夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
「一体、何をやっているんだ」
【1】
そうして、無力な彼が見守る先で、ジャパンカップは幕を開けた。
まず逃げウマ娘が先頭に立ち、最初のペースを作り始める。大きなリードはなく、隊列はそう伸びない。
それを追うのは、八番トーセンジョーダン。
一番人気の凱旋門賞ウマ娘、次ぐ二番人気のブエナビスタは、それぞれ中団からやや後方にかけて位置を取る。
注目株がそろって集団に潜伏。
それだけで、展開は早くも硬直の気配を見せていった。
(……やっぱり、こうなったか)
今年のジャパンカップは逃げや先行といった前で戦う選手が少ない印象を受けた。割合としては、その多くが後ろからの勝負が得意なタイプだ。
出走者が出そろった時点で、その可能性に思い至るのは難しくなかっただろう。
やはり、あの二人だ。
未だ得体の知れない世界の実力者と、ずば抜けた加速力を秘める中距離の女王。
先々を読んでレース展開を組み立てていくなら、やはり最上のピースたる彼女たちを無視するわけにはいかない。何せ、そこが動くだけで盤面が一気にひっくり返りかねないのだから。
早く仕掛ければそれだけ脚を使う。後半の戦いについていけなくなる。
二人の出方が分からない以上、迂闊に攻めるわけにも行かない。それならまあ、温存はセオリー通りではあるんだろう。
ゆえに序盤はスローペース。何もなければ、最悪この膠着は終盤まで続く。
奇しくも、その流れは菊花賞の時にも似ていた。
あの時はオルフェが動いた。彼女の実力を以てすれば、あれくらいは造作もないことだ。
凝り固まった盤面を荒らし、牽制し合っていたウマ娘たちを揺さぶる。それによって集団は徐々に散り、先頭から後方までに渡って大きな亀裂を生じさせた。
王の絶対的な意思の元に。彼女は堂々と進軍を開始していったのだ。
彼女がこのレースに出ていたなら、きっとこんな息の詰まる沈黙は許さなかった。
けれど、それは仮定の話だ。他に代わりになるような誰かがいない以上、このまま待っていても埒が明かない。
風向きは変わらない。後方集団の状況は、刻々と苦しくなるばかりだ。
中盤、向正面を過ぎた辺り。選手たちは続々と第三コーナーに入っていく。
そろそろ前に出なければ、もはや最後の直線勝負にさえ間に合わないというのに。
「……来ないね。彼女」
隊列の後方。スタート地点からずっとそこに隠れていた彼女。
こちらにとっても何かと因縁深い、彼の担当ウマ娘。
【2】
「はぁ……はぁ……っ」
呼吸のリズムが定まらない。
地面を蹴る脚も、風を切る手も。まるで自分のじゃないみたいに重い。
(……さっきから、どうして……)
こんな感覚は、多分初めてのことだった。
向正面を過ぎて、第三コーナーに入っていく辺り。思い通りの立ち回りができない身体を引きずるようにしながら、あたしはひたすら思考を回す。
思い浮かぶのは、前の菊花賞で感じることのできた手応えのことばかり。
加速と減速の微調整から、咄嗟のコースの切り替えまで、あの時は全部が思い通りにできた。
展開だって見えていた。遠い前方集団の状況から、同じ後方を走る周りのウマ娘たちの息づかいまで分かったくらい。
積み上げてきたものを余さず力にできているような、あの充実感。
それなのに、今は。
(! ここ────ッ……!?)
視界の端に見えた一瞬の揺らぎ。前のウマ娘がコースを切り替えたことで生じた僅かなすき間。
反射的にそちらへ舵を切る。呼吸を何とか整えて、脚の回転を崩さないように気をつけながら、慎重に。
──間に合わない。
スピードを上げようとした直後、別のウマ娘の背中が前に立ちはだかる。
コーナーのカーブ効果によって偶然そうなったのか、もしくは、あたしが前に出ようとするのを察知して動いたのか。
(まただ……)
頭で考えたことを身体に反映させるための瞬発力。自分のそれがいつもより鈍くなっているのは、あたしも分かっていたけど。
多分、それだけじゃない。
スタートからここまで。一応は作戦通りに後方を走っていたあたしは、まず後半に向けて少しでも脚を残そうとした。……でも、上手くはいかなかった。
前を走るウマ娘の陰に入って、空気抵抗による消耗を減らすスリップストリーム。それを狙うために位置取りを調整しようとして、軽く躱された。何度試しても距離は一定にならなくて、進路もずらされて、結局風除けはできなかった。
相手も周りが見えている。多分、あたしよりずっと冷静に。
考えられるとしたら、それは走ってきたレース経験の差なのかもしれない。少なくともクラシックのレースでは通じていた技術が、ここでは悉く成立しない。
立ち回りの駆け引きにおいて、今のあたしは完全に遅れを取っていた。
(どうする……このままじゃ、前に出られない……!)
状況は一向に動かない。その動揺は、着実にあたし自身の思考を削っていく。
スローペースによるレース展開の硬直。
それは、事前のあたしたちの作戦会議でも想定できていたことだった。
菊花賞でもそうだったみたいに。隊列があまり伸びず、大半のウマ娘たちが脚を温存して牽制し合う形になったら、まず間違いなく後ろは不利になると。
前はオルフェーヴルが動くと分かっていた。だからこそ、あたしも終盤まで準備を整えることができた。けど、今回は少し勝手が違う。
例えば、今中団付近にいるブエナさんが動いたとしたら、みんなもまず間違いなく反応する。それはもちろん、一番人気の凱旋門賞ウマ娘にしたって同じことだ。
二人のどちらかが仕掛けたなら、オルフェーヴルの時みたいな集団の動揺が起きることもあり得た。けれど、まだ情報が少ない凱旋門賞ウマ娘の動きは読みづらいし、ブエナさんに至っては持ち前の加速力で直線を有利に戦える以上、無理に動くだけのメリットがない。
あの時と同じようにはいかない。
かといって、後ろで状況が動くのを待っているだけじゃ、最後の直線にも間に合わない。
『そうだ。だからあとは、こっちが動くしかない』
踏ん切りがつかないあたしに、トレーナーさんはそう言った。
もし展開が膠着状態になったら、あたし自身が動くことでそれを揺らがせる。序盤は今まで通り後方に潜伏しながら、第三コーナー辺りから前進を始めて、中団以降からの勝負に備えていくのだと。そういう作戦だった。
もちろん、早めに脚を使ってしまうのは変わらない。終盤の競り合いで苦しくなるのは避けられないけど、それでも、最後の直線勝負を戦い抜くことはできる。
ブエナさんたちの動きにさえちゃんと注意していれば、十分に勝算はある。
あたしも、あの時はそう思っていた。
『今の君ならできると思う。
「はっ……はっ……ッ、くぅ……!」
でも、もう時間切れだ。
あたしが攻めるのに手こずっている間に。状況を整理できず、判断を迷ってしまったその一瞬のうちに。
もう、最終直線の手前。
不気味なほどに静かだった第四コーナーが、終わりを迎えようとしている。
ワァァァァァァァ……ッ!!
観客席の声援が再び立ち上がった。
たくさんのウマ娘の名前を呼ぶ声が、風に乗ってターフを駆け巡る。
『がんばって!! シオンちゃん!!』
『まだだーっ!! 諦めんじゃねぇっ!! バリやーん!!』
『シオンくんッ!!』
「っ……」
硬直が解けた。密集した隊列が少しずつ散り始めて、みんながそれぞれに直線勝負に備え出す。
ここしかないと思った。
たとえ苦しいって分かっていても、今さら諦めることだけはできない。
「やぁぁぁぁァァッ!!」
外を回って前進する。自前の体幹と遠心力を活かしたコーナー加速。
身体に染みついたそれは、今度はちゃんと上手くいっていた。
(負けるもんかっ……絶対……ここだけは……!!)
もちろん、他の子も黙ってない。そう簡単には後ろを千切ることはできない。
でも、あたしのポジションは少しずつ、着実に上がっていく。
中団が迫ってきていた。
先頭のジョーダンさんの様子を見るようにしていたそれも、もう崩れ出す寸前だ。合流して息を整えたかったけど、そんな時間はない。
今はただ、自分のロングスパートが最後までもつことを祈るしかない。
(お願い、まだ……)
最後の勝負。そのスタートラインに手が届きさえすれば。
希望は残ってる。残っているはずだ。だから──
『……流石ですね、ジョーダンさん』
「……!!」
誰かの呟きが耳に届いた。
柔らかくも凜とした、芯のある響き。確かに背筋に緊張を走らせるような、その声は。
『でも、渡しませんよ』
「──だって、私たちの"絶景"は、そこにあるから!!」
ようやく掴みかけた中団の尻尾。その直後、一つの綺羅星が集団から撃ち出される。
それは、瞬きの間の加速だった。
脇目も振らず、一心不乱に。一直線のラストスパートとともに、ブエナビスタさんが駆け出していく。
『ついに来たッ!! ブエナビスタ!! ブエナビスタです!!』
待望の瞬間を迎えるように、歓声はさらに勢いを増す。
思わず見入ってしまいそうなほどにキレのある末脚。彼女はすぐに先頭へ辿り着いてしまった。
内トーセンジョーダン。外ブエナビスタ。
遠い視線の先で、二人のゴール争いが白熱していく。
あたしは、その遥か後方に取り残される。
(…………
脚は限界まで回ってる。こうしている間も、きっと少しずつ前へは近づいているんだろう。
いつかは届くかもしれない。でも、今は間に合わない。
絶対に取らなきゃって。そう思っていたゴールラインに、あたしは。
──────違うッッ!!
取るんだ、絶対に。みんなの期待に応えるって、そう決めたんだから。
息が苦しい。向かい風がやけに冷たかった。
一杯一杯になった身体は、もうバラバラになりそうなくらいに悲鳴を上げている。
それでも。あたしは姿勢を低く沈ませる。
加速態勢。ここからもう一段階、スパートをかけるために。
無意識に、あの金色のタテガミが頭に過ぎった。
あたしが追い抜かしたと思った、あの時。とっくに限界を迎えていたはずの脚で、あいつはそれを乗り越えてきた。
あたしにだって、きっと出来る。その隣で戦うことができた、今のあたしになら。
たとえ今日、
「っっ……う、あぁぁぁぁぁぁッ!!」
思いきりターフを踏み締める。勢いの乗ったあたし自身の全部を軸足に託す。
重い。持ち上げるのなんて不可能だって思えるくらい。
でも、やるんだ。これを乗り越えればきっと……もっと速く、もっと遠くまで。
顔を上げる。先頭の背中を見据える。
その瞬間、限界まで踏み込んだつま先が地面を離れて──
『ダメだ! シオンッ!!』
「────……えっ」
刹那。前に進み出そうとした視界が、急にぶれる。
……おかしい。そんなはず、ないのに。
今、あたしは加速したばかりだ。それなのに、何も変わった感じがしなかった。
それ、どころか。
(脚……感覚、が……?)
頭に流れ出す違和感。滲む冷や汗。
色彩の消えた風景が、スローモーションになって流れていく。
「…………あ、れ」
そして、無意識に俯いてしまった頭上では、一つの報せが響き渡っていた。
『ゴーーーールインッ!! 一着、ブエナビスタ!! ブエナビスタです!!』
『昨年の無念を晴らし、今ここに、最高の絶景を手にしてみせました!!』
【3】
「そう。予想ができたはずなんだ。こうなることは」
レース終盤の最終直線。一番人気だった凱旋門賞ウマ娘も伸びなくなり、先頭争いは二人の選手にまで絞られた。
ブエナビスタとトーセンジョーダン。攻めどころを待って後から仕掛けた以上、大勢については大方前者が有利といったところだろうか。
いずれにせよ、これはもう大きくは動かない。
それは結局、先頭を取り合う一連の流れに食い込むことさえできなかった、あのウインバリアシオンにも言えることだった。
「確かに、彼女のロングスパートは凄まじいものだ。後方に潜んで脚を溜め、終盤で一気に駆け上がれるだけの力はある。……けれど、その戦い方自体は、レース展開の影響をもろに受けやすい」
「……」
「前走でも似たようなことがあったばかりだ。だからこそ、彼女はもっと早くに前へ出るべきだった」
「作戦通りなら、彼女はブエナビスタたちとも張り合えただろうにね」
視線を横に向ける。
手すりを固く握りしめたまま。瞬きさえ許さないほどに見開かれたその瞳は、今なお、ターフを駆ける担当ウマ娘の姿だけを追い続けている。
「……レースが始まる前から、彼女の様子はおかしかった」
それでも聞こえてはいるんだろう。言葉は続けさせてもらう。
ゲートへ向かうまでのウインバリアシオンの様子。確かに、表面上だけに限れば、それは落ち着いたものに映ったかもしれない。
パドックのアピールも普通にこなしていた。少なくとも、観客がその様子に違和感を覚えているような感じはなかった。
けれど、トレーナーの視点であればどうか。
表情はぎこちなく、まるで貼り付けられた仮面のようだった。不意に立ち止まっては、ぼーっと佇んでいるような様子もあった。
表情豊かで、緊張を滲ませながら、強い情熱と闘志を秘めていた。
そんな面影もなく。少なくともそれは、僕らの知る彼女ではなかったのだ。
そして、その影響はレース中に顔を出した。
動きにキレはなく、まるで周りが見えていない。他のウマ娘たちとの経験の差を考慮しても、明らかに冷静な判断ができていなかった。
かつて、二度。
あのオルフェの背に迫ってみせた刺客だとは、到底信じられないほどに。
「……松早。君は、どうして」
「──ダメだ」
「?」
その表情に影が差す。何か異変を察知したように、その口から呟きが零れ出ていた。
嫌な予感がした。こちらもつられて振り返る。
視線の先。デッドヒートがくり広げられていたターフの上では、ほとんど同時に動きがあった。
躱されたトーセンジョーダン。ブエナビスタが敢然と先頭に立つ。
これを追う者はない。衰えを見せないその脚はどんどんリードを稼ぎ、もはや少しの危うささえなく。
大勢はおおむね決まった。そんな場面で。
後方。ウインバリアシオンの姿勢が、少しずつ低くなる。
「! まさか……」
「ダメだ! シオンッ!!」
遅れて状況に気づく。同時に、先ほどまでの沈黙が嘘のように、松早が叫んでいた。
伸ばした手など届きようもない。それでも必死に、今まさに無茶を重ねようとしている担当ウマ娘の名を呼び続ける。
「シオン……っ」
その声が届いたのかは、誰にも分からなかった。
──────────
ゴールラインはとっくに過ぎ去っていた。
昨年の雪辱、待望され続けた女王の誕生。賑わいの止む気配がない観客席の片隅で。
一人残された僕は、ただ何となく虚空を見上げていた。
「……君なら、気付けたはずだろう」
震えを帯びた独り言。それは、今し方血相を変えて駆け出していった、彼に対しての訴えだった。
どうせ届きはしない。けれど、抑えることもできない。
爪の先が食い込むほどに握られた手の平が、静かに痛みを訴えかけていた。
「一体、何をやっているんだ」
※2026/3/23追記
シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
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