夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─   作:鵜鷺りょく

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「……一緒だなんて、思っちゃいけない」




雨陰のつぼみ Ⅵ(前編) 「ジャパンカップ出走までのお話」

 

【1】

 

 私のトレーナーさんは、小さい時から傍にいてくれた人でした。

 

 選手とトレーナー。それぞれに出来る形で、一緒にレースの世界を夢見て走り出した、大切なパートナーです。

 そして、お互いの目標を叶えたうえで、トレセン学園で再会した。

 約束の担当契約を果たしてからは、本当に目まぐるしい日々でした。二人とも一生懸命に、かつて憧れた"絶景"を、それすら超えるような、自分たちの栄光を掴むために。

 応援してくれる人たちの掛け声に帆を張って。走って、走って、走り続けた。

 

 ただ、必死で。

 そうすれば、いつか夢に手が届くと信じて。

 

「みんなで一緒に……っすか」

 

 はい。それが、私たちの歩んできた道でしたから。

 

 でも、行き先を見失いかけたこともあった。

 日に日に大きくなるみんなからの期待。それに答えなきゃって、そんな焦りのあまりに。

 一人で抱え込んで。一番近くにいたあの人にも、弱さを見せないようにして。

 

 ──私は、大きな失敗をしました。

 

 みんなが楽しみに待っていてくれた晴れの舞台で。それはレースに、寄せられた期待に背いてしまうような、大きな過ちでした。

 頭の中が真っ白になった。それまで築き上げてきた全部が、一瞬で崩れ落ちてしまったみたいに。

 どうやったら取り戻せるのかも分からなくて。もうみんなの前には戻れないって、本気でそう考えてしまったほどに。

 

「……けど、あれは。ブエナさんはただ、必死だったってだけで」

 

 あはは……ご存じだったんですね。確かに、当時は大きなニュースにもなりましたから。

 シオンさんのお言葉は嬉しいです。でも、やっぱりあれは私のミスですから。なかったことになんてできないんです。

 

 だからもう、もしかしたら私は、そこまでだったのかもしれません。

 あの日、みんなが──トレーナーさんたちが、迎えに来てくれなかったら。

 

 見放されて当然だって思っていました。でも、力なく伸ばし続けていた手の平は、強く握られたままだった。

 みんなはまだ、私を応援しているって言ってくれた。

 いつからか期待に応えるためだけに走っていたことも。それを一人で抱え込んでしまっていたことも。ちゃんと見ていてくれて、その上で、(ブエナビスタ)の走りが見たいって。

 

 俯いたまま、ずっと止まっていた風景が、もう一度動き出した気がしました。

 

 新しい気持ち。あるいは、立ち返った最初の夢。

 もう一度約束を交わした私たちは、またお互いの手を取り合って走り出しました。

 

 今度こそ、みんなで一緒に。

 自分たちが夢見た一番の絶景に、辿り着いてみせると。

 

「…………」

 

 私にとって、次のジャパンカップはそういう場所なんです。

 

 

 ──────────

 

 

 長い坂道を駆け上がる。

 あれからもしばらく走り続けて、外周コースを一通り回ったあたしたちは、見慣れた丘の上へと辿り着いていた。

 立ち止まると、息切れの音が露わになる。流石のブエナさんも、それは同じだった。

 一旦休憩だ。額の汗を拭って、少しの間、ここで火照った身体を落ち着けていくことにする。

 

「……これもまた絶景、ですね」

 

 麓の街を一望できる展望スペース。しっかりと設置された手すりに手をかけながら、ブエナさんは遠くの空を見ていた。

 夕日が沈んでいく。黄昏と夜闇が混ざり合う幻想的な光の中で、彼女は眩しく微笑んでいた。

 

 それはまるで、壮大な物語に祝福されたヒロインのように。

 絵になってるなって、そう思った。

 

「そういえば、シオンさんはご存じですか? ここに立って思いの丈を叫ぶと、心に秘めたお願いが叶うって」

「……え」

「学園の子たちの間で、ちょっとした噂になってるんです。何でもこの丘の上からは、よく思い切りのいい誰かの叫び声が聞こえてくるそうなんですが……」

「────あ」

 

 少し悩んだ後、嫌でも気づかされる。

 むしろ何ですぐに思い出さない。断片的に示された情報が勝手に結び合わさっていって、頭の中で一つの答えが形を成してしまう。

 元気のいい叫び声。……それって、もしかしなくても。

 

「私も、ちょっとやってみようかな」

「!! い、いやぁ、その。今は、止めといた方がいいんじゃないっすかね……?」

「え」

「この時間だと、ご近所迷惑にならないかなと思って」

「……なるほど。それは、確かにそうですね」

 

 思わず引き留めていた。幸い、ブエナさんはあっさり納得してくれたけど。

 当然だ。第一、ここで叫ぶこと自体に、そんなご利益は多分ない。

 いや、スッキリするのは事実だけれども……一応は事の真相を知っている立場で、みすみす彼女にそんなことをさせるわけにはいかないと思った。

 

 ……全然知らなかった。そんな噂が出回っていたなんて。

 

「はぁ……」

「すみません。色々話して、少し、気分が昂ぶっちゃったのかもしれませんね」

「え。ああいや、ブエナさんは悪くないんすよ……はは」

 

 あたしの溜め息を誤解したのかもしれない。ちゃんとそう補足しておいた。

 

 今回は止められた。でも、もしかしたら今後も、あたしのせいで変な挑戦を始める子たちも出てくるんだろうか。

 それは、正直あんまりよくないんじゃないか。ほとぼりが冷めるまで、しばらくここへ来るのは止めておいた方がいいのかもしれない……。

 

「……あらためて、さっきは失礼しました。トレーナーさんの話と言っていたのに、いつの間にか私の身の上話みたいになってしまって」

「そんなことないっすよ。色んなお話が聞けて、あたしもすごくありがたかったんで」

 

 あらたまって、ブエナさんは申し訳なさそうにそう切り出す。

 あたしはすぐに首を振った。

 

 実際、話を聞く前と後では、何かが変わった感じもある。

 

 走ってきたステージの違う、ずっと遠くに居た先達。そんなイメージから、いつの間にか、今目の前に立っている彼女のことを、とても身近に感じられるようになった。

 相手の背景(バックボーン)を知っているかどうかというのは、きっとそれくらい大きいことなんだと思う。

 

「それに、その……トレーナーさんのお話自体も、十分に聞かせてもらったっすよ」

「? そうでしょうか」

「はい。……それはもう、たくさん」

 

 そしてその反応からして、やっぱり、彼女自身にその自覚はなかったみたいだ。

 

 ブエナさんはちゃんと、あたしの頼み事に答えてくれていたと思う。

 全体をざっくり三分割にしてみれば、少なくとも前半から中盤にかけてまでは、間違いなく彼女のトレーナーさんの話だったはずだ。

 

 幼い頃に出会ったきっかけから、その後どんな風に打ち解け、今日まで一緒に寄り添ってきたか。お互いを深く理解し合った二人の、十年近くにも及ぶ重厚な物語を、あたしは確かに聞き届けた。

 おそらくはちょっと天然そうなブエナさんが、本心ではどれだけ彼のことを慕っているのかも。外側の立場に置かれている分、もしかしたらあたしは、今の彼女以上に理解できているのかもしれない。

 

 これが、幼なじみか……。

 

 何にせよ、もうお腹はいっぱいだった。

 噂に違わない温もりと甘さに溢れたエピソードの数々。それにあてられたように、あたしはまだどこか気分がふわふわしている。

 

(……でも、あたしのトレーナーさんだって)

 

 すっかり圧されてしまっていた反動なのか、心の中では、負けじと対抗心のようなものが芽を出し始める。

 そもそも出会い方からして違うんだし。そもそも比べるものでもないとは思うけど。

 

 出会ってから今まで、ずっと傍にいてくれたことも。いつも献身的に支えてくれたことも。

 辛い時には、温かい言葉をかけてくれたことも。

 

 

『今は、振り返らなくていい』

 

『よく頑張ったな』

 

 

 そして、嬉しい事があった時には、優しく頭を撫でてくれた。

 

「……シオンさん?」

 

 ずっと、変わらない。これからだって、きっと。

 そのはずだ。これからも、今までと同じように時間を積み重ねていけたなら、いつかはきっとブエナさんみたいに。

 

「シオンさん」

「へ? ……わわっ、すみません!」

 

 気づかないうちに俯いていた顔を上げると、ブエナさんの顔はすぐ近くにあった。

 びっくりして数歩後ずさる。もしかして何度か呼び掛けられていたのかもしれないと、遅れて気がついた。

 

「大丈夫、ですか? 何か考え込まれていたみたいですけど」

「な、何でもないんです! ちょっと、その……ずっと走ってて疲れちゃったのかなー、なんて。はは……」

 

 咄嗟にごまかす。あながち嘘ってわけでもなかったし。

 それでも、ブエナさんの透き通った紫の瞳は、じっとこちらを見ていた。

 

「……」

 

 

『一人で抱え込んで。一番近くにいたあの人にも、弱さを見せないようにして』

 

 

 ……そういえば、彼女もそんな風に話していたっけ。

 ブエナさんの話を、もう一度思い返す。それは彼女を近くに感じられるようになった今だからこそ、その意味がより重く伝わってくる気がした。

 今までに駆け抜けてきた道行きの中で、彼女にもきっと、似たような経験があったんだろうと。

 

(いいのかな。話しても……)

 

 だからこそ、ブエナさんはきっと引き下がらないと思った。

 このまま黙っていても、埒が明かない。……でも。

 

「……すみません。実は、ちょっとだけ圧倒されちゃったというか」

「え?」

 

 あたしは、あんまり嘘が得意じゃない。身近な人や、酷いときは、普段それほど話さないような人にもすぐにバレてしまうこともあるくらいだ。

 だから、本当のことを話すことにした。

 

「ブエナさんにとって、今度のジャパンカップは、本当に大切なものなんすね」

「……」

「一番の絶景に辿り着く。ブエナさんの……ブエナさんたち(・・)の夢を、叶えるために。その覚悟の強さが伝わってきて、あたしも、気を引き締めなきゃって思ったんです」

「シオンさん……」

 

 胸の前で拳を握る。大きく息を吸い込んで、あたしはもう一度彼女に向き直った。

 

「それでも、負けません。あたしにだって、譲れないものはありますから。

 だから、どうか全力の勝負を。ブエナビスタさん」

 

 脚が浮つく感覚。まるで、高々とそびえ立つ大樹に向き合っているような緊張感だった。

 それでも前を向く。この精一杯の宣戦布告が、ブエナさんに届くように。

 

「──はいっ。こちらこそ。ウインバリアシオンさん」

 

 彼女の返礼を、ちゃんと受け止められるように。

 

「……ふふ」

「……あはは」

 

 やがて、そんな恐縮したやり取りに耐えかねたように。

 あたしたちは、どちらからともなく笑い出す。

 

 ほっと胸を撫で下ろす。

 無意識に背中に隠した手の平は、まだちょっと震えていたけれど。

 

 

 ──────────

 

 

 一仕切り話し終えた後。この後用事があるというブエナさんは、一足先に学園までの帰路に着いていく。

 あたしはもう少し走って行くと言って、彼女とはそのまま別れることになった。

 

 これ以上は多分、ボロが出てしまいそうだったから。

 

「……こんな嘘のつき方も、あるんだな」

 

 ブエナさんの姿が遠ざかっていく。その背中が完全に見えなくなってから、見送りに振っていた手をゆっくりと下げる。

 最後に、力ない独り言が零れていた。

 

 彼女への後ろめたさが、胸の内側に滲んでいく。

 

 それが完全に偽りだったかと言えば、決してそんなことはなかったと思う。

 ブエナさんの話を聞いて、彼女が次のレースに賭ける想いを知った。それに心を打たれたからこそ、負けたくないって、正直な返答を返すことができた。

 それは本当だ。本心から湧き出した感情だ。

 そうじゃなきゃ、あんな風に上手く取り繕うことだってできなかった。

 

 ただそれが、あの時感じた全部じゃなかったってだけで。

 

(……一緒だなんて、思っちゃいけない)

 

 ブエナさんにも色々な葛藤があった。積み上げてきた道程は、決して平坦なものじゃなかった。

 そんな当たり前なはずのことを、今さら実感した。

 ずっとみんなの期待に応え続けて、苦しい中でも歯を食いしばって、迷いを抱えてなお、彼女は結果を出し続けてきた。

 

 

『アタシたちは、シオンさんのことずっと応援してるんですよ』

 

『影ながらいつも応援してるから。残りの合宿も頑張ってね』

 

『負けんなよー! バリやーん!!』

『私たちがついてるからね!』

 

『シオンのためになるなら、俺もできることをやりたいから』

 

 

 あたしは、みんなに何も返せていない。

 

 ブエナさんと、彼女を支えてきた周囲の人たち。それはとても尊い関係で、そんな風にいられたらいいなって、そう思ったのも事実だ。

 でも、あたしはまだ。これから積み上げていく途中なんだから。

 

 結果を出すまでは、そんなことは許されない。

 

「……もうちょっと、時間あるよな」

 

 仰ぎ見た空の色。沈んでいく夕日の反対側で、さっきまで薄らいでいた月の輪郭も、少しずつ濃くなりつつある。

 そちらに背を向けるようにして、もう一度走り出した。

 

 丘の上を立ち去る。

 だんだんと暗くなり始めた静かな坂道を、あたしは一人で下っていく。

 

 

 

【2】

 

 歓声が遠く響いている。それは今が最高潮だと錯覚してしまいそうな、そんな力強さを持っていた。

 晴れ間差す東京レース場の観客席。その勢いに少しだけ目眩がしたような気がして、つい眉間を押さえる。

 

 ……ついにやってきた。ジャパンカップ当日。

 

 レース出走の時刻はまだ先。今はパドックの準備が進められているところだ。

 菊花賞の時とは違い、今日は早めに控え室をあとにしたシオンも、すでに観客席へのアピールに備えて待機している。

 

「……」

 

 控え室で彼女と交わしたやり取りを思い出す。

 

 すでに勝負服への着替えを済ませていたシオンは、室内ではじっと目を閉じ、ひたすらに精神統一に努めるばかりだった。

 話しかけることすら躊躇われるほどの緊張感。一方で、呼吸は意外なほどに安定していた。

 

 前走で培った経験が活きているのだろうか。

 オルフェーヴルを前にして、全力を出し切れたあの時の感覚。それが彼女の中の自信を育て、一つ上の世界(ステージ)へと引き上げてくれたのかもしれない。

 

『じゃあ、いってくるっすね』

『……ああ』

 

 一人で立ち上がって、シオンはこちらに向き直った。 

 自分も頷いて答えた。歩き出した彼女とすれ違い、その後ろ姿が扉の向こうへと消えていく。

 

 どうしてだろう。

 それが閉まる直前になって、手を伸ばしかけてしまったのは。

 

「……俺が揺れてどうする」

 

 今は一人。冷えた手を見つめながら、会場の賑わいの中に独り言が落ちる。

 

 ……以前のことを思い出していたんだろうか。

 

 お互いの手を握って、不安による震えを確かめ合った。

 それでも安心したのだと、彼女は言ってくれた。

 ならば今日も。今度は自分の方から、彼女にそれを言うべきだったのではないかと、そう思った。

 

 今さらだ。担当ウマ娘に求められてもいないことを、無理強いする必要はない。

 まして、ちゃんと前を向いている彼女に。

 

「やあ。相変わらずいつでも仏頂面だね、君は」

「…………。何でいる」

 

 ちょうど手の平を握り直したところだった。一歩間違えば、それを隣に向かって振り上げていたかもしれない。

 そちらのその一言余計なところこそ相変わらずではないのか、と。そんな苛立ちは飲み込んだが、それでもしれっと隣に並んできた天池(あまいけ)トレーナーから、自分はわざとらしく数歩距離を取った。

 

「そんな邪険にしないでくれよ。僕だって、たまには同期の応援にくらいくるさ」

「どうだか。色々忙しくしてる中でわざわざ足を運ぶなんて。お前の場合、何かしら他に理由がありそうなもんだ」

「おっと。さすが、ご明察だ」

「やっぱりあるのかよ」

 

 コントのようなやり取りに付き合わされただけだった。

 もう少し離れたくなったが、これ以上は通路を塞ぐことになるので我慢する。

 

「……オルフェが、珍しく来たいと言ってね。その付き添いも兼ねてるんだよ」

「! 彼女も来てるのか」

「ああ。とはいえ、今をときめく三冠ウマ娘だからね。変な騒ぎにならないよう、何とか頼み込んで変装とかもしてもらっててさ」

 

 ちょいちょいと、天池が小さく指差した先。

 それは観客席の前の方。顔を隠すように深々とハンチング帽を被り、控えめな配色のコーデで身を固めた人影が目に止まる。

 帽子の上に伸びる両耳。ウマ娘だというのだけは、遠目にもすぐに分かる。

 

「あの子、なのか」

「そう。彼女のお姉さんにも手伝ってもらったんだが……どうだい、上手く隠せてるだろう?」

「……」

 

 そうだろうか。確かに外見だけなら、あのいつもの煌びやかな衣装に比べれば、見事に真逆の印象になっているとは思うが。

 一方で、あの辺りに漂う雰囲気だけどうにも違和感がある。

 何というか、彼女の持つ迫力、あるいはオーラのようなものが漏れ出しているような感じだった。それはそれで流石という他ないが、あれで本当に上手く隠せていると言えるのだろうか。

 

 

「……ねえ。あそこにいる子、もしかしてなんだけど」

「それ、私も思ってた。あれ、ひょっとしなくてもオルフェさ──」

 

 

 耳を澄ませば、すでに何人かの囁くような声も聞こえてくる。

 ……やっぱりダメなんじゃないか、あれ。

 

「まあ、それはともかくだ。それならなおのこと、彼女の傍についててやるべきだろ。こんなところで油売ってる暇あるのか」

「…………」

「天池?」

「実は、変装をお願いする時に、ちょっと一悶着あってね。彼女の機嫌を損ねてしまったんだよ」

「……」

「ここなら離れすぎず、丁度いい距離で見守れると思って。すまないが、頼むよ」

 

 珍しく殊勝な頼み方だった。青ざめた苦笑いを浮かべつつ、胃の辺りをさすっている。

 確かに、いつも堂々としている彼女が、姿を隠すのを嫌がるのは想像に難くない。

 にしても一体、どれだけ睨まれたんだか。こいつはいつも一言多いが、少なくともそういう事情を最初に話してくれていれば、こちらも無下にすることはなかったろうに。

 

 ……一旦気にしないでおくか。

 

 適当なところで雑談を切り上げて、自分はもう一度パドックの方へと向き合った。

 

 

 ──────────

 

 

「ワァァァァァァァ…………!!」

 

 

 最後の幕切れと言わんばかりに、会場の興奮が一気に立ち上る。

 かくして全十六人。各々のアピールが終了し、盛況のパドックは幕を閉じた。

 

 ここからは各自、ゲートインを待つ時間。

 レースの開幕に備え、会場の空気も一旦落ち着きを見せていくことだろう。

 

「流石に圧巻だったね。キャリアの長いシニアの子たちに、外国からやってきた実力者。独特ながら、どの子も地に足の着いた存在感を放っていた」

「……そうだな」

 

 冷静な見解を述べる天池に同意する。あちらもそうなのだろうが、自分もクラシックとシニア双方の選手が入り混じるレースは初めてだ。

 特に、明確に長いキャリアを歩んできた後者の子たちは、皆いい具合に落ち着いている。

 その安定感は、まるで堅牢にそびえ立つ城壁のようだった。あれを崩すのは、やはりというべきか容易なことじゃない。

 

(でも、こっちだって)

 

 それでも、シオンもまた堂々とパドックに立っていた。

 ファンの人たちの声に向き合って、ちゃんと前を向いてアピールをやり遂げた。

 精神面だけなら、今の時点でも決して見劣りしない。

 

 菊花賞に続き、ちゃんと作戦は用意してきている。

 あとは彼女が実力を発揮しきれれば、十分に勝ちの目はあるはずだ。

 

「……ところで松早(まつばや)。さっきから一つ、気になっていることがあったんだけど」

「?」

 

 しばらくして、出走者全員のゲートインが完了する。会場の静かな注目は、自然とそちらに釘付けになっていた。

 そんな中、隣にいた天池がふと呟く。

 

「もしかして彼女、今日は調子がよくないのかい(・・・・・・・・・・・・・)?」

「──────は」

 

 発せられた言葉の意味が、一瞬よく分からなかった。

 でも、知っていたはずだ。殊こういう時のこいつは、そんな馬鹿げた冗談を言うやつではないのだと。

 

 それを、思い出した。

 

 頭の中がさっと冷たくなる。まるで夢や幻から覚めるように、自分はもう一度ゲートの方を振り返る。

 バチンっと。金属の弾けるようなスタート音は、すでに会場に響き渡っていた。

 

 





※2026/3/23追記
シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=338048&uid=503660

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