夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
「お前なんかに、あの子たちの何が分かるんだ」
それからまた、数年の時が流れた。
ひとしきり昔話に浸った後は、まるでタイムスリップでもしたような気分になる。基本あまりそんなことはしない性分だったので、ある意味でいい経験になったと思う。
だから、その時無邪気に話してほしいとせがんでくれたあの子には、きっと感謝すべきなのだろう。
「なるほど。だからトレーナーさんは、今ここにいるんですねっ」
「……ああ。そうなるな」
ちょっと語りすぎたかもしれない。面白みもない話で、どこまで伝わったかなんて分からないけど。
白い石造りの建物に囲まれた、そよ風の心地いいベンチの上。隣に座って、得意げに感想を告げる幼いウマ娘。彼女の笑顔は、他愛のない語り聞かせには十分な報酬だった。
確かそれは、トレーナー養成所に通うようになってしばらくが経った頃だ。
当時は長期の合宿中。自分たち研修生は、とあるウマ娘たち向けのトレーニングクラブを訪問し、実地研修を行っていた。
そしてその日も、なりゆきから仲良くなったその子に付き合って、自分は少し世間話をしていたのだ。
「あと前にも言ったけど、"トレーナーさん"って呼ぶのはやめた方がいい。俺はまだ資格もないし、ただの何でもない学生だから」
「こんなにいっぱい、練習を見てくれるのに?」
「それでもだよ。その呼び方は、ちゃんと将来のためにとっておくべきだ。いつか、君がちゃんとしたトレーナーさんと巡り会えた時のために」
「……はーい」
不服そうな返事とともに、彼女は小さく頷いた。
あるいは少し、言いすぎだっただろうか。大事なことだったとは思うけれど、せめて二人でいる時くらい、気楽に聞き流してあげてもよかったのかもしれない。
「うーん……でも、それじゃあ他になんて読んだら」
「? そこは普通に名前とかでいいんじゃないか」
前に自己紹介はしたはずだが。うっかり忘れてしまったのだろうか。
「──
「……」
「ダメですか? すっごく仲良しさんみたいで、いいなって思うんですけど」
「えっと……それならせめて、
「あ、それもいいですねっ」
よかった。あっさり納得してもらえた。
実際、意味としてはそんなに変わらないのだろうけど。聞く人によっては、変な呼び方を強制しているようにも捉えられるのではないかと、少し心配になった。
誤解は生じてからでは遅い。こちらは子供番組に出てくる"うたのお兄さん"みたいなものだ。いくらかは健全だろう。
「
「!」
我ながら意味の分からない言い訳を考えていると、ふと向こうから名前を呼ばれた。
自分が振り向くよりも早く、隣のウマ耳がぴくりと立ち上がる。
「どうかした?」
「むぅ……」
こちらの陰に隠れるようにして、不満げな目つきが声のした方に向けられる。何となく、その先にいる人物を警戒しているのだと分かった。
「大丈夫だよ。
「そこがイヤなんです」
「……そっか」
それはもうどうしようもない。自分からでは反論が思いつかなかった。
「──ふふ。またねっ、お兄さん」
子供は気分の切り替えも早い。そうしてにこっと微笑むと、覚えたばかりの呼び名にあいさつを添えて、タッタと立ち去っていった。
「何だ。またあの子と一緒だったのかい?」
「まあな」
そして、反対側からやってくるウワサの影。同期の
「随分楽しそうだったじゃないか。ほんと、君もつくづくお節介だよね」
「ほっとけ。……そういうところを言われてんだぞ、多分」
「?」
つい思ったことを言いかけてしまった。わざわざ告げることでもないし、何でもないと話を切り上げる。
時計を見ると、そろそろ次の講義も近かった。こちらもタイミングを見て切り上げるつもりだったが、もしかすると探しに来てくれたのだろうか。相変わらず妙なところで義理堅い。
「……何だよ」
「いや、余裕だなーと思ってさ。担当のクラスだけならともかく、他のとこの子にまで時間を割くなんて。この研修、今後にもかなり響くそうだけど」
「……」
教室へ向かう途中、やけにじろじろ見てくるのが鬱陶しくて、話を促してみた。そうして返ってきた指摘は、思ったよりずっとまともなものだったと思う。
……別に、そういうわけじゃなかったが。
こいつの言いたいことも分かってしまう分、その時はすぐに否定もできなかった。
「トレーナーになるのは簡単なことじゃない。……少し、甘く考えすぎなんじゃないか?」
──────────
ウマ娘たちのトレーナーになる。あの日、自分はそう決めた。
きっかけはやはり、父に連れられて行ったレース場での出来事だ。我が親ながら単純な人だし、これといった趣味も持たない息子を心配していても、まさかそこまで計算していたなんてことはないだろうけど。実際、そこで味わうことになったあの圧倒的な熱量に、自分はまんまと浮かされることになった。
それはきっと、生まれて初めての感情だった。
幼い胸の中に芽生えた衝動を言葉にするのは、今でも難しいけれど。
ただ、目の前でほとばしるウマ娘たちの情熱が、あまりにも印象的で。どうしようもなく、心が震えた。
自分にはついぞ持つことができなかったもの。もし、彼女たちの傍にいられたのなら、それが何なのかを知ることができるんじゃないかと。
あの時はきっと、そう考えたんじゃないかと思う。
そうして、自分はトレーナー養成所の門を叩くことになった。
「──げっ。次の講義、
「あの人厳しいよねぇ……いつもはただの陽気なオッサンなのに」
百人近くを収容できる大教室。そのどこかから、誰かの重めな溜め息が聞こえる。
養成所の講義はどれも大変なものばかりだった。それは今話題に上がったあのあごひげ親父だけではなく、程度の差はあれ、教官たちは誰も厳格な人たちが揃っていた。
一挙手一投足にまで評価がつく、というほどでは流石にないけれど。実際、あまり気の休まる時間もなかったと思う。
トレーナーの資格を得るのはそれくらいに大変なことだ。途中で心が折れて、養成所を自主的に退学する者も少なくはなかった。
自分などとは程遠い、あの子たちに相応しい熱意を備えた人たちさえ、それは例外じゃなかった。
「何ぼーっとしてんだよ。松早」
「え」
「もう講義始まるぜ。そんな風に気抜いててみろ。あのオッサンならすぐにさらし上げてくるぞ」
ゾッとする話だった。隣に座ったクラスメートの声がけに、思わず苦笑いを返す。
元々、それほど人付き合いが得意だったわけじゃない。そんな自分に好意的に絡んでくるような人なんてあまりいなかった。だから、彼のことは今でもよく覚えている。
端的に言えば、明るくて面倒見のいいムードメーカー。何かあれば思わず頼ってしまいたくなるような、そういう心強い人だった。
「厳しいけど、頑張ろうぜ。俺たちは一緒にトレーナーになるんだからな」
「……ああ」
臆面もなくそう言ってしまえるような、眩しいほどの情熱も備えていて。何より、胸を張って語れる夢がある。
もしも彼のような人がトレーナーなら、その担当ウマ娘はきっと、安心して走り続けることができるのだろう。
本当に、心からそう思っていた。
(……結局、見上げてばかりじゃないか)
昔と何も変わらない。
思わず目が眩んでしまうほどの輝かしい原石たちが、ここには山ほどいる。
三冠ウマ娘を育て上げる。最強を謳われるようなチームを作る。
メジロやサトノといった、名のある大家に認められる。
兎にも角にも、最高のトレーナーになる。
結局、羨ましがってばかりだった。自分にはないものを欲しがって止まない、どうしようもない劣等感ばかりの日々で。
足りないものばかりで、始めから身勝手なだけの自分は、みんなについていくのがやっとだった。
(……それでも)
だからこそ、出来る限りのことはやれたのだと思う。
毎日のように山積みの参考書と睨み合った。数え切れないほどのトレーニングメニュー案を作った。分からないことがあれば、何度呆れられても教官たちの元へ足を運び続けた。
ひたすら、一歩ずつを積み上げていった。そうして過ぎゆく日々は忙しなく、季節はあっという間に移り変わっていく。
『……あいつ、またやってるぞ』
『よくやるよ。あんだけやらなきゃついてこれないのかね』
笑われることもあった。でも、自分にはそれしかできなかったから。
道標なんてない。そもそも、自分に辿り着けるような終着点があるのかさえ分からない。
それは誰の目にも止まらない、まるで星明かりさえない長い夜を歩むような。
そんなあてのない旅路を支えた言葉は、たった一つだけ。
──努力は、きっと報われる。
やがて、最後の季節がやってきた。
「…………
肌を切り裂くような、いてつく冬の日が訪れる。
養成所の広場。たくさんの学生たちでごった返す中、大きな掲示板に貼り出された数字の中から、自分にとってのたった一つを探し出す。
そうして、ピタリと視線が止まる。
弾かれるように手元の用紙を見て、また掲示板、用紙と何度も見比べて。
ようやく、それが事実だと確信した。
中央のトレーナーライセンス。万人を阻むほどの狭き門とされる、最難関の試験。
その日、自分はそれに合格を果たした。
「──」
歓喜は心の中に留まった。それより先に身体の力が抜けたように、自分はしばらく広場の隅っこに立ち尽くしていた。
それはただひたすらの安堵。本当は大手を振って喜びたい気分なのに、不思議だった。
一つの大きな試練を越えた。
その事実だけで、胸がはりさけるほどに、いっぱいいっぱいだったのだ。
「……松早?」
その日は、おおよそ試験結果の確認だけだった。
事務室に立ち寄って、今後のことをひとしきり聞いた後に、自分は帰り道についていた。
同期の彼と顔を合わせたのは、その途中のことだった。
──────────
「……そうか。お前、試験受かったんだな」
ともに一人暮らしの身だ。当時の自宅は養成所から近めのところにあったが、その日は少しだけ寄り道をすることになった。
近所の公園。近くの自販機で買った温かい缶コーヒーを手に、自分たちは静かに言葉を交わしていた。
「おめでとさん。お前、がんばってたもんな。同期として誇らしいよ」
「ああ。ありがとう」
そういえば、こうやって彼と話すのも久しぶりのことだった。
前までは色んな講義で話しかけてくれていたのに。いつの間にか、それもパタリと止んでいた。
他に友人の多い彼のことだ。別におかしなことでもないと、あまり気にしていなかったが。
「──
長い沈黙。永遠にも感じられるような、どこか重苦しい空気の中で。
彼はまず、その一言だけを口にした。
「いけるって思ったんだけどなぁ。さっすが中央のライセンス試験、簡単じゃなかった。……ま、その気になりゃ来年もあるんだし? 再スタートだって割り切って、また頑張らないとな」
おどけるように空を仰いで、口調は限りなくいつもらしかった。
缶を握る手が震えていなければ、あるいはすっかり騙されてしまっていたほどに。
「笑ってくれていいんだぜ?」
「……」
「最高のトレーナーになって、どんなウマ娘も導いてみせる──なんてさ。あんだけ大口を叩いておいて、結局はこのザマだ。もう笑うしかねぇだろ。なぁ?」
そう。それが、彼の目指す"トレーナー"だった。
才能も結果も関係ない。大願を叶えようとするウマ娘たちのために、どこまでも寄り添ってともに頑張っていく。
遥か遠くを見つめるようにしながら、そう語っていたその横顔を、自分ははっきりと覚えていた。
「……でも、真剣だったんだ」
飾り立てのない、まるで子供のような夢。
それだけ眩しい資質に恵まれながら、自分なんかにも平等に寄り添ってくれた。
彼なら、きっと。本当に、そう思っていた。
「頑張って、やってきたんだ。厳しい講義にも耐えて、あの子たちのためだって思ったら、どれだけだって力が湧いてきた。
叶えたかった……っ……それ、なのに」
少しずつ、言葉の外皮が剥がれ落ちていく。やがて、彼の本心が剥き出しになる。
彼にも積み上げたものがある。自分は、それを知っていた。
「なんで、お前なんだよ」
長く身体を抱え込むようにうずくまっていた。そんな彼が、徐ろに顔を上げる。
こちらをじっと見て、言葉を紡ぐ唇は震えていた。
「夢も持てない。自分自身を誇ることだって、ろくにできない。……お前なんかに」
「……!」
「
その表情は、見たこともないほどに歪んでいた。
胸が痛い。足がすくんで、動けない。
今まで何とか立てていた地面が、急に崩れ落ちていくみたいだった。
(……俺は)
自分には何もなかった。トレーナーになった先で、何を成すべきかも分からなかった。
各々に目指すものを掲げ、レースの世界を全力で走り続けている。そんな彼女たちの傍に立つ理由が、ただそこにいたいからなんて。
……ふざけてる。
そんなこと、ずっと前から分かっていたはずなのに。
「…………ごめん」
しばらく経って、ようやく絞り出せた言葉がそれだった。
彼はもうそこにいなかった。らしくない言葉を吐いてしまった反動か、もしくは、いつまでも黙りこくっていた自分に呆れてか。
いずれにしても、それが彼と交わした最後の会話になった。
(……俺は、どうしてこんなところまで)
いつまでも立ち止まってはいられない。今さら引き返すなんて許されない。
結局、ようやく辿り着けたと思ったその場所に、求めていた光なんてありはしなかった。