夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─   作:鵜鷺りょく

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こちら後編になります。なるべく前編を読んでからお楽しみください。





欠けた黄昏 Ⅱ(後編) 「なくした時間のお話 ②」

 

─────【1】─────

 

 

 

 ずっと、言わなきゃって思ってた。

 

 

 

 一人で逃げ出して、静かな寒空の下で泣いていたあの日。どうしようもなくボロボロだったあたしを、それでもあの人は追いかけてきてくれた。抱えこんでいた傷跡を分け合うようにしながら、ただ静かに傍にいようとしてくれた。

 君の走りが見たいって、そう言ってもらえた。あたしにとって、それがどんなに嬉しかったか。

 ボロボロだった心に光が差し込んで。そっと胸に満ちていく温かさが、あたしをもう一度立ち上がらせてくれた。

 

 ……だから、いつの間にか手が離せなくなった。

 

 一人で走っている時が怖かった。ふとした瞬間、近くにトレーナーさんがいないってだけで不安になった。

 傍で支えてもらっていたことを、今までよりもずっと強く感じるようになった。だけどそれは、きっとほんの少しの何かで簡単に崩れてしまうくらいに不確かで。

 頼りにしちゃいけないものだって、だんだん気づいていった。

 

 このままじゃいけない。

 またあいつと戦えるか以前に。いつまでもトレーナーさんに心配をかけたくなくて。

 

 日経賞も、感謝祭のライブも精一杯に頑張った。全部は上手くできなくても、なけなしの自信に変えられるくらいにはやれたはずだ。

 もう大丈夫。今のあたしなら、ちゃんとやれる。

 そんな決意を、次の天皇賞までにトレーナーさんに伝えるつもりだった。安心してもらって、今度こそ一緒に再スタートを切るんだって、そう思っていた。

 

 

(……思って、たのに)

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 カチャリと、固い何かが地面を転がった。

 それは自分のスマホ。考え事をしていたせいか、いつの間にか手の平から力が抜けていたみたいだった。

 そんなことに、何十秒も遅れてから気が付いて。

 

「一晩中、そうしているつもりかい」

「……?」

 

 拾わなきゃ。そう思った視線の先で、別の誰かの手がそれを持ち上げる。

 そこにいたのは、見知った顔の人だった。

 

天池(あまいけ)さん……」

 

 オルフェさんの担当。トレーナーさんの、同期の。

 それは当たり前に知っていたはずのこと。だけどそんなことさえ、今のあたしにはずっと遠くにあるものみたいに思えて。

 

 ツンと鼻先を刺すような消毒液の匂い。そこは病院の中だった。

 

 あれからどれくらい時間が経ったんだろう。父さんたちとバレエの公演を見た後、学園から電話がかかってきていたことに気が付いて。

 慌てて掛け直してみたら、学園の事務員さんが電話に出てくれた。……それで。

 

 

『──落ち着いて聞いてください。実は、先ほどトレーナーさんが』

 

 

 最初は耳を疑った。何かの間違いじゃないかって、そう思った。

 

 その場で聞かされたのは、トレーナーさんが事故に遭って病院に運ばれたところまでだ。詳しいことは、この病院に着いてからあらためて聞かされた。

 ファン感謝祭の後片付けをしている途中のことだったらしい。荷物を持って遠くの倉庫へ行ったきり、トレーナーさんはなかなか帰ってこなかった。気づいた学園の事務員さんが様子を見に行ってくれて、その先で、崩れ落ちた荷物の下敷きになっているトレーナーさんを見つけたんだそうだ。

 そこからすぐに救急車で運ばれて、あたしが到着した時には、もう治療も終わった後だった。

 今はすぐ隣の病室で眠っている。トレーナーさんの意識は、まだ一向に戻らない。

 

「僕もついさっき状況を知ったところでね。入口で会った事務員さんにも聞いてみたら、君も来てるって話だったから」

「……」

「もう門限も過ぎてる。今日のところは学園に戻った方がいい。送っていくよ」

「……嫌です」

 

 声を絞り出して、何とか意思を伝える。

 

「だって、もし、トレーナーさんが……」

 

 門限とか、今はそんなのどうだっていい。あたしがここを離れていい理由にはならない。

 気のせいだって思っていたのに。

 この手を離したら、あの人がどこかに行ってしまう──なんて。

 不安な心がちょっと顔を出しただけで、放っておけば、そのうち何でもなくなるものだって思っていた。

 

 ……でも、実際にそうなった。

 

 あたしが傍を離れちゃったから? ちゃんと声を掛けて、一緒に来てもらわなかったから?

 そんな些細なことでも。何かが一つでも違っていたら。

 考えすぎかもしれないけど。もし、あの時どっちつかずに逃げたあたしのせいで、こんな取り返しのつかない状況になってしまったんだとしたら。

 あたしにはもう、ここにいることしか。

 

「ここに残ったって、僕らにできることは何もない」

 

 天池さんの声が淡々と告げる。……それが少しだけ揺れているようにも聞こえたのは、もしかしたら気のせいじゃなかったのかもしれない。

 すっと息を吸う音。一拍を置いて、その言葉はゆっくりと続いた。

 

「……すまない。君の気持ちは分かってるつもりだ。でも、命に別状はないって、先生も言っていただろう?

 今は落ち着いて、身体を休めよう。目が覚めた時、ちゃんと彼を迎えてやれるように」

「……っ」

 

 しめつけた喉が痛かった。一人きりで堪えるしかなかった泣き声が、少しだけ外に出る。

 そうして俯いたまま、しばらくは返事を返せずにいたけど。何となく、ここにトレーナーさんがいたら、同じように言ってくれたような気がして。

 

 最終的に、あたしは天池さんに向けて小さく頷いた。

 

 

 

 

─────【2】─────

 

 

 病院から連絡があったのは、次の日の朝のことだった。

 

「──トレーナーさん!」

 

 学園を飛び出して、一目散に病院まで走った。

 息を吐く余裕もないまま、あたしは病室の扉を開ける。

 

「……!」

 

 本当に長い夜だった。結局昨日は、寮に帰っても寝付くことができなくて。

 また見過ごしてしまうのが怖かった。だから真っ暗なスマホを握りしめて、ただひたすらその瞬間を待ち続けていた。

 でも、きっとその甲斐はあったんだと思う。

 

 駆け込んだ病室の中。そこには白衣に身を包んだ先生と看護師さんたちが立っていて。

 寝台の上では、トレーナーさんが身体を起こしていた。

 

「よかった、目、覚めたんすね……! ──あ、痛いところないっすか!? ちょっとでも違和感があったら、ちゃんと先生に……!」

「あ、あぁ……」

 

 隣に駆け寄って、溢れかえる気持ちのまま話しかける。いつもなら躊躇ってしまうのに、つい伸びた手がぺたぺたとトレーナーさんに触れていた。

 冷静に考えれば、すぐ傍に先生たちもいた。素人のあたしがとやかく言う必要なんてなかったんだろう。

 それでも、部屋の中は温かな雰囲気に包まれていた。よかったねって、誰かが呟くのが聞こえた気もする。

 

「ほんとに、心配してたんすよ? このままどうなっちゃうんだろうって、昨日なんて、ずっと……」

 

 安心すると、だんだん脚の力も抜けてきてしまう。

 子供みたいに膝をついて、寝台の上に顔を埋める。泣きそうになりながら、あたしは何度もそんな言葉を繰り返していた。

 

「……残念。先を越されてしまったか」

 

 その途中で、病室の外から別の足音が入ってきた。

 数秒遅れておどけるような声も続く。振り返るまでもなく、きっとあの人なんだろうなって分かった。

 

「まったく、ほとほと人騒がせなやつだなぁ君は。僕らがどれだけ気を揉んだと思ってるんだい。仕事に関係ないところで勝手に事故って入院とか、ほんと、しばらくは笑い話にもならないよ」

「……天池? お前、その恰好」

「ん、ああこれかい? 仕方ないだろう、仕事中に出てきたんだから。感謝こそされても、お小言を言われる筋合いはないね」

 

 何だかいつも以上に口が回っている気がする。合宿で話した時もそんな感じだったけど、この人は機嫌が良くなるとそうなんだろうか。

 ……昨日はあんなに心配そうだったのに。

 もしかしたら、ただ強がってるだけなのかもしれないけど。

 

「……」

「? 何だ、いつものキレのある返しはまだなのかい。これだと僕、ただすべっただけの賑やかし役なんだけど」

 

 それに引き替え、トレーナーさんの方はずっと静かだった。

 ちょっと、不自然にも感じたくらい。

 

「天池」

 

 

「お前……()()()()()()()()()()?」

 

 

 

「────は?」

 

 ……この子?

 

 ゆっくりと顔を上げる。部屋の中はいつの間にかしんと静まり返っていた。

 次に、周りを見渡してみる。隣には天池さんがいて、寝台を挟んで反対側には先生たち。今は閉まりきった後ろの扉から、新しく誰かが入ってくるような様子もなかった。

 

(……え)

 

 もう一度、正面から顔を合わせる。

 

 トレーナーさんはまっすぐにこっちを見ていた。他の誰かじゃなく、誤魔化しようもないくらいにあたしを見つめていた。

 澄んだ水面みたいに静かな表情。

 相変わらず、何を考えているのかは分かりづらかったけど。

 

「────」

 

 あたしを映すその瞳の中に、強く灯っていた光は見つからない。

 何度くり返してみても。まるで今日初めて会った誰かを見ているような、そんな空っぽの暗闇が返ってくるだけで。

 

 ……胸の辺りがズキッとした。

 

 それが何を意味しているのか。

 現実を受け止められたのは、まだずっと先のことで。

 

 





【あとがき】


あらためまして、鵜鷺りょくと申します。
第35話後編、いかがだったでしょうか。

前回からの続き。事故を経て、トレーナーが目を覚ますところまでのお話でした。
ここからが第5章『欠けた黄昏』。作中のシオンたちにとっても大きな転換点を迎える章となります。

物語も佳境。まだ重めなところはあるかもしれませんが、シオンやトレーナーたちが大団円を迎えるため、必要なお話だと信じて書き進めています。
できればこのまま、もう少しだけお付き合いいただけると幸いです。




次回更新は6/3(水)を予定しています。ご承知置きください。



シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=338048&uid=503660

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