夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
「彼は彼なりに選んだ。君は、そのままでいいのかな?」
その日。春も半ばに差し掛かった京都レース場には激震が走っていた。
「……うそだろ」
「あの、オルフェーヴルが……?」
観客のざわめきが耳に痛い。
内と外から同時に響く動揺の声に、こちらの心もまた揺れるばかりだった。
第百四十五回・天皇賞(春)。
最も長い距離を誇るGⅠにして、数ある中でも特に長い歴史を有するレースの一つ。そんな由緒ある大舞台は、当初こそ例年に勝るほどの盛り上がりを見せていた。
三冠ウマ娘オルフェーヴルと、因縁深き二番手ウインバリアシオン。その両名の出走。図らずもいつしか期待を集めるようになっていた対戦カードに、世間は胸躍るような熱戦を期待していたのだろう。……けれど、それは叶わなかった。
絶対たる金色の暴君──
「……なんで、あんたがそこにいるんだよ」
まだレースは終わったばかり。スタミナを使い果たした大半のウマ娘たちは、ゴールラインの先でまだ息を整えている。
そこに慣れ親しんだ顔ぶれもいた。一人で膝に手をついたまま、項垂れた赤い髪の向こうからは浅緑の瞳が覗く。……彼女もまた、視線の先にいるそのウマ娘の走りに違和感を覚えたに違いない。
「っ……」
遠目に、彼女が移動するのが見えた。それと同時に、止まっていたこちらの脚も自然と動き出す。
「──オルフェっ!」
地下通路までやってきた。外から差し込む光の中から、一人のウマ娘がこちらへ戻ってくる。
息を切らして駆け寄ると、彼女もまた立ち止まってこちらを見た。
「貴様か。そのように取り乱して、何用だ」
「っ……すまない。居ても立ってもいられなくなって」
冷ややかな視線。それ自体は珍しくもない。表向きに動揺はなく、オルフェはあくまでいつも通りにそこに立っていた。
不自然なまでの落ち着きよう。そこへ踏み込むには、何故だかいつも以上の距離を感じた。
「……何か、あったんだろう。今日の走りは君らしくなかった。もし、何か気になっていることがあるなら」
「話してどうなる」
「!」
「そうしたところで、今の貴様には何一つとして伝わるまい」
苛立たしげに目を伏せて、オルフェはまた歩き出した。
ざらついた風が通り過ぎていく。その隣にいながら、僕はそれ以上何も言うことができなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「──失礼します」
ノックの後、「どうぞ」の声がした。軽く深呼吸をして、あたしは病室の扉を開ける。
白色の光が差し込む窓。清潔感に満たされた部屋の中では、それもちょっと眩しく思える。ここに来るようになってしばらくが経つけど、結局最後まで慣れることはないんだろうなと思った。
「お久しぶりっす。
「久しぶり。……って言っても、まだほんの数日くらいじゃないかな」
「あはは。それもそうっすね」
寝台の上のその人に呼び掛ける。慣れないと言えば、多分こっちもだ。
穏やかな微笑みと一緒に、よく考えれば尤もな指摘が返ってくる。実際の日付より長めにそう感じてしまっていたのは、あたし自身が遠出をしていたせいもあったのかもしれないけど。
……察してほしい、っていうのも難しいかな。
この人は元々、そういうところだけはとことん鈍かったから。
「今日も来てくれてありがとう。でも、まだ京都から帰ってきたばかりなんだろ。俺のことは気にせずゆっくりして」
「あたしにとっては、こっちも大事なんで」
そういうのも言うと思った。何となく分かっていたから、今度は少しだけ被せるように反論してみる。
そんなやり取りでちょっとだけホッとしているのも、何だか不思議な気分だった。
「……その。天皇賞、見ててくれたっすか?」
来客用の丸椅子を持ってきて、寝台のすぐ隣に座る。それと同時に、部屋の隅っこに置かれたテレビが目端に映った。
四月最後の大レース、春の天皇賞が終わりを告げた。
優勝を期待されていたオルフェさんがまさかの掲示板外。全体の展開も合わせて、最初から最後まで大波乱のレースだった。色々困惑しちゃっていたから、正直なところ、あたしもまだ整理がついたわけじゃない。
結果は三着。今の自分にできるパフォーマンスとしては、精一杯を出せたとは思うけど。
「見てたよ。……惜しかったな」
「そうっすね。最後にもうちょっと余裕があったら逃がさなかったのに。慎重になりすぎてたのかも」
「ああ。だけど、それは展開が見えていたからでもあると思う。全体を通して、君はしっかり走れていたように見えたよ」
「……」
膝の上で、小さく拳を握る。それはレースの悔しさを思い出したからだったのか、それとも、また別のことだったのか。
あともう少し、届きそうで届かない。どっちにしても、そこだけはきっと変わらない。
「……ごめん。俺なんかが偉そうに言えることじゃなかったな。それに反省会なら、もうとっくに君のトレーナーと」
「どうしてっすか」
「え?」
あたしがそう言うと、トレーナーさんは目を丸くした。
「あたしは、あなたの言葉が聞きたくて来たんすから」
それは本音のようで、全部がそうじゃない。まるで試行錯誤みたいな会話だった。
笑顔を作る。胸の奥に燻る気持ちも今は飲み込んで。
あたしは今日も、目の前にある暗闇に立ち向かう。
あの事故の日から数えて、気づけばもう二週間以上になる。
今なら、こうやって少しくらいは堂々と話せるようになったけど。トレーナーさんが目を覚ました次の日、改めて顔を合わせたあの時はまだ、軽く視線を合わせているだけでもどこかぎこちなくて。
「──その、昨日はすみませんでした。あたし、急に帰っちゃって」
授業の終わった放課後。なけなしの勇気を振り絞って訪れた病室。
嫌な顔もせず迎え入れてくれたトレーナーさんに、あたしはまず心に引っかかっていたそのことを謝った。
「いや……謝るのは俺の方だよ。天池から大まかな事情は聞いた。混乱してたとはいえ、心配して来てくれた君にひどいことを言っちゃったから」
「そ、そんな! 仕方ないっすよ……だって」
あなたは、何も覚えてないんだから。
そこでまた声に詰まる。
お互いにもう分かりきっているようなことでも、実際に言葉にするのはまだキツいところがあった。
『……この子のこと、分かるか?』
仕方ない、とは言ったけど。それでも、トレーナーさんからそう告げられた時のショックは残っていた。
あの時、もしかしたら最初に病室にやってきた瞬間から、どこかで違和感はあったのかもしれない。だからって、さすがにそんなところまで想像できるわけがなかったけど。
いつもより元気がないのだって、しばらく気を失っていたんだし、きっとそのせいだろうと。
そう、思っていたかったんだ。
『分かるかって……何を言ってるんだ。彼女は君の』
『──! 天池さん』
みんなが黙り込んでいた中、一番最初に声を上げてくれたのは天池さんだった。それがあたしのことを思ってだったのか、昔からの友達の変化に戸惑っていたからなのか。そこまで汲み取れるほどの余裕は、あたしにはなかったけど。
それを遮ったのは、無意識のことだった。
『いいんです。今は……ちょっと』
あの時は、トレーナーさんも驚いた顔をしていた。天池さんに尋ねた時の言い方からしても、その状況に一番戸惑っていたのはあの人だ。
そこにそんな事実を突きつけても、きっと余計に混乱させてしまう。逸る気持ちはあっても、その場は飲み込むべきで。
……なんて。そんなの後付けだ。
心内でその可能性に気付き始めていたとしても、すぐに受け入れられたはずがなくて。
結局、あたし自身が見たくなかっただけ。否定のできない現実がすぐそこにあるのに、少しでもそれを遠ざけようとしていた。
──誰? なんて。
もう一度、あの人の口からそんな言葉を聞くのが怖かったんだ。
『──おそらく、心因性の記憶障害の一種かと思われます』
そんな話を聞いたのは、あたしが席を外した後のことだった。
病室で真相を知った時は、とても冷静じゃいられなくて。少し風に当たりたいと言って外に出た。足取りはふらついていて、そこからはしばらく、ただ目的もなく病院の中を転々としていた。
気持ちを落ち着けたいのもあったけど。そうしていたらいつの間にか時間が過ぎて、その間に、トレーナーさんの症状も少しは良くなるんじゃないかって。どこかで期待していたのかもしれない。
病室の近くまで戻ってきたのは、もう日が落ちる頃のこと。
その途中、細い廊下の影で隠れるようにしながら、先生と天池さんが話しているのを見かけた。
(心因性……心の問題、ってこと?)
曲がり角で足を止めたまま、向こうから聞こえてくる言葉を自分の中で整理していく。
まずは外傷のことだった。事故で救急搬送された時、トレーナーさんの負った怪我はそれほど酷いものじゃなかったらしい。
少なくとも後遺症が残るようなことはなくて、大量の荷物が散乱していたという事故現場の状況からすると、その程度で済んだのはある意味奇跡的だったんだそうだ。
頭を打った形跡はあっても、それは脳にまで影響するほどじゃなかった。外傷が原因の可能性は低い。
だとしたら、次に考えるべきは失った記憶の範囲のことだ。
(あたしのことは忘れてて、天池さんのことは覚えてた……)
てっきりそう思っていたけど、実際のところはもう少し複雑だったみたいで。先生たちのカウンセリングの結果から、トレーナーさんが失ってしまった記憶はその範囲が大体はっきりした。
それは、トレセン学園に赴任してから今日までの二年間。
その間にあった出来事が、その記憶からすっぽり抜け落ちていた。一見知っているようだった天池さんのことも、はっきり覚えていたのは養成所時代のところまでで。
だからこそ、学園所属のトレーナー服をまとったその姿を見た時は、少なからず驚いたんだろう。
「……」
忘れてしまったのは、自分自身がトレーナーだったこと。中央トレセン学園で勤務していたこと。
それから、一人の担当ウマ娘を指導していたこと。……大まかに言ってしまえば、そのくらい。
(でも、それって)
精神的な異常から引き起こされる症状。先生の話では、極度の疲労やストレスが原因になり得るんだそうだ。
そういうものが強くなると、心は自動で自分自身を守ろうとする。考える度に負担が積み上がっていくからこそ、やがてどうしようもなくなって手放そうとしてしまう。
もしも、そうやって行き着いた先が、今のあの人なんだとしたら。
「……トレーナーさんは、本当は」
──────────
「──
「……!」
「君と俺は、その」
病室での初めての会話にも、そろそろ終わりが見え始めてきた頃。
トレーナーさんが何かを言いかける。きっと、自分たちがどういう関係だったのかとか、そういうことを言いたかったんだろう。
それを汲み取って、あたしの方から言葉を続ける。
「ええと……一言だと、ちょっと難しいっすね。でも、あなたにはすごくお世話になったんで」
天池さんはちゃんと伏せてくれていたみたいだ。
遠回りをするようなそんな言い方は、やっぱりちょっとだけ辛かったけど。
「ご迷惑じゃなかったら、明日からもまた、ここに来てもいいですか?」
始まりは、そんな何気ないやり取りだった。
「シオン。シオンってば」
「……?」
誰かに呼ばれて顔を上げる。そこは教室の中だった。席に着いている子たちの姿もすっかり疎らになっていて、みんな鞄を提げて、次々に部屋を出て行く。
今は放課後。いつの間にかホームルームも終わっていたみたいだった。
「大丈夫? すっかり上の空になっちゃってたけど」
「あ……すみません。ちょっと考え事しちゃってて」
状況を理解して、声を掛けにきてくれたパーマーさんに何とか笑顔を返す。
「ならいいけど。……最近疲れてない? 久しぶりにどっか遊びにでも行く? ヘリオスたちにも声かけてさ」
「ありがとうございます。でも、すみません。今日もトレーニングがあるんで」
「そっかー……ま、そろそろ天皇賞も近いもんね」
残念そうに言う彼女の表情は、それでも相変わらず色々察してくれていたようで。今のあたしには十分ありがたかった。
気を取り直して鞄の紐を握る。パーマーさんに一声をかけてから、あたしも教室をあとにした。
──────────
結局、次の天皇賞への出走は回避しなかった。
基本的に、あたしたちウマ娘がレースに出るには担当トレーナーの承認と同伴が必要になる。ただ、今回は先に出走登録を済ませていたから。理事長秘書のたづなさんに相談して、学園所属の教官に同伴をお願いしたことで、あくまで特例として許可をもらうことができた。
……本当は、そんなことをしている場合じゃないのかもしれないけど。
あれからも、トレーナーさんのところには毎日通うようにしていた。
記憶を失う前、色々お世話になっていたウマ娘として。ふらりと顔を出しては、いつも何てことのない会話を交わすだけ。それをどう思われているかは分からなくても、あの人は多分そういうのを断らない気がしたから。あんまり考えないようにして、通い続けていた。
できるだけ、あの人の近くにいたい。
でも、そうしているだけじゃ、結局何も変わらないんじゃないかって。
だんだん、自分がどうするべきなのかも分からなくなっていった。
『君も、レースに出るのか?』
きっかけは、いつもの会話の中の些細な一言だった。
あたしたちくらいの年頃のウマ娘には、軽い世間話とかでもよく交わされるような質問だったと思う。だから、別に普通に頷くだけでもよかったはずなのに。あたしはそこで、つい次の天皇賞に出走すると答えてしまった。
病室にはテレビもあった。そう伝えておけば、レースの中継を見ていてもらえるかもしれない、なんて。
一体、何を期待していたんだろう。
「……」
時間もない中で、最後まで迷って考え抜いた。そうやって自分で決めたことだから。
頼りなくても希望はある。今は、何とか前を向いていられたらそれでいい。
トレーナー室の前までやってくる。
慣れた手付きで、カバンから部屋の鍵を取り出した。赤いトウシューズのキーホルダーがカチャリと音を立てる。
コースの予約時間の関係で、トレーニングの開始まではまだ少しあるけど。資料を見直したりとか、部屋の整理をしたりとか、その間も色々できることはあるだろう。
……暇つぶしのお話に付き合ってくれる人は、いないけど。
「──」
指先がぶれて、鍵がこぼれ落ちる。
軽い金属音とともに床を滑って、少し歩かないと届かない位置まで行って止まった。……何してるんだ、もう。
「落としましたよ」
「え……」
鍵の前に別の靴先が並んだ。そっと屈むと、彼女はそれをひょいと拾い上げる。
顔を上げると、そこにいたのはネイチャさんだった。
「ダメですよ。大事なものなんだから、気をつけなきゃ」
「は、はい……ありがとう、ございます」
渡された鍵を受け取る。お礼を言うあたしの声は、若干ぎこちなくなっていた。
「──あ。ち、違いますからね? ここにはたまたま通りかかったってだけで……別に、ちょーっと気になってついてきてたとかじゃ」
必死で誤魔化すようなネイチャさんの身振り手振りは、もしかしたら少しくらいわざとなところもあったのか。
驚きはしたけど、その理由もすっと腑に落ちていた。
「なんて、まあ前科あるアタシが言えたことじゃないわな……ところでそれ、ここの鍵のスペアですか?」
「え……あぁ、そうっすね。トレーナーさんから預かってて」
何かあった時のためにって、昔から持たせてもらっていたものだった。
最初は緊急の時くらいしか使わないかなって思ってたけど。トレーナーさんが会議で遅くなる時とか、忘れ物を取りに来た時とか。蓋を開けてみれば、実際に活用できる場面も普段から結構あって。
気づいたらすっかり長い付き合い。それなりに愛着も湧いてしまっていた。
「そっか。ふふ、信頼されてるんですね」
「え?」
「シオンさんしっかりしてるから。だって、トレーナー室って言ったって学園の施設なわけでしょ? この子なら大丈夫って、そう思ってなきゃ任せたりしませんって」
「……」
そう、なのかな。
そういうものなんだって、ずっと思ってたけど。ネイチャさんの言うことも分かるような気がした。
手の平に収まった小さな鍵。トレーナーさんからの、信頼の証。
「っ……」
「!」
気づけばまた、涙が溢れていた。
我慢しようとしても、やっぱりダメで。ネイチャさんの前だって言うのに、気持ちは隠せなかった。
「──
優しく手つきが頭を撫でる。いつの間にか、ネイチャさんが近くまで寄ってきてくれていた。
「生意気な後輩が失礼しますよっと。……とりあえず、一旦中入りましょうか。落ち着くまでは一緒にいるからさ」
「……はい……すみ、ません……」
一人で何とかしなきゃって、そう思ってたけど。
今はその声に支えられながら、あたしはゆっくりとトレーナー室の扉を開けた。
次の日の放課後も、あたしはまた病院までやってきていた。
受付を済ませて、奥の廊下から階段を昇る。隅までピカピカに磨かれた一段一段を踏みしめる度に、自分の中で少しずつ気が引き締まっていくのを感じた。
目的の階までやってくる頃には、いつも通り。
ゆっくりと表札を辿るようにしながら、あたしはその病室の前で立ち止まった。
「?」
ノックをしようとすると、中から話し声が聞こえるのに気づいた。
トレーナーさんの、だけじゃない。扉越しにそれが近づいてくる。びっくりして、あたしは無意識のうちに近くの曲がり角まで避難していた。
扉の開く音がしたのは、そのすぐ後だった。
(あの人たちは……)
遠ざかっていく足音に、壁の向こうを覗き込む。
トレーナーさんの病室から出て来たのは、男の人と女の人が一人ずつ。落ち着いた雰囲気の人たちで、ちらっと見えた横顔から、年頃は大体父さんたちくらいかなと思った。
男の人の方は、何となく見覚えがあるような気もする。直接会ったわけじゃない、とは思うけど。
「病院でかくれんぼとは、なかなか可愛らしいことをしているね」
「──!?」
考え込んでいると、いきなり声を掛けられた。
あの人たちが戻ってきたのかと思った。けど、よく聞けばその声にはちゃんと覚えがあって。
「あ、天池さん……いつの間に」
「それはどちらかというとこちらの台詞かな。僕はずっと部屋の中にいたから」
そう言って、閉じた扉を振り返る。天池さんもトレーナーさんのお見舞いに来ていたみたいだった。
「ちなみに、さっきのは彼のご両親だそうだよ」
「!」
「お会いするのは初めてだけど、前から何度かいらっしゃってたらしくてね。今日は僕も居合わせたから、そのまま同席させてもらったんだ」
ご両親……トレーナーさんの。
ついぼーっと聞いてしまっていたけど、考えてみれば全然おかしなことでもなかった。子供がケガで入院したと聞いたら、当然親御さんは心配で様子を見に来るだろう。
反射的に隠れちゃったのは正解だったのかどうなのか。
色々複雑なタイミングなのも確かだけど。一言くらいは、ちゃんと挨拶をしておくべきだったような気もする。
(というか、普通に居座ってたんだ……そういう時って、気を遣って席を外しそうなものだけど)
冷静になって違和感にも気づいた。その場は、一旦何も言わないでおく。
しばらく廊下の向こうを見つめていた天池さんが、チラリとこちらを一瞥する。次の言葉までには、少しだけ間があった。
「
「…………えっ」
びっくりして声が出た。……トレーナーさんが、帰る?
戸惑いは隠せなかった。でも、その意味だけは少しずつ理解できていく。
ケガの程度から考えると、多分トレーナーさんの退院はそんなに遠くないだろう。そこから先、あたしは何の根拠もなく、あの人がそのまま学園に戻ってくるって思い込んでしまっていた。
でも、違う。そんな簡単な話じゃない。
身体のケガは治る。けど、記憶の方までそうとは限らない。先生が言う通り心の問題だって言うなら、何も分からないままここに居続けることは、トレーナーさんにとってはむしろ負担になるのかもしれない。
それが分かっていて、そのままでいいなんて。
あの人を大切に思っている人たちが、考えるはずないじゃないか。
「……」
今のトレーナーさんに必要なのは、静かな場所での落ち着いた療養だ。
家族と過ごす時間。慣れ親しんだ土地での暮らし。
そのどっちが相応しいか、なんて。わざわざ考えるまでもなく明らかだった。
(それは……だけど)
そこでトレーナーさんのことだけを考えられずに、また俯いてしまっている。
おかしいのは、あたしの方なのに。
「まあ、彼は断ってたけど」
「──は?」
「
顔を上げる。もしかしたら、あたしがそんな反応をするのも予想通りだったのか。
天池さんは、意地の悪い微笑みを浮かべていた。
「あるいはそれは、日頃足繁くここに通ってくるような、諦めの悪いウマ娘を想ってだったのかもしれないね。……実際のところは分からないけど」
けれど、おどけるようなその目の奥には、何かを確かめるような強い輝きも見えた気がして。
「彼は彼なりに選んだ。君は、そのままでいいのかな?」
「……」
また試されたんだって、そう気づいたら。
身体の芯が熱くなってくる。それは目の前のこの人に対する苛立ちだったのか、それも含めての、負けたくないって気持ちだったのか。
……ちょっとだけ不本意だけど。
その時、あたしが少しでも前を向けたのは、そんな挑発のおかげだったのかもしれない。
【あとがき】
いつもお世話になっております、鵜鷺りょくです。
この度は予告もしておきながらその予定よりさらに投稿遅れてしまいました……本当にすみません。
今回はトレーナーの記憶喪失に傷つきながらも、もう一度シオンが前を向くまでのお話でした。
ネイチャたちの支えと、天池による発破。いずれも彼女にとっては必要なもので、生来の弱さを抱えながらも負けたくないと願う、そういう強さの欠片だったのではないかと思います。
次回は少し穏やかな日常よりの回になる予定です。
不安定な中でも、健気にがんばっているシオンを書いていきます。
何度も投稿遅れてしまって恐縮ですが、また次回も見に来ていただけると嬉しいです。