夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─   作:鵜鷺りょく

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日の当たらない場所でも、ただ誰かに見ていてほしかった。




未明のパドドゥ 「もう一度、歩き出すまでのお話」

 

【1】

 

「──シオンが、まだ帰ってない?」

 

 すっかり夜が更けた頃のトレーナー室。前触れもなく鳴り出したスマホを手に、今し方聞き届けた言葉を反芻する。

 電話の相手はフジキセキ。学園の高等部に属するウマ娘であり、栗東寮の寮長。そんな立場にある彼女からこの時間に連絡が来た時点で、何となく嫌な予感はしていたが。

 

「シュヴァルからも連絡してもらってるんだけど、こちらからは一向に繋がらなくてね。……その様子だと、トレーナーさんにも心当たりは」

「あ、ああ……」

 

 そう返事をするのが精一杯だった。

 トレーニングはまだ日の高いうちに切り上げた。彼女には早めに休むように伝えたはずで、てっきりそのまま自室に戻ったものかと思っていた。

 しかしあらためて聞けば、どうも今日の放課後以降に寮で彼女を見かけた子はいなかったそうだ。

 

 

『トレーナーさんには、分からないんすよ』

 

 

 ふと、昼間のシオンの様子が脳裏によぎった。

 思考に意識が持って行かれそうになる。それをぐっと堪えながら、自分はスマホを握り直した。

 

「状況は分かった。俺の方でも探してみる。……何か分かれば連絡するけど、必要なら、こっちのことは気にせず動いてくれ」

 

 万が一、何かがあってからでは遅い。頷くフジキセキの返事を聞き届けてから、自分は通話を切った。

 足が真っ先に動き出す。頭は彼女の行き先を思い描いて、ひたすら思考を回転させていた。

 

 ……分かるだろう。それくらい。

 

 ここで何も出来なかったら、本当にただの役立たずだ。

 考えがまとまるのも待たず、スマホだけを握りしめて、自分はトレーナー室をあとにする。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 逃げるように踵を返して、脚は結局いつもの場所を目指していた。

 混じりけのない澄んだ空気は、まるで肌を切り裂くみたいだった。しんと冷える頭の中は、これくらいで丁度いいんだと、身体が訴える寒さをただ受け入れている。

 一人きりの丘の上。大きな間違いを犯した自分には、お似合いの惨めさだ。

 

(……あたし、あんなこと)

 

 どうかしてる。失礼だとか、もうそんなレベルの話じゃない。

 思い出す、コースの上を精一杯に駆け抜けていたヴィルシーナさんの姿。ライバルであるジェンティルさんの背中に追いすがる彼女を見て、自分が心に思ってしまったこと。

 

 ──もう、がんばらないでくれよ。

 

 何度くり返しても吐き気がする。そこまで落ちぶれてしまっていた自分が、情けなくて仕方がない。

 敬愛していると勇気づけてくれた後輩に。辛い時に気持ちを受け止めてくれた恩人に。……何より今、ちゃんとまっすぐに前を見て進み続けている人に。

 言ってしまったら終わりだ。あの場所にいていい理由さえ、この手の中からこぼれ落ちてしまう。

 

 あたしにはもう、何かを積み重ねる資格もないのかもしれない。

 

「っ……なんで……どうして、こうなっちゃうんだ……」

 

 涙が溢れる。何度拭っても雨は止まない。右も左も分からない周りの暗闇は、心の奥底にまで入り込んでくるみたいで。

 追いつきたいのに。立ち止まりたくないだけなのに。

 みんな、前に進んでいる。当然足を止めていたら置いていかれるだけだ。それが嫌だからって、それでも、誰かの不幸を願うのだけは絶対に間違ってる。

 ここまで来て、もうそんなことしかできなくなるくらいなら。

 

「…………もう、分かんないよ」

 

 弱音は夜に消えていく。当たり前だ。皆に合わせる顔がないって、そう飛び出してきたのは自分なんだから。

 矛盾してる。虫が良すぎる。……呼んだって、誰も来ない。

 そんなこと、分かってるのに。

 

 

『──シオンッ!』

 

 

 それに応えてくれる誰かを、探してしまっている。

 今一番、傍にいてほしいその人の声を、思い浮かべてしまう。

 

「はぁ……はぁ……」

「──トレーナー、さん……?」

 

 消えない息づかい。都合のいい妄想かと思っていたそれは、確かに空気を伝って耳に届いていた。

 顔を上げる。濡れた目元を気にするのも忘れて、木陰の中から声のした方を振り返る。

 

「……シオン」

 

 白い息が立ち上る。

 大きく肩を上下させながら、トレーナーさんはもう一度その名前を呼んだ。

 

 

 

【2】

 

「どうして、ここに」

「それは…………いや。まだ帰ってないって聞いたから、心配になってさ」

 

 考えなしに聞いてしまってから、分かりきったことだったと遅れて気づく。

 さっき一度学園に戻った時点で、寮の門限はもう近かったと思う。そこからまた出てきてしまったんだから、ここでこうしている間に時間が過ぎていてもおかしいことじゃない。

 スマホも更衣室に置きっぱなしだ。シュヴァルさんや寮長……心配して連絡をくれそうな人たちの顔が、次々に頭に浮かんでいく。

 

「……すみません。あたし、その」

 

 それを、どうしてここに、なんて。

 自覚がないにも程がある。怒られたって仕方がない場面だ。……それなのに、トレーナーさんはそんな素振りを見せない。

 

「……とりあえず、ちょっと休ませてもらっていいかな。走ってきたから……さすがに、疲れた」

「あ……は、はい」

 

 それ以上に、顔が真っ青だった。学園からここまではそれなりに距離があるはずだけど……まさか、それをずっと走ってきたんだろうか。

 ふらふらな足音が近づく。それは背にしている木の後ろで立ち止まって、そっと足下の芝が擦れる音がした。

 

「……フジさんから、連絡あったんすよね」

「ん。……ああ」

「怒らないんですか。あたし、こんな勝手やらかして。みんなに、心配かけたのに」

「そうだな。確かに、それはその通りだ」

 

 少し待ってから、改めてそう尋ねてみる。トレーナーさんの声はいつも通りに落ち着いていて。

 ……でも。

 聞き慣れているからこそ気づいていく。その穏やかな音の波にも、どこか緊張感を漂わせるような震えは混じっていた。

 

「でも、ここにいてくれてよかった。……今、シュヴァルにも連絡が取れたから。まだそこまで大事にはならないはずだ」

「え……」

「今は気にしなくていい。でも、帰ったらちゃんとみんなに謝ること。それだけは忘れないでくれ」

 

 トレーナーさんなりに、叱ってくれているんだって分かった。それにしたって、やっぱり声の響きが優しすぎるようにも思うけど。

 ……今のあたしには、その方が痛いみたいだ。もしかしたら、それも承知の上で。

 

「何か、あったんだろう」

 

 呼吸を整えるような間があって、トレーナーさんがそう問いかける。どう考えてもそうなって当然なのに、あたしはまた俯きかけていた。 

 

(……これが、最後かもしれないんだ)

 

 トレーナーさんがちゃんと向き合おうとしてくれている。本当に申し訳ないって思ってるなら、あたしもいい加減、それを言葉にしないといけない。

 辛くても、情けなくても。……嫌われるかもしれなくても。

 ここまで一緒に歩んできてくれた大切な人に、これ以上嘘はつきたくなかった。

 

「──もう、走れないんです」

 

 下手な回り道はしない。言い訳を並べれば、伝えたい言葉はどんどん遠ざかっていく。

 だから、最初にそう言いきった。誤魔化しもなく、ここまで考えた後に残った自分なりの答えを。

 

「……」

 

 冷たい木の感触。それ越しに聞こえた小さな息の乱れは、多分気のせいじゃなかったと思う。

 

 あたしは言葉を続ける。

 

 ずっとみんなの期待に応えられずに焦っていたこと。それがジャパンカップでのケガに繋がって、みんなに迷惑をかけてしまったこと。

 そして、有マ記念でブエナさんたちを蹴散らしたあいつに──名実ともに世代の主役になったオルフェーヴルのその姿に、心の底から圧倒されてしまったこと。

 ……気力は、すっかり枯れ果てて。

 支え合って一緒に歩んできた友人たちのことすら、心のどこかで恨めしく感じるようになってしまったことも。

 

「……結局、あたしじゃダメだったんすよ」

 

 今まで溜め込んでいた全部を、初めてちゃんとトレーナーさんに伝える。

 

「ただ、必死に努力だけを続けていればいいんだって思ってました。あたしよりずっと才能のある子たちだって、頑張ってないはずがないのに。それを知ってて、心のどこかで見てみないふりをしてた。……バレエをやってた時も、そうだったな。

 いつか、オルフェさんにも言われました。お前の夢は私を越えた先にあるのかって。その通りだったはずなのに、あたしは答えられなかった。

 きっと、気づいちゃったんですね。プリンシパルになる……大きな舞台の上でみんなの期待を背負ってた、かっこいい父さんみたいになる。そんな憧れを語っているばかりで、結局はあたしが、そうなったあたし自身を想像できてなかった。

 それじゃ、どこまで走ればいいのかも分からない。そんな空回りの努力が、いつまでも続けられるはずなかった」

 

 話し続ける途中で、口調もどこか変になっていく。

 沈んだままかと思ったら、急に場違いに明るくなったり。わざとらしい間を空けて、少しおどけてみたり。重たくなった空気を薄めようとして、下手な悪あがきを繰り返す。

 ……それでも、結局は同じところに戻ってくる。

 だんだんと唇が震える。喉を突き上げてくるような嗚咽を我慢するのも、もう限界だった。

 

「……こんなにつらいなんて、思わなかったなぁ」

 

 ふとしたきっかけで、また涙は溢れてくる。

 

 暗い嫉妬だけじゃ届かない。胸を締めつけるような劣等感を燃やしても、全然足りない。

 自分の行く先を見据えて、ただ純粋な努力を積み重ねる人たちには──あいつみたいには、なれない。

 

「嬉しかったんです。トレーナーさんに見つけてもらえて……一緒に、ここまで走ってこられて。こんなあたしでも、何とか前に進めてる気がしてたのに。

 いつの間にか、こんな風に一人で傷ついて。……ほんと、バカみたいだ」

 

 自分のことで手いっぱいのくせに、誰かの期待まで背負おうとした。それで気がついたら、この有様。

 光なんてどこにも見えない。帰る道もとっくに分からなくなって、ずっと終わらない真夜中みたいだ。

 

 こんなところで躓いてしまうくらいなら。

 いっそ、最初から。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()

「──」

 

 思っていた言葉が声になる。

 でも、それはあたしのじゃなかった。

 

「はじめから望まなければ、辛い思いもせずに済んだ。

 そうすれば、何でもない自分のまま、普通に過ごしていられたかもしれないのに」

 

 視線が上を向く。あれだけ溢れて止まらなかった感情の奔流が、ゆっくりと落ち着きだしていた。

 

 後ろを振り返ると、遠くの空には静かな月明かり。

 表情は見えなくても、それは確かに、トレーナーさんの声だった。

 

「それでも、自分に嘘は吐けなかった」

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 ……これでも、昔はそれなりに問題児だったんだ。

 

 トレーナー養成所。シオンも知っているだろうけど、ウマ娘のトレーナーを目指す人たちが通う学校だ。俺も、そこの生徒だった。

 今思い返しても、凄い人がたくさんいたよ。君たちにも負けないくらい、圧倒的な夢と情熱を持った人たちが。

 そんなのを日常的に相手にしてると、地道な積み重ねなんて、あっさり笑い飛ばされちゃうようなこともあってさ。あの頃は、何をするにもついていくだけで精一杯だった。

 

 みんなに比べて、足りないものばかりだったから。

 

 お前なんかがトレーナーになれるか。さっさと辞めればいいのに。……そんなことを言われた時もあった。

 反論はしたかったんだけどな。でも、実際に否定できないところもあったから。今に見てろって、そう思うことくらいしかできなかった。

 それでも、応援してくれた人もいたんだ。

 俺に出来ることをちゃんと見て導いてくれた先生。ちょっとムカつくけど、同じ視点に立って研鑽に付き合ってくれた同期。そんな人たちに支えられて、俺は何とか、ここまでやってくることができた。

 

 こんな自分でいいのか。

 本当に、君たちの役に立てるような存在になれるのか。

 

 考え出したら不安はキリがなくて、何度も足を止めそうになった。情けない話だけど、実際今になっても、まだその答えは分からない。

 それでも、俺はこの学園にやってきた。きっと何かが変わるはずだと、そう信じて。

 

 

 ……そうしたら、君に出会えたんだ。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 こんなことを話して何になる。そう思ったら、すぐにでも言葉に詰まりそうだった。

 しばらくは何も考えず、ただ穏やかな口調で語り続ける。幸い、背中越しの泣き声は止んでいるようだった。

 それだけでも、少しくらいの意味はあったのかもしれない。

 

「──なんて。ごめん、昔話が長くなったな」

 

 最後だけは、何となく力がこもってしまっていたけれど。それを誤魔化すように、さっさと話を切り替えてしまう。

 

「話してくれてありがとう。……それから、ごめん。君はずっと、本当にたくさん悩み続けていたのに。俺は結局、それに気づいてあげられなかった」

 

 不甲斐なさを悔やむことは、いくらでもできる。でも、それに意識を取られてしまうのは避けたかった。

 どれだけ落ちぶれようと、自分はシオンのトレーナーだ。気持ちが先に立ってしまえば、せっかくこうして話してくれる気になったシオンも、また迷ってしまいかねない。

 今は感情の選択を間違えないように。慎重に言葉を紡いで、送り出していく。

 

「それでも、俺は君に走る資格がないなんて思わない。ただ闇雲でも、進む先が見えていなくても、やっぱり積み重ねていくことに意味はあると思う。

 君はただ一生懸命だっただけだ。それだけ強い気持ちでがんばっていれば、迷ってしまうことだってある。不安でたまらなくて、誰かを恨んでしまうようなことも。……それは自然な感情だよ」

「……」

「弱音を吐いたっていい。重たく感じるなら、誰かの期待なんて置いていってしまったらいい。辛くて仕方がない時、君は何より、君自身の気持ちを優先していいんだ」

 

 話を続けながら、不意に以前のファン交流会のことを思い出していた。

 喫茶店の店主さんが言っていた。日頃の応援の一欠片でも届けば嬉しい。けれど、一方でそれはシオンにとっての負担になりかねないのだと。……それは自分も同じ考えだった。

 どんな思いも、いつか正しく伝わる時がやってくる。

 それをずっと抱えている必要なんてない。重荷になってしまうなら、尚のことだ。

 

 自分の気持ちに正直に、ただ目指したいもののために全力で走る。

 何度ダメでも立ち上がる。ある意味では愚直なほどの一直線。

 

 けれど、そうやって一歩ずつ前に進む彼女を見ているのが、自分は好きだった。

 

「……それでも、迷いは消えないかもしれない。

 続けていればいつか報われるとか、そういうことを言いたいんじゃない。元々、仲良く横並びでなんて進んでいけない世界だ。どれだけ追いすがっても、君の前に立ちはだかる誰かが足を止めてくれることはない。

 君がここまでにしたいって言うなら、俺にそれは止められない。

 それは君のための選択だ。たとえどんな結論になっても、他ならない君自身が決めたことに、君は胸を張っていい。トレーナーとして、後のことは俺も全力でサポートする。……だから」

 

 そこでふと、言葉に詰まる。

 

「だか、ら……」

「トレーナー、さん……?」

 

 不自然な間が、それまで一定に保たれていた均衡を揺らがせる。

 困惑するような彼女の声も、そこに混じる。

 

 ──なんだ。これ。

 

 ギュッと拳を握っていた。

 込み上げてくる何かをこらえようとして、反射的に唇を噛む。

 

「っ……」

 

 無難に聞こえのいい台詞を吐き続ける自分が、ひどく滑稽に思えた。

 最後までこんなことしか言ってあげられない事実が、ただただ情けなくて仕方がなかった。

 

「違う。そんなことじゃ、ない…………それでも、やっぱり、俺は」

 

 歯を食いしばって耐える。それでも、感情は理性を追い越していく。

 これで何度目だろうか。心に渦巻くそんな言葉を、自分はまた抑え込むことができなくて。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()……っ」

 

 

 

【3】

 

 そうして、互いの言葉が途切れてからどれだけの時間が経っただろう。

 

 地べたのスマホは画面を落としたまま。時計を確認した方がいいかと考えて、やっぱり指先に力は入らなかった。

 冬の夜空はますます冷え込むばかり。ここから先、きっとこの暗闇は一層更けていくことだろう。

 

(……いいじゃないか。別に)

 

 彼女がもしそう言うなら。それでも構わない。

 ここで一緒に立ち止まって。終わりの見えないような静寂の中に身を委ねたまま。

 ただあてもなく凍えながら、じっと遠い朝日を待ち続けるだけだとしても。

 

「……トレーナーさんは」

「?」

「まだ、そこにいてくれますか」

 

 力なく伸びていた手に、別の体温が重なる。

 この寒空の下では、お互いもうすっかり冷え切ってしまっていたけれど。それは確かに、まだ少しだけ温かかった。

 

「弱くて、情けなくて……あなたに、何も返せないあたしでも」

「……もちろん」

 

 覚悟なんてとっくにできている。あの日、彼女の傍に立つことを許してもらえたその瞬間から。

 きっと、今度のその言葉に嘘はないんだろう。それだけは何となく分かった気がして、今はただ、心の底から嬉しかった。

 

「君が、そう望んでくれるなら」

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 あれから二ヶ月が経った。

 厳しい寒さの続いた長い冬を越えて、季節は次の春へと移っていく。

 

 

『ワァァァァァァ……──!!』

 

 

 ビリビリと、壁越しに会場の歓声が伝わってくる。

 

 第六十回・日経賞。今年は従来通り中山レース場にて執り行われることとなったそのレースは、イマイチ雲の晴れないどんよりした空の下にて出走となった。

 展開としては、序盤から想定外だらけだった。意外なウマ娘が序盤から地道にリードを積み上げていき、終盤までそれを守り切った。長いレースの歴史を見てもそう例のない番狂わせの逃走劇に、レース場の観客たちは驚きとともに沸き立っていた。

 

 ──そんな中、ウインバリアシオンは二着まで迫った。

 

 前走のジャパンカップから数えれば、ほぼ四ヶ月ぶりのレースだ。事前に用意していた作戦はあまり意味を成さなかったが、それでも道中は自分のペースに徹し、最後の追い上げもしっかりと伸びていた。結果的に届かなかったものの、彼女らしいレースができていたと思う。

 この分なら、次走の天皇賞・春(春天)も十分に戦える。

 今度はあのオルフェーヴルも出てくると聞いている。準備さえちゃんと整えば、あるいはそれはシオンの再出発に相応しい大舞台になるだろう。

 

「……」

 

 レースが終わってから間もなく。自分は観客席から移動し、地下通路の入口で彼女の帰りを待っていた。

 もう三月。春先というには少し遅い時期だが、それでも今年はまだ肌寒さが残る。ただでさえ雨も降り出しそうな曇天の元で、ろくに日も差さないこの場所ならそれも仕方ないのだろうけど。

 

 

『俺はもっと、君の走りを見ていたい』

 

 

 冷たい空気に肌をさする度。暗い寒空を仰ぎながら紡いだ、彼女との会話を思い出す。

 

 結局、力になるには遅すぎたのだと思う。以前に天池も言っていたが、ちゃんと彼女のことを見ていてあげられたのなら、もっと早くその気持ちに寄り添うことができていたかもしれない。()()()()()()なんて、そんな辛いことを言わせずに済んだのかもしれない。

 彼女を繋ぎ止めるためとはいえ、あんな自分勝手な思いを背負わせてしまうことだって、きっと──。

 

(それでも、まだ……)

 

 こんな頼りない自分でも、シオンはまだ一緒にいてほしいと言ってくれた。

 本当に優しい子だ。いつだって周りのことをよく見ていて、他の誰かのことを気遣っている。そして、だからこそ目の前の相手を傷つけまいとして嘘をついてしまう。空気を読み、本音を飲み込んで、自分だけが傷つこうとしてしまう。

 その僅かな声の震えを、自分は知っていた。だからこそ、あの日のそれが嘘ではないと、そう思えたのだ。

 

 その傍に寄り添ってきた大人として、責任は果たさなければいけない。彼女が望んでいてくれるなら、そのなけなしの信頼にはこれからも応えていきたい。

 

 たとえそれが、他の誰にも望まれていないとしても。

 

 

『あんな人が、トレーナーじゃなかったらよかったのに』

 

 

(……シオンが一緒じゃなくてよかった)

 

 あの日。またレースが終わって間もない会場の片隅で、自分は思いがけず足を止めてしまった。

 もし、同じ場所で彼女がそれを聞いていたなら、きっとまた余計な重荷になってしまっただろうから。

 

 

『お前に、あの子たちの何が分かるって言うんだ』

 

 

 自分にはもう、とっくにその資格がなかったのだとしても。それでもまだ、あの子のトレーナーでいられる。

 今はただ、その事実だけで十分だった。

 





毎度どうも。鵜鷺りょくと申します。

『夜明けのプリンシパル』、今回もお読みいただきありがとうございました。ひとまず今回のお話にて、ここまで長かった第4章も完結となります。
なかなか勝ちきれないレース展開が続き、それによる終盤のシオンたちの葛藤や挫折なども合わせ、全体的にとても重苦しい章だったかと思います。本作オリジナルの展開も多かった中、ここまでお付き合いいただけたことには本当に感謝しかありません。

続き、第5章は鋭意制作中です。まだ少しすっきりしない展開が続きますが、同時に本作のシオンたちにとって大きな救いの章となることを目指しています。第4章ほど長くなることはないと思いますが、毎週欠かさずにとは言いませんので、どうか無理のない範囲でついてきていただければ幸いです。

次回更新日は5/9の予定です。ここからのお話の整理のため、一週分だけお休みをいただきます。
もしかしたら登場人物表などは先に出すかもしれないので、気が向いたらまた見に来ていただければと思います。

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