夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
※
こちら後編になります。なるべく前編を読んでからお楽しみください。
ずっと、言わなきゃって思ってた。
一人で逃げ出して、静かな寒空の下で泣いていたあの日。どうしようもなくボロボロだったあたしを、それでもあの人は追いかけてきてくれた。抱えこんでいた傷跡を分け合うようにしながら、ただ静かに傍にいようとしてくれた。
君の走りが見たいって、そう言ってもらえた。あたしにとって、それがどんなに嬉しかったか。
ボロボロだった心に光が差し込んで。そっと胸に満ちていく温かさが、あたしをもう一度立ち上がらせてくれた。
……だから、いつの間にか手が離せなくなった。
一人で走っている時が怖かった。ふとした瞬間、近くにトレーナーさんがいないってだけで不安になった。
傍で支えてもらっていたことを、今までよりもずっと強く感じるようになった。だけどそれは、きっとほんの少しの何かで簡単に崩れてしまうくらいに不確かで。
頼りにしちゃいけないものだって、だんだん気づいていった。
このままじゃいけない。
またあいつと戦えるか以前に。いつまでもトレーナーさんに心配をかけたくなくて。
日経賞も、感謝祭のライブも精一杯に頑張った。全部は上手くできなくても、なけなしの自信に変えられるくらいにはやれたはずだ。
もう大丈夫。今のあたしなら、ちゃんとやれる。
そんな決意を、次の天皇賞までにトレーナーさんに伝えるつもりだった。安心してもらって、今度こそ一緒に再スタートを切るんだって、そう思っていた。
(……思って、たのに)
──────────
カチャリと、固い何かが地面を転がった。
それは自分のスマホ。考え事をしていたせいか、いつの間にか手の平から力が抜けていたみたいだった。
そんなことに、何十秒も遅れてから気が付いて。
「一晩中、そうしているつもりかい」
「……?」
拾わなきゃ。そう思った視線の先で、別の誰かの手がそれを持ち上げる。
そこにいたのは、見知った顔の人だった。
「
オルフェさんの担当。トレーナーさんの、同期の。
それは当たり前に知っていたはずのこと。だけどそんなことさえ、今のあたしにはずっと遠くにあるものみたいに思えて。
ツンと鼻先を刺すような消毒液の匂い。そこは病院の中だった。
あれからどれくらい時間が経ったんだろう。父さんたちとバレエの公演を見た後、学園から電話がかかってきていたことに気が付いて。
慌てて掛け直してみたら、学園の事務員さんが電話に出てくれた。……それで。
『──落ち着いて聞いてください。実は、先ほどトレーナーさんが』
最初は耳を疑った。何かの間違いじゃないかって、そう思った。
その場で聞かされたのは、トレーナーさんが事故に遭って病院に運ばれたところまでだ。詳しいことは、この病院に着いてからあらためて聞かされた。
ファン感謝祭の後片付けをしている途中のことだったらしい。荷物を持って遠くの倉庫へ行ったきり、トレーナーさんはなかなか帰ってこなかった。気づいた学園の事務員さんが様子を見に行ってくれて、その先で、崩れ落ちた荷物の下敷きになっているトレーナーさんを見つけたんだそうだ。
そこからすぐに救急車で運ばれて、あたしが到着した時には、もう治療も終わった後だった。
今はすぐ隣の病室で眠っている。トレーナーさんの意識は、まだ一向に戻らない。
「僕もついさっき状況を知ったところでね。入口で会った事務員さんにも聞いてみたら、君も来てるって話だったから」
「……」
「もう門限も過ぎてる。今日のところは学園に戻った方がいい。送っていくよ」
「……嫌です」
声を絞り出して、何とか意思を伝える。
「だって、もし、トレーナーさんが……」
門限とか、今はそんなのどうだっていい。あたしがここを離れていい理由にはならない。
気のせいだって思っていたのに。
この手を離したら、あの人がどこかに行ってしまう──なんて。
不安な心がちょっと顔を出しただけで、放っておけば、そのうち何でもなくなるものだって思っていた。
……でも、実際にそうなった。
あたしが傍を離れちゃったから? ちゃんと声を掛けて、一緒に来てもらわなかったから?
そんな些細なことでも。何かが一つでも違っていたら。
考えすぎかもしれないけど。もし、あの時どっちつかずに逃げたあたしのせいで、こんな取り返しのつかない状況になってしまったんだとしたら。
あたしにはもう、ここにいることしか。
「ここに残ったって、僕らにできることは何もない」
天池さんの声が淡々と告げる。……それが少しだけ揺れているようにも聞こえたのは、もしかしたら気のせいじゃなかったのかもしれない。
すっと息を吸う音。一拍を置いて、その言葉はゆっくりと続いた。
「……すまない。君の気持ちは分かってるつもりだ。でも、命に別状はないって、先生も言っていただろう?
今は落ち着いて、身体を休めよう。目が覚めた時、ちゃんと彼を迎えてやれるように」
「……っ」
しめつけた喉が痛かった。一人きりで堪えるしかなかった泣き声が、少しだけ外に出る。
そうして俯いたまま、しばらくは返事を返せずにいたけど。何となく、ここにトレーナーさんがいたら、同じように言ってくれたような気がして。
最終的に、あたしは天池さんに向けて小さく頷いた。
病院から連絡があったのは、次の日の朝のことだった。
「──トレーナーさん!」
学園を飛び出して、一目散に病院まで走った。
息を吐く余裕もないまま、あたしは病室の扉を開ける。
「……!」
本当に長い夜だった。結局昨日は、寮に帰っても寝付くことができなくて。
また見過ごしてしまうのが怖かった。だから真っ暗なスマホを握りしめて、ただひたすらその瞬間を待ち続けていた。
でも、きっとその甲斐はあったんだと思う。
駆け込んだ病室の中。そこには白衣に身を包んだ先生と看護師さんたちが立っていて。
寝台の上では、トレーナーさんが身体を起こしていた。
「よかった、目、覚めたんすね……! ──あ、痛いところないっすか!? ちょっとでも違和感があったら、ちゃんと先生に……!」
「あ、あぁ……」
隣に駆け寄って、溢れかえる気持ちのまま話しかける。いつもなら躊躇ってしまうのに、つい伸びた手がぺたぺたとトレーナーさんに触れていた。
冷静に考えれば、すぐ傍に先生たちもいた。素人のあたしがとやかく言う必要なんてなかったんだろう。
それでも、部屋の中は温かな雰囲気に包まれていた。よかったねって、誰かが呟くのが聞こえた気もする。
「ほんとに、心配してたんすよ? このままどうなっちゃうんだろうって、昨日なんて、ずっと……」
安心すると、だんだん脚の力も抜けてきてしまう。
子供みたいに膝をついて、寝台の上に顔を埋める。泣きそうになりながら、あたしは何度もそんな言葉を繰り返していた。
「……残念。先を越されてしまったか」
その途中で、病室の外から別の足音が入ってきた。
数秒遅れておどけるような声も続く。振り返るまでもなく、きっとあの人なんだろうなって分かった。
「まったく、ほとほと人騒がせなやつだなぁ君は。僕らがどれだけ気を揉んだと思ってるんだい。仕事に関係ないところで勝手に事故って入院とか、ほんと、しばらくは笑い話にもならないよ」
「……天池? お前、その恰好」
「ん、ああこれかい? 仕方ないだろう、仕事中に出てきたんだから。感謝こそされても、お小言を言われる筋合いはないね」
何だかいつも以上に口が回っている気がする。合宿で話した時もそんな感じだったけど、この人は機嫌が良くなるとそうなんだろうか。
……昨日はあんなに心配そうだったのに。
もしかしたら、ただ強がってるだけなのかもしれないけど。
「……」
「? 何だ、いつものキレのある返しはまだなのかい。これだと僕、ただすべっただけの賑やかし役なんだけど」
それに引き替え、トレーナーさんの方はずっと静かだった。
ちょっと、不自然にも感じたくらい。
「天池」
「お前……
「────は?」
……この子?
ゆっくりと顔を上げる。部屋の中はいつの間にかしんと静まり返っていた。
次に、周りを見渡してみる。隣には天池さんがいて、寝台を挟んで反対側には先生たち。今は閉まりきった後ろの扉から、新しく誰かが入ってくるような様子もなかった。
(……え)
もう一度、正面から顔を合わせる。
トレーナーさんはまっすぐにこっちを見ていた。他の誰かじゃなく、誤魔化しようもないくらいにあたしを見つめていた。
澄んだ水面みたいに静かな表情。
相変わらず、何を考えているのかは分かりづらかったけど。
「────」
あたしを映すその瞳の中に、強く灯っていた光は見つからない。
何度くり返してみても。まるで今日初めて会った誰かを見ているような、そんな空っぽの暗闇が返ってくるだけで。
……胸の辺りがズキッとした。
それが何を意味しているのか。
現実を受け止められたのは、まだずっと先のことで。
【あとがき】
あらためまして、鵜鷺りょくと申します。
第35話後編、いかがだったでしょうか。
前回からの続き。事故を経て、トレーナーが目を覚ますところまでのお話でした。
ここからが第5章『欠けた黄昏』。作中のシオンたちにとっても大きな転換点を迎える章となります。
物語も佳境。まだ重めなところはあるかもしれませんが、シオンやトレーナーたちが大団円を迎えるため、必要なお話だと信じて書き進めています。
できればこのまま、もう少しだけお付き合いいただけると幸いです。
※
次回更新は6/3(水)を予定しています。ご承知置きください。
※
シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=338048&uid=503660