夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─   作:鵜鷺りょく

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「俺は、君の担当トレーナーだったのか?」





欠けた黄昏 Ⅴ 「本当のことを伝えるお話」

 

─────【1】─────

 

 

 一時間くらいが経った後、あたしたちはレストランを出てきた。

 ゆっくり足を休めて、考えを整理するだけの時間はあったと思うんだけど。結局これといった秘策も思い浮かばなくて。

 また街中を歩いて行く内に、景色は少しずつ閑散としたものになっていく。

 

「……いい場所だな」

 

 そうして、あたしたちはある河川敷までやってきていた。

 鈴のように空気を鳴らす、川のせせらぎ。ただそれだけで心を癒すようなそれも、今ではすっかり耳に馴染んだように感じられる。

 

「落ち着くっすよね。外周の時、よくここを通るんすけど。トレーナーさんにも、馴染みのある場所かなと思って」

「一緒に、来てたのか?」

「あ」

 

 しまった、と思った。

 

 すっかり気が抜けてしまっていたのかもしれない。街の賑やかさから離れて、周囲を優しく包み込むようなこの穏やかな空気に感化されて。

 外周トレーニングには時々トレーナーさんも着いてきてくれていた。自転車に乗って、前後に並びながら、あたしたちは一定のペースで走っていた。

 

 ここは丁度いい休憩スペースでもあった。汗を拭って、二人で話し込んで。

 ……そんなの、言えやしないけど。

 

「あたしは、あたしのトレーナーさんと、ですね。ただ、ここは他の子たちの間でも人気の場所だから。松早さんも、よく来てたんじゃないかと」

「そう、なのか」

 

 正直、苦しい言い訳だと思った。

 そのまま話し続けるのは、きっとお互いやりづらい。

 

「喉、乾いてないっすか?」

「え」

「少し行ったところに、自販機があるんすよ」

 

 だから、さっさと話題をすり替えることにした。

 

「買ってくるんで、ちょっと待っててください」

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 

 結局、少し強引にでも走ってきてしまった。

 トレーナーさんは戸惑っていたみたいだったけど、あたしは振り返らなかった。そのことを、今になって少しだけ後悔する。

 

(何がいいかくらい、聞いてくればよかったな)

 

 河川敷からやや離れた場所。

 ぽつりと置かれた自動販売機に向かって、あたしの指先は空中をふらふらしていた。……咄嗟の思いつきだったし、そんな暇もなかったのはその通りだけど。

 水やお茶。甘い炭酸ジュースに、栄養ドリンクまで。

 あの人にといえば、実は最後のが一番らしく思えたりもして。だけど、流石に今は要らないだろう。

 

「上手くいかないな」

 

 よく行く場所も、好きな飲み物も分からない。

 そんな事実が、また心にじわりと染みてきて。寂しいと感じるのは、間違ってないんだろうか。

 いつだって、トレーナーさんはあたしのことばかりを気に掛けてくれていた。会話の話題にしたってそうで、トレーニングにレース、あたしの小さな悩みのこととか。そういうのばかりだった。

 

 あの人は自分のことを話したがらない。

 きっと、わざとそうしているところもあったと思う。

 

 気づいていたのに、踏み込めなかった。遠慮していたのかもしれないし、単に自分のことで精一杯だっただけかもしれない。もしくは、どっちも。

 もしかしたら、普段の何気ない会話にも、たぐり寄せられる糸はあったんだろうか。

 不器用なあたしには、それが見つけられなかったってだけで。

 

「……好きって、言ってたよね」

 

 また気分が沈みそうになる。それを振り払って、あたしはボタンを押した。

 ペットボトルのリンゴジュース。いつもなら、買うのにもちょっと迷ってしまうものだけど。

 今は直感に従う。あたしにも、掴めていた何かがあると信じて。

 それさえウソだったなら、もうどうしようもないけど。

 

 

 ガコン ガコン

 

 

 取り出し口から、二本分の落ちる音がした。

 それを手に取ると、あたしはすぐに道を引き返していく。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

「……あれ?」

 

 ついさっき別れたところまで戻ると、そこにトレーナーさんはいなかった。

 河川敷は一本道だ。すれ違うはずないし、まさか勝手に帰ってしまうような人じゃない。

 そう分かっていても、あたしは慌てて周りを確認し始める。

 

 

 ──ダッ

 

 

 その時、音がした。

 とても聞き馴染みのある、力いっぱいに地面を蹴り上げるその音。

 

「──うん。やっぱり、キレのあるいいスタートだ」

 

 視線が自然と追いかける。その先で、あたしはようやく探し人を見つけた。

 

「ほ、ほんとですかっ? 私、うまくできてましたか……!」

「ああ。何度か見せてもらったけど、全部よかったと思うよ。……ただ、ちょっと力みすぎてるところはあったかな」

「あぅ……やっぱり」

「でも、慣れていけば、それも何とかなるはずだよ」

 

 その傍には一人のウマ娘が立っていた。

 見慣れた赤白のジャージは学園の指定のもの。どこか初々しさのあるその子の雰囲気から、何となく新入生っぽいなと思った。

 

(な、何があったんだろ……?)

 

 経緯はイマイチ分からなかったけど。なるべく物音を立てないように、あたしはすぐ傍の階段から土手の下へ降りていく。

 

「……トレーナーさんも、同じように褒めてくれたんです。しっかり練習して、本番でも活かせれば、君の武器になるはずだって」

 

 控えめながらも、確かに嬉しそうな横顔。

 けれど、ポツポツと語り出す口調は、どこか不安げでもあって。

 

「私、この夏からデビューの予定なんです。模擬レースとかじゃまだ大した成績も出せてなくて、色々パッとしないんですけど……それでも、君がいいんだって、そう声を掛けてくれた人がいて」

「うん」

「トレーナーさんに見つけてもらえて、すっごく嬉しかったんです。こんな私でも、ちゃんと走れるんだって……だから、早く強くなって、いっぱい恩返しがしたいのに」

 

 話を続けるほど、彼女の声は沈んでいく。

 

「……今のままじゃ、がっかりさせちゃうよ……」

 

 途切れたすき間から、少しずつ泣き声が溢れてくる。きっと、ずっと抑えこんでいたんだろう。

 

(……だから、か)

 

 最初も、そうだったのかなと思った。

 それでやっと、トレーナーさんがそこにいた理由も分かってくる。あの人はそういう人だった。

 あたしは、それをよく知っていたから。

 

「そんなこと、ないと思うっすよ」

「え……」

 

 気づいたら、声を掛けていた。

 驚いた様子で、泣いていた彼女が顔を上げる。

 

「えっ、と……すみません、急に。そこで話聞こえちゃって。……でも、あたしもそういうの、ちょっとだけ分かるから」

「あなた……も?」

「はい」

 

 その隣で、トレーナーさんも目を丸くしていた。今は、そちらはあんまり意識しないようにして、あたしは話し続ける。

 

「あたしにも、トレーナーさんがいるんです。何も誇れるものがなかったあたしに、それでもその人はずっと一生懸命になってくれました。辛い時は傍にいて、精一杯に支えてくれました。

 嬉しかった。でも、だからこそ、何か返したいとも思った。そればっかり考えてると、ついつい不安にもなっちゃって」

 

 最初は辿々しかった口ぶりも、少しずつ落ち着いていく。

 それは、随分と久しぶりに思える。飾らない心からの言葉になっていた。

 

「あなたが努力してたの、分かるっす。だってあなたのジャージ、もうすっかり泥だらけじゃないっすか」

「あ……」

「きっと、そういうのだって見てくれてます。今上手くいかないことだって、話せばきっと」

 

 

「二人で頑張れば、きっと大丈夫だから」

 

 

 気づけばすっかり長くなっていた。あたしの話を締めくくったそれは、まるで祈りのような、どこかふわふわしたものにも思えたけど。

 

「ありがとうございました!」

 

 それでも確かに。その子の瞳には、少しずつ輝きが戻っていった。

 

「私も頑張ります。いつか、先輩たちみたいな素敵なパートナーになれるように」

「はい。……え」

 

 最後にそう言い残して、彼女は去って行った。方角的にも、今から学園に戻っていくんだろう。

 そこで待っている、大切な人と話をするために。

 

(……ぼかしたつもり、だったんだけどな) 

 

 冷静になると、少しだけ気まずさが追いついてくる。

 先輩たちみたいに……か。笑ってそう言った彼女の視線は、明らかにここにいるあたしたちのことを見ていたと思う。

 すぐ隣にいるトレーナーさんも、それは聞こえていたはずだ。

 

「ごめん、勝手にいなくなって。びっくりさせたよな」

「いえ、そんな。まあ、驚きはしたんすけど……あ、これ。買ってきた飲み物っす」

「ありがとう」

 

 どこかぎこちない手つきで、ペットボトルはトレーナーさんの手に渡っていく。

 それを少しだけ飲んでから、トレーナーさんは彼女が去った先へ視線を向けた。

 

「ここで、一人で俯いているのが見えたんだ。悩んでるみたいだったから、つい気になって」

「……そうっすか」

 

 そんなところだと思った。待っててと言ったことも、一時的に忘れていたんじゃないだろうか。

 困った人。だけど、そんなところも何だか懐かしくて。

 

「君がいてくれてよかった」

「え?」

「俺は話を聞いていることしかできなかったから。シオンに気持ちを受け止めてもらえて、あの子は救われたんだと思う」

「……」

 

 すぐには返事を返せなかった。困ったあたしは、とりあえずリンゴジュースのフタを開けた。

 甘酸っぱさが口に広がる。

 爽やかなようで、ちょっとだけ喉に引っかかる。

 

「……それだけじゃ、なかったと思いますよ」

 

 付け足すように言ったそれは、思ったよりも小さな呟きになってしまっていて。

 そよ風にでもさらわれていったのかもしれない。トレーナーさんも、しばらくは何も言わなかった。

 

 

 

 

─────【2】─────

 

 

 空の端からオレンジ色に染まっていく。あたしたちが学園に戻ってきたのは、そんな頃だった。

 結局ちゃんと回れたと言えるのは、あのレストランと河川敷くらい。トレーナーさんの方にも、あんまり効果はなかったみたいで。

 こんなんじゃ、やっぱり天池さんには笑われてしまうかもしれない。

 

「えっと、今日はありがとうございました。……それと、すみません。ちゃんと案内できなかったせいで、たくさん歩かせちゃったっすね」

「お礼を言うのはこっちの方だよ。これだけ付き合ってもらえただけでも十分だ」

 

 まったくだ。病み上がりで辛いのに。

 ……なんて、この人はそんなことは言わない。あたしが謝っても、きっと知らないふりをしたとしても。

 そうやってただ、笑い返すばかりで。

 

「今度はもう少し詰めてきますね。行き先とか、効率的に回るルートとか。まだまだいくらでも付き合いますから」

「ありがとう。でも、君も忙しいだろ。そんな無理しなくても」

「いいんすよ。しばらくは、レースの出走予定もないし」

 

 休養日の調整だって、結局はあたし次第だ。

 事前に話を通しておかなければいけないような、そんな相手もいない。

 だから、今はこれが最優先だ。

 

「あなたのためなら、いくらでも」

 

 たとえ、まだこんな日々が続くとしても。

 今はまだぎこちないところがあったって、そのうち自然になっていくだろう。

 あたしを覚えていないあなたにも、平気で笑いかけられるように。

 

「……シオン」

「?」

 

 また明日。そう言って、今日はそろそろ解散かなと。そう考え始めていた時だった。

 後ろを振り返る。

 トレーナーさんの表情は、どこか堅苦しかった。

 

「何か、あったっすか? ……あ、他に行きたい所があるとかなら、別に今からでも」

 

 その質問は的外れ。あたしが一番分かっていた。

 そう言えば、その場の緊張も和らぐと思った。きっと無意識に、これから来る何かを遠ざけようとして。

 

「違ってたら、言ってくれ」

 

 けれど、トレーナーさんは一歩前へ進み出る。

 

俺は(・・)君の担当トレーナーだったのか(・・・・・・・・・・・・・・)?」

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 

 向こう側から、活気づく掛け声がいくつも聞こえてくる。

 生徒たちのトレーニング時間としては、今はちょうどピークくらいのはずだ。

 ここからならコースは近いし、その賑やかさは自然と聞こえてくる。

 あたしたちは、噴水を囲う中央広場までやってきていた。

 

「……気づいてたんすね」

 

 込み入った話になるのは分かっていたんだろう。

 最後の質問を投げかけた後、トレーナーさんに促されて、あたしたちは話す場所を改めていた。

 さっきのお礼と言って、トレーナーさんが買ってくれたお茶を手に。今はお互い隣り合うベンチに座って、相手の言葉を待っていた。

 

「確証があったわけじゃない。だから、なかなか言い出せなかった」

「……」

「君は最初、俺のことを"トレーナーさん"と呼んだだろう」

 

 どこでバレたか、なんて。ここまできて、今さら聞くようなことでもなかったのかもしれない。

 元々隠し事が下手な自覚はある。今日だけでも、何度ボロが出そうになったか分からない。

 

 それでも、トレーナーさんは答えてくれた。

 

 病室で最初に顔を合わせた時のこと。あの時はきっとお互いに冷静じゃなかったから。一つ一つ、細かいことまでは思い出せない。

 それでも、あたしはきっとそう呼んでいたと思う。他の呼び方なんて考える必要もなかったはずだ。

 その人が、あたしの知ってるトレーナーさんだったのなら。

 

「俺が学園に所属しているトレーナーなら、生徒の君がそう呼ぶこと自体はおかしくない。でも、次に会った時、君は俺のことをそう呼ばなくなった。……それが、偶然だとは思えなかったんだ」

 

 ……そんな簡単なことで。

 目を伏せる。やっぱり、あたしはこういうのに向かないみたいだ。

 後先を考えずに小さな拘りを優先して、結局、トレーナーさんに気づかれるきっかけを作ってしまった。

 遠回りはここまでだ。どうせ、いつかは話さないといけなかったんだから。

 

「すみませんでした。隠すようなこと、しちゃって。あたしもすっかり戸惑ってたというか、急に言ってもびっくりさせちゃうだけで……信じて、もらえないんじゃないかって」

「シオンは悪くない。君にそんな苦労をかけたことも、全部俺のせいだ」

 

 そう言うトレーナーさんの表情は、やっぱり想像通りだった。

 一度気づいてしまったら、その責任を感じずにはいられない。本当は今のトレーナーさんが一番、この状況に混乱しているはずなのに。

 そうやって自分のことだけを考えていられないほど、この人は思い悩んでしまう。

 そんなことは、分かっていたんだ。

 

「……二年、か。そんなに長く、一緒にいたんだな」

 

 そう言って、トレーナーさんは空を見上げる。

 真っ赤な夕焼け。夕方から夜へ移り変わっていく途中の空模様。あたしたちが何度も一緒に見ていた風景。

 ふと、反対側の空を探す。今日はまだ、月が見えない。

 

「そうですね。……オルフェーヴルさん、って覚えてますか? この間の天皇賞にも出てた。去年のクラシック三冠ウマ娘なんすけど」

 

 独り言みたいなトレーナーさんの言葉を引き取って。あたしもなるべく、明るい声を保って続ける。

 

「悔しいけど、すっごく強い人で。でもあたし、そのオルフェさんと三冠レースで戦ったりもしたんすよ。菊花賞なんか、ちょっとは良い勝負ができちゃったりもして」

 

 まとまりの悪い言葉を、それでも紡いでいく。

 本当に伝えたいのは、そこじゃなかった。

 

「あの人に勝つために、二人で頑張ってたんです。トレーナーさんにもたくさん支えてもらって。……あたしは結局、思うような成果は出せなかったんすけどね」

「……そうか」

 

 トレーナーさんの笑顔は、ちょっと寂しそうだった。当然だ。こんなことを聞かされたって、今のこの人の中には何も残っていない。

 あたしの方も、いつもの悪い癖が出ていた。つい、自虐っぽく話してしまって。

 

「……」

 

 ぎゅっと握ったペットボトル。曖昧な温度。今日は自販機の調子が悪かったのかもしれない。

 喉は渇いているのに、フタに手は伸びない。

 きっと、頭はそれ以上に、次の言葉を探していた。

 

「少しずつ、思い出してくれたらいいんです」

 

 しばらく黙り込んだ後。

 見つかった言葉は、結局それくらいだった。

 

「あたし、多分いっぱい迷惑かけちゃってたっすから。トレーナーさんも大変だったんすよ。少し休むって意味でも……だから」

 

 震える声を積み重ねる。トレーナーさんは、何も言わない。

 自分でも、何を言っているのか分からなくなってきていた。思い出してほしい。でも、やっぱりそうしないでほしい。

 今さらになって、自分の足下が思ったよりボロボロだったことに気づく。

 ……本当のことを確かめたい、なんて。

 こんな調子で、それができるなんて思ってたのかな。

 

 

 

 

「──つらくは(・・・・)なかったか(・・・・・)?」

 

 

 

 

 その事実を知ったとして。それでもあたしは、まだそこに。

 

「…………え」

 

 噴水の音が大きくなる。時間になったんだろう。

 放水の勢いが強まって、宙を舞った水流がアーチを形作る。それは道行く人も思わず足を止めてしまうような、神秘的な光景だった。

 

 今は、何も感じない。そっちを見る気さえしない。

 どうせならいっそ、その水の音で掻き消してほしかった。

 

「俺なんかと一緒にいて。君は」

 

 聞き間違いだって、そう信じさせてほしかった。

 

「なんで、そんなこと言うんすか」

「……シオン?」

「なら、どうして、言ってくれなかったんすか」

 

 駄々をこねる子供みたいだったかもしれない。でも、気にしていられる余裕なんてなかった。

 それはずっと待っていた答えだ。

 そして、一番聞きたくなかった言葉だ。

 想像はできていたとしても。あたしはまだ、それが考えすぎだって、どこかで信じていたかったのかもしれない。

 

「トレーナーさんは、やっぱり……あたしのこと……っ」

 

 ゴトリと、ペットボトルが地面を転がる。

 それが足に当たったことも気づかずに。あたしはただ、あてもなくどこかへと駆け出していた。

 

 

 

 

─────【3】─────

 

 

 トレーナーさんがああなったのは、あたしのせいだ。

 

 

 あの日、病院でそれを聞いた瞬間から。あの人が心に傷を負って、あたしと出会ってからの二年間を忘れてしまったと、そんな真実を聞かされた瞬間から。

 あたしはずっと、その可能性ばかりを考えていた。

 トレーナーさんは優しい人だ。その言葉はどれも温かくて、どんなに大変な時でも、力に変えることができた。

 いつでも隣で微笑みかけてくれた。

 苦しい時は、同じ場所に立って話を聞いてくれた。

 あたしのために、身を削って尽くしてくれた。

 

 ……それは、どうして?

 

 いつもあたしのことを助けてくれる人。あたしが欲しい言葉をくれる、理想的なトレーナー。

 そんなの、都合が良すぎるじゃないか。

 頑張ったって、あの人には何も返してあげられない。あたしのトレーナーで居続けても、この先努力が報われる保証なんてない。

 

 なのに、何で。

 あたしの走りを見ていたいなんて、そう言ったんだろう。

 

 そんなことで、あの人は幸せだったんだろうか。

 本当は、ただ優しいから。心の奥底にそれを押し込めたまま、あたしにだけは言えなかったんじゃないか。

 

 

 ここにいた時間が(・・・・・・・・)ずっと辛かったんだ(・・・・・・・・・)って。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 逃げるようにして、トレーナーさんと別れた。

 追いつけないくらいの速さで走って、遠くまでやってきた。この学園は広い。何の心当たりもないままじゃ、きっと見つけられない。

 静かな物陰に一人きり。冷たい壁に背をつけて、あたしは息を整える。

 

「っ……」

 

 胸が痛いのは、思い切り走ったせいだけじゃないんだろう。

 抑えるように手を当てていたら、目に見える風景も滲んでくる。

 

(……何やってるんだろ、あたし)

 

 とても、冷静じゃいられなかった。トレーナーさんの言葉を、最後まで聞いていられなかった。

 その先に待ち受けている言葉を聞くのが、怖かった。

 トレーナーさんはどうしているだろう。もしかしたら、あたしを探して、あてもなく学園の中を駆け回っているのかもしれない。

 今からでも引き返す?

 謝って、もう一度話をする?

 それだけで何かが変わるなんて、もう思えなかった。だって、お互いに傷ついてしまうだけなら、無理に隣にいる必要なんてない。

 

 いっそ、あたしも全部忘れてしまったらいい。

 振り返ったって、もうその場所には戻れないんだから。

 

「…………」

 

 しばらくして、足だけが勝手に動き出す。

 ふらふらと頼りなく。建物の裏手を通るようにしながら、それでも確かに一つの場所を目指していた。

 誰にも見つからない。ある意味では、一番安全な場所。

 そこは、トレーナー室だった。

 

 

 

『いらっしゃい。シオン』

 

 

 

 鍵を開けて、中に入る。ふと聞こえた声は、ただの気のせいだった。

 そこにはもう誰もいない。本来の管理人が留守にしたままの、電気も点いていない薄暗い部屋。このままいけば、いずれここは、あたしにとって何でもない場所になっていくのかもしれない。

 その前に、もう一度だけ。

 意味がないと分かっていても、あたしは奥の本棚に手を伸ばしていた。

 

 取り出したのは、一つのクリアファイル。

 中には、すっかり手に馴染んだあの資料が入っていた。

 

「…………あたし専用、か」

 

 雑に扱った事なんて一度もなかったけど。それでも何度も持ち出していたから。用紙の端っこには、二年分のくたびれが見て取れる。

 最初のトレーニングメニュー。

 初めて言葉を交わしたあの日に、トレーナーさんがくれた、想いの証だった。

 触れていると、何度でも思い出す。あの頃のあたしは、まるで自分の成長が止まったようにさえ感じていて。進歩もなく、ただ過ぎ去っていくだけの空っぽの日々に、心が折れかけていた。

 一人で泣きそうになって、それでも何とかしたくて。

 飛び出した早朝のコースで、その人と出会った。

 

『君をスカウトしたい』

 

 口下手を自称していたその言葉には、それでも確かな重みがあった。

 この資料も同じだ。薄っぺらさのない、あたしのことを見ていてくれた時間がそのまま積み重なったような、そんな存在感があった。

 この人となら、夢を叶えられるかもしれない。

 そう信じて、ここまでやってきたけど。

 

(いつから、だったんだろう)

 

 考えたくないけれど、考えてしまう。

 雨の酷かった日本ダービー。夏の終わりにあった模擬レース。そして秋からの連戦。……もしくは、その全部。

 重ねた敗北に、あたしが打ちひしがれた分だけ。あの人もまた、少しずつ辛くなっていったのかもしれない。

 

 握った紙面がクシャリと歪む。

 追い打ちのように、ポツポツとシミが出来ていく。

 

 すっかり古びた資料。それがまた真新しかった頃。

 その頃に戻れたら、自分はどうするだろう。

 今と変わらない夢を追いかけるだろうか。それとも、あの人の期待に応えられるように、もっと別の道を選ぶだろうか。

 分からない。そもそもあり得ない話だ。一度ずれてしまったものは、もう戻らない。

 

「……?」

 

 そうしている間にも、だんだん日が傾いてきたみたいだった。窓から差し込むオレンジの光が移動して、執務机の足下を照らし出す。

 ふと、一番下の引き出しが閉まりきっていないのに気づいた。

 何となく近寄って、軽く押してみる。けれど、跳ね返るようにしてまた隙間が開いてしまう。

 何かが引っかかっていると気づいて、一度引き出しを開けることにした。

 

「! ……これ」

 

 中には、見覚えのあるクリアファイルが敷き詰められていた。引っかかっていた一つに触れると、透き通った表面には"トレーニングメニュー"と書かれていた。

 基本的に、普段使うような資料なら、さっきの本棚に置かれているはずだった。こんな場所にもあったなんて、聞いたことがない。

 ちょっとだけ興味を引かれて、そのうちのいくつかを机の上に取り出してみた。

 

「三年目……夏合宿の、いち? …………うわぁ」

 

 内容を見て、思わず声が出ていた。ちょっとだけ青ざめてもいたかもしれない。

 三年目の夏合宿と言ったら、時期的にはすぐそこだけど。そこにまとめられていたトレーニング内容は、とても現実的じゃないくらいに厳しいものばかりだった。

 目標タイムも明らかに飛躍しているし……期待って言ったって、これはさすがに限度がある。

 

(あ、でもこっちなら……)

 

 夏合宿向け、その三。

 その二はまだやり過ぎに見えた。でも、番号を進めるごとに内容もマイルドになっていくようで、その辺りはまだこなせそうに見えた。

 

(……じゃあ、ここにあるのは)

 

 今度は片っ端から持ち出して、中身をあらためていく。

 そこに隠されていたトレーニングメニューには、全部この先のことが記されているみたいだった。

 夏合宿向け以外にも、その直前の宝塚記念、秋以降の中長距離レースを見据えたものや、海外進出を前提にしたものまで見つかった。それぞれに合わせて、色んな成長パターンに合わせた内容がまとめられている。

 一枚一枚の用紙に、文字や図解がびっしり。……すごい量だ。

 普段、あれだけの仕事をこなしている傍らで。あたしも知らないところで、こんなものまで作っていた。

 一体、どれだけ。あの人は、どうして、こんなにも。

 

「……なんで、言ってくれないんすか」

 

 唇を噛む。そこに積まれたものが何を意味するかなんて、本当はもう気づいていた。

 それは、たくさんのもしも(・・・)を書き留めた資料。

 作り上げるためには、色んなあたしと向き合ったはずだ。この先どんな時も隣にいて、あたしにそれを伝える未来を思い描いていたはずだ。

 一緒にいる時間が辛くて、何もかもを投げ出した。

 そんな人が、わざわざこんなものを作ったりなんてするだろうか。

 

 指先に伝わる温もりは、こんなにも懐かしく思えるのに。

 

「っ……トレーナー、さん……」

 

 それを問いただそうにも、あの人はもうここにはいない。

 いつ帰ってくるかも分からない。何をどうすれば、呼び戻せるかも分からない。

 そもそも、あたしにまだ、その資格があるのかさえ。

 

 

 ──コンコン

 

 

 その時、どこかから風が流れてきた。

 それに乗って、扉をノックする音が耳に届く。

 

 あたしは、無意識に顔を上げていた。

 

 





【あとがき】


毎度どうも。鵜鷺りょくと申します。
第39話、いかがだったでしょうか。

新しい世代のウマ娘の話に始まり、ついに真実を問う松早と、逃げ出した先で彼の残した想いを見つけたシオン。
お話が大きく動いた、そんなパートになったのではないかと思います。
(その分長くなったのは申し訳ない)

ようやく垣間見えた松早の本心。シオンの戸惑い。
そして、そこに駆けつけた人物とは。

それではまた次回。またこうしてお会いできれば嬉しく思います。


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