夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
「今は、振り返らなくていい」
【1】
骨身を震わせる、重低音のような空気の揺らぎ。
異常を感じるには十分だった。全身の肌が粟立って、目眩さえしそうなほどだった。
「……うそだろ」
零れ出た呟きは無意識のものだった。
長いレースも終盤に差しかかり、オルフェーヴルの勝利が濃厚となっていた状況。そこへ、集団の最後方に位置づけていたはずのウインバリアシオンが驚異的な脚で迫り、ついに追い抜いた。
予想だにしなかった逆転劇。会場は一時騒然となった。
二番人気ということもあり、当初こそ、彼女のことを"刺客"として警戒する観客は多かったように見えた。それがこの土壇場までずっと息を潜めていたものだから、いつしか注目も薄れていったのだろう。
オルフェーヴルの勝利を謳う声は数瞬途切れ、静寂の余白が戻った。その間に、塗りつぶされかけていた他のファンたちの声が勢いを取り戻していく。
ついに、彼女の夢が形になる。
新しい主役が産声を上げる瞬間を、明確に思い描いた誰かもいただろう。
けれど、レースはまだ終わらない。
更なる異変は、残り僅かな最終直線にも潜んでいた。
ゴールを目前にしてトップスピードへ至ったシオン。しかし、オルフェーヴルはずっとその背後についていた。
不気味なほどに静かだった。思えば、その時点で違和感はあったのかもしれない。
直後、姿勢が深く沈み込む。今までには見られなかったオルフェーヴルの変化。緊張は増し、会場を覆っていた大衆の空気は、束の間緩やかになる。
「オォォォォォォォォッッ!!」
咆哮。空間がひび割れるほどの衝撃が薄ら見えた。
いっぱいになったかと思われたその走りは、しかしそこから新たな加速を生み出す。グンッと、まるでゴールの方へと引き寄せられるかのように。
もはや競り合いが生じる間もなく、両者の影がもう一度交差した。
『こ、ここで差し返した!? 先頭、再びオルフェーヴル!! オルフェーヴルです!!』
告げられる逆転の知らせ。先頭を走っていたシオンが、再び二番手にまで押し戻される。
「っ……」
内側から張り裂けそうなほど、手すりを握る手に力がこもっていた。
作戦は完璧に決まっていたはずだ。決して順風満帆ではなかったレース展開の中でも、細い糸を手繰りながら、彼女はずっとただ一つの勝機だけを見据えてきた。
その末に成し得た。オルフェーヴルのタイミングを察知し、間にあった集団の流れさえ見極めて。
シオンは、確実に宿敵の一歩先へと辿り着いた。
なのに、どうして。
何で、こうなる。
鮮明な誤算。頭は現実を拒むばかりで、思考が前に進まなかった。
まさか、あそこまで追い込まれておいて。オルフェーヴルには、まだその先があったのだと。
理解の範疇を超えた展開に、視線は力なく傾いていく。
────
「!」
ハッと顔を上げる。
耳を掠めた一瞬の呟き。あり得ないと分かっていながらも、声の主を追いかけるように、意識をターフの上へと引き戻す。
立ちふさがる大敵の背中。もはやその軌跡をなぞるばかりとなってしまった、こんな絶望的な状況でも。
「シオン……」
不屈の挑戦者──ウインバリアシオンは、なお笑みを浮かべる。
──────────
……ああ。また、
前を行く後ろ姿に、思わず溜め息が出そうになった。
ついさっき、あたしが先頭に立ったその瞬間。そこから程なくして、真後ろにあったあいつの気配が、いきなり爆発したみたいに大きくなった。
それはまるで嵐や稲妻みたいな。どうしようもなく圧倒的で、押しつぶされそうになるほどの不動の存在感。
抗って、耐えて、粘って。それでも、足音は近づく。
あたしとあいつの位置取りは、いつしか呆気なく入れ替わっていた。
「はぁ、はぁ……ッ……んだよ、それ……っ」
無意識のうちにぼやいていた。やけくそみたいな笑いが微かに混じったのは、きっと気のせいじゃなかったと思う。
完全に裏をかいたのに。今度こそ、後ろから差しきってやったと思ったのに。
あいつは倒れない。それどころかより一層速くなってきて、またこうしてあたしの前に居座っている。
全力じゃなかった? あれで、まだ?
……っとに、こいつは。
「──────すごいな」
底が知れなさすぎて、気味が悪いくらい。
風に流れるタテガミが綺麗だった。いつもよりずっと、思わず目が釘付けになってしまいそうなくらいに。
その背中に、気持ちが引き寄せられていく。
状況はもはや絶望的だ。でも、
「ッ……ハァァァァァァッッ!!」
脚はまだ残っているだろうか。いや、絶対まだ何とかなる。
あと少し、ほんの少しだけあれば。
きっと、もう一度踏み出せるようになるはずだって。
鼓動が高鳴る。状況は最悪としか言いようがないのに、身体だけはおかしなほど軽かった。
まだ足りない。こんなところで終わりたくない。
……また、さっきの景色が見たい!
最大の障害を越えた先。誰の後ろ姿もないような、ただ静かで澄み切った世界。みんなが笑っていた、あの場所に。
「くそっ、くそ……っ……ふふ、あははっ……!」
これが、今のあたしの全部か。
一欠片も余すことなく、これだけ振り絞っても、届かない。
今はまだ。それでも、
『ゴーーーーーールイン!! オルフェーヴル、オルフェーヴルです!!』
『史上七人目の大偉業!! 三冠ウマ娘、オルフェーヴルがここに誕生しました!!』
【2】
──────────
新たな三冠ウマ娘誕生のニュースは、早くも日本中を駆け巡っていった。
様々な試練に見舞われることとなったこの年。途方もなく長い道のりに取り残されたような世界の中で、それは確かに、希望の象徴となり得るだけの大きな出来事だったのだろう。
テレビもネットも、すでにその話題で持ちきりだ。
オルフェーヴル、三冠、暴君……──トレンド上位を埋め尽くすのは、そんな単語ばかり。
あるいは、その中に別のウマ娘の名が刻まれていた。そんな
今となってはもう、それは観測のしようのない可能性だ。
──ワァァァァァァァ……ッ
会場の喧騒は未だ鳴り止む気配もなく。
当分は、きっとこんなお祭り騒ぎが続くんだろう。
「……みんな大はしゃぎっすね」
「そうだな」
この結末だけは揺るがないと、あれだけ疑いもしていなかったくせして。
蓋を開けてみればこの通りだ。思っていたよりずっと小心者だったらしい世間の声は、今は全てを解き放つかのように、ただ王の凱旋だけを讃えていた。
「まったく。ちょっとくらい、こっちの気持ちも考えてくれたっていいのにな」
「! ……ふふ。そうっすね」
そしてそれを、自分たちは会場の外で聞いていた。
わざとらしく冗談めかして言うと、シオンは控えめに笑う。
準備期間も含め、気づけばすっかり長い旅路となっていた菊花賞も、ようやく幕を閉じた。
シオンと一緒に控え室まで戻った後。日が暮れてからのウイニングライブまではまだ時間があったし、彼女のこともゆっくり休ませてあげられると思っていたのに、この賑わいぶりだ。
地鳴りのような歓声が絶えない室内は、どうにも落ち着かなくて。ひとまず着替えを済ませたシオンを連れて、こうして外まで出てくることにしたのだった。
まだ人気の少ない、物言わぬ木製のベンチだけが並んだ静かな休憩スペース。
喧騒はいい具合に風の中へと散っていって。遠くなったそれを別世界のことのように笑い飛ばせるくらいには、そこの居心地は悪くないものだったと思う。
「終わったんすね……菊花賞」
それでも時々、シオンは会場の方を見ていた。
気にするなという方が無理な話なんだろう。彼女にも、今日に向けて積み上げてきたものが沢山ある。
一拍おいた今こそが、むしろ一番キツいのかもしれない。
「……あの、トレーナーさん」
「?」
「その……さっきの、あれ、なんですけど。もう一回……ダメですか」
「……ああ」
それは途切れ途切れで、取り留めのない言い方ではあったけれど。
隣で小さく頭を下げて、躊躇うように視線を泳がせているその横顔に、彼女が何を言いたいのかは何となく分かった。
自然、レース終わりの地下通路での出来事が脳裏に蘇っていく。
──────────
激しい戦いを終えて、ターフの上から帰還してきたウマ娘たちの姿があった。
ただ一人、勝者だけをウイニングサークルに残して。重い沈黙に包まれた通路の中を、彼女たちの力ない足音だけが通り過ぎていく。
無遠慮に耳を澄ませば、あるいは嗚咽を堪える息づかい等も、聞こえていたかもしれないけど。
「……! シオン」
シオンが戻ってきたのは、その一番最後だった。
俯きがちに、それでも一定の足取りでこちらに近づいてくる。耐えきれなくなって、自分も小走りで駆けていった。
途中、違和感を覚えて立ち止まる。
対照的に、歩みを止めずに進んできたシオンは、そのままこちらの胸に頭をぶつけた。
「えっ……あ、トレーナーさ」
「あ、ああ。お疲れ様──」
言い終わるより先に、彼女は反射的なバックステップで距離を取る。
恐ろしく早い反応だった。それくらい驚いたのか、あるいはレースの興奮がまだ残っているのか。その顔には、仄かな赤みが残っていた。
「す、すみませんっ。あたし、ぼーっとしちゃってて……全然、気づかなくて」
そう言って慌てて頭を下げる。
汗はかいているし、脚も震えている。全力の勝負を終えたばかりの疲労は、はっきり伝わってきていた。
けれど、同時に。そんな姿は、異様なほどにいつも通りの彼女にも見えていて。
「気にしてないよ。……それより、身体は大丈夫か? あれだけ長いスパートをかけた後だし、脚に違和感とか」
「はい。それは、全然。めちゃくちゃ疲れてはいますけど」
困ったように笑顔を作るシオン。身体の異常はないと、その言葉に偽りはないんだろう。
それなら、あともう一つ。こちらは、何と聞いたらいいのか。
「平気、か?」
考えが纏まるより先に、"何が"かが明確になっていない抽象的な問いかけが零れ出る。
シオンは目を丸くしていた。彼女の視点では、意味が分からなくてもおかしくはなかったはずで。
「……」
続いた沈黙は、どこか答えを躊躇っているようだった。
「平気、なんです。自分でも、おかしく思えるくらい」
ようやく返ってきた返事は、まるで自分自身にも問いかけている最中のような、どこか不思議な響きをしている。
「そう、っすよね……あたし、負けたんです。ちゃんと作戦通りに走って、一度は確かに、あいつを抜いたのに……結局、最後の最後で逆転された」
「……」
「悔しい。あとちょっとだったのに。少しでも何かが変わってたら、あそこに立っていたのはあたしだったかもしれない。ついそう思っちゃうくらいに……でも」
その先は少し、言葉に詰まる。何となく、言いづらいのではないかと思った。今、特に
思い返せば、今日の菊花賞には意外さが溢れていた。あのオルフェーヴルが今までにない泥臭さを見せたように、シオンにもまた、確かな変化があったのだ。
「やりきれたんだって……思っちゃうんです」
レースの終盤。そこで遠目に見えた彼女の横顔が、未だに頭から離れない。
強敵に行く手を阻まれ、あと一歩の所でゴールに届かなかった。
その道行き、ギリギリの刹那の中で。彼女は一度、確かに楽しそうに笑っていたのだ。
それがどうしてだったのか。今ならちゃんと、分かる気がした。
「──シオン」
「?」
逡巡する眼差しの揺れ。遠慮がちに佇んでいた彼女。
胸に込み上げる感情のまま、自分はそっとそちらに手を伸ばした。
──────────
ふわりと柔らかな髪の手触りには、今更ながら、少しばかり躊躇いを感じさせる。
それでも、頭を撫でられているシオンはとても満足そうだった。それを隠すように、顔は少し俯きがちではあったけれど。
「今は、振り返らなくていい」
本当はもっと、何度だって、そう言ってあげたかった。
今日のレースで、シオンは間違いなく今までの全てを出し切ったはずだ。
デビュー以来ずっと磨き上げてきた基礎能力。夏合宿を経て身につけた、スリップストリームとコーナー走法。この秋から地道に練習を続けていた、息入れの技術までも。
それらを活かせるだけの判断力があった。広い視野を以て、自分と相手の状況を見渡せていた。
そしてその果てに、ほんの一瞬を見極めて勝負に転じた。身体の反応に遅れはなく、彼女の瞬発的な加速は、確かに勝機に繋がったのだ。
結果として、オルフェーヴルには届かなかった。それでも。
「よく頑張ったな」
「……はい」
彼女は実感したのだろう。今までの努力が形になっていく手応えも、もう少しで届きそうだったという自信も。
それは全てを出し切った選手だけが辿り着く、悔しさを超えた先にある領域。打ちひしがれる必要なんてない。ただ誇らしく、堂々と胸を張っていればいい。
また次へ進んでいくために。今は、しばらくこのまま。
「わーーーーーん!! シオンちゃぁぁぁぁぁんッ!!」
「……!?」
そう思ったが、反射的に手を引っ込める。
チラリと時計を見た。そういえば、そろそろ待ち合わせの時間だったことに気づく。
「こら待ちなって! あんたそんな、せっかくいい雰囲気だったところに!」
立ち上がって声がした方を振り返る。
そこには元気に駆けてくる少女たちの姿があった。その少し後ろには、同じく見慣れたファンクラブの皆さんが続く。
泣き叫びながら、全力疾走してくる。彼女はシオン目がけてバッと両腕を広げた。
「シオンちゃっ──ぐぇっ……!?」
「何どさくさに紛れて抱きつこうとしてんだコラァ! そんなうらやまs……じゃなくて、それはファンとして超えちゃいけない一線でしょーがッ!!」
「ぎ、ぎぶっ、ぎ、ぶ……」
しかしあと一歩のところで締め上げられる。見事な固め技だ。自分も流石に止めるべきかと身構えていたので、正直助かった。
泣きながらも嬉しそうに笑っている。きっと感情が高ぶったんだろう。その気持ちだけは、分からなくもないが。
「……ふふ」
まあ、それでも。当のシオンも吹き出すように笑い声を零していた。
日常が緩やかに戻っていく。こちらもこちらで、すっかり賑やかになりそうだった。
【3】
人の気配を離れて、レース場の片隅を歩いていた。
菊花賞の後、ファンクラブの皆さんへの挨拶も終えて。夕方のウイニングライブのことで確認することがあるからって、そう言って会場に戻ったトレーナーさんと、あたしは別行動を取っていた。
──よく頑張ったな。
頭の上に乗っかっていた幸せな気分に、足取りはまだ少しフワフワとしていた。いつまでもこのままじゃいられないと、それを振り払うために首を振る。
レースが終わったって、まだ気を抜いていいわけじゃないんだから。応援してくれたみんなに感謝を返すためにも、ライブは頑張らなきゃいけない。
たとえ、センターのあいつが一番目立っていても。あたしは、あたしにできるパフォーマンスを精一杯やらないと。
「……もうちょっと広いとこないかな」
とはいえ、まだ時間はある。本番前に振り付けを確認しておこうと、練習に丁度いい場所を探して回っていた。
なるべく人気がなくて、できればある程度開けている場所。ありそうで意外と見つからないそんなスペースを求めて、あたしの散策もそれなりの時間が経つ。
「?」
途中、通りすがりの外壁にひっそりと貼られたポスターが目に止まる。
どうしてこんなところに……と思いつつ、内容を見てすぐに納得する。ここへ来る間、この会場の色々なところで見かけたのと同じやつだった。
こんな大事な告知だ。なるべく多くの人の目に入るように、色んな所に掲示されるのも当然だろう。
──第三十一回・ジャパンカップ。
十一月の後半、東京レース場で開催されるGⅠレース。国内外を問わず、卓越した実力を有するウマ娘たちが集う場所だ。
一応、あたしたちのように、クラシック級に属しているウマ娘でも出走登録はできる。ただ同時に、それよりさらに上の、シニア級の第一線で戦ってきたベテランの子たちも参戦してくる。経験値の差もあって、相当厳しい勝負になるのは避けられないはずだ。
「そういえば……次の出走予定って、まだ」
不意にそう思い出す。
夏以降はずっと、この菊花賞を目標に見据えて動いてきた。終わったばかりだし仕方が無いとはいえ、次にどこを目指して調整していくかは、トレーナーさんともまだ話せてなかったはずだ。
……出て、みようかな。
今までだったら、あたしなんてまだまだ実力不足だって、そう躊躇っていたかもしれない。
でも、今は自分の力を試してみたかった。たとえこれが思い上がりで、実際にシニア級の子たちと戦って敵わないとしても、ここまで身につけたものでどこまでやれるのか。
『史上七人目の大偉業!! 三冠ウマ娘、オルフェーヴルがここに誕生しました!!』
脳裏に過ぎる大きな歓声。キュッと、胸に当てていた手を握った。
ゴールラインを超えた後の、そのぼやけた光景のことを思い描く。身体の力全てを使った後の頭は酸欠気味で、しばらくは呼吸も荒くて、まともに顔も上げられなかった。
そんな中で、どうにか少し持ち上げた視線。
そこにはどうせ、いつもの堂々とした姿勢で観客席に向き合っている、あの憎たらしい後ろ姿があると思っていたけど。
あいつも、同じだった。
あたしほど深くじゃないにしても、腰を支えるみたいに手を添えながら、背中を傾けて。その視線は地面へと向けられていた。
荒々しい呼吸が、上下する肩の動きにはっきり表れていた。静かそうに見えて、余裕なんて程遠く見えるような意外な立ち姿。
今日のあいつをあそこまで追い詰められたのが、今のあたしの力だっていうなら。
「……トレーナーさんにも、話してみよう」
きっと、大丈夫。今日の成果を一緒に受け止めてくれたあの人となら。
次がどんな結果でも、きっとそれより先の経験に変えられるはずだから。
「──っ、どうしてですか!?」
「……え」
壁の向こう側から、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
びっくりしながらも、脚は自然とそちらに向く。曲がり角の辺りまで近づくと、あたしはその先を覗き込んだ。
そこには二人の女の子がいた。年頃は多分、あたしとそんなに変わらないくらいの。
声を荒げているのは、ショートボブの女の子のようだった。
「シオンくんの走り、とても立派だったでしょう? 真っ直ぐで、ずっと一生懸命で。今まで頑張ってきたのが、やっと……」
「そんな怒んないでよ。だって、仕方ないじゃん。今日のレースを見てたら、流石に、どうしたってオルフェーヴルさんに惹き付けられちゃうよ」
もう一人、肩まで伸びたセミロングの女の子の口ぶりは、彼女の剣幕に戸惑うようにしながらも、淡々としていた。
「それに、釘街さんはそう言うけどさ。私は今日、初めてレースを見に来たんだよ? あの子が今まで頑張ってきた、なんて言われてもさ。……そんなの、分かるわけないじゃん」
「……! それは」
そのやり取りだけで、何となく事情を分かってしまう。
ショートボブの子は多分、あたしのことを応援してくれていたんだと思う。その強い口ぶりからして、もしかしたら、相当以前から追いかけてくれていたのかもしれない。
セミロングの子は友達、なのかな。彼女の方は初めてって言っていたし、今までにレースを見た経験はなかったんだろう。きっと今日が、彼女にとって一度目の現地観戦だったんだ。
初めて見たレースで、あの輝かしい姿を。
「……仕方、ないよな」
だって、今やあいつは日本中を躍動させてしまうような存在、三冠ウマ娘だ。その誕生の瞬間に立ち会っておいて、それ以外のことが目に入る人なんて、そうそういない。
分かってたんだ。ちゃんと。
あたしは届かなかった。今ある全部を賭けて、それでも、あいつの偉業を阻むことはできなかった。
それでも、今はいいんだって。自分の力を尽くせたことを、それを同じように喜んでくれる誰かがいることを、誇ってもいいんだって。
そう、思ってた。今だって、まだ。
「……絶対勝たせるって、言ってたのに」
「?」
「シオンくんはまだ、あんなものじゃない……絶対、あと少しでも……何かが違ってれば、今日だって──」
「トレーナーさんが、もっとちゃんとしてたら」
「──!」
このままでいいって、思っていたかっただけかもしれない。
怒りを振り絞るようなその声に、一瞬だけ耳を疑った。
落ち着いていたはずの呼吸のリズムが、また少しずつ不安定になっていく。
それまでは目を背けていた。遠い現実の足音が、コツコツと近づいてくるみたいに。あたしは、今日受け止めるべきだったその事実に気づいていく。
「
……あぁ、そうだ。
あたしは、負けたんだ。
※2026/3/23追記
シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=338048&uid=503660