夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─   作:鵜鷺りょく

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「今度は二人で。大切なパートナーとして、支え合いながらね」





欠けた黄昏 Ⅱ(前編) 「なくした時間のお話 ①」

 

─────【1】─────

 

 

「……うわ。暗」

 

 荷物の入った段ボールを抱えて、ようやく目的地までやってくる。

 軋む鉄扉を開けると、湿り気を帯びた空気が鼻をついた。中は当然まっくらで、入口傍のスイッチを押しても電気が点かない。蛍光灯が切れているのだろう。

 

(どれだけ放置されてるんだ……)

 

 校舎はずれの物置部屋。存在と場所だけは知っていたが、実際に足を踏み入れるのは初めてだ。

 仕方なく入口は開けたままにして、外の明かりだけを頼りに中を進んでいく。等間隔に並ぶ棚のスキマをすり抜けながら、途中ぎちぎちに荷物が詰まっているようなところも見えて、つい嫌な想像が浮かんだ。こんなところで雪崩でも起きようものなら堪ったものじゃないだろう。

 

「……」

 

 カツカツ、と。静かな暗がりには足音一つが響くだけ。

 何となく感じていたことではあったのだが。今日はどうやら、少し耳鳴りが強いらしい。

 

 

『ハッハッハッ! ……成程。そのような目もできたのだな』

 

 

 記憶の中の笑い声が、また静寂の中に溶け出していく。

 

 

『担当のことを気遣うあまり、ただ耳障りの良い言葉を並べるだけの腰抜けかとも思ったが。……よい、興が乗った』

 

『存外、ヤツが気に掛けるだけのことはあったか』

 

 

 ファン感謝祭の観客席。なりゆきからライブ後に交わしたオルフェーヴルとのやり取りだった。

 そしてその締めくくり。突然豪快に笑い出したその表情は、それまでとはまるで別人みたいだった。緊張気味だった空気が途端に薄れて、それで満足をしたと言いたげに、彼女は背を向けて去って行った。

 あの時はただ戸惑っていて、黙って見送っているしかできなかったけれど。

 

(試された、のかな)

 

 しばらくが経ってから、そう気づいた。

 オルフェーヴルの真意はどうあれ、その言葉を受けた自分はとても冷静ではいられなかった。何かを言い返さないと我慢がならなくて、溢れ出す感情をそのまま声に載せていた。

 そんなこちらの動揺さえ、全てが彼女の手の平の上だったとしたら。

 

(……いい気はしないな)

 

 トレーナーともども、人の神経を逆なでするのが趣味なのだろうか。すっかり足も止められてしまって……それは自分も悪いけれど。

 先に行っていたはずの彼女が引き返してきたのは、その直後のことだった。

 

 

『──シオン?』

 

 

 ギュッと握られた手首の感覚。指先から伝わってきた、その手の震えも。

 どちらもはっきりと覚えている。あの時、呼吸も乱れてしまうほどに走ってきたのだろうシオンは、どこか様子がおかしかった。こちらを見上げる不安げな視線は、ふいに人混みにまぎれこんでしまった迷子のようで。

 何となく、あの冬の丘からの帰り道のことを、少し思い出した。

 

 

『大丈夫。俺はどこにもいかないよ』

 

 

 こちらがそう伝えると、指先の力も少しずつ弱まっていった。

 それが答えだったのかもしれない。自分も気づいていなかったわけじゃなかった。一度は走ることさえ諦めかけてしまったあの大きな挫折から、シオンはまだ完全に立ち直れてはいなかったのだ。

 

 今は自分が傍にいる。ネイチャたちもいてくれる。

 でも、きっとそのままじゃいけない。

 

 彼女はいずれ、また一人であのターフの上に立つことになる。たとえ声が届く距離にはいられても、そこに立つのは結局選手一人だ。支えを求めすぎる気持ちは、彼女自身のパフォーマンスにも大きく影響しかねない。

 それでも、彼女は日経賞を乗り越えた。ライブだって完璧にやり遂げた。

 あとは時間の問題だ。次の天皇賞に間に合うかは分からないけれど。結果を焦りさえしなければ、彼女はちゃんと前を向いていける。

 そういう強さを、ちゃんと持っている子だから。

 

 そのために、今自分に出来ることは。

 

「──」

 

 ……また、見ているだけか?

 

 進む先を示してあげることもできずに。支えることすら満足にできなくて。

 挙句、ただ走りを見ていたいからなんて。そんな自分のワガママを背負わせてしまった。

 それだけはしたくないと、そう思っていたくせに。

 

(……もし、俺じゃなかったら)

 

 彼女と初めて話した日のことを思い出す。

 手に携えたメニューの草案は、今考えてもやっぱり拙くて。間に合わないと思っていたそれは、結局誰よりも先に彼女へと届いてしまった。

 それは偶然だったのかもしれない。何かの間違いだったのかもしれない。

 あるいは、本来先に辿り着くべき誰かがいたとして。あるべくして噛み合っていたはずの歯車を狂わせてしまったのは、もしかしたら自分の方だったんじゃないか。

 

 

『一緒に夢を叶えような! シオンっ』

『──はいっ』

 

 

 あの日、その手を取ったのが自分じゃなかったなら。

 例えば、かつて同じ学び舎で研鑽を共にした、彼のような夢と熱意に溢れるトレーナーだったなら。

 

(俺は……)

 

 それでも、満足していたはずだろう?

 もし本当に、彼女のことだけを想っていたのなら。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 バキッ

 

 

「──……え」

 

 一瞬、視界がぶれる。荷物を棚に載せたことで、気が抜けてしまったんだろうか。

 ふらついて、つい棚の天板を掴んでいた。どこかが古びていたのか、それだけで固い金属が折れるような音がして。

 崩落。支えを失った荷物が、こちらに向かって次々と滑り落ちてくる。

 

(! くそ……っ)

 

 目の前の光景がスローモーションみたいに流れていく。

 本能的な反応だったんだろう。それでも、バランスを崩しかけた身体はどうにか腰を捻るくらいがやっとで。

 

 

『戻ってきたら、また言います』

 

『次の天皇賞までには、絶対』

 

 

 一瞬のうちに頭をよぎったのは、さりげなく交わした一つの約束のことで。

 

 ガッ

 

 最初に打ち付けたのは頭。

 それだけで、視界はあっさり暗転する。

 

「……ご、め……し……お……」

 

 そこで何かを言いかけた気がしたけれど。その先のことは、あまり覚えていない。

 

 

 

 

─────【2】─────

 

 

 夕方。その日一番の大きな演目を終えたことで、エントランスホールは一気に賑やかになっていた。

 目の前を行き交うたくさんの人たち。全体的には家族連れが多い印象だった。ステージの熱気に当てられたせいか、広いところで楽しそうに踊っている子供たちの姿も見える。

 そんな光景が、何だかちょっと微笑ましかった。

 

「いやぁ、いい舞台だったな!」

 

 そんな中、建物の柱に沿って置かれたロビーチェアに着いて、あたしはほっと一息を吐いていた。

 隣に座っていた父さんも、やっぱりまだどこか興奮が冷めきらない様子で。

 

「個々の技術に演技力、どれをとっても申し分ない。クライマックスの盛り上がりもそうだけど、何より場面ごとの細かい表現が見事だったな。あのスッと心に降りてくるような自然さ、勉強させてもらったよ」

「ふふ、そうだね」

 

 口ぶりは同業者としてのそれ。だけど一方で、はしゃぐようなその横顔はまるで子供みたいだった。

 今日の目玉ともいえるバレエ公演。久しぶりに家族全員で脚を運んだ劇場での時間はあっという間に流れていった。母さんが妹たちとお手洗いに行っている間、あたしは父さんとゆっくり公演の感想について語り合う。

 昔からの自然な流れだ。小さい時なんかは、例えば何でもない休日のお昼にもテレビをつけて、よく父さんの膝に乗って公演の録画を見たりもしていたっけ。

 学園に入学してからはそういう機会も少なくなっちゃったけど。それだけに、今はとても懐かしい気持ちが胸を満たしていた。

 

「あらためて、今日は誘ってくれてありがとね。……それから、ごめんなさい。せっかくのチケット、一枚キャンセルにしちゃって」

「はは。なに、謝ることないさ。元々無理を言ったのはこちらだし。こうやってシオンのお休みを調整してもらえただけでも、トレーナーさんには感謝しないとだからね」

「ん……そうだね」

 

 ただ、屈託なく笑いかける父さんの言葉には、ちょっとだけ後ろめたいところもあって。

 

『──トレーナーさんも一緒に来られないかな?』

 

 それは先月のこと。今日のお出かけのことで、父さんから連絡が来た時だった。

 家族全員の分と、それから追加でもう一席。ただでさえ競争率が高いその公演のチケットは、本当はそれくらいあると聞かされていた。あたしのトレーナーさんにもって、そういう想定で取ってくれていたらしい。

 家族で過ごせる時間と大好きなバレエの観劇。それだけでも、あたしにとってはすごく嬉しい機会だった。今は遠慮しなきゃって、そんな気持ちもつい圧されてしまっていたくらいには。

 そこにトレーナーさんもいる。想像すると不思議な感じだったけど、あたしの中では何だかあっさりと腑に落ちた。

 もし叶うならって。気づいたら、そう考えてしまっていた。

 

(……だからって、そのまま頷いちゃうんだもんな)

 

 トレーナーさんにも話してみる。父さんにはそう言って一度電話を切った。……あとで冷静になって、ちょっとだけ憂鬱になったのも覚えている。

 まだ色々と考えなくちゃいけないことがある、大切な時期だ。気分転換も大事だよって、トレーナーさんはそう言ってくれたけど。実際今日のことを相談するだけでも、それなりに気を引き締めて行ったような気がする。

 

 一緒に来ませんか? ──そう言ったら、あの人は何て答えたかな。

 

 きっと嫌な顔は見せない。断るにしても、すごく申し訳なさそうに言ってくれただろう。

 ……こんな忙しい時に、とか。

 心ではそう感じたとしても、あたしには何も言わなかったと思うけど。

 

「……」

 

 そうやって色々迷って。時間は過ぎていた。

 あたしは結局、トレーナーさんにちゃんと声を掛けることもできなかった。

 

「はは。再挑戦は、また色々と落ち着いてからかな」

「……え」

「トレーナーさんのこと。実は僕も、あの人とはまたゆっくり話したいと思っていてね」

 

 何かを見透かしたような目をして、父さんはにこやかに言葉を続ける。

 

「君がデビューする前に、一度ご挨拶に見えたことがあっただろう。その時のことがとても印象に残っているんだ。

 まだ新人さんなだけに初々しさはあったけど、その口ぶりにはとても熱いものを感じた。君のことを話している時なんて特に分かりやすかったから、母さんとの間じゃ、未だに語りぐさになってたりもしてね」

「っ……そ、そうなんだ」

 

 知らないところでそんなことに。あらためて言われると、ちょっとこそばゆい感じがした。

 

「一番近くにいる君がどう感じているかは分からない。だけど、少なくとも僕らは、あの人になら君を任せられると思ったよ」

「……!」

「もう少しくらい、素直に気持ちを告げてみてもいいのかもしれないね」

 

 大きな手の平が優しく頭を撫でる。

 その温かい気持ちも、昔から覚えているもので。そんな感覚が、今は少し誰かのと似ているような気がした。

 

「父さん、もしかして気づいて」

「うーん、どうだろうね。ただその道のプロとしては、大事な娘のささやかな所作も見抜けなくては話にもならない、かな」

 

 少しだけ冗談めかすような言い回し。それも父さんの得意技だった。

 

「……あちらも大変な世界だ。それでも、心から決めた道なら振り返らずに進みなさい」

 

()()()()()()。大切なパートナーとして、支え合いながらね」

 

 そしてそういう時は、あたしにとって大切な言葉を伝えてくれていたりして。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

「──あれ、電話? ……学園からだ」

 

 父さんとの感想会が一段落した頃。母さんたちの帰りが遅いのが気になって、スマホで時間を見ようとした時だった。

 公演中は電源を落としていたから、画面が点灯するまでに少し時間がかかる。やっと表示されたロック画面には、数件の不在着信を知らせるメッセージが出ていた。

 着信元はトレセン学園。

 登録はしているけど、滅多に使うことがない番号だ。……どうしたんだろう。

 

「ごめん。ちょっと電話してくるね」

 

 父さんにそう言って席を立つ。

 少しはまばらになってきた人混みの中を抜けて、ひとまず会場の外まで出てきた。

 ここなら大丈夫だろう。スマホを操作して、通話ボタンをタップする。

 

「もしもし、ウインバリアシオンです。すみません、さっきは電話出られなくて──」

 

 コール音は短かった。聞き慣れた音が途切れて、すぐに学園の事務員さんが応対してくれる。

 もしかすると、最初に電話をかけてくれた人だったのかもしれない。あたしの名前を聞くと、その声が一気に豹変した。

 

「──え?」

 

 トレーナーさんが事故に遭ったと聞かされたのは、そのすぐ後だった。

 

 





【あとがき】


毎度どうも、鵜鷺りょくと申します。
先週は急にお休みをいただいてしまい、申し訳ありませんでした。

さて、第35話前編。いかがだったでしょうか。
久しぶりに家族との穏やかな時間を過ごし、お父さんに背中を押してもらったシオン。そして、その裏側で起きていた事件の予兆のお話でした。

果たして、その後トレーナーはどうなったのか。
後編へ続きます。




シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=338048&uid=503660

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