

 やがて、自分は目を開けた。

 

「……あ。おはようございます、トレーナーさん」

 

 最初に視認したのは、自分にとって心から大切な担当ウマ娘の姿。少しだけ赤みの差した顔で、ウインバリアシオンがこちらを覗き込んでいる。

 

「……」

 

 不思議だ。何だか彼女の気配をとても近くに感じる。それはきっと物理的な距離にしても同じだが、一体いつもと何が違うのだろうとふと思った。

 身体が感覚を取り戻していく。まず違和感があったのは後頭部だ。足から背中にかけてまでは冷たく無機質な木目の感触があるのに、そこだけが明らかに違っていた。

 ざらざらとした布の質感と、それ越しに伝わるこの仄温かさは──

 

「────ッ!?」

 

 気づいた瞬間、思わず飛び起きていた。

 急に力を入れたせいで腹筋背筋が悲鳴を上げたが、今はそんなことはどうでもいい。

 それ以上に驚くべきことが、自分の身には起きていたのだから。

 

 ……道理で、こちらを見るシオンが少し恥ずかしそうにしていたわけだ。

 

 現在は合宿所の一階。廊下の影にひっそりと置かれた長椅子の上。

 経緯はイマイチピンとこないが、どうやら自分はずっと彼女の膝で寝かされていたようだった。

 

「ごめん、俺……」

「い、いえっ! あたしの方こそ、その……部屋まで、運んであげられたらよかったんすけど」

 

 戸惑いながらも急いで謝罪する。少々ぎこちない様子ではあったものの、シオンはそれを宥めてくれた。

 部屋まで運んでくれなどと、そんな我儘は口が裂けても言えない。

 だんだんと記憶の方も追いついてきていた。自習室を出た後、何やら慌てている様子のシオンがいきなり顔に触れてきて、優しい指圧に強張った目元の筋肉を解されたところまで。

 その先はまるで思い出せないが、そこで気を失ったのだとするなら、やはり自分は立った姿勢からいきなり倒れたのだろう。どこかを痛めた感じもしないのは、きっと目の前にいたシオンが受け止めてくれたからだ。

 互いの体格差も踏まえると、ここまで連れてくるだけでも大変だったろうに。

 

 ……そこからなぜ膝枕なのかは、ちょっとピンとこないが。

 

 どれだけ冷静に考えても、それは色々まずい光景だったのではないだろうかと思う。他の生徒もそうだが、学園の職員各位にでも見られていたら特に。

 

「だ、大丈夫っす! もうみんな部屋戻ってますし、トレーナーさんが眠ってる間、この辺りは誰も通らなかったっすから!」

「そう、なのか……うん、それなら」

 

 いいわけがあるか。

 こちらの動揺を察したのか、シオンは気遣うようにそう言ってくれる。しかし暢気に頷くわけにもいかないのだ。もちろん、彼女の厚意自体はありがたく受け取っておくべきなのだろうけど。

 全ては、そんな隙を見せてしまった自分の責任なのだから。

 

「──というか、そんなことより」

「……?」

「もしかしてトレーナーさん、今日も何も食べずにお仕事をしてたんじゃないですか?」

 

 ふと思い出したように、あるいはずっと本題に移る機会を窺っていたように、シオンは滅多に見ないほどの剣幕でこちらに問いかけてくる。

 つい気圧されてしまった。何よりその言の葉は、確実にこちらの図星をついていた。

 

「何でそれを……」

「天池トレーナーから聞いたっす。今日だけじゃない。この夏合宿が始まってからはご飯を抜いたり、寝る時間も削って仕事ばかりしてたって」

 

 あの野郎……。

 ここにはいないはずのあのニヤケ顔が鮮明に浮かぶ。心内ではつい毒突いてしまっていた。

 いや、確かにあちらには(・・・・・)特に口止めもしていなかったのも事実なのだが。そこは付き合いの長さが裏目に出たのかもしれない。

 

「あと、これも」

 

 すっかり勢いに押されるばかりのこちらに、追撃のごとく突き出されるスマホの画面。

 見慣れたLANEのチャット画面。噂をすれば影ということか、チャットの相手は笹田さんだった。

 

 最終日を迎えたシオンに向けた長文の労いメッセージの数々。この夏の間にあまり会えなかったことの反動か、ある意味であの人らしいといえばそうではある。

 その最後の方。本当についでと言いたげに、自分のことがつらつらと書かれていた。

 

 

『あ、そういえばトレーナーさんの事なんだけどね?』

『何か隠れて色々無茶やってたっぽいのよ、あいつ。本当に余裕ある時で大丈夫だから、ちょっととっちめてあげて』

 

『あいつには多分、バリちゃんの言葉が一番効くだろうから』

 

 

「……どうして、こんなになるまで言ってくれなかったんすか」

 

 震える手でスマホが下げられる。

 伏し目がちに問いかけるシオンの声に、自分はもう何も言えなくなっていた。

 

「毎日毎日、炎天下であたしのトレーニングも見て。熱中症とか、身体を壊す危険だってあったはずなのに」

「……黙っててごめん。でも、本当にそこまで大げさなことじゃないんだ。休める時はちゃんとそうしてたし、水分補給とかも小まめに。だから」

「……。」

 

 赤い髪の向こうから鋭い視線がこちらへ向けられる。そういう話じゃないと、厳しく指摘するように。

 今さらなこととは分かっている。どれだけちゃんと気を付けていたことだとしても、結局自分は他ならないシオンの前で倒れてしまったのだから。

 

『やるんなら、最後までやり通しなさいよ』

 

 ……最後まで隠し通すことは、できなかったのだ。

 この子に余計なものを背負わせたくないと、そう誓って決めたことなのに。

 

「ダメっす。今回ばかりは、簡単に許してあげません」

 

 不器用に震える冷たい声で、シオンが席を立つ。

 

「とりあえず今から準備しますから、まずはちゃんと食べてください。お話はまたそれからで」

「……え」

 

 そこから続いた言葉は、意外な提案だった。

 

「準備するって……シオンが?」

「はい。時間的に、もう食堂は閉まっちゃってますけど」

 

「ちょうど、試作してたやつの残りがあるんで」

 

 

 ──────────

 

 

 シオンに促されるまま、すっかり人気の無くなった食堂までやってくる。

 

 席で待っているようにとだけ言い残して、彼女はその奥へと入っていく。確認作業で残っていたのか、割烹着姿の従業員さんが「今日も精が出るねぇ」と言っているのが聞こえて、何となくこの時間にやってくるのは初めてではないんだろうなと思った。

 どこか落ち着かない気分で待つこと数分。「お待たせしました」と、ラップに包まれた大皿を抱えたシオンが戻ってくる。

 

「……これって」

 

 解かれたラップの下。ほんのり焦げ目のついた小麦色の生地が現れる。網目のように編まれたそれの下にはギッシリと具が敷き詰められていて、食欲を刺激する甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐってきた。

 

「アップルパイっすよ。……一応、見た目だけは何とかキレイになったと思うんすけど」

「これ、シオンが作ったのか」

「はい。食堂の設備を貸していただいて」

 

 そう照れくさそうに笑いつつ、持ってきたナイフでアップルパイに切り込みを入れる。

 

「覚えてますか。ダービーの前、一緒にお店のアップルパイを食べに行こうって約束したこと」

「……ああ、もちろん」

 

 忘れるはずがない。

 迫るオルフェーヴルとの対決に備えていた日々の中。夕日に照らされた丘の上で交わしたそれは、きっとシオンなりの覚悟の証でもあったのだろうから。

 結局それは叶わなくて……自分には、何もできなかったけれど。

 

「レースには負けちゃって、お店にも行けず終いだったっすけど。合宿を最後まで頑張り切れたら、こうやってトレーナーさんと一緒に食べようと思って準備してたんです」

 

 取り分け用の小皿の上。傍に生クリームも添えて、丁寧に盛り付けられたアップルパイが目の前で光り輝く。

 

「……本当はもう少し練習して、明日完成品を披露するつもりだったんすけどね」

 

 差し出された銀のフォーク。ピカピカに磨き上げられたそれを前に、自分はすっかり動けなくなっていた。

 彼女はそれをまだ未完成品のように言うけれど。見た目もとてもキレイで、切り分けられて露わになった断面からも、しっかり手間暇をかけて作られているのが伝わってくる。

 口にしたその瞬間、溢れる幸福感に、自分はきっといつもの平静を保つことはできないだろう。

 

「トレーナーさん?」

「……いいのかな」

「は?」

「散々迷惑をかけて、君を怒らせてしまったのに……俺は」

 

 そんな資格があるのだろうか。こんなにしてもらえるほど、自分は何かできているだろうか。

 そう思考するほど、指の一本を持ち上げるのにさえ、感じる重みは増すばかりで。

 

「……トレーナーさん。"あ"って、ちょっと長めに言ってもらえます?」

「? あー──むぐっ」

「食べないともっと怒るっすよ」

 

 何の確認もせず口を開いた直後。そこに一口サイズのアップルパイが押し込まれる。

 呆れたようなジト目のシオンと向き合いながら、頭の中に浮かんだ疑問符もそこそこに、口の中はサクサクとした軽やかな食感が広がっていった。

 

「──! うん、美味いっ」

「! ほんとですか」

 

 心のままに、自分にしては大きくはっきりと感想を述べていた。シオンの顔にも驚きが溢れる。

 小気味よい生地の食感はもちろんのこと、その内側の具もジューシーなことこの上ない。噛み締める度にリンゴのエキスが染み出してきて、程よい酸味を伴った優しい甘さが胸を満たしていく。そういえば自分は空腹だったのだと、今さらそれを強く実感した。

 

「あぁ……本当に、泣けてきそうなくらい」

「お、美味しいんすよね……?」

 

 訝しむように首を傾げるシオン。表現は適切ではなかったかもしれないが、今の気持ちを最も正直に表すのなら、それ以外に言葉は見つからないだろうと思った。

 

「……へへ。内緒で準備した甲斐があったっすね」

 

 どうにか伝わってくれたのだろうか。次第にシオンの表情が綻ぶ。

 ……ただそれも束の間のことで。すぐにハッと何かを思い出したように、彼女はまた不機嫌そうな表情を繕い直した。

 

「じゃなくてっ……あたし、まだ怒ってますからね。そこだけは勘違いしないでほしいっす」

「……? うん」

 

 それは当然だ。まだ自分は、彼女に対して相応の謝意を示せてはいない。

 改めてちゃんと話さなければいけないとは思っている。……ついアップルパイを食べ進める手が止まらなくて、今は恰好が付かず申し訳ないのだが。

 

「……明日は、ちゃんと一日(・・)休んでくださいね」

 

 それでも、きっとこちらが落ち着くのを待ってくれていたのだろう。

 シオンがそう口を開いたのは、自分が最後の一口を食べきった後のことだった。

 

「トレーナーさんが頑張ってくれてるのは、普段から十分に伝わってるっす。でも、隠れて自分を追い込むようなことはしないでほしい。あたしはもう……トレーナーさんが気を失って倒れるところなんて、二度と見たくありません」

「…………ごめん。本当に心配をかけた」

「ほんとっすよ。これからは、ちゃんと気を付けてください」

 

 仕方が無いな、と。そう言うように、シオンは優しく微笑む。

 

「──あたしのトレーナーは、あなたしかいないんですから」

 

 大きな深呼吸。その後に続いた彼女の言葉は、自分にとってどれだけ重い響きをしていただろう。

 少なくともそれは、こんな場面で言わせてしまうものではなかったはずなのに。

 

「分かった。シオンの言う通り、明日はちゃんと休むよ」

「……はい。そう言ってもらえると、あたしも安心できるっす」

 

 まだまだトレーナーとして至らないところばかりな自分のことだ。約束くらい守れなければ、本当にどうしようもない。

 だからこそ、残りのもう一つだって、彼女に遠慮させるわけにはいかなかった。

 

「でも、夏祭りには行こう」

「え……」

「あっちは確か夕方からだっただろ。それだけ休めれば十分。それに一日中ずっと寝てたら、逆に疲れが残りそうだ」

 

 何とか理屈をこねつつ提案してみる。やはりというべきか、シオンは迷っている様子だった。

 どう言葉を返すべきか必死に探しているように見える。その隙に、自分はもう一歩を詰めさせてもらった。

 

「これでも楽しみにしてたんだ。合宿を頑張りきったご褒美にって。……ダメ、かな?」

「……無理、してないっすか」

「ああ」

「本当に?」

「もちろん」

 

 その後も二、三度確認を取った後、しばらくシオンはこちらを見極めるようにしながら黙り込む。

 それが解けて、彼女が照れくさそうに視線を逸らすまでには、そう時間はかからなかった。

 

「……分かりました。トレーナーさんがそこまで言うなら」

「ありがとう」

「で、でも、それまでは絶対に安静ですからね。お仕事も無しっす。もし破ったら……破、ったら……?」

「リンゴ飴を奢るよ。シオンが食べたいだけ」

「! そ、それは……」

 

 大した罰則が思いつかないらしいシオンに、ふと思いついたアイデアを述べてみた。さりげないことながらも、これが重く響いてしまうのが彼女の可愛いらしいところだと思う。

 重苦しい空気から始まった深夜の食卓。その最後を締めくくったのは、いつもらしく些細な二人の談笑だった。

 

 

【3】

 

 朝を迎えた布団の中から、年季の入った天井の模様を見上げる。

 

 昨晩、片付けを終えた食堂でシオンと別れてからはすぐに寝室へ戻った。

 横になり、そっと目を閉じて。何度か目を覚ましながらも、久方ぶりに長い夜をじっと過ごした。

 目覚めが優れないのは、仕方がない。この夏の間はずっとそうだったから。

 

 ──なんで、お前なんだよ。

 

「……」

 

 布団の傍に置かれたタブレットに手が伸びる。一瞬遅れて、自分の無意識をぐっと堪えた。

 シオンとの約束だ。今日はちゃんと休むと、そう誓った。

 夕方からは祭りもある。彼女との時間に体力を使えるように、今はそうしなければ。

 

 ……。…………。

 

 もう一度目を閉じる。このまま眠れば、自分はまたあの夢を見るだろうか。

 こうやってじっとしていると嫌でも気づかされる。彼女のためというのが前提ではあっても、それでも寝る間も惜しんで仕事に打ち込んでいた理由は、単に眠りたくなかっただけなのではないかと。

 過去の記憶に怯えて、遠ざけるように。仕事をお守りのようにしながら、逃げ惑っていただけなのだとしたら。

 自分は結局、真っ直ぐなあの子には相応しくない、情けないトレーナーだったのかもしれない。

 

『あたしのトレーナーは、あなたしかいないんですから』

 

 ……それでも、あの言葉だけは。

 

 今の自分には相応しくないとしても。彼女がまだ、その言葉の重さを分かっていなかったのだとしても。

 それでも、やっぱり大切にしたいのだと思う。

 

 甘酸っぱい香りに満たされた幸せな食卓。温かな彼女の心遣い。

 思い出せば安らかに。徐々に全身の力が抜けていくような、そんな気がした。

 

 ……もし、許されるのなら。また、あのアップルパイを。

 

「?」

 

 次に気が付いた時には、もう夕方になっていた。

 タブレットで時刻を確認。シオンとの約束の時間が近いと知って、慌てて飛び起きた。

 忙しない身支度。ドタバタと部屋を飛び出して、合流場所へと向かう。

 

 

 眠っている間、夢は見なかったと思う。




こんばんは。鵜鷺りょくと申します。

年末年始の特にお忙しい中、まずはここまで読んでいただきありがとうございました。ここまで一日ずつ更新を続けてきた当シリーズですが、先にpixivの方で公開していたこの第3章をもちまして、一旦更新を中断といたします。続き、第4章からは1月中に再開予定のため、しばらくお待ちください。
一応、明日は特別編が上がる予定です。

さて、長い夏合宿を越えて、舞台はいよいよクラシック級の秋。
三冠を巡る最後の戦い・菊花賞に、その前哨戦たる神戸新聞杯。そしてシニア級への挑戦となるジャパンカップと、シオンにとっての試練はまだまだ続きます。
原作ほどとはいきませんが、なるべく丁寧に書いていきたいと所存ですので、楽しみにお待ちください。

ちょっとしたことでも感想などいただければ大変励みになりますので、お手すきの時間あれば、そちらもよろしくお願いいたします。

それでは次章──【雨陰のつぼみ】にて、
またお会いしましょう。


※2026/3/23追記
シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=338048&uid=503660

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