夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
笑い合った夕暮れに、月はまだ見えず。
「……遅くなっちゃったな」
腕時計を眺めつつ、小さく溜め息を吐く。トレーニングに差し障るほどじゃないのは幸いだったが。果たして彼女はもう来ているだろうか。
少し疲れてはいたが。気持ちを切り替えて、やや足早に廊下を進み出す。
トレーナー間で行われる会議が長引いた放課後。二年もこのトレセン学園にいれば仕方ないことだと慣れてもきたが、それにしたってこう毎回のように議題が尽きないのは、ある意味で凄いことなのかもしれない。
色々な意味で規格外な子たちも多い。問題の報告を求められた同僚の中には、彼ら自身でさえ青ざめていたり、また訳が分からずに困惑していたりもして。
「ごめん、会議がなかなか終わらなくて。さっそくミーティング──」
その点、うちの担当はとても真面目でいい子だから。
何かをやらかして、こちらが肝を冷やすようなことはそうそう。
「──……を?」
と、そこまで考えて。
思わずピタリと脚を止めてしまったのは、ノックをしてトレーナー室に入った直後のことだった。
「あっ。お疲れ様です。トレーナーさん」
「…………あ、ああ」
返事が遅れる。予想通り、シオンはもうトレーナー室にやってきていたようだ。
ちょこんとソファに座り、姿勢を良くして腰を落ち着けてくれている。そこについては、もう少し寛いでくれていてもいいのにと思わなくもなかったが、今の問題はそこじゃなかった。
その膝元。彼女が手にとって眺めている資料。
遠目に見ても少し年季が入っていて、端っこがややくたびれて見えるあの紙束は。
「えっと……また、それを見てたのか?」
「はい。ちょっとだけ棚の整理をしてたら目についたんで。……つい」
それはまっすぐな照れ笑い。正面から向かい合ってはいられないほど、あまりにも純粋無垢な。
──
と、そんな風に呼べば立派に聞こえるかもしれないが。要は、まだ右も左も分からないどこかの新人トレーナーがまとめた、もう本来の意味では使われることもない古ぼけたトレーニング資料のことだった。
……まあ、自分のことなのだが。
もう二年も前。シオンにスカウトをかけに行った時、彼女に一緒に手渡したものだ。
「……」
軽く目眩がする。この間久しぶりに見返してみたら、それだけでもう地面に潜ってしまいたくなるレベルの代物になっていた。
きっと今なら、もう少しマシなものも作れるのに。
「ふふ。もう内容なんて覚えちゃってるのに、何だかいつも最後まで読んじゃうんですよね」
肝心の彼女が、それを手放してはくれない。
いつだったか、それなりに資料の改訂も進んできた頃に「古いのは整理しようか」と尋ねて、もの凄く悲しそうな顔をされたのを覚えている。
いや、彼女の気持ちは何となく分かる。けれど。
まるでいつまでも手に馴染んでしまう宝物のおもちゃみたいに。何度もそれを持ち出してきては、シオンは嬉しそうに眺めていた。そしてそんな場面を見るたびに、こちらは胸のあたりがくすぐったくて、どうにもたまらなくなってしまう。
「すみません。ミーティングっすよね。すぐに片付けます」
「うん……よろしく、頼むよ」
気持ちのせめぎ合い。彼女が嫌がると分かっていて、まさか捨てるなどという選択肢を取れるわけもなく。
あるいはいつか、もっと出来のいい資料を作ることができたなら。彼女も納得してくれるのだろうか。
(がんばらないとな……)
ご機嫌そうな彼女が席を立った後、こちらはひっそり天を仰ぐ。
たかだか赴任して三年目の身で分かったような口を叩いたことを、今はどうか許してほしい。
自分もまた、何があろうと大切な担当ウマ娘相手に強く出られない。そんなトレーナーの一人に違いなかったのだ。
───────────
「……そういえば、明日はご家族と出かけるんだったな」
「はい。そうっすね」
ミーティングの終わり。明日の休暇のことについて、そこであらためて話題に上げてみる。
「すみません。ただでさえ立て込んでる時期なのに、無理言っちゃって」
「いや。前もって伝えてくれてたんだし、気にすることじゃないよ。元々、どこかに休みを入れたいとも思ってたから。
それに、最近はあんまり実家にも帰れてなかっただろ」
「あー……そういえば、そうだったっすね」
気まずそうに頬をかく。その点では、こちらもあまり人のことを言えなかったりするが。
去年から今年始めにかけては本当に色々なことがあった。連休や年末年始といった丁度いい機会もトレーニング続きだったし、直近でさえ、感謝祭や天皇賞の準備に追われていた。そうなっても無理はなかっただろう。
明日はシオンのご家族がこちらにやってくるらしい。彼女もそれに合流して、みんなで観光を楽しんだ後、街の大きな劇場へ行くのだそうだ。
「先月、父さんから連絡あったんすよね。滅多に取れないバレエ講演のチケットが手に入ったから、みんなで一緒にどうだーって。やけに強く勧めてくるなって思ったけど……やっぱり、心配かけてたのかな」
「そうかもしれないな。君はいつも頑張り屋だから」
「いや、そんな……ていうか、それ関係あるんすか?」
「それだけ喜ばせたくなるんだよ」
つい口が回りすぎてしまう。何かを言い返そうとして、赤くなって口をつぐんだシオンは、そのままムッと前髪に手を伸ばしていた。
外野があまり勝手を言うものでもないだろう。こちらもその辺りでやめておくことにする。
「……」
『うぉぉぉ聞いてくれっ! またっ、また当たったんだ! 今度のも大きなレースだぞぅ!』
『そ、そうなんだ。すごいね父さん。……』
『安心せい、ちゃんとみんなの席も取ってある! ──行くだろ?』
『……! うんっ』
ふと、懐かしいやり取りが脳裏をかすめる。
あの時は変に強がって、一緒に行きたいと素直に言えなかった。そんな気持ちさえ、どこか見透かしていたように。
父親──家族というのは、案外どこもそんなものなのかもしれない。
「変な気は遣わずに、明日は楽しんできて」
「……はい」
代わりにそう締めくくる。隠そうとしていても、控えめに頬が緩んだのは見えていた。
(……そろそろかな)
視線を時計に映すと、トレーニングの開始時刻も迫っていた。
気楽な雑談もほどほどにして、彼女にもそう促す。自分は先に行って準備だ。待ち遠しい一日を前にして何だが、今日はあえて少し厳しめのメニューを組んである。
その方が、彼女もきっと安心するだろうと。
「──
部屋を出ようとして、ピタリと脚が止まる。
「? シオン、何か言った」
「! い、いえっ。何でも、ないっす」
忘れ物を思い出したからだった。
同時に何か聞こえた気がしたが、後ろのシオンは焦り気味にそう言う。……気にはなるが。
「でも、実は言いたいこと、一つだけあって」
「え」
「戻ってきたら、また言います。次の天皇賞までには、絶対」
「あ、ああ。……分かった」
途切れがちに紡がれる言葉。戸惑いながら頷くと、シオンはふっと笑みを見せる。
次の瞬間には、すぐ隣をそよ風が通り過ぎていった。早足の彼女が去ったその場には、不自然な沈黙だけが取り残される。
(トレーナーさん……も?)
耳に残った文字を思い返してみるが、やはり上手く意味は繋がらなかった。
考え事にあまり脚を止めてもいられない。忘れ物だけ回収して、自分も急ぎトレーナー室をあとにした。
──
ゴトッ
「……あ」
「だ、大丈夫ですかっ?」
翌日。人の出入りが活発な倉庫の片隅で、何かが落ちる音が響く。
落とし主は自分。急いで拾い上げようとしたところ、声を掛けにきてくれたのは学園の事務員さんだった。
「あ、すみません……こちらの不注意で」
慌てて返事をする。不意に力が抜けたように、手を滑らせてしまったのだ。
幸い、運んでいた段ボール箱の中身は軽いものばかりだった。念のため中をあらためてみるが、何かが壊れたりはしていなかった。
「お怪我がなくてよかったです。……こちらこそ、あらためて申し訳ありません。お忙しいところに、このような雑務をお願いしてしまって」
「いえ、そんな。自分は今日は暇でしたから」
こちらのミスなのに、逆に気を遣われてしまった。少し戸惑いつつそう応じる。
今日はトレーニングも休みだし、ひとまずの予定は空いている。そういう時に学園の仕事を手伝うというのは、トレーナーの間でも割によくあることだった。
学園内、体育館近くの倉庫。今日ここで行われているのは、数日前のファン感謝祭の片付けだ。
お店に展示、運動系のアクティビティ──今年も学園の広い敷地を埋め尽くさんとするほど、盛りだくさんの出し物があった。当然相応に賑わったわけだが、一方で使用されていた設備や小道具は完全に片付けきれず、数日がたった今でもこの倉庫に積み上がったままになっていた。
学園の職員総出で片付けているものの、なかなか思うように進まなかったらしい。そこで、昨日のトレーナー間会議でも作業の手伝いを募集していると通達があったのだ。
毎年大変なことだ。
自主的にそれを引き受けたからには、自分ももっとしっかりするべきだとは思っているのだが。
「……」
「? どうかしましたか」
「あ、すみません。不躾で恐縮ですが……もしかして、ウインバリアシオンさんのトレーナーさんではありませんか?」
「え、ええ。そうですが……」
何だかじっと見られていると思ったら、予想外の質問が飛んでくる。
そう答えると、事務員さんはパッと目を輝かせた。
「やっぱり! 私、彼女のファンなんです! この間のミニライブも最前列で拝見させていただきましてっ」
「そ、そうですか。それは、まことに恐縮で──」
「オープニングのVOLTAGEからもう鳥肌立ちっぱなしでした! 私あの曲本当に大好きで、推しのシオンちゃんに歌ってもらえただけでも感激なのに、やっぱり彼女にもめちゃくちゃ合ってて!! あっ、それから次のレースは天皇賞でしたよね!? 実はもう観戦チケットも取らせていただいてるんですけど」
「…………」
どうしよう。会話の始めまではまだ畏まった普通の職員だったのに、話す勢いがどんどん熱狂ファンのそれになっていく。
いや、彼女のトレーナーとして光栄なことに違いはないのだが……思いも寄らない場所で遭遇してしまったせいだろうか。急な熱量に対応しきれず、ついつい圧倒されてしまっていた。
「ごめーん。ちょっとこっちいいー?」
「へ──あ、はい! 今行きます! ……急にすみませんでした。よろしければぜひ、後でゆっくりと」
「は、はい……」
向こうから呼びつけられて、事務員さんは一瞬我に返る。
そのまま元通りになるかと思ったら、去り際の言葉にはまだほの熱い残滓が残っていた。……また後で来るのか、あれが。
「なぁ、この荷物どこのだっけ?」
「んー? げ、これあそこのだろ。ほら、校舎のはずれにある」
「あそこかー……遠いな。てかまだ使ってたんだ」
そこへ、別の方向からそんな会話が聞こえてくる。
校舎のはずれ、遠い、しばらく使われていなそう──散りばめられたキーワードを結び合わせて、頭の中で行き先に思いいたる。
「よかったら自分が行きますよ」
「えっ……いいんですか?」
しっかり頷く。おそらくだが、どうせ誰も行きたがらないだろう。
お話の続きはまた今度で──心の中でそう合掌しつつ、荷物を手に自分は倉庫を抜け出していく。
もう気は抜かない。
そう意識してはいても、やっぱりまだ、頭の中は少し騒々しいままだった。
──────────
あの日は不安も多くあった。それはもちろん、彼女自身が一番そうだっただろう。
けれど、シオンはやり遂げた。最初の挨拶から感じられた不安定さなどすぐに振り切って、開幕からの勇ましい歌声を保ったまま、彼女は最後までステージの上を舞い踊り続けたのだ。
トレセン学園・春のファン大感謝祭。
その名に違うことなく、大切なファンたちに向けて臨んだ彼女のミニライブは、おおむね大成功と言って差し支えなかっただろう。
(……がんばったな。シオン)
歓声は収まらない。アンコールを求められそうな勢いだったが、時間の関係でそれは難しい。
舞台袖へと下がっていくシオン。少しして、観客席にいた見慣れた人たちも動き出す。今日もしっかり声援を飛ばしてくれていた、彼女のファンクラブの面々だった。
後方でその様子を見ていた自分も、そちらの波に続こうとする。
「ねえ、ほら、あそこ」
「あれ、バリちゃんのトレーナーさん、よね。え、隣にいるのって──」
ふと、何だか気になる会話が耳に入ってくる。
自分のことだろうか。思ったよりも人が入っていたので、自分は観客席外縁部の立ち見エリアにいた。人もまばらで、少なくとも隣には誰もいなかったはずだが。
「!?」
「ふん。なんだ、ようやく気がついたか?」
足を止めて、後ろを振り返る。
見ていた人がざわついたのも仕方がないのかもしれない。他の彼女の友人などならまだしも。
しかしそこにいたのはその宿敵──
「いつから、そこに」
「始めから。彼奴がステージに立った頃にはすでにな。……不敬にも、貴様は意にも介していなかったようだが」
「……」
「まあよい。いささか血気の衰えたその目では、それも仕方なかろう」
ハッとして、すぐに目を逸らす。オルフェーヴルは大して興味もなさげに息を吐いた。
こうして彼女と直接話すのは、思えば夏合宿の時以来だ。あの時はトレーニング中だったし、会話は互いに必要最低限に済ませていたけれど。
傍にいるだけで緊張を強いてくるような、その威圧感は顕在だ。あれからいくつもの季節を経て、それはむしろ強まったようにも思える。
「だが、尽力の甲斐はあったらしい。何やらしばし腐抜けていたと聞いたが、存外、今日は悪くない出来であった。この分であれば、次の天皇賞もそれなりには期待できよう」
「気にかけてくれてたのか。それは何だか、ちょっと驚きだな」
「たわけ。あれだけしつこく余に追いすがってきた彼奴のことだ。こちらが気に留めずとも、面白がってその様子を語りたがる輩もいる。それだけのことよ」
一蹴だった。まさか彼女に限ってと、自分も半ば冗談まじりではあったが。
通算して三戦。それも重賞レースやクラシック三冠といった大きなレースばかりだ。その最前線で何度も対峙し合った一、二着となれば、それを何か運命めいた因縁として捉える人々もいただろう。
因縁があれば、それはまた一つの物語になる。
薄々感じていたことではあったものの、そういった意味で、二人の関係そのものに世間の注目が集まりつつあるのかもしれない。
それは皮肉にも思える。……でも、だからこそ、いつかは。
「貴様は、今のままでよいのか」
「──え?」
その場が一瞬、静まり返る。まだ休憩中とはいえ、この中央広場にいてそんなことがあるだろうか。
あるいは錯覚。自分の意識は、だんだんオルフェーヴルとの会話に呑まれていく。
「何も言ってやらなければ、彼奴はこの先も余に挑み続けるであろう。あるいは先の菊花賞のように善戦することもあろうが、所詮はそれまで。永劫に敗北を積み上げ、傷を負い、生涯ただ一度きりの時を何の栄光もなく終えていく。彼奴もどこかで気づいてはいよう」
「……」
「それを見過ごすか? あるいは貴様からの進言であれば、彼奴も道を変えるやもしれぬのに」
淡々と言い並べられていく言葉。何の温度も感じられないそれには、あるべき感情が乗っていなかった。
彼女からすればその必要もないのかもしれない。心から当たり前だと思っていることに対して、人はわざわざ心を揺らしたりはしない。ただ平然と突きつけ、そのことを顧みもしない。
だから、それと向き合う側の苛立ちにさえ気づかない。
「随分な物言いだな。この先も自分が負けることはありえないって、そう思ってるみたいだ」
「無論だ。余の覇道こそ不動のもの。それが揺らぐことなど、決してありはせぬ」
……気持ちを抑えつけるのも、なかなか大変なものだ。
冷静に考えれば、踏み止まるべきだった。大人げない。仮にも一人のトレーナーとして、ウマ娘相手にそんな言葉を吐きかけるのは褒められたことじゃないと。
「ふざけるなよ」
けれど、やり過ごすことはできなかった。何より彼女の担当トレーナーとして。それだけは、絶対に。
「彼女も俺も、最初からこれが楽な道だなんて思ってないさ。この先だって大変なことはあるだろう。……それでもいつか、ウインバリアシオンは君を超える。三冠ウマ娘の栄光なんて霞むほどの、大きな勝利を見せつけて」
「語るだけならば容易いな」
「……あぁ。それが言葉だけだと思うなら、いつまでもそうして涼しい顔をしていればいい」
息を整える。その間も、オルフェーヴルの表情は少しも変わらなかった。
激情に流されてはいけない。次の言葉こそは、はっきりと。
「その間も俺たちは前へ進む。──
次の瞬間。返ってきたのは、びっくりするほど大きな笑い声だった。
何故だか妙に機嫌がよさそうだったその横顔のことを、今でも鮮明に覚えている。