夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
「あたし、今日……このまま、走ってもいいんすかね」
【1】
遠くの雷みたいな歓声が、絶えずビリビリと伝わってきていた。
コースへと通じる地下通路。薄暗闇を照らす光の向こう、今年の菊花賞が行われる京都レース場の観客席は、すでに立ち見が出るくらいの人が入っているらしい。
納得のプレッシャーだ。また手が震えかけているのに気づいて、ギュッと握って拳を作る。
カツカツと響く靴底の音に、並んで続く胸の高鳴り。研ぎ澄まされた感覚の中で、雑音は少しずつ掻き消されていく。
あたしたちを待つ向こう側の世界。その入口までは、あと少し。
「……?」
ふと、何かに気づいて立ち止まる。あたしの足音が止んでも、そこに重なっていたもう一つの反響は収まらなかった。
溢れんばかりのその気配に、ゆっくりと後ろを振り返る。
──
こんなところでも、その鮮明な輪郭から零れる眩しいオーラは変わらない。
控え室を出るのが遅くなったあたしは、てっきり、もう今日の出走者の中では最後の入場になるんじゃないかと思っていた。
だから、それより後に続いてやってきたその姿が、何だか意外で。
重々しい一歩を重ねて、次第に近づいてくる宿敵の姿に、全身の肌が粟立っていく。情けない話だけど、少しでも気を抜いたらまた、自然に一歩下がってしまいそうだった。
王の歩みに道を空ける臣下や民みたいに。そんなのはもう、真っ平ごめんだ。
「……」
「……」
交わされる言葉はなかった。それどころか、こちらに一瞥もしないままで、見飽きた横顔が目の前を通り過ぎていく。
「……興味なし、か」
それはいつも通りの彼女。絶対の自信から発せられる余裕に充ち満ちた、孤高の王の姿に他ならないじゃないか。あたしも一瞬はそう思った。
……本当に、そうかな。
自慢じゃないし、認めるのも未だに癪ではある。でも、これでもあいつのことは人よりよく見てきたつもりだ。学園で過ごす普段の姿も、レース場で一際目立つ選手としての姿も。
そして、さっき瞳の中に残ったその様子は、記憶にあるどんなあいつとも結びつかなかった。
ワァァァァァ……!!
会場の熱気が一際強くなる。きっと今、あいつが出ていった影響だろう。
考えるのは後だ。ひとつまみの思考だって、あたしには無駄にしていられるだけの余裕はない。
「……やってやる。今日こそは、絶対に」
中断していた歩みを再開する。
そこからはもう立ち止まることなく、あたしはその門を潜っていった。
「──十三番。
名前を呼ばれて、待機していた舞台袖から進み出る。
真正面から観客席と向き合うパドックの中央。それはみんなにその日の調子を見てもらうための最初の時間だ。感じている緊張も、秘めた自信の程も、ここでは全部が露わになる。
しなやかに腕を伸ばして、一歩片足を引く。
そうして、会場に満ちる熱気ごとそっと懐へ招き入れるようにしながら、あたしは観客席に向けて深々と会釈をする。
身体の反応に淀みはない。ほぼイメージ通りにこなせたアピールの後、周囲から拍手が贈られるのが分かった。
「ウインバリアシオン。調子よさそうだな」
「前走も惜しかったもんなー。ま、仮に今回
次第に、観客席からの声も耳に届き始める。
「でもやっぱり、クラシック三冠が絶たれる結末だけは、俺には想像つかんけども」
それは今日のレースを期待する声、ではあるんだろう。
過程を楽しむ価値はある。それでも結果が揺らぐことは決してない。そんな感じの響きだった。
「何だかんだ。今日はやっぱりオルフェだろ」
「あれだけ強いんですもの。きっと今日は、歴史に残るほどの偉大な一日になるわ」
「てかそれしかあり得なくない? ここまで来たらもう……空気読めって感じ」
声援は続く。ある意味でそれは、二番人気としてあいつと戦うことになる、あたしという刺客に対してのものだったのかもしれない。
あいつに対して増していく期待は、もう留まるところを知らない。
ついさっきまで胸に滲んでいた、まるで毒みたいな重い感触のことを、少しだけ思い出す。
……分かってるよ。そんなの。
それでも、あたしはただまっすぐに顔を上げる。
【2】
三十分ほど前。その頃はまだ、あたしは控え室にいた。
目を閉じて、自分自身を確かめるように胸に手を当てる。何度も呼吸のリズムを整えようとして、なかなか一定になろうとしないそれへの焦りから、吐きだす息にはまだ震えが混じっていた。
「シオン」
「……すみません。もう、本番なのに」
傍についてくれていたトレーナーさんの声。
数拍遅れて、あたしは返事をした。
秋に入ってから今日まで、あたしたちは着々と準備を整えてきた。
前走の神戸新聞杯で活かしきれなかった夏の経験値も、視野と状況判断、そして瞬発力といった土台を鍛えた今なら、今度こそ表に出し切れるって信じられる。
「……トレーナーさん」
「?」
「あたし、今日……このまま、走ってもいいんすかね」
それでも、不安は消えなかった。
勝てるかどうか、だけじゃない。今グルグルと回り続けるあたしの頭の中には、それとは別の凝りみたいなものが残っているみたいだった。
朝にホテルで起きて会場入りするまで、あたしは色んなものと向き合ってきた気がする。
支度を整える間に流れていたテレビのニュース。ここへ来るまでにすれ違ったたくさんの人たちの会話。内容はどれも似たようなものだった。
数年ぶりとなる七人目の三冠ウマ娘の誕生。それを待ち望む期待だけが、そこら中に溢れ返っていた。
「みんなが、あいつの勝利だけを願ってる。中には、それが当然だって信じてる人もいました。これからあたしたちは……あたしは、それとも向き合いながらレースをしなきゃいけない。
ここまで一度も勝つことができなかった、あの怪物と。もし、そこで──」
相応の力を身につけられた今だからこそ、色んな可能性が頭に過ぎる。
所詮はもしもの話だ。ここまで結果を出せてこなかったあたしが言ったところで、みんなにはきっとあり得ないって笑われるだけだろうけど。
長いレース史に残るような大きな偉業。
いつだってそれは、決して約束された物語みたいに絶対のものじゃない。達成されるまであと一歩の所まできて、惜しくも阻まれてしまうことは珍しくなかった。
そして、その最後の障害となってしまったウマ娘の中には、世間の期待を踏みにじった仇のように扱われた子もいる。
彼女たちなりに必死で挑んでつかみ取った結果なのに。その先で待っていたのは、思いも寄らない悲劇ばかりだった。
「……なんて。ちょっと、自意識過剰っすかね。はは」
胸につかえた気持ちを、そのまま全部言葉にしてしまうところだった。
それを途中で遮って、あたしは誤魔化すように笑顔を作る。
……たとえそれが、妄想に過ぎないとしても。
それでも、怖いものは怖い。
まるで世界中の正義を一人で相手にしているような。そんな不安が、なかなか拭えなくて。
「
「……!」
閉じていた目を開ける。ゆっくりと顔を上げて、あたしはそちらを振り向いた。
そこに立っていたトレーナーさんは、堅苦しさなんてないいつも通りの表情で、あたしに微笑みかけてくれている。
「君の不安は間違ってない。確かに、君のことを知らない世間の誰かは、ただ純粋にオルフェーヴルの勝利だけを願っているかもしれない。それが絶対だって、盲目的に信じてさえいるかもしれない。
でも、俺たちはウインバリアシオンを知ってる。怪物なんて言われた王様の背中を追って、何度も悔しい思いをしながら、それでも立ち上がる君を見てきた」
「……」
「その勝利が間違いだなんて、誰にも言わせるもんか。君はもう十分に、その栄光を手にするだけの資格を持ってる」
「今日は、ただ思いきりぶつかってくればいい。その後のことは、みんなで一緒に考えればいいよ」
……みんなで、か。
目を逸らしていた控え室の照明は、何だかとても眩しかった。
暗い思考の中に沈んでいた記憶がよみがえってくる。ネイチャさんにシュヴァルさん、パーマーさんたちクラスのみんなと、ファンクラブの人たち。あたしは、あたしを信じてくれた人たちと一緒に、ここまで走ってきた。
そして、トレーナーさんも。
誰よりもずっと近くにいてくれたこの人が、今まであたしの勝利以外を口にしたことなんて、一度もなかった。
「トレーナーさん。ちょっとだけ、手、貸してもらえませんか」
「?」
少し軽くなった腰を上げて、トレーナーさんの方に近づく。
意味が分からなさそうに首を傾げながらも、トレーナーさんは手を伸ばしてくれた。
それを、両手でそっと包み込む。
「……震えてるんすね。トレーナーさんも」
「武者震いってやつかな。……なんて、流石にちょっと嘘くさいか」
「ふふ。そうかもっすね」
そんな不器用な強がりが、今のあたしにはむしろ心地よくさえあって。
同じ恐怖を感じていながら、自分の勝利を信じ続けてくれている人がここにいる。分かってたはずなのに、気づくとまた見えなくなってしまっていた。
きっと、今はそれだけでいい。
もう一度握りしめた手の感触を頼りに、あたしの呼吸は元のリズムを取り戻していく。
「頑張ってきますね」
「……ああっ」
最後に視線を交わし合う。次にここへ戻る時、あたしはどんな顔をしているだろう。
それは分からない。でも、今は前に進むしかない。
そう思い立って、控え室をあとにした時の決意を、あたしはまだ覚えている。
──────────
「負けんなよー! バリやーん!!」
「私たちがついてるからね! いつも通り、全力でいっちゃってー!!」
何も待っていないかもしれない。どこかでそう思っていた視界にも、気づけば大きな赤い幟がたなびいていた。
広い世界の片隅から注がれるその声援を、今度は逃さずに聞き届ける。
一人じゃなくなったその場所で、あたしはようやく、最後の覚悟を握りしめた。
【3】
「……よかった。落ち着いてるみたいだな」
十八人の出走者のアピールが終わり、パドックの賑わいが静まった頃。
ゲートインまでの準備が進む間の観客席で、自分は一つ安堵の息を吐いていた。
出走前の観客に向けたあの
枠順からして、直後にはオルフェーヴルのアピールも続き、当然会場は別世界のような盛り上がりに包まれた。それでも、遠目にシオンが動揺している感じはなかったと思う。
倒すべき敵をしっかりと見つめ、気持ちを冷静に処理できているのなら、いい兆候だ。
あとはトレーニングの成果を出し切るだけ。こちらも自然と手すりを握る手に力がこもっていた。
「……?」
あらためて会場を見渡すと、満員になった席の向こうに見知った顔を見つける。
今まで全然気がつかなかった。ダービーの時なんかはあちらから余裕綽々といった様子で喋りかけてきたものだが、それがないところを見ると、おそらく向こうもこちらには気づいていないんだろう。
……あるいは、気づいた上で、あえて。
手すりをしっかり掴んで、少し身を乗り出すようにもしているその姿は、何だか意外に思えた。常に飄々としているようなあいつでも、気持ちが落ち着かないということはあるのかと。
なら、今はわざわざ顔を合わせる必要もない。
立場や目指すものは違っても、互いに担当ウマ娘の晴れ舞台であることに変わりはない。絶対の王などと呼ばれていても、その隣に立ってきた身として、譲れないものもあるはずだ。
語らいはもはや無粋。ここにいる自分たちはもう、最後まで彼女たちを見守ることしかできないのだから。
程なく、ウマ娘全員のゲートインが完了する。
ファンファーレの消えた会場には、すでに重い沈黙が立ちこめていた。
「……」
そして、その均衡を破る金属音が鳴り響く。
──────────
一斉にターフへと解き放たれたウマ娘たち。各自スタートに出遅れはなく、横一直線だった隊列は次第に縦長へと変じていく。
オルフェーヴルは中団やや後ろへ移動。シオンはそれより後ろ、後方集団の最後尾に陣取った。
「あれ? シオンちゃん、あんなところに……大丈夫かな」
「何の、まだこれからさ。掛かってる感じもないし」
近くで彼女の名を呼ぶ声。無意識にそちらへ耳を澄ませる。
確かに、あれだけの数で走っている中の一番後ろだ。一見するだけでは不利に感じられるところもあるだろう。
けれど、それは狙い通り。焦ってペースを速めようとしていないのが、その証だ。
彼女の脚質は追込み。後方から一気に勝負を仕掛けられるだけの力は、元々ちゃんと備えている。あの思いきった位置取りだって決して無謀じゃない。
今回は菊花賞だ。長い距離のレースでは、当然体力の管理が不可欠。集団内の争いに参加せずに脚を残すのだって、十分に選択肢の一つになり得た。
……とはいえ、思い通りにはいかないか。
スタートから一周目までは、かなりのスローペースが続いた。
目立って逃げを図るウマ娘もおらず、前方集団の中で起きていた先行争いは、思っていたよりも早く落ち着きを見せていく。
こうなると、前を走る子たちもそれほど消耗はしないだろう。皆に等しく一定のペース維持が許される現状では、終盤における体力面でのアドバンテージはあまり期待できない。
そして、先頭での変化がなく密集されているほど、後方集団からの攻めもまた難しくなる。自ら動いて波乱を起こせば一気に駆け上がるための活路が開く可能性もあるが、そのタイミングの見極めは相当シビアだ。
このままだと作戦が機能しない。
となれば、あとはシオンが言っていた通り──。
「……!」
しばらくは様子見の展開になる。そんな中、異変が起こったのは二周目の向正面。
停滞するばかりの展開を嫌ったのだろうか。そこで動きを見せたのは、あのオルフェーヴルだった。
「ハァァァァァッ……!!」
王の咆哮が会場を揺らす。硬直が解け、集団の密集に亀裂が生じた。
強引に前へ踏み入り、そのままスムーズに次の加速へ繋げるオルフェーヴル。これを見過ごせないと言わんばかりに、周りを囲んでいたウマ娘たちも動き出した。
隊列が乱れていく。その影響は後方にまで波及し、風通しもかなりよくなった。
一方で終盤も近い。結局誰にも抑えることはできないまま、勝負をしかけたオルフェーヴルはなおも前進を続けていった。
何て思い切りのよさだ……。
凝り固まった展開に対し、自ら堂々と切り込んでいく剛胆さ。心身とも、自分の実力によほどの自信がなければ、あんな真似はできない。
驚異的な脚の持続。それは夏合宿で見せたものよりも、数段磨き上げられているように見える。
この菊花賞を見据え、あれからもさらに研鑽を積んだのだろう。それは暴君なりの執念か。クラシックの王冠を自分のものと豪語しながらも、奪還に至るまでの道行きに慢心はない。
今この場では、以前までの彼女にはなかった、一種の泥臭ささえも感じられる気がした。
あるいはそれは、用意周到なあいつが隣にいてこそ。この数ヶ月で、後から彼女に備わったものだったりするのだろうか。
『上がってきたオルフェーヴル!! 集団を蹴散らし、グングン先頭へ駆け上がる!!』
実況にも熱が乗る。依然として前方での混乱は続いていた。そのきっかけを起こした張本人のみを除いて。
状況に浮かされた他選手では止める余裕もない。観客席も決着の時を悟る。
当然だ。
そこだけを見ていたなら、誰だってそう思う。
「やぁぁぁぁぁぁッ!!」
「───!!」
迫り来る別の掛け声。直後、会場の空気がまた一変する。
長期戦となる今日のレースにおいて、この土壇場まですっかり置いてけぼりをくらっていた後方集団。攻め上がるタイミングを失いかけていたそちらには、その時点でもう誰も注目していなかった。
けれど、可能性は残されていた。
針の穴ほどの刹那。それこそが、彼女が待ち望んでいた奇襲の好機だった。
先頭との間に生じていた十六人分の壁。それをたった今、彼女はその脚でぶち抜いてきたのだ。
『こ、ここでウインバリアシオン!! 後方からの異常なごぼう抜き!!』
『このまま先頭、オルフェーヴルとの勝負に持ち込む算段か!?』
【4】
──────────
「後方から一気に……ですか」
「ああ」
それはまだ、長い合宿から学園に戻ってきたばかりの頃だった。
秋以降、特に菊花賞に向けたトレーニングの方針として話し合っていた時、トレーナーさんがふとそんな話を切り出した。
「合宿最後に見たオルフェーヴルの走りを、思い出してみて欲しい。
彼女のそれは、あの時点でもう菊花賞の長距離を見据えた域に仕上がっていた。あれ以上のことを本番でこなされるとしたら、正直、真正面から競り合うのは相当厳しいと思う」
「……」
トレーナーさんの分析に集中しつつ、頭の中では、あの模擬レースの映像が浮かび上がっていく。
あの時、あたしは確かにオルフェさんにギリギリまで迫ることができた。ただその結果は、あたしにとっては合宿で基礎が強化できたことの証明でもあったけど、それ以上に、やっぱり第四コーナー以降での奇襲を想定した作戦が大きかったとも思える。
実際、あいつのスタミナ管理には余裕があった。本番でも同じことを、と考えたら……やっぱり、それは。
「だからこそ、菊花賞はスタミナを温存する作戦でいきたい。序盤は最後方に陣取って競り合いを避け、途中は少しずつ後方集団に合流しながら脚を残す。
勝負をしかけるのは最終盤。そこでぐっと息を入れて、集団の中を一気に駆け上がるんだ」
トレーナーさんが堂々と言い放つ。理屈として理解はできていた。それでも。
「確かに、あたしの脚質には合ってるっすけど……それって、もしタイミングが少しでもずれたら」
集団を躱しきれずに前が詰まる。そもそも、先頭での勝負にだって間に合うかどうか。
レースの展開にも大きく左右される、難しい作戦だ。賭けの面だって強い。今のままじゃ、どうしたって不安は拭いきれなかった。
「……あたしに、やれると思いますか?」
「もちろんだ。そのために、ここから少しでも出来ることを進めていく」
そんなあたしの返事も分かっていたんだろうか。
向き合うトレーナーさんの目には、少しの誤魔化しもないみたいだった。
「まずは、息を入れるタイミングからだな」
──────────
『上がってきたオルフェーヴル!! 集団を蹴散らし、グングン先頭へ駆け上がる!!』
その時、風が変わった気がした。
スタートからしばらく。作戦通りに体力を温存しながら、少しずつ後方集団に合流していった頃合い。
スリップストリームによる空気抵抗の減衰。それも含めて、目論見通り脚は十分に残っていた。
……やっぱり、あんたはじっとしてらんないっすよね。
前方が詰まっているのは分かっていた。そんな状況が長く続くほど、あたしたちの作戦が難しくなっていくことだって。
それでも待った。それは確信があったからだ。
オルフェーヴルが中団後ろについた時点から、あたしは一度だってその背中を見失わなかった。
先頭集団に混ざれなくて苦しくなるのは、あいつだって同じ。道が開かないと分かったなら、自信家なあいつは必ず自分でそれを作りにいくと思った。
そして予感は的中。オルフェーヴルの進軍を告げる合図と並行して、その混乱はあたしのいる後方にまで伝わってきていた。
レースはそのまま最後のカーブへと差し掛かっていく。
「──!!」
ここだ。ほんの一瞬だけ、わずかに脚を緩める。
深く息を吸いこむ。集中して、風を体内へ巡らせながら、それが手足の末端にまで行き届くイメージをする。
草原の香りが胸をすく。
エネルギーが細胞の一つ一つに宿っていく。
そして、あたしは顔を上げた。
「やぁぁぁぁぁぁッ!!」
カーブに沿って広がっていく集団の裂け目。
それが見えた瞬間に、脚はもう次の踏み込みを始めていた。
思いきり駆け出す。鍛え上げた体幹で遠心力を制しつつ、前に連なるウマ娘たちの外側を回っていく。
ただ、一心不乱に。
それでも、内を走る子たちの動きに注意しながら。
あいつのいる先団を目指して、まっすぐに突き進んでいく。
『こ、ここでウインバリアシオン!! 後方からの異常なごぼう抜き!!』
『このまま先頭、オルフェーヴルとの勝負に持ち込む算段か!?』
当然ッ!! そのために待ってたんだ!!
観客席がどよめくのが分かった。そして今、それを引き起こしているのが自分だっていう実感が追いついてきて、脚はさらにその回転を増していく。
近づく第四コーナー。先頭のあいつまでは、あと一人。
見えた……ッ!!
最終直線へと向かう一歩手前。オルフェーヴルは姿勢を低くして、今まさにスパートを掛けようとしていた。
逃がすか──降りかかる遠心力と慣性をこらえながら、そのまま軸足に全体重を掛ける。
「だぁぁぁぁぁぁッッ──!!」
地面が弾け飛ぶ。爆発の瞬間はほとんど同時。
視界の端を何かが通り過ぎる。あたしはそのまま、振り返らずに加速に乗った。
…………えっ……。
思考が追いつく。反射的に顔を上げていた。
その先に、他の誰かの後ろ姿はもうない。
『ウインバリアシオン、ここで躱したッ!!』
『オルフェーヴル伸びない!! 先頭、ウインバリアシオンです!!』
遅れて実況の声も届く。告げられた状況に、あたしは一瞬耳を疑った。
オルフェーヴルが、後ろ……あたしが、先頭に……?
──まだだっ!
一瞬の動揺。緩みかけていた緊張をもう一度きつく縛り上げる。
脚の回転はそのまま。頭の中だけで状況を再確認する。
(これが、その景色──)
今、あたしは間違いなく先頭にいる。誰よりも前に。あいつよりも先に。
鼓動が震える。それは初めての興奮だった。
トゥインクルシリーズの最前線。由緒あるGⅠレースの一つ、菊花賞の大舞台で。
その王冠に一番近いところに、あたしはいるんだ。
「うぉぉぉぉッ!! バリやんが、バリやんがついに……!!」
「いっけーーーーッ、シオンちゃぁぁぁぁぁぁん!!」
観客席の前を横切っていく。赤い幟がたなびくのが見えた。
自分の名前を叫んでくれている人たち。背中を押してくれた人たちの姿が、瞳に映る。
嬉しそうに笑っていた。耐えきれなくて泣いている人もいた。
その隣には、トレーナーさんの姿も──
「っ~~……!!」
もうすぐトップスピード。何だか今は、このままどこまでも行ってしまえそうな気がした。
あと少しだ。もうちょっとで、あたしは。
やっと、みんなの期待に応えて
"
「────え」
その瞬間、背筋にヒヤリと風が伝わった。
それはほんの少しの違和感。それでも身体は全神経を研ぎ澄ませる。
な、に……?
視覚、嗅覚、聴覚──頭では少しも訳が分かっていないのに、全身の感覚の方が先に危険を知らせてきていた。
時間がゆっくりになる。その間、聞こえていた音は全て途絶えていた。
そうしてやっと、背後に立ち上ったその気配だけが浮き彫りになる。
「ッ……!?」
思わず振り向いた先。
獰猛な獅子の双眸だけが、そこに輝いていた。
"よかろう。"
"ならば疾く、そこを退け。"
※2026/3/23追記
シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=338048&uid=503660