夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─   作:鵜鷺りょく

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「今は堂々と胸を張って。みんな、君を待ってる」




雨陰のつぼみ Ⅱ 「神戸新聞杯とファン交流会のお話」

 

【1】

 

 カンと弾け飛ぶ鉄の音。解き放たれた地鳴りが大気を震わせる。

 

 九月下旬。阪神レース場、二四〇〇メートル。

 秋晴れの空を衝く大歓声の中。GⅡレース、神戸新聞杯は定刻通りの開催となった。

 

 シオンにとっては夏合宿開けの第一戦。対戦相手の中には、かのオルフェーヴルの姿もあった。

 スタート後すぐ。束の間そろった足並みが一度崩れ、ウマ娘たちの列は縦長に伸びていく。オルフェーヴルは中団につけ、シオンは出方を窺うべく、その少し後ろに潜伏した。

 相手の動きを見つつ、ギリギリまで足を溜める。おおよそ作戦通りの展開。

 仕掛けどころは重要になるが、合宿を経て力をつけた今のシオンなら十分に勝負に持ち込める。その目算あっての動きだった。

 

「ッ……!」

 

 それでも、常に状況の揺れ動くレースに予定調和はありえない。

 直線勝負を控えた第四コーナー。遠心力にとらわれてか、シオンの内側を走っていたウマ娘の進路が僅かに外へ膨らむ。

 大勢にさほどの影響はない。ただ、シオンの注意は確実に一瞬逸れた。

 

 直後、オルフェーヴルが動く。

 

 深く踏みつけられた大地の轟音。凄まじい加速により、集団を瞬く間に置き去って行く。

 シオンもすぐに態勢を立て直す。

 振り乱れる金のたてがみが遠ざかる前に、こちらも踏み込んで加速。決して脚を緩めることなく、開きかけた差をじりじり詰める。

 反応の遅れはほんの僅か。実際、まだ追いつけるだけの可能性はあるようにも思えたが。

 

「ワァァァァァァァァ………ッ!!」

 

 時は、二人の足並みが揃うまでの猶予を与えることなく。

 やがて、その勝ち鬨は上がった。

 

『ゴーーーールイン!! 勝者、オルフェーヴル!!』

 

『これが二冠を携えし者の豪脚か!! 来たる菊花賞、その前哨戦たる神戸新聞杯を見事制してみせました!!』

 

 

 ──────────

 

 

 っ……くそっ、備えてたのに……。

 

 ゴールラインの向こう側。両膝に手をついたまま、乱れた呼吸のリズムを慎重に整える。

 レースの終盤。あと少しで勝負をしかけようとした、その一瞬。走路の内側に気を取られてしまったせいで、僅かとは言え前への反応が遅れた。

 それでも間に合うと思ったんだ。だから追いかけて、追いかけて──結局、届かずに。

 

「……」

 

 姿勢を正す。立ち上がった視線は、自然と勝者の後ろ姿へと吸い寄せられる。

 凱旋を讃える声。それを一身に受けながらも、オルフェさんは静かな佇まいで堂々とそれに向き合っていた。

 

「やばかったよな、オルフェーヴル!」

「菊花賞前でこれだもんな。こりゃ、案外三冠も楽勝で獲っちまったりして」

 

 声援の一部は、早くも次のレースの話題へと移りかけている。

 まるでもう次の勝利が確定しているみたいに。未来を見据えた世界の中で、置いてけぼりのあたしたちはただ呆然としているしかなくて。

 ……簡単に行くとは、思ってなかったけど。

 

「やっぱり、きついな……」

 

 夏合宿最後の模擬レース。そこで得られた手応えに、もう少しは良い勝負ができる気がしていた。

 なのに実戦では、あの背中はまだこんなにも遠いのかと。

 

「よくやったぞぉぉぉッ! バリやーんッ!!」

「!」

 

 俯きかけた一瞬。一直線に耳に届いた誰かの声。

 ばり、やん……?

 まさかと思って、観客席の方を振り返る。

 

「お疲れ様ー! バリちゃーん!!」

「まだ次があるよ! これからも応援してっからねーっ!」

 

 重なるいくつもの声援。その頭上では、大きな幟がばたばたとはためいていた。

 ウインバリアシオンファンクラブ(・・・・・・・・・・・・・・・)。赤色の生地に記された文字に、あたしは一瞬目を疑う。

 

「えっ……あ、え、えっと……!」

 

 どうしていいか分からなくなって、考えるよりも先にいそいそと頭を下げる。

 多分、すごく格好悪かったとは思うんだけど……。結局あたしは、そのまましばらく固まっていることしかできなかった。

 

 

【2】

 

 神戸新聞杯から数日後。昼下がりの住宅街は、程よく日差しの差す穏やかな静寂に包まれていた。

 その日は用事があって、学園の正門前で待ち合わせをした後、あたしはトレーナーさんと外へ出てきていた。次の菊花賞も控えている中、数えるほど多くもないお休みの日に時間を取らせてしまったのは、他ならないあたしが原因だった。

 

「すみません。ワガママ、言っちゃって」

「謝るようなことじゃないよ。それに、先に提案したのは俺の方だっただろ?」

 

 少し前を歩くトレーナーさんが、肩越しに振り返って言った。

 いつもと何も変わらない、落ち着いた声色で笑いかけて。

 

 

 ──────────

 

 

 レースが終わった後。味わったばかりの敗北からくる胸のざわめきと、またそれとは別の落ち着かなさも抱えたまま。控え室まで戻ってきたあたしは、改めてトレーナーさんに話をしてみた。

 それは観客席から応援を贈ってくれていた人たちのこと。その頭の上に振り上げられていた幟の表面には、誰が見てもそうだって分かるくらいに大きく派手な刺繍があしらわれていた。そこにあった名前は、確かにあたしのもので間違いなかったと思う。

 君のファンクラブだ、と。トレーナーさんは答えてくれた。

 もう少し詳しく聞くと、どうもトレーナーさんは以前からあの人たちのことを知っていたらしくて。主にウマッターを中心に活動しているそのグループに対しては、普段からあたしの名前を使って過激な発言をしていないか、またタチの悪い誹謗中傷をしていないか、小まめにチェックしていたんだそうだ。

 幸い問題を起こすような人たちじゃなかったみたいで、ダービーの時にはもう、観客席であたしのレースを見ていてくれたらしい。それをあたしは、オルフェさんとの勝負ばかりに夢中になっていて、トレーナーさんがそんな風に気を回してくれていたことも、ファンの人たちが一生懸命に声援をくれていたことも、全然気付けなかった。

 ……本当に、どれだけいっぱいいっぱいになってたんだろう。

 

『──会ってみるか?』

『!』

 

 申し訳なさから何も言えずにいると、やがてトレーナーさんの方からそう切り出してくれた。

 あとから考えれば、そんな簡単な話でもなかったはずなのに。湧き上がる気持ちに突き動かされるまま、あたしは勢いよく頷いていた。

 

 

 ──────────

 

 

「……あんまり難しく考えなくていいよ」

「え」

「だって今日は、ただ行きつけのお店に君をつれていくだけなんだから」

 

 トレーナーさんが歩調を緩めていくのに合わせて、あたしも徐々に立ち止まる。

 目の前には一軒の喫茶店。閑静な住宅街の片隅にひっそり佇むその店構えからは、どこかおしゃれな隠れ家のような雰囲気も感じられた。

 しばらく呆気にとられていると、トレーナーさんが入口の方へ歩み寄る。

 

「今は堂々と胸を張って。みんな、君を待ってる」

 

 そっと開かれる扉。軽やかなコーヒーの香りに迎えられながら店内へ踏み出すと、世界は一変した。

 せーの、と合わさる掛け声。惜しみないクラッカーの音が四方八方から鳴り響く。

 

「ようこそっ、ウインバリアシオンちゃん!!」

 

 その日は、あたしとファンクラブの皆さんを集めての、ファン交流会の日だった。

 

 

【3】

 

  『純喫茶 daybreak』。それがその喫茶店の名前だった。

 年季を感じさせながらも、ピカピカに磨き上げられた木目調の床とベージュの壁紙。カウンターの向こうに立つお年寄りの店主さんのまとう静かな雰囲気も相まって、きっと普段は落ち着きのある空気感が形作られているんだろうと思った。

 店内のあちこちにはウマ娘のグッズも飾られている。インタビューの載っている新聞記事の切り抜きなんかもあった。

 まだ数もそんなにないはずなのに。それが全部あたしのだなんて、なかなか信じられずにいたけど。

 

「シオンちゃん飲み物いる!? よかったらあたし取ってくるよ!!」

「え……あっ、ありがとうございます。じゃあ、オレンジジュースを……」

「うん、任されたっ!」

 

 そう言ってコップを回収すると、セーラー服姿の女の子はタタッと駆け出していってしまう。

 その横顔がとても嬉しそうに見えたのは、多分、気のせいではないんだろう。

 

「あの、ごめんなさいね……あの子すっかりはりきっちゃってて。今日はシオンさんに会えるーって、ずっと楽しみにしてたもんで」

「い、いえ、そんなっ! あたしの方こそ、そんな風に言ってもらえるのはすっごく嬉しいっすから」

「そ、そう? ならいいんだけど……」

 

 その一つ隣に座っていたポニーテールの女の子も声を掛けてくれる。申し訳なさそうに言うその口ぶりは、まるではしゃぐ妹をたしなめるお姉さんみたいだった。

 

「他人事みたいに言うのは感心しないな」

「そーそ。何ならあいつ以上にこだわり強い時あるくせしてな。……何だっけ? どんな苦しい雨風の中でも、必死に前を向くあなたのことがすk──」

「ちょっ!? あんた、何で私の秘めたポエムを──!」

「前に口ずさんでただろー。ま、俺らもバリやんとこうやって話せんのは嬉しいけどな」

 

 そこに向かいに座っていた男の子たちも混ざる。顔を真っ赤にした女の子が詰め寄っても、彼らは軽い感じで受け流していた。

 彼女たちは近くの高校に通う学生さんたちで、学校では同じ部活動に所属しているらしい。この喫茶店にも普段からよく来ている常連さんなんだそうだ。

 

「あぁ!? 何言ってんだてめぇ!!」

「──!」

 

 今度は後ろの席で大声が上がる。びっくりして反射的に後ろを振り返っていた。

 

「ったくまるで分かっちゃいねぇ! バリやんの名シーンっていやぁ重賞初制覇の青葉賞に決まってんだろ!」

「いいやこれだけは譲れん! 華々しい勝利だけじゃねぇ! 泥だらけになりながらも宿敵の背を追い続けたあのダービーこそ、後世まで語り継がれるべき勇姿ってもんだろうが!」

 

 年齢は多分父さんたちくらい、かな。席を立った二人の男の人が、今にも掴み合いになりそうな勢いで何かを議論している。あっちの席に座ってるのは、確か街の商工会議所に務めている職員さんたちのグループだ。

 と、止めに入った方がいい、かな……?

 そこまでヒートアップしてしまった経緯はよく分からない。でも、議論している話題自体は多分あたしのことだ。見て見ない振りをするわけにも……でも、なんて言ったら。

 

「もういい!! こうなったら本人に決めてもらおうぜ!!」

「あぁ分かった! 吠え面かくんじゃねぇぞ!! ──あのっ、すいません! ちょっとだけお話聞かせてもらっていいですか!?」

「!? は、はいっ」

 

 と思ったら、まさかのこっちに話が振られてきてしまった。どうしよう。まだ心の準備とか色々。

 

「いい加減にしろ親父ども」

「うげっ」

「バリちゃんが怖がってんでしょうがぁ!!」

「す、すんませんでしたぁぁぁぁっ」

「……」

 

 次の瞬間、後ろで聞いていた女性の職員さんたちが割って入る。

 男の人二人を余裕で怯ませてしまうほどのその剣幕に、喧嘩に発展しかけていた議論は瞬く間に鎮圧されてしまった。

 

「え、えっと……」

「あらあら、ごめんなさいねバリちゃん。こんな厄介親父どもは気にしないで、学生さんたちと話していらっしゃい」

「そうそう。それと、ご迷惑じゃなかったら、後で私たちにも色々聞かせてもらえると嬉しいのだけど」

「あ、はい。それなら、全然」

 

 さっきまでの迫力が嘘みたいに、職員さんたちは優しい微笑みでそう言ってくれた。受け答えはちょっと辿々しくなってしまったけど、今はお言葉に甘えて、ひとまず元の席に戻らせてもらうことにする。

 

「…………」

 

 まだどこかふわふわとした気分。感激と困惑が混ざったような、不思議な感覚が胸を満たしていた。

 あらためて店内を見渡してみる。そこには一つのお店の席を埋めてしまうほどの人たちがいて、聞こえてくる会話は基本的に全部あたしのことで。みんなが、あたしのことを見てくれている。

 ……正直、こんなことがあるなんて全然想像もしていなかった。

 ファンの人たちとの交流自体が初めてのことで。あたしのことを応援してくれている人たちとどんな風に向き合うかなんて、もし考えたとしても、なかなか形にならなかったはずだから。

 最後にカウンターの店主さんと目が合う。返ってきたのは丁寧な会釈で、それはこちらに敬意を示してくれているような優しい仕草に感じられた。

 店主さんが営むこの喫茶店には、日頃からファンの人たちが代わる代わる訪れているそうで。今日は都合で来られなかった人もいて、これでもまだ全員じゃないと言われた時には、もう目が回ってしまいそうになるくらいだった。

 

「はい、シオンちゃんっ。ジュース持ってきたよ!」

 

 戻ってきた女の子から、並々に注がれたオレンジジュースのコップを受け取る。

 心の底から気を許してくれているようなその笑顔に、ずっと抱えていた緊張も、気づけば少しずつ解れてきていて。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 感謝の言葉も、今度は自然なトーンで溢れ出る。

 それはきっと、とても大切でかけがえのない。淡い夢のような世界なんだと、そう思った。

 

 

 ──────────

 

 

「……え。ファンサイト、っすか」

「そうそう。……あり、もしかして知らない?」

 

 交流会の盛り上がりもいい意味で馴染んできた頃。ふと、気になる話題が飛び出してきた。

 あたしの反応が予想外だったんだろう。本当に、と言いたげに、ポニーテールの女の子がスマホを取り出して見せてくれた。

 

「これ、なんだけど」

「! ほ、ほんとだ……」

 

 思わず画面に釘付けになってしまう。開いているサイトのトップページには、大きく『ウインバリアシオンファンサイト』というタイトルが掲載されていた。

 全体的に親しみやすいポップなデザインに、柔らかい丸みをしたフォント。それでいて、他のページへのリンクや文字のサイズは大きめで見やすく、初めて見る人にも直感的に分かりやすい配置のされ方になっていた。

 何より目立つのは、サイトの端っこに配置されたミニキャラ。デフォルメされているけど、モチーフはあたし、なんだろうか。

 ちょんとタップすると吹き出しで話してくれたりもして、サイトの案内からちょっとした雑談まで色んなパターンが用意されているみたいだった。そういう遊び心が感じられるところまで抜かりない。

 

「す、すごい作り込みっすね……」

 

 ちょっと気圧されながらも、試しにページのリンクを一つ開いてみる。

 タイトルは『トレーニング日記』。そこには日頃のトレーニング風景から、出走したレースのワンシーンを切り取ったものまで、様々な写真が表示されていた。説明や注目ポイントのキャプションも添えられていて、ページタイトル通りの日記帳らしさが見て取れる。

 

「一体、誰がここまで」

「? トレーナーさんじゃないの」

「俺らもてっきりそう思ってたけど」

「…………あっ」

 

 そう言われて、初めてハッとする。

 もう一度写真を見直してみる。確かに、大勢が見ているようなレースならまだしも、日頃のトレーニングのことまで関係者以外が把握しているわけがない。このページで使われているのは過去の取材やURAの広報誌用に提供していたものだと思うけど、中には紙媒体のものもあったはずだ。ここまで画質のいいものを取りそろえるのはもう、写真の元データを持っている人の仕業だって考えた方が自然だろう。

 

「……」

 

 過去に提供した画像は、もちろんあたしも確認して許可しているし。別に、外に出て困るようなものはないけど。

 ……それにしても、せめて一言くらいあったって。

 

「可愛くて見栄えするサイトだよねぇ。何か、底知れない思い入れを感じるっていうか」

「ああ。てぇてぇってやつだな」

「っ~~」

 

 周りからの暖かい視線にも耐えきれなくなって、咄嗟にそちらを振り向く。けれど、さっきまで静かに見守ってくれていたはずの隅っこのカウンター席には、いつの間にかあの人の姿はなかった。

 

「トレーナーさんなら、お仕事の電話で席を外されていますよ」

 

 店主さんが答えてくれた。何だかタイミングの良すぎるようなその偶然に、あたしはついキュッと唇を結ぶ。

 いや……嬉しくないわけじゃ、ないけど。

 戻ってきたらちょっとくらい何か言わせてもらおう。あたしは静かにそう決意した。

 

 

【4】

 

「──へっくし!」

 

 咄嗟のくしゃみに背中を曲げる。秋も更けてくれば日中でも冷たい風が吹くことはあるし、それで身体が冷えたのだろうか。

 すっかり長くなってしまった。通話が切れたばかりのスマホをポケットにしまいつつ、つい溜め息が零れる。書類に不備があったとか、そういう急を要する連絡じゃなかったのは幸いだったけども、別に急いでいないなら、少しくらいはタイミングを考えて欲しいとも正直思った。

 交流会の方は大丈夫だろうか。あの人たちに限ってそうおかしなことはないと思うけど、シオンは緊張しがちなところもあるから……。

 やはり気になってしまうので、さっさと店へ戻ることにする。

 

「……?」

 

 表入口まで戻ってくると、その正面に誰かが立っていることに気づいた。

 セーラー服を着たショートボブの少女。確かそれは、シオンと席を囲んでいた学生の子たちと同じもののはずだ。

 店内を見ている……?

 スルーして中に入るわけにもいかず、とりあえず声をかけようと、そう一歩を踏み出したところで。

 

「……まあ。あなたは」

 

 先に声を発したのは、彼女の方だった。

 お淑やかに微笑みつつ、まるで探し人を見つけたとでも言いたげに、その双眸が静かに焦点を結ぶ。

 

「初めまして。シオンくんの(・・・・・・)トレーナーさん(・・・・・・・)?」

 

 

 ──────────

 

 

 十数分後。なるべく音を立てないように扉を潜って、ようやく店内へと戻ってくる。

 店の奥へと目を向ければ、交流会はまだ賑わいの只中にあるようで。みんなで誰かのノートパソコンを囲みながら、何かをワイワイと話していた。

 状況は完全に掴めないながら、それでも楽しそうで何よりだと、そっと近くのカウンター席に腰を落ち着かせる。

 

「お疲れ様です。こちら、よろしければ」

「え……あ、あぁ。すみません」

 

 すっかりそちらに夢中になっていて、コーヒーを持ってきてくれた店主さんに気づくのが遅れてしまった。

 ふわりと湯気立つ香ばしさが鼻をくすぐる。ありがたくご厚意に甘えさせてもらうことにした。

 

「彼女の様子は、どうでしたか?」

「皆さんと楽しそうに話されていましたよ。やはり年の近い学生さんたちといらっしゃるのが落ち着くようですが、徐々に、ご年配の方たちとも」

「……そうですか」

 

 それを聞いて安心する。自分がいない間も、彼女は上手くやれていたのだと。

 

「あらためて、今日はありがとうございました。急な申し入れだったのに、お店を貸し切りにしていただいて」

「いえ。お礼を言うのはむしろこちらの方です。ご存じの通り、こういった集まりはあまり珍しいことではありませんし……それに、彼女の一ファンとして、これほど光栄なこともないでしょうから」

 

 こちらが頭を下げると、店主さんは恐縮した様子でそう言ってくれた。

 今回のファン交流会は、基本的には自分とこの店主さんの間で企画したものだった。それはデビュー当時からのシオンのファンであり、またメンバーの人たちに集まりの場を提供しているという事情もあってか、ファンクラブの取りまとめをしているのが主にこの人だったからだ。

 ファンクラブの存在を知ってから、このお店には何度か足を運んでいた。そうしてこの調和の取れた落ち着きある雰囲気を知ったからこそ、今回の開催に踏み切れたのだと思う。

 

「……もっと早く、こうしてあげればよかったかな」

 

 カップに口をつける。上品で香り高い風味の中に、少しの苦みが顔を出す。

 そんな簡単な話じゃないのは分かっている。すでにいくつかのレースに出走し、トゥインクルシリーズの最前線で結果を出してきているシオンは、もう言うまでもなく相応の知名度を有する選手の一人なのだから。こういった場を持つ以上、トレーナーとして相応のリスクを考えておく必要はあった。

 ダービーの後。夏合宿から神戸新聞杯までの間は、色々立て込んでいたのも事実だ。……それでも、もし。

 

「何事にも、然るべき時というものはあります」

「……?」

「我々は、あくまでシオンさんの一ファンですから。日頃の応援の一欠片でも、その力になれたのなら本望というものです。……しかし、時としてそれは、彼女にとっての負担になり得るのかもしれない」

 

 こちらの考えを見通すように、店主さんは柔らかく目を細める。

 

「あなたはただ、彼女に正しく想い(・・)が伝わる時を待っていた。今はそれで、よいのではありませんか」

「……そう、でしょうか」

 

 変なすれ違いを起こしたくなかったのは、確かにその通りだ。ウインバリアシオンという存在に救われた人たちがいて、その声援はどんな時にも彼女のためにある。それは重い荷物じゃなくて、確かに自らの支えにしていけるものなのだと、そう思ってほしかった。

 こういう時はいつだって手探りだ。自分がシオンにとって最適な判断を下せているかなんて、正直分からないけれど。

 

「──あ、トレーナーさん戻ってきてるー」

「おお、こりゃ丁度いい。バリやんがあんたに言いたいことあるってよ」

「俺に……?」

 

 こちらに気づいた一声をきっかけに、奥にいた全員がこちらを振り向く。

 何だろう。その口ぶりからして、何かここに戻ってくるのを待たれていたような気配を感じるが。

 

「……トレーナーさん?」

「……え」

 

 もしかして、怒ってる?

 面白がっているような笑顔が並ぶその真ん中にあって、一人だけむくれている様子のシオン。そんな姿に、自分は嫌な予感を覚える。

 

「……」

 

 多分、さっそく何かをやらかしたのは確かなんだろう。

 それでも逃げるわけにはいかず。観念して席を立った自分は、その賑わいの輪の中へと混ざっていった。

 





※2026/3/23追記
シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=338048&uid=503660

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