夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
「こんばんは。こんなところで偶然ですね、シオンさん」
【1】
『──届いたわよ。例のブツ』
菊花賞から数日が経ったある日の午後。いつも通りの仕事の傍ら、何気なく取った電話口から聞こえてきたのは、そんな妙に怪しい物言いだった。
一体何の話だろう。少なくとも、"ブツ"なんて呼ばれるような何かを誰かとやり取りした覚えはないけれど。
「……ああ。シオンの写真のことですか」
『他に何があるってのよ』
やや考える時間があって、ようやくそれに思い至る。返ってきた返答には"当然だろ"というような響きが含まれていたが、果たしてちゃんと会話のキャッチボールをする気はあったのだろうか。
URA職員の笹田さん。今は長期で遠方に出張中とのことで、直接顔を合わせたのは夏合宿が最後だ。おそらく忙しいのだろうけど、その割にはたまにこうして電話をかけてきたりもするので、本当のところはよく分からない。
「あなたがおかしな言い方をするからでしょう。違法取引きじゃないんだから」
『ちょっとした冗談じゃない。……フフ、にしてもほんと可愛いわねぇバリちゃんのメイド姿』
それはもうねっとりと、ご機嫌そうな口ぶりが耳を撫でる。ちょっとだけ他人のふりをしたくなった。
きっとこうしている間も、電話片手に写真へ釘付けになっているのだろう。あるいはすでにファイルか額縁にでも入れているのかもしれない。そんな姿も容易に想像できるような人なのだ。
『メイド喫茶って聞いた時は、てっきりもっと王道な方かと思ってたんだけど。ジャージ服にエプロンとかリボンってのも案外悪くないわね。トレセン学園といえばってとこもあるし、このいつも身近にいてくれるような親しみやすさがまた……こんなバリちゃんとおうちでダラダラ、なんてのもいいわねぇ、ふふふ』
「相変わらずですね。こっちも慣れてきたからって通報されないと思ってますか?」
『うっさいわね。こちとらもう三ヶ月近くバリちゃんと会えてないのよ? 妄想の中でくらい好きにさせろっての』
散々口に出しておいてよく言う。こちらも聞き流すだけでそれなりに負担になっていることくらい、いい加減察してもらいたいのだが。
「はぁ……ひとまず、ご満足いただけたようで何よりです。俺も祟られなくて済みそうだ」
『そうね。ま、今回は勘弁しといてあげるわ。ところで、聞いた話だとツーショット撮影もできたそうじゃない。そっちはお願いしなかったの?』
「…………いや。まあ、一応」
『そう。……何か腹立つわね。寄越せそっちのも』
「は? 嫌ですけど」
そもそもどういう理屈だ。こっちは自分たち用しか撮っていないというのに。
断固として拒否の意を示したいところだったが、流石にそろそろ面倒にもなってきた。理不尽への怒りは物言いたげな溜め息に流すことにして、自分はスマホを握り直す。
「で、用件はなんですか。随分忙しいと聞いてましたが、まさかお礼の電話だけってことはないんでしょう」
『ちっ……まあいいわ』
何とガラの悪い。しかし、こんなでもシオンのことだけは大切に考えてくれている古参のファンだ。でなければとっくに着信拒否にでもしている。
このタイミングで連絡してきたのなら、多分その意図は。
『聞いたわよ。次、ジャパンカップに出るんですってね』
あちらも切り替えたのだろうか。その話の切り出しは、打って変わってストレートなものだった。
シオンの次走の予定。出張中とはいえ、腐ってもURA職員だ。聖蹄祭における一クラスの出し物を熟知していたことに比べれば、そちらを把握しているくらいはまあ自然だろう。
「はい。菊花賞の後にはシオンとも話してましたから。そちらを見据えて、もうトレーニングも進めているところです」
『そ。まあ、そっちの方は心配してないけど』
思いの外淡々とした口ぶりだった。一応、最低限の信頼はしてもらえているということだろうか。
『シニアの子たちと対戦、か。いつの間にか、もうそんなところまで来ちゃったのね』
「……心配ですか。彼女のこと」
『分かりきってることでしょ。そういうローテーションも別に珍しくはないけど……それでも、秋に入ってからは大きなレースが続いてたしね。心身ともに、相応の負荷は溜まってるはずよ』
尤もなことだ。実際のところ、こちらでも少し休息を入れるという選択肢は考えていた。
対オルフェーヴルに備えてやってきた今までの日々には、一旦一区切りがつけられたと思っている。この間の菊花賞だって、勝利こそできなかったが、結果としてシオンは大きく成長し、自らの力をちゃんと誇れるようになった。
だからこその力試し。とも言えるのだろうけど。
いずれにせよ、慎重さを欠かしていい状況でないことだけは確かだった。
『……あんたは、大丈夫なんでしょうね?』
「?」
ふいに電話口に続いた言葉は、実に意外なものだった。
「別に、何ともありませんよ。珍しいですね。あなたがこちらの心配なんて」
「…………」
一瞬だけ呆気にとられつつ、"らしくないことを"と、小さく笑い飛ばすように返事をする。
分かりやすく不愉快そうな沈黙が数秒あって、笹田さんは再び口を開いた。
『合宿で倒れたヤツが生意気言ってんな。あんたの場合、ちょっと小うるさく言っとくくらいで丁度いいって分かってんのよ、こっちも』
「……」
『次はないわよ。あの子のためにも、ちゃんと弁えときなさい』
「……はい」
それほど口が回る気もせず、流石に大人しく頷く。
それが大方最後の会話だった。そこから二、三言適当な挨拶を交わして、通話は締めくくられる。
スマホの画面を落とすと、相変わらずどこか辛気くさそうにしている自分の顔が鏡のように映った。
「……らしくない、か」
咄嗟のことで、変に茶化すような返しになってしまったが。もしかすると、違和感があったのはお互い様だったのではとも思う。
なるべくいつも通りを装っていたつもりだ。けれどあの人に電話越しで見抜かれてしまうようでは、それも十分とは言えないだろう。
他ならぬ彼女に、おかしな心配をさせるわけにもいかないのだし。
『──次、ジャパンカップに出させてもらえませんか』
少し息を抜いて、椅子の背に深くもたれ掛かる。目を閉じると、いつかのシオンの声が思い出された。
ウイニングライブのすぐ後のことだった。次走のレースの名前を口にしたうえで、今の力をもっと試してみたいと、彼女はそう言った。
とても熱意の籠もった瞳で。全てを出し切ったレースの後だとは思えないくらい、静かながらも強い気迫を纏って。
元々出走候補の一つとして考えていたレースだ。シオンの意思が硬いなら、こちらも拒む理由なんてなかった。
『ありがとうございます。
……次こそは、頑張るっすから』
なかった、はずだ。……けれど。
あるいは、何か言っておくべきことはあったのかもしれない。それは頑張ろうとか、次こそ勝とうとか、そういうことではなくて。
あの時、色々考えたはずなのに。自分はどうして、その先の一歩を踏み出すことができなかったのか。
「……でも、今はそれだけじゃないか」
独り言ちて、身を起こす。ロックのかかっていたパソコンの画面を開くと、一時停止になったままの動画のウインドウが顔を出す。
第七十二回・菊花賞。そのアーカイブ。
シークバーの位置を戻して、目当ての場面をもう一度再生する。それはレースの最終盤。思わず目を逸らしかけた、オルフェーヴルがシオンを追い抜く瞬間の一部始終だった。
今さら負け惜しみという自覚はある。それでもあの時、勝機は確かにシオンの手の中にあった。あそこからあれほどあっさり差し返されるなんて、本来あり得なかったはずなのだ。
突如として起きた、後方のオルフェーヴルの豹変。
そう表現したくなるくらいには、彼女はまるで別人のような走りをしていた。すでに一杯一杯かと思われた状況から、完全に展開をひっくり返して見せた。
何かあるはずだ……何か。
あの逆転劇を成し得たカラクリ。隠されていた最後の切り札。
必ず見つけ出して、見極めてみせる。
それは果たして、本当に彼女にしかできないことだったのかを。
【2】
夕方。もう大半の生徒が寮へと帰りついているような時間帯に、あたしは一人外へと出てきていた。
学園をあとにしてからしばらく。民家が建ち並ぶ塀の間をタッタッと掛けていく。この時間特有の美味しそうな香りが風に乗って運ばれてきて、少し気分が逸れそうになったけど、それでも首を振って一定のペースを維持し続ける。
食堂が閉まるまでには戻るって決めている。いくら追込みといっても、それ以上はトレーナーさんにも迷惑をかけるようになっちゃうから。
大切なことだ。特に、今みたいに気持ちが落ち着かない時は。
民家の通りを抜けて、今度は比較的車通りの多い辺りまでやってくる。進行先の信号が赤に変わるのが見えて、少しずつ速度を落としていく。
確か、ここはちょっと長い場所だ。立ち止まって、軽くストレッチをしながら待つことにする。
アキレス腱とふくらはぎをリラックスさせるように意識しながら、せっかく暖まってきた身体が強張らないように動き続ける。
ゆっくり、念入りに、集中して……──。
「……」
そうやっていれば、変に考え事に耽ってしまうこともないかなって思ったのに。
余計な空気を読むみたいに、車の音は少なくなっていく。
あれから結局、次走はジャパンカップに決まった。
ちょっと過密ではあるけど、別におかしなローテーションでもなかったし。実際先の予定を決めておく必要もあったから、きちんと言えば、トレーナーさんも受け入れてくれるとは思っていた。
初めてになる、明確に格上のキャリアを持つウマ娘たちへの挑戦。その上、未知の実力を持つ外国の子たちまで参戦してくるとなると、やっぱり不確定材料は多い。
もちろん、勝つためには全力でいくつもりだけど、それでも今の時点では、まだ"チャレンジャーとしての力試し"の域だ。世間的な期待値だって高いとは言えない。
でも、例えば菊花賞の時みたいに。
身体が思った通りに動いた。今までに積み上げてきた経験やスキルが、最適なタイミングで頭に浮かんできた。
あいつにだって差し迫れたくらいに。あんなパフォーマンスが、もし次のレースでもできたのなら。可能性はある。
……まるで小さな火種みたいな、頼りない希望だけど。
それを大切に握りしめながら、少しでも確かなものへ変えていくために。今はただ、気持ちだけでも自分を奮い立たせ続ける。
『違う。シオンくんはまだ、あんなものじゃない』
『あんな人が、トレーナーじゃなかったらよかったのに』
その度に、あの日聞いたそんな言葉たちがフラッシュバックする。
きっと、あたしは自惚れていたんだと思う。自分の全部を出し切って、ライバルといい勝負をして。トレーナーさんやファンクラブの人たちも、それを喜んでくれているみたいだったから。
でも、結果は結果。あたしは負けて、何も成せなかった。
また、みんなの期待に応えられなかった。
……あいつは、ちゃんとやり遂げたのに。
偉業の達成という重圧を背負って、その王冠を勝ち取った。みんなが待ち望んでいた、クラシック三冠という大きな夢を叶えてみせた。
オルフェーヴルは先に進んだ。強く、大きく。
……じゃあ、あたしは?
あたしの走りだって、もう自分一人だけのものじゃない。誰にも見つけてもらえなかった昔とは違って、今は色々なものを背負っている。
そのために頑張れなきゃ。応援に応えなきゃ。
遠くなるばかりのあの背中には、いつまで経っても追いつけない。
「……あんなこと、もう二度と」
言わせない。そんなの、許せるわけがない。
あたしのせいで、トレーナーさんの頑張りまで否定されちゃう。
それだけは、絶対に。
「──信号、青ですよ」
「……え」
いつの間にか黙々とストレッチを続けていた。そんなところに、すぐ隣から声が掛かる。
聞き覚えのある声だった。低くしていた姿勢から視線を上に挙げていくと、見慣れた学園のジャージが目に入る。
続けて、黒みがかったブラウンの髪。トレードマークのチェック柄のカチューシャ。そして最後に、丸く愛らしい紫の瞳が見えた。
見間違いようがない。いつからかそこに立っていた彼女は、こちらに向けてにっこりと微笑む。
「ブエナ、さん……?」
「こんばんは。こんなところで偶然ですね、シオンさん」
予想外の出来事に、しばらく頭の理解が追いつかなかった。
そこにいたのは、次走ジャパンカップの出走者の一人──ブエナビスタさんだった。
【3】
──────────
実のところ、彼女とちゃんと話をしたのは、割と最近のことだったりする。
考えてみればまだ一月も経っていないはずなのに。今年も例年に勝るとも劣らないほど賑わったあの聖蹄祭も、もう随分前のことみたいに思える。
メイド喫茶の交代時間がやってきた後。外で待ってくれていたトレーナーさんと合流したあたしは、最初の行き先としてとあるお店を提案した。
「ここか……凄い人だな」
「大人気みたいっすね……」
入口から伸びる大行列を前に、あたしたちは少しの間呆気にとられていた。
それは特別教室棟にある、比較的大きな教室の一つ。シックなデザインのスタンドボードに、壁一面に散りばめられた緑と造花の飾り。全体的に落ち着いたお洒落さが特徴の、スイーツカフェだった。
お店の主催はエイシンフラッシュさん。あたしたちと同じ学年のウマ娘で、ドイツからやってきた留学生の子だ。
実家はケーキ店で、彼女自身もお菓子作りを得意としている。あたしも同寮のよしみで手作りケーキを振る舞ってもらったことがあるけど、その時のは本当に心が蕩けそうなくらい絶品だったのを覚えている。
生徒の中にも、フラッシュさんからお菓子作りを習っている子も多いんだそうで。そんな彼女のお店となれば、ここまで繁盛するのも納得するしかないだろう。
……大変そうだけど、一応頼まれ事だし。トレーナーさんも頷いてくれたので、そのまま並ぶことにした。
『スイーツカフェ、ですか?』
『そうそう。朝からさっそく大盛況のとこがあるらしくてさ』
『とりま敵情視察ってことで。二人で行ってきてくれないかな?』
クラスメートのパーマーさんからそう頼まれたのは、確かシフトが終わる少し前のこと。交代後はトレーナーさんと聖蹄祭を見て回るつもりだと、そう伝えた瞬間のことだった。
いきなり何かを思いついたようなあの表情。考えてみれば、視察といいながらも、具体的にどんな情報が欲しいのかも曖昧にしか指示されなかったし。
「…………」
何となく。今までの経験からしても、彼女の意図は透けて見えてしまうような気がした。
現地で答え合わせをするように、あたしはチラリと周囲を確認する。
「ね、これドイツで有名なお菓子なんだって。気になるなぁ……あぁでもでも、こっちの焼き菓子もいいなぁ……」
「いいじゃないか。今日は僕も一緒だ。たくさん頼んで半分こしよう」
「いいの!? ありがと~!! ギューっ」
「何だか異国らしい新鮮な雰囲気……素敵なお店ね。連れてきてくれてありがとう、ダーリン?」
「ふっ、お安いご用さハニー。君と過ごす華やかな一時には、うってつけかと思ったものでね」
「うふふ」
「あっはっは」
っ~~……。
聖蹄祭には学外の人たちもたくさん来ている。そうすると自然、いつもならまず見かけないような光景に出会うことも、それなりにあるわけで。
お店のお洒落な外観に惹かれてか、行列の中にはカップルや夫婦で来ている人たちの姿も結構見かける。あんまり、慣れてないせいか。意識しないようにって気をつけていても、目や耳はついそちらのやり取りを追いかけてしまっていた。
パーマーさん、こうなるって分かってて勧めたな……?
「シオン、どうかした?」
「! い、いえっ。何でもないです、何でも!」
「そうか? ……あ。店員さんが次、入っていいって」
「……え。もうっすか」
あれこれ考え事をしているうちに、順番が進んでいたみたいだった。トレーナーさんに促されて、店内に入る。
丸いテーブルを挟んで、二人で席に着く。そのままお互いに注文だけ済ませ、あとは料理が届くのをじっと待っていた。
「……」
待っている間は、何だかちょっと落ち着かなかったけど。
といっても、トレーナーさんの方は至っていつも通りだ。敵情視察という一応の目的をちゃんと果たそうとしているのか、メニューを確認しては、色々あるんだなとあたしにも語りかけてくれる。何だか申し訳なくなって、あたしもとりあえずやれることをやることにした。
改めて店内を見渡す。店の正面もそうだったけど、お祭り騒ぎを体現するように派手な飾り付けをしているところも多い中、このお店はそれを控えめに、自然さを大事にしているみたいだった。
以前ファン交流会でお邪魔した喫茶『daybreak』みたいな、居心地のいい隠れ家的な空間が広がっている。
……あれ?
全体の雰囲気から、今度は店内で働いているホールスタッフの子たちにも視線が移っていったところ。あたしはふと、一人のウマ娘の姿に目がとまった。
「お待たせしました! ご注文をおうかがいしますね」
「はいっ、そちら当店の一推しでして。チーズの風味が豊かで、とっても美味しいんですよ」
「ありがとうございました! またのご来店、心よりお待ちしておりますっ」
……というか多分、それはあたしだけじゃなさそうだ。
このお店に入った人なら、多分みんな一度は目が惹かれてしまうんだろう。一つ一つの所作がキラキラしていて、ハキハキと通る声も愛らしい。
とても人懐こくて、パァっと花開くような。とても眩しいその笑顔の持ち主は。
「彼女、確か、ブエナビスタだよな」
「! あ……そ、そうっすね」
いつの間にか、トレーナーさんも同じように彼女を見ていたみたいだった。ちょっと驚きつつ、何とか返事を返す。
ブエナビスタさん。学年の上では後輩にあたるけど、逆にレースの世界ではあたしより長いキャリアを持つ先達の一人。デビュー当時から同世代の中でも一際注目されていた実力者で、実際その通りに、彼女は多くの大レースで勝利を重ねていった。
感情豊かで人当たりも良く、今なお多くのファンの人たちに愛されている人気のウマ娘だ。主催のフラッシュさんとも仲が良いらしいし、彼女がここにいるのも多分その縁なんだろう。
「……何だか、やっぱり自然と惹かれちゃいますね」
「そうだな。笑顔が可愛らしいし、接客も丁寧だ。実際のお店でも、あれだけ愛想のいい店員さんは珍しいかもしれないな」
「……」
淡々と言い放つトレーナーさん。あたしもそれには納得する。
実際、ふらりと立ち寄ったお店であんな風に明るく応対してもらえたら嬉しいだろうし、ついつい気分がよくなって、色々と料理を頼み過ぎちゃったりもしちゃうかもしれない。
それは分かる。分かるんだけど。
……可愛いって、あっさり言うんだな。
メイド喫茶で応対した時、あたしには変にもったいぶっていたくせに。
「シオン?」
「何でもないっすよ」
そんな風に誤魔化すのも何度目だろう。
ただ、それがさっきと今とでちょっと違う意味になっていることくらいは、何となくでも察して欲しいと思った。
──────────
「失礼いたします。食後のコーヒーをお持ちしました」
それから三十分くらいが経った。注文していたデザートも全部届いて、期待以上だったその味わい深さに、ゆっくりと余韻に浸っていた頃。
コーヒーを持ってきてくれたホールスタッフの子に返事をしようとして、顔を上げたあたしは思わず一瞬言葉に詰まった。
そこにいたのが、あのブエナビスタさんだったからだ。
「あっ、ありがとうございます。いただきます」
さっきまでチラチラと見てしまっていたせいか、どこか後ろめたい気持ちがあった。返事もちょっとぎこちなくなる。
コトリと二つ、ソーサラーに載ったティーカップがテーブルに置かれる。役割を終えたお盆をクルリと腰の辺りに添えると、彼女はニコッと微笑んでお辞儀をした。
「……」
「……」
そうやって少しの間、ブエナさんと視線が重なり合う。
それが偶々じゃなく、意識的にそうしているんだと気づいた時には、もうブエナさんが口を開いていた。
「あらためまして、今日はご来店ありがとうございます。こうしてちゃんとお話しするのは初めてですね。シオンさん」
「え、あ……はいっ、そうっすね。そういえば、確かに」
同じ栗東寮の所属だし、これまでにも何度か顔を合わせたことはあったけど。こうして一対一で面と向かって話したのは、彼女の言う通りこれが最初だったかもしれない。
あたしの方は、そもそも彼女にちゃんと覚えてもらっていたという事実が意外だった。さっきも思っていた通り、ブエナさんはみんなから注目される人気者で、それは学園や寮でも変わらない。あたしとは真逆の、キラキラした遠い存在に思えていたから。
……そういうところは、ちょっとオルフェさんみたいだよな。
性格は全然違うけど。全然、全く、これっぽっちも似てなくて。少なくともブエナさんは、あいつみたいに好き勝手やるような人じゃないだろうし。
「ええと、シオンさん?」
「! すみません、こっちの話です」
首を傾げているブエナさんに、改めてちゃんと向き直る。
「実は、ちょっと驚いちゃって……まさか、こんな風にあなたから話しかけてもらえるなんて、思ってなかったから」
「ふふ。そうですね。確かに、あまりこういった機会もありませんでしたから」
そんなあたしの卑屈な言葉をどう受け取ったのか。
ブエナさんは、特に気を悪くした様子もなく話を続けた。
「でも、前々からお話しさせていただきたいとは思ってたんです。同じくレースの世界に身を置くウマ娘として、あなたのことは注目していましたから」
「……え」
「どんな時も諦めずに挑み続ける、不撓不屈のウマ娘。あのオルフェさんを相手に最後まで迫り続ける姿がとても力強くて、印象に残っています。
きっといつかやってくる、って。あなたたちとターフの上で勝負ができるその瞬間を、つい思い描いてしまったくらいには」
「!」
肌が粟立つ。頭はまだ言葉を整理できていなくて、それが嘘やお世辞かもしれないって、まだそう思えていた。
でも、向かい合っているブエナさんの表情は、全然そう見えない。
混じりけのない、凜とした声の響きも。理屈より実感として、彼女は思ったままを口にしてくれているんだって、何となく伝わってきた。
「ブエナちゃんごめんっ、ちょっとこっちお願いできるー?」
「あっ。はーい」
何か答えなきゃと思っていたら、その間にブエナさんに声が掛かる。返事を返すと、ブエナさんは最後にもう一度あたしの方を見て言った。
「近いうちに、どこかで一緒に走れるかもしれませんね。その時がくるのを楽しみにしています」
「は、はいっ。こちらこそ」
今度は何とか返事をする。それだけ聞き届けると、彼女はお店の奥へと戻っていった。
「……」
「宣戦布告、だったのかもな」
傍でやり取りをしていたトレーナーさんが言う。やっと少し落ち着いてきたあたしも、同じことを思い浮かべていた。
まだ見ぬシニア級の舞台。その入口で待ち受ける、確かな強者の一人。
その存在を身近に感じ取って、より一層気が引き締まっていったあの時の感覚を、あたしはまだしっかりと覚えていた。
【4】
「ふふ。まさか、こんなにも早く約束が叶っちゃうなんて。ちょっとびっくりしちゃいました」
「あはは……実は、あたしもです」
あの日と同じ、眩しい笑顔でそういうブエナさんに、あたしも頷きを返す。
一定のリズムを保ちながら、アスファルトを駆けていく二つの足音。外周の途中で偶然顔を合わせたあたしとブエナさんは、コースが大体同じだったこともあってしばらく一緒に走ることになっていた。
道中の会話は、自然に聖蹄祭の時のことから始まっていった。
近いうちに一緒に走れるかもしれない、と。そんなあの日のブエナさんの言葉は、巡り巡って今は現実になっていた。
次のジャパンカップ。強豪ひしめく大舞台には、彼女の姿もある。
まだチャレンジャーでしかないあたしにとって、超えなきゃならない大きな壁の一つとして。でも、少なくとも今は。
「何ていうんすかね……いざこうなると、ちょっと不思議な気持ちってか」
「?」
「あたし、すごく嬉しかったんです。あの時、たとえお世辞かもしれなくても、一緒に走れるのが楽しみだなんて言ってもらえて。ブエナさんみたいな、凄い人に」
「えへへ、恐縮です。でも、私はお世辞なんて一つも言ってませんよ」
お互いに呼吸は崩さず、会話だけが続いていく。
あの時の気持ちを改めて口にすると、ブエナさんは嬉しそうにしながら、それでも最後に首を振った。
「シオンさんに注目していたのは、聖蹄祭の日にお伝えした通り本当のことです。だから嬉しいのは私も同じで……ジャパンカップという、私にとって思い入れのあるレースで。
先日の菊花賞であんなに素晴らしい走りを見せてくれた、あなたと」
「……」
彼女の言葉は、どこまでもただ真っ直ぐだった。
それだけに、一瞬言葉が詰まりそうになる。何とか笑顔を作って、あたしはそれに応じた。
「見られてたんすね……でも、そりゃそうか。クラシック三冠がかかってたレースでしたし。オルフェさん、凄かったですもんね」
「そうですね。確かに、あの日のオルフェさんの走りは圧巻でした。次代を担うスターだと、そう期待されるだけの強さを、私も改めて実感させられちゃって」
表面上はあくまでにこやかなまま、ブエナさんはそう言った。
けれど、そこだけは何となく、それまでとは違う響きをしているようにも思えた。まるで何かを予感しているような……僅かに、緊張が感じ取れるような。
一瞬だったから、気のせいかもしれないけど。
「でも、あなたはそんなオルフェさんと渡り合った。
何度届かなくても、最後まで全力を出し切って追いかけた。一生懸命なあなたの走りに、私ももっと頑張れるって思ったんです。私たちだって、まだまだこれからなんだって」
「……そんな、ことは」
否定しようとする。でも、ブエナさんは力強くこちらを見つめ返してくれていた。
ただ純粋に、あたしの健闘を讃えてくれているのが分かった。胸の辺りがふわふわして、でも、それを軽々しく受け止めちゃいけないって気持ちもあって。
「…………」
しばらくは、何も言えなくなった。
周囲に沈黙が降りる。車通りの多いエリアもとっくに離れていて、冷え込んでいく夕方の空気には、ただあたしたちの呼吸音だけが一定に混じっていた。
「……そういえば、シオンさんって」
「? はい」
「トレーナーさんと、すごく仲良しですよね?」
──ガクンっ
沈黙が一瞬で吹き飛ぶ。グルグルと頭の中を渦巻いていた考え事も巻き込んで。
走りのリズムが乱れて、一瞬ずっこけそうにもなった。
「い、いきなりどうしたんすか!? というか、なんでそんな話題に」
「あはは、すみません……少し、スイーツカフェにいらっしゃった時のことを思い出しちゃって。あの時、一緒にいるシオンさんたちの雰囲気が、何だかすごくいいなって思ったんです」
実は仕事の合間にチラチラ見ちゃってました、と。ブエナさんは衝撃の告白をする。
いや、覗き見をしていたのはあたしたちも同じだったし。それ自体をどうこう言うのはできないんだけど。
「そ、そんなにでしたか……?」
「はいっ。なんて言えばいいのかな……トレーナーさんがシオンさんを見てる時の優しい眼差しとか、それにちょっと恥ずかしそうにしながら、シオンさんの尻尾が揺れちゃってるのとか。……あと、二人でお互いのスイーツを半分こし合ってるのも微笑ましくて──」
「わっ、わーっ!? すみません、もうその辺りでいいです!!」
本当にしっかり見られてた。それも、あたし自身も無意識だったところまで。
寒空の下ではとっくに湯気でも出ていそうなくらい、熱々になった顔を伏せる。何となくだけど、やっぱりブエナさんはちょっと天然な所があるみたいだ。
それだけに、言葉はとてもストレートに。その一つ一つが、強く心を揺さぶってくる。
「……というか。仲良しだって言うなら多分、ブエナさんとこの方が」
「?」
ほんの少しの仕返しのつもりで言おうとして、それでもブエナさんがあっさり首を傾げるので、つい言い淀んでしまう。
……もしかして、自覚がない?
ブエナさんの評判を聞いていれば、必ずどこかで耳にするくらい有名な話だと思うんだけど。彼女とその担当トレーナーさんは昔から付き合いがあり、所謂幼なじみ同士という関係にあるんだそうで。
中央トレセン学園に入学を果たしたウマ娘と、中央所属のライセンスを認められたトレーナー。どちらもそれぞれに難関なのは言うまでもないことで、仮にどちらが欠けても、きっとおかしくはなかったはずだ。
それでも将来を約束しあって、ちゃんとお互いのやるべきことを果たした末に、二人はここでもう一度出会った。それはとても奇跡的なことで、ロマンチックでさえある話だと思う。
それだけお互いのことを想い合っていた。
相手の強い気持ちを理解し、信じていたからこそ成し得ることができた。
唯一無二の、強固な関係性なんだ。
「……ブエナさんのとこって、普段、どんな風な会話をされてるんですか?」
「え。私と、トレーナーさんがですか?」
「はい」
改めて考えてみると、ちょっとだけ興味が湧いて出てきてしまう。
同じ形にはなれないって、そんなことはもちろん分かってるけど。それでももし、その関係の間にあるものを少しでも知れたなら。もしかしたら、何かが変わるかもしれない。
トレーナーさんのことを、もっと知ることができるかもしれない。
「えっと、その……すみません。迷惑だったら、全然」
「いいえ。正直、あらたまって言われちゃうと、ちょっとだけ恥ずかしくもあるんですが……それ以上に、聞いてもらえたのが嬉しくもあって」
感慨深そうに、ブエナさんは言った。
まだ続くコースの先へと目を向けながら。彼女はすーっと息を吸い込む。
「少し、長い外周になりそうですね」
※2026/3/23追記
シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
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