夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
それは、星も見えない夜への一歩。
それはいつかの夏の夜更け。季節の虫たちがさざめき出す頃のこと。
気分転換に合宿所の外へ出てきていた自分は、持ち出してきた仕事用のタブレットを手に、その辺のベンチで資料をまとめていた。
「お、やっぱりいたね。利かん坊の仕事人間が」
「やかましい」
そこへ語りかけてくるお邪魔虫。
チラリと視線を寄せれば、あの腐れ縁の同期こと、
「何しに来た」
「散歩ってところかな。昨日こっちの方へ行くのを見かけたから、今日もいるようならちょっと絡んでいこうかと」
「そうか。仕事人間をわざわざ冷やかしに来る暇人ほど、鬱陶しいものもないだろうな」
あるいはそれだけ余裕ということだったのか。すでにクラシック三冠に王手をかけたあの暴君のトレーナーといえば、確かにそれらしいのかもしれないが。
今年の夏合宿もそろそろ折り返しに入る。大事な時期だ。面倒なヤツの相手は程々に流しつつ、今は作業に集中するとしよう。
「……そういえば」
そう思ったのだが。残念ながら、一つ思い出してしまったことがあった。
「お前、シオンに変なことを吹き込んだだろ。何だよ、昔担当してたウマ娘がいたって」
「いい
「お前の辞書にプライバシーって文字はないのか。そもそも当たり前のように話そうとするな」
自分の昔を知るお喋りな同期というのがこれほど面倒だとは。自分が赤ん坊だった頃を知っている親戚などといい勝負だ。
指摘したところでどこ吹く風。天池は開き直る。
自衛のためには、いずれこちらも仕返しのエピソードをいくつか準備しておくべきかもしれない。
「彼女が知りたそうにしてたんだよ」
「……」
「そんな風に思ってもらえるなんて、トレーナーとしては喜ばしいことじゃないか。変な意地なんて張ってないで、ちょっとくらい話してあげればいいのに」
「彼女くらいの年頃は、そういう話題にも興味を持ちやすいからな。……大して面白みのない話ばかりだ。がっかりさせたくない」
適当な言葉遊びが勢いづく。するとこいつが次に何を言うのかも、何となく分かってしまった。
タブレットの電源を切って、静かに席を立つ。
「思ってもないことを言うね。そういうのじゃないことくらい、薄々分かってるくせに」
「はいはい。そろそろ本当にぶん殴るぞ」
そう言ってみせると、"おぉ怖"と肩をすくめる。そんな天池の隣を抜けて、自分は緩やかに合宿所へと戻っていく。
足音はついてこなかった。まったく、こんな夜遅くに本当に何をしに来たのやら。
「……」
合宿所に入る手前。ほんの少しの間だけ、振り返って夜空を見る。
その様はあいにくの曇り空。きらめく星などはほとんど見えなくて、月も欠けた暗闇はいつもより深い。
何だか、見ているだけで気が滅入ってきそうだった。
(……今日は、もう休むか)
踵を返して、寝室へと急ぐ。
どの口がと言われるかもしれないが、寝不足なんて基本は褒められたものじゃない。
……ただ、きっと訳の分からないやつの相手をしてしまったせいだろう。
その日は、いつもより少しだけ長い夢を見た。
「──そうなのっ、このウマ娘ちゃんはほんとにかっこよくてね!」
「いじわるなライバルに何回負けたって、すぐに立ち上がってまた走る! とってもがんばりやで、みんながおーえんしたくなるの! どう、すごいと思わない!?」
「う、うん。そうだね」
それは確か、とある放課後の小学校でのこと。
教室で机を付き合わせながら、二人の子供が自由帳にペンを走らせていた。目の前の女の子が自分の考えたお話について熱く語っていて、それに圧倒されつつ、こちらも何とか相づちを返していた。
「かっこいいと思うよ。……ちょっとだけ、ベタかもしれないけど」
「あぅ……やっぱり、そう思う?」
「ちょっとだけね。でも、何だかおもしろくなりそう。もっと考えてみようよ」
そうして少し落ち着いたら、今度は二人でアイデアを出し合っていた。
彼女はマンガが大好きで、読むだけじゃなく、自分で書くことにも熱心な子だった。いつか雑誌の賞にも応募して、早くプロの漫画家になりたいのだそうだ。
幼くして将来を見据えている彼女は、尊敬できる同年代の一人だった。
彼女と仲が良かった自分は、よくその話し相手になっていた。たまにはその作業を手伝ったりもして、二人でよく教室に居残っていたのをよく覚えている。
「──おっ、いたいた!」
そして、そんな時はしばしば彼もやってきた。
サッカーボールを抱えた男の子。廊下から勢いよくこちらへ向かってくると、彼はガッと肩を組んできた。
「なんだ、また二人でなんか書いてんのか? せっかく天気いいんだし、外でサッカーしよーぜ?」
「"なんか"じゃなくてマ・ン・ガ! 今いいところなんだから、ジャマしないでよ」
「してないだろ。おれはコイツをさそってるんだから、お前は気にせず書いてりゃいーじゃん」
「だーかーらーっ」
小さい頃は些細なことですぐ言い合いになる。あの二人は揃って気が強かったから、顔を合わせればいつもそうだった。
男の子の方は、まあ少しワガママで強引なのも事実ではあったけれど。将来はプロのサッカー選手になることを夢見ていて、放課後も自主練を欠かさないような努力家だった。
自分もちょくちょく練習に誘ってもらっていたから。ちょっと熱くなりやすいだけで、別に悪い奴じゃないのも知っていた。
「へへ、前話してたかっけーシュート、やっとできるようになったんだぜ? お前も見たいって言ってただろ?」
「! すごいね。前は全然うまくできないって言ってたのに」
「だろ? オレさま、すっげーだろ!?」
「うん」
心からの感嘆だった。それがどれだけ努力がいることか、素人なりに理解していたから。
いつだって自信と熱意に溢れた彼の笑顔は、そうやって誰かを惹き付けてしまう。
「っし、決まりだな! いこーぜ
「え? あ、でも、今は──」
「あっ、こらッ! 勝手につれてくなーっ!!」
強引に引っ張られて、教室から連れ出されていく。
女の子の方も後を追いかけてきて、あの日は結局、みんなでサッカーをしながらマンガのアイデアを考えることになっていた気がする。
「……」
今振り返っても、とても奇妙な時間ではあったけれど。反面、きっと満足もしていた。
何かを夢見て、毎日をただ一生懸命に駆け抜ける。まるで燦然と輝く星空を見上げるようにしながら、かけがえのない夢や目標を追いかけていた友人たち。
自分にはないものを持っていた彼らは、いつだってキラキラと輝いていた。
(……まぶしいな)
けれど、多分、みんなの傍にいる間だけは。
それを持てない自分のことを、少しだけ忘れることができていたんだと思う。
──────────
「──
「ああ! 聞いて驚け? 何とあの年末大一番──
……いや、急にそう言われても。
それはある休日の昼下がり。ちょうど秋から冬へ移りゆく時期のことだった。
有マ記念。あの頃、まだレースのことなんて全然知らなかった自分には、それにどれくらいの価値があるかなんて理解できなかった。大人げなくはしゃぐ父の様子から、多分すごいことなんだな、くらいには伝わってきたけれど。
「よかったね、父さん。じゃあ、楽しんできてね」
「はっは、何言ってるんだ。お前も一緒に行くんだよ!」
「……え?」
どうやら、しれっと家族の分まで申し込んでいたのだそうで。
少し勢い任せな父に流されるまま、結局ワケも分からずに、自分はレース場へ連行されることになった。
『ワァァァァァァァ…………ッ!!』
初めて聞いたレース場の歓声は、何も知らない子供の耳には結構こたえた。
まだレースが始まる前。まだまだこんなものじゃないぞと笑う父の声には、幼心に絶望しかけたのを覚えている。いざとなれば、家族の目を盗んで逃げだそうとさえ考えていた。
実際、父の言うことは間違っていなかったと思う。
でも、結果的に言えば、そこまで気にはならなかった。
それ以上に夢中になるものが、そこにあったからだ。
「わ……っ」
喉の奥から込み上げた震える声。それは、あんまりにも自然な驚きを含んでいた。
観覧席の最前列。とうに釘付けになっていた視線の先で、ギリギリまで近いところを選手たちが駆け抜けていく。
──
ぴょこんと伸びた頭の耳に、フワフワ揺れる尻尾。それから運動が得意な女の子たち。
当時の自分にとって、彼女たちに対する認識はそんな感じだった。
同じクラスで気楽に話していた友だち。日頃それくらいにしか思っていなかったのだから、目の前に広がるその光景に圧倒されてしまうのも、きっと無理もなかったんだろう。
激しく波打つ髪先。汗の滴る必死な横顔が目に焼き付いた。
切り裂かれた風は頬を打つ。それは十二月の空気とは思えないほどに、びっくりするほどの熱を持っていた。
「──ハッ、何が三冠ウマ娘だ!
「!」
誰かの叫びがこだまする。
どこを見るかも定まらなかった慌ただしい視線が、すぐに一点へと定まった。
やけに目を惹く、黄色い衣装をまとったウマ娘。
ぎらついた眼差しが前だけを見ていた。
ビリビリと全身を粟立たせるその威圧感は、底知れない畏怖と、それ以上の何かを感じさせて。
「知るかよそんなもん! 今日この場の喝采は、全部あたしのもんだ──ッ!!」
抑えきれず溢れ出したその声は、まさに魂からの叫びだった。
その日、一人の挑戦者が"英雄"を打ち倒した。
当時はそんな事実を知る由もなかったが。世間的にそれは、歴史的瞬間ともいえる大事件だったのだという。
「……」
それでも、先頭で競り合った二人の熱量は、それだけで自分を夢中にさせた。
黄色いウマ娘が観客席の前に立つ。大手を振って、会場いっぱいから注がれる歓声へと向き合う。
そして、もう一度叫んだ。
天まで届くほどのその声量に、負けじと観客たちも声を張り上げる。これも後から聞いたことだが、彼女の立っていたそこはウィナーズサークルというらしい。
レースに命を賭けるウマ娘たちにとって、ずっと夢見て止まない至上の舞台。
注目が集まる大きなひだまりの中。誰よりも豪快に泣き、また誰よりも大きな笑い声を上げる彼女の姿は、とてもキレイだった。
「……ねえ、父さん」
「?」
「あの子たちは、どうしてあんなにがんばるのかな」
年甲斐もなく泣きじゃくっていた父が、やっと落ち着き始めた頃。
自分はまだ熱に浮かされたように、ただ心に浮かんだままの疑問を口にしていた。
「どうしてってそりゃ……いや、難しいな。そういうのは多分、あの子たち一人一人で色々違うもんだろうし」
「そっか。……」
「! もしかして、興味があるのか?」
「え? うん」
俯いていると、何かに気づいた様子で父が聞き返してきた。
「ほんとは、それだけじゃなくて。うまく言えないけど、もっとたくさん、知りたいことがあるような」
「……はは、なるほどな。だったら、うん、そうだな」
父が視線で指し示す。ウィナーズサークルの少しだけ外側。
そこにもう一人、誰かが立っていた。きっちりしたスーツに身を包んで、心から満足げに笑っていたその人。
やがてそれを、黄色いウマ娘がじれったそうに自分の傍まで引きずっていった。
「見えるか、あの人。トレーナーって言うんだけど」
「とれーなー……変な名前だね。父さんの友だち?」
「いや、そんな恐れ多い……まあいいや。ともかくあれが、がんばるウマ娘たちを精一杯支えて、彼女たちから一番頼りにされてる人なんだよ」
まだ子供だったのだ。変な聞き方をしたのは許して欲しい。
それでも父は、気のせいでなければどこか嬉しそうに、幼い自分に向かってこう言った。
「あの人くらい近くにいられるようになったら、その答えも分かるのかもしれないな」
「──」
傍から見れば他愛ないやり取りだったろう。バカバカしいと、誰かは笑うかもしれない。
実際、これといってドラマチックな煌めきがあったとも思わないけれど。
「……がんばれよ。
少なくともその日、その時──その瞬間。
ずっと空っぽに生きてきた彼は、長い旅路へ続く最初の一歩を、確かに踏み出したのだ。