夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
空は雲に隠れても、光はいつもそこにある。
雨陰のつぼみ Ⅰ 「秋の始まりと長い夜のお話」
【1】
遠くの空が青みがかる。夕暮れ時の教室。
ふと机から顔を上げて、黒板の上へ視線を移した。見ている者がたった一人しかいない今の時間でも、働き者の秒針はコツコツと音を刻み続ける。
約束の時間まではあと少し……それなのに。
手元に置かれたただ一枚きりのプリント用紙。それはまるで長く苦しい試練のような面持ちをして、未だそこに立ちはだかる。
「何だ。まだ残ってるヤツがいんのかと思ったら、お前かよ」
静けさの中に差し込まれる、ズンズンと床を踏み締めるようなスリッパの音。振り向くと、思った通りの人物が入口の前に立っていた。
あごひげを蓄えた中年の男性。この養成所に務めている教官の一人で、自分もよく世話になっている
「教官……長居してすみません。もう閉めますか?」
「いや、別に構わんぞ。俺もヒマで見回ってただけだからな」
そう言って欠伸を一つ。いつもの気怠げな感じも隠さず、教官は言葉を続けた。
「だが、まああれだ。大体いつも暗い顔してるお前さんが、今日は一段と辛気くさそうにしてたから気になってよ」
そこは放っておいてくれ、と言いたいところだった。
それなりに付き合いも長くなってきたとはいえ、相変わらず発言に遠慮のない人だと思う。まあ、別に的外れでもないけれど。
「見た感じ自習ってわけでもなさそうだが、どれどれ」
「あ、ちょっと」
「決意表明書……将来どんなトレーナーになりたいか、ねぇ」
そう言って机上のプリントをかっさらい、正面の席に腰を下ろす。
内容はすぐに理解したんだろう。椅子の背を肘置きにしながら、教官は心底めんどくさそうに顔をしかめる。
「確かにこれじゃ辛気くさくもなるか。それもバカ真面目に課題扱いとか……どうせ高島あたりだろ?」
「よく分かりますね。……あぁでも、確か発案は所長だって言ってたかな」
「前言撤回。すこぶる有意義ですばらしい課題だなぁ」
明らかにわざとらしい物言いで、くるりと手の平を返してみせる。そんなことをしなくても、別に告げ口なんてしないのに。
──決意表明書。
などと大げさな呼び名はあるが、たった今読み上げられた副題の通り、その内容は至ってシンプルなものだ。
将来どんなトレーナーになりたいか。このトレーナー養成所を卒業し、正式なトレーナーとして認められた後に、どんな夢や目標をもってウマ娘たちを導いていくのか。
それを明記することで、候補生それぞれに未来の自分をイメージさせるための試み。……今後より一層に講義や実習が立て込んでいくようなこの頃には、確かに、今一度こういった機会が必要なのも分かるのだが。
「あ? つかこれ、提出今日中じゃねぇか。早くしねぇと高島のヤツ帰っちまうぞ」
「……一応、話は通してあります。もう少しあれば、何とか」
そうは言っても、これといった根拠があるわけじゃない。ただの強がりだ。
視線の先でひらひらと揺れるプリント用紙には、まだ一文字たりとも書き記されない空欄が残るばかりで。
「まだピンとこねぇか。こういうのは」
「……」
「……ったくお前は。それでよくここまでやってこれたもんだ」
その呆れたような物言いには、何も返せる気がしなかった。
しばらく沈黙が続く。やがて観念したように、自分は何とか言葉を紡ぎ出す。
「俺には、何もありませんから」
短く頼りのない一言。それは、ここまで散々煮詰められてきた末に残った、情けない自己評価だった。
「自分がどんなトレーナーになるかなんて、正直想像もできません。こんな、
こんなのは別にありふれた課題なんだろう。この養成所に入学してから今まで、似たようなことなんて何度も経験してきたはずだ。
それなのに、筆の進みは日に日に遅くなっていく。何とかそれらしい言葉を書き連ねるだけの作業にさえ、もう疲れていたのかもしれない。
……自ら選んだこの場所で、経験や知識を積む度に。
かつて憧れたあの子たちに近づくほど、自分の至らなさを思い知らされるばかりで。
「……そうか。まあ、お前が目指すのがそういうトレーナーなら、その通りなのかもしれんな」
それまで黙して聞いてくれていた教官が、また口を開く。
「ウマ娘たちが抱える夢、目標ってやつは色々だ。憧れを超えたい、一族の悲願、自らが課した使命。とにかく思う存分走りたい、なんてのもな。
その数だけ在り方は違う。だからこそ、隣に立つ相方の強い意思は、あの子らにとっては心強いもんになるだろう」
「──だが、それはお前らだって同じさ」
知らず俯いていた顔を上げる。
教官は、何かの確信を持ったような眼差しで、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「前に立って導けないなら、同じ分だけ支えてやればいい。あの子たちの行く道はいつだって過酷だ。夢目標に一途だからこそ、時には、いつまでも明けないような夜を彷徨うことだってある」
「……」
「まあそれも、あるいは何かを見つけるために必要だったってこともあるが……そうさな。そういう時は、傍で見守っていてくれるような明かりが一つあるだけでも、随分と違うもんだ」
最後まで言い終えると、雑に弄んでいたプリントから手を離す。
ヒラリと宙を舞ったそれは、自然と自分の懐に戻ってきた。
「お前はそういうトレーナーになれ、松早」
「いつか、お前だけの光に出会って」
豪快な笑みと共に贈られた言葉は、まるでこちらの背中をきつくぶっ叩くように。
勢い余って前のめりになりそうながらも、何だか今は、そのまま進んでいってしまえそうな予感もあった。
「教官って、時々詩人ですよね」
「へっ、どうよ。イカした言い回しだったろ?」
「……ええ。まあ」
「気ぃ遣ってんじゃねぇよ」
わしゃわしゃと髪を掻き回される。手先がぶれるので、正直それはやめてほしかったが。
……そこで初めて気が付いた。
ずっと重くて仕方がなかったはずの手。立ち止まっていたペンの先は、また滑らかに紙面を走り出していた。
【2】
初秋。少しずつ涼風の吹くような日が増えてきたものの、一方では未だ居残る夏の気配に油断もならない。そんな変遷の時期。
長く大変だった合宿の終わりからは、気づけばしばらくの時が流れていた。次走の『神戸新聞杯』に向けたトレーニングも始まり、束の間平穏だった自分たちの日常は、また元の慌ただしさを取り戻しつつある。
「──今日も遅くまで仕事っすか?」
「!?」
唐突なその声に、思わずびくりと肩を震わせた。
それは作業に集中しすぎて、彼女の訪問に気づけなかったというせいもあったが。何より、その声色に若干の怒りが含まれているように感じられたからだった。
「シオン……? あれ、今日はもう帰ったはずじゃ」
部屋の入口から、こちらを覗き込むようにして睨み続ける彼女──ウインバリアシオンに返事をする。
トレーニングが終わったのが大体一時間ほど前。今日はグラウンドで解散となり、更衣室のある建物へと走っていった彼女は、てっきりそのまま寮まで戻ったのかと思っていた。
「更衣室に忘れ物をして、取りに行ってたんす。そしたら、トレーナー室がまだ明るかったんで」
「……」
「あたしが知ってる限り、確か昨日とか一昨日もそうだったと思うんすけど……今日も、ですか?」
無意識のうちに目を逸らしかけていた。シオンの方からすれば、それは肯定したも同然の反応に見えただろう。
「……無理、されてないっすよね。合宿の時みたいに」
そう言う胸中には、やはりというべきかその時のことがあったのだと思う。
シオンのためにできる限りのことをしようと、そう心に決めて臨んだ夏合宿。けれどそこで少々無理をしすぎてしまった自分は、溜め込んでいた疲れから最終日に倒れてしまうことになった。……それも、よりによって彼女の目の前で。
幸い少し休めば回復し、大事にはならなかったが。彼女にはすっかり心配をかけてしまった。
反省して、しばらくは仕事量も抑えていたつもりだった。ただ、今はまた次のレースが近い。当然やることは増えてきて、少し気を抜けば、またこんな体たらくを晒してしまっている。
(……でも、そうだな)
少なくとも、今日はこれ以上急ぎの仕事はない。
手元のパソコンを閉じる。今やっている作業も、シオンの今後を考えれば必要なことではあるけれど、彼女の心配を無下にしてまで進めることもないだろう。
「ごめん。今日はこの辺りにして帰るよ。……また心配かけちゃったな」
「! い、いえ。その、トレーナーさんががんばってくれてるのは、あたしも分かってるっすから……」
パッと解けた室内の緊張。安心した様子で、けれどちょっと申し訳なさそうにしているのも、何だかシオンらしいなと思った。
改めて時計を見る。今から片付けてトレーナー寮に戻ると、夕食としてはちょっと遅めの時間になるだろうか。
「……シオン。晩ご飯はまだこれから?」
「? はい。先に忘れ物だけ取りに来たんで、寮に戻ってからっすね」
キョトンとしながらも、シオンは律儀に答えてくれた。それを微笑ましく感じつつ、自分も言葉を続ける。
「実は俺もこれからなんだ。時間的に外で済ませてこようかと思って……迷惑じゃなかったら、一緒にどうかな」
「──!」
「もちろん、誘うからにはちゃんとご馳走するかr」
「い、行きたいっす!」
後半の言葉に、勢い余ったようなシオンの返事が被さった。
遅れてそれに気づいたのだろう。彼女の顔は見る見るうちに赤くなっていく。
「あ。ち、違いますよ!? 即答したのは奢りだからとかじゃなくて……ただ、誘ってもらえたのが嬉しかっただけで……だ、代金も、ちゃんと払いますから!」
「…………はは」
大慌てで言葉を並べるシオン。そんな姿に、つい笑いが零れてしまった。
「君も変わらないな」
「あぅ……す、すみません。すっかり、取り乱しちゃって」
「大丈夫。言いたいことは伝わったよ」
それも素直な彼女らしい反応だ。
嘘偽りがないのなんてすぐに分かったし、それは誘った側としても嬉しい限りだった。
「でも、やっぱりご馳走はさせてほしいんだ。合宿で迷惑かけちゃったし、そのお詫びもしたいから」
「……別に、迷惑なんて思ってないっすけど」
「……そっか」
つい堅苦しい理由をつけてしまった。何かと遠慮がちなシオンへの誘いとしては、多分そういうのはふさわしくないんだろう。
こんな時は、できればもっと気を楽にして。
「じゃあ、今日は神戸新聞杯に向けた景気づけってことで。それならどうだろう」
「……。……ふふっ」
らしくないとは思ったが、自分なりにおどけた感じで言ってみる。
最初は意外そうにしていたシオンも、それでも少しずつ表情を柔らかくして。やがて、ゆっくりと頷きを返してくれた。
【3】
トレーナー室の前で別れてから十数分後。正門前で待ち合わせて、自分たちは学園をあとにした。
夜中に制服姿で出歩くのも気になるというので。一旦学生寮に戻ったシオンは、今は見慣れた私服を身に纏い、軽い足取りで隣を歩いていた。
「何を、見てるんすか?」
「ん?」
そうして街の方へと進むうち、ふと彼女にそう問いかけられる。
自分が無意識のうちに上を向いていたことは、そこで初めて気が付いた。
「ごめん、つい。……ただ、今日は星が綺麗だなと思って」
さすがに合宿所にいた時ほどではないが。それでも雲さえなければ、連なる星々はこの辺りでも十分に輝いて見える。
……不思議だ。
ずっと見つめていると、うっかり吸い込まれてしまいそうなほどの深い暗闇。果てなく広がるそれを覆い隠すことはできなくても、点在するいくつもの光を見ているだけで、何だか安心させられるようだった。
かつてあてのない航海の中、船乗りたちがそれを目印としたように。目指すものがあるというだけで、きっと心はいくらか安らぐものなのだろう。
少なくとも、何の光もない虚空よりはずっと。
(……明けない夜、か)
いつまでも見えない
そんなもの、なるべくなら来ない方がいいに決まっているけれど。あるいは、いつか彼女も──。
『そういう時は、傍で見守っていてくれるような明かりが一つあるだけでも、随分と違うもんだ』
『お前はそういうトレーナーになれ、松早』
……随分、懐かしいことを思い出した。
あとから振り返れば分かる、自分にとっては確かなターニングポイントの一つ。ぶっきらぼうながらも、気長に見守ってくれていた恩師に贈られた言葉。
あの人が期待したようなそれに近づけているのかは、まだ分からないけれど。
「……そういえば、最近駅前にできた洋食屋さん」
「?」
「そこのデザートがすごく美味しいんだって。いいリンゴを使ってるって話だよ」
「! そ、それはすごく気になるっすけど……い、いいんすかね?」
「いいんじゃないか。今日は景気づけなんだし」
「……っ」
「決まりだ」
葛藤はありつつも、やはり愛おしい果実との対面については拒みきれない様子。
やや続いた無言の間をオーケーだと拡大解釈して、行き先に決めてしまった。シオンは最初困ったようにしていたけれど、そんな表情もすぐに綻んでいく。
やがて、赤みの差した顔に心から楽しそうな笑みが浮かんだ。
(……もし、叶うのなら)
彼女がこれから行く道も、こんな風に笑って歩んでほしい。
目指す先はまだ遠く。たとえ、夜は夜でしかないとしても。いずれ迎える朝までの道行きが、どうか少しでも優しいものであるように。
自分もまた、そのために多くのことを成していきたいと思う。
毎度どうも、鵜鷺りょくと申します。
当シリーズ『夜明けのプリンシパル』、第4章より再開させていただきました。
夏合宿を終え、ついに秋の戦線へと踏み出したシオンたち。本編同様、彼女たちにとってはまだまだ苦難が続いていく時期ですが、程々に独自のシーンもプラスしつつ、一話ずつを大切に描いていきたいと思います。
誤字脱字の指摘、ここがよかった等々。ご意見やご感想、いつも大変励みにさせていただいております。また何かあれば、お手空きの時にでも構いませんので、今後も何とぞよろしくお願いいたします。
※以後、毎週土曜20:00の更新となります。休載の連絡については、基本一週前の更新時にお知らせします。
※2026/3/23追記
シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
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