夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─   作:鵜鷺りょく

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「だから、報われてほしいと思ったんだ」




欠けた黄昏 Ⅵ 「シオンがトレーナーのことを知るお話」

 

─────【1】─────

 

 

「──すまない。少し、お邪魔するよ」

 

 

 扉は開いたままだった。顔を上げたその時、あたしは誰の姿を期待していたんだろう。

 そっと気遣うようなノックの音。来客は、天池さんだった。

 

「君が戻っていくのが見えてね。様子が気になったから、ついてきたんだ」

「……」

「その様子だと、やっぱり何かあったみたいだね」

 

 茜色が差しこむ部屋の反対側。静かに佇んで、天池さんは小さく笑う。

 てっきり、また軽口の一つでも言ってくるかと思ったのに。どこかいつもらしくないその様子に、あたしは涙を拭うことも忘れていた。

 何も言わないで、こっちに歩いてくる。

 立ち止まって、その視線が机の上に傾いた。

 

「……またこんなものを作って。変わらないな」

 

 ふっと息をもらすと、ゆっくり手を伸ばす。

 並べられたクリアファイルの一つに触れようとして、けれど、その指先をスッと下げた。

 

「よければ、少し話を聞かせてくれないか」

 

 代わりに、天池さんはあたしの方を向いた。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 ローテーブルを挟んで置かれた、二つのソファ。

 お互いに向かい合わせで座る。その後、あたしは今日あったことを天池さんに話した。

 

 トレーナーさんの記憶が戻らなかったこと。

 それでも、あたしが担当ウマ娘だって気づいたこと。

 辛くなかったかと聞かれて、逃げ出したこと。

 

 その途中で、ずっと隠していたそのことについても、触れないわけにはいかなかった。

 トレーナーさんが記憶を失ってしまった理由。

 その原因は、あたしと過ごした時間だったんじゃないか。トレーナーとして報われることのなかったこの二年間が、あの人はずっと辛かったんじゃないか。

 あたしは、そう考えていたんだと。

 

「でも、分からなくなったんです」

 

 今日で最後にしようと思った。それで忘れ物を取りに来たみたいに、このトレーナー室にやってきて。そして、それを見つけた。

 たくさんの資料。トレーナーさんが思い描いていた、あたしとの未来の景色。

 いつ作られたものかは分からない。でも、きっとそんなに前じゃないと思う。文章の書き方も、図解の置き方も昔より洗練されていたから。ずっと見てきたあたしには、それが分かった。

 

(……だからって、全部が納得できたわけじゃないけど)

 

 きっと、大切なピースが欠けている。もしかすると、最初から。

 あたしに見えていなかった何かが、そこにはあったのかもしれない。

 

「トレーナーさんは、どんな気持ちで、これを」

 

 今のあたしに、それが見つけられるだろうか。

 あの人の話を最後まで聞くこともできずに。ここまで逃げ出してきてしまった、臆病なあたしに。

 

「そうだな。君にはきっと、分からない」

「っ……」

「だって、彼は何も話さなかったんだろう?」

 

 どこか確信を持ったように、天池さんは問いかけてきた。

 

「……まったく、仕方のない。だから、ちょっとくらいは話してやったらと言ったんだ。いつも変な意地を張るから、こうもややこしくなる」

 

 そして、その表情は見る見る不機嫌になっていく。

 

「昔からそうだ。ほんと、いけ好かないやつだよ」

「……え」

「? 何か」

「いや、その……お二人は、友達だったんですよね?」

 

 覚え違い、じゃないと思う。トレーナーさんは頑なに認めなかったけど、少なくとも天池さんは、一度くらいはあの人のことを"友人"と言っていたはずだ。

 だから、少しだけびっくりした。

 トレーナーさんとずっと親しそうにしていたこの人から、まさか、そんな刺々しい言葉が出てくるなんて。

 

「間違いではないね。ただ、単に仲良しこよしだったかと言われると、少し心外かな。……丁度いい。君にも、知っておいてもらうべきかもしれない」

 

 途中まで、心からうんざりしたようにそう言って。けれど、すぐに天池さんは姿勢を正した。

 

自分には何もない(・・・・・・・・)。……それが彼の口癖だった」

 

 そっと語り出すその口ぶりは、目の前のあたしに、少しずつ何かを伝えようとしているみたいで。

 あたしも、自然と耳を澄ませていった。

 

「本気でそんなことを言っているところが、僕には、たまらなく憎かったんだ」

 

 

 

 

─────【2】─────

 

 

 彼のことを初めて知ったのは、養成所に入って比較的すぐの頃だったと思う。

 親睦を深めるってやつかな。同じクラスになった何人かで集まって、軽い飲み会を……いや、未成年だったし、お酒は出なかったけど。

 

「やっぱクラシック三冠だろ。俺にとっては長年の憧れさ」

「僕は、チームかな。多彩な距離、適性のウマ娘を育てあげて、いつか最強のチームを作り上げてみせる」

「おいおい、伝手も大事だろ? メジロやサトノみたいな名家にも、一目置かれるようにならなくちゃな」

 

 まあ、それでも酔ってたのかな。その場の雰囲気ってやつで。

 すっかりテンションの上がった他の連中が、いつかトレーナーになった後のことについて、次々に熱く語り出していた。

 

「お前はどうなんだよ、天池」

「……最高のトレーナーになる。三冠とか、距離も適性も関係ない。優秀な成績を修めて、いつか歴史に名を残せるくらいの」

「おぉっ、そりゃ大きく出たなぁ」

 

 大人しく乗ってやったら、笑い飛ばされた。今思えば、空気が悪くならないようにしてくれていたのかもしれないね。

 それでも、内心は不愉快だった。

 どいつもこいつも夢だけはでかい。けれど所詮、もう講義が始まっているようなこの時期にも、堂々と夜通し遊び歩いているようなヤツらだ。そういうのも、僕は知っていたから。

 

「おう、お前も何か言えって。黙々と料理取り分けてんじゃねぇよ、ありがたいけど」

 

 そんなのが同期ってだけで、虫酸が走っていた。

 

「いや……俺は、そういうのは」

「マジ? これから色々大変なんだぞ? せめて目標くらいよー」

 

(ない、か。……は)

 

 正直、論外だと思った。彼のことだけはあまり知らなかったけど。恥ずかしくて言えなかったとかならともかく、まさかそういうやつまでいるのかと。

 呆れた。夢も目標もないやつは、先のこともろくに見えていない。

 それで何ができる。運良くトレーナーになれたって、彼女たちの力になんてなれるわけがないだろうに。

 甘い世界じゃない。その程度のやつから、ここでは脱落していく。

 あの時は、本当にそう思っていた。

 

 

 

 それから少しして、ちょっとした筆記試験があった。

 

 

 

 まだ講義も始まったばかり。習ったことといえば、本当に基礎中の基礎くらい。

 だからそれは、まだ入学して間もない僕らが、元々どのくらいの知識を持っているかを見るためだったんだろう。

 試験の後に、成績表が貼り出された。飲み会で一緒だったやつらは軒並み下位。僕はその遥か上にいた。

 

「……は?」

 

 そら見たことか、と。そう鼻を高くするのもそこそこに。

 そういえば、一つだけ名前が見当たらないことに気がついた。

 

松早(まつばや)陽葵(ひなた)

 

 ……彼だけは、僕の上にいた。

 それまでは下ばかり見ていた。だから、すぐには見つけられなかった。

 

 あの日、一人だけ夢を語らなかった彼。

 論外だと、僕が笑って切り捨てた。

 

「──」

 

 たったそれだけで、色々なことを思い知らされた。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 それから数ヶ月が経った。

 

 講義も本格的に始まって、課題や試験も、日に日に忙しくなるばかり。僕を含め、みんな少しずつ余裕もなくなってきた頃に、それは始まった。

 実地研修。君たちで言うところの合宿に近い。

 遠方のとあるトレーニング倶楽部を訪問して、そこに通うウマ娘たちと交流しながら経験を積む。トレーナーの業務体験みたいなものだった。

 

 ……まあ、実際はそんな甘いものでもなかったけどね。

 

「やあ。今日も一番乗りかい?」

 

 その間、僕らは近くの宿泊施設でご厄介になっていた。そこから少し歩いたところには、小さな図書館があってね。

 定位置は奥の席。そこに足を運ぶと、いつも彼──松早がいた。

 

「ん、お前か。……今日は先に何人か来てたぞ。というか、別に狙って来てるわけじゃない」

「それは失敬」

 

 そういう当たり強めな言い回しにも、徐々に慣れてきた頃合いだった。彼、付き合いの長い相手には素っ気ないんだよね。

 内心は鬱陶しく思われていたかもしれない。僕は、特に気にせず向かいに座った。

 

 あの試験以来、僕らは一緒に勉強をする仲になった。

 

 結局、成績で彼に負けたのはその一度きりだ。それからも試験は何度かあって、筆記も実技も、僕は何度も彼を上回った。

 

(……まぐれ、だったのか)

 

 そうも思ってたんだけどね。

 でも、イマイチ気持ちは晴れなかった。

 

 いくら良い成績をとっても、彼はいつも僕のすぐ後ろにいた。

 まるで機械みたいに、とにかく地道な努力を欠かさないやつだったからね。

 油断すると、すぐに寝首を掻かれそうな怖さがあった。

 

「そういえば次の小レポート。下書きを作ってるんだけど、ちょっと見てみてくれないか」

「嫌だけど」

「なんでさ」

「どうせほぼ出来かけだろ。お前が素直に意見を聞くとも思えない」

「分かってるじゃないか」

 

 だから、気づくと目が離せなくなっていた。

 そうして普通に接していると、本当に何でも無さそうなやつなのに。僕の方が優れていて、より高いところを目指しているはずなのに。

 

「……」

 

 得体の知れない何かが、ずっと頭から離れないまま。

 困ったことに、それはだんだん酷くなっていった。

 

 

 

 そして、次の日のことだった。

 

 

 

「……またやってるのか」

 

 ちょうど研修時間中で、僕らはトレーニング倶楽部の施設にいた。次の講義に向けて、教室を移動しているところだった。

 その途中で、僕らはあるウマ娘を見かけた。

 

「ふっ……やぁぁぁぁっ」

 

 まだ体格も小さく、見るからに頼りない。その日も、彼女は一人きりでトレーニングに励んでいた。

 一応、知っている子だった。声を掛けたことはなかったけど、ジャージの色からしても、ここのリトルクラスの子だろう。

 僕らが担当しているクラスとはまた別だが、確か、あちらの練習時間はもう終わっている。

 きっと、それは自主練だったんだ。

 

「見込みがある、とは言えないな」

 

 知ったように、そんなことを口にしていた。隣の彼に向けて、語りかけたつもりだったのかもしれない。

 フォームに足腰の強さ、他にも色々。遠目にも、見るべきところさえ分かっていれば、それは明らかだっただろう。

 

(……気にならないとは、言わないけど)

 

 もう講義の時間も近い。この容赦のない研修で、僕らもそれほど余裕のない身の上だ。

 手を差し伸べるのは、難しいことだった。

 

「──悪い。次、ちょっと遅れるって言っといてくれるか」

「! おい、松早」

 

 勝手な言伝を託して、彼は走っていった。

 足を止めていたウマ娘に駆け寄ると、あとは二人で何かを話し込んでいて。

 僕は、少しの間それを見ていた。

 

(……考えなしめ)

 

 結局、ちょっとどころじゃない。彼は大遅刻をしてきた。教官には大目玉を食らっていたよ。

 周りの同期たちは、クスクスと笑っていた。

 だからダメなんだ、とか。知った気になって面白がっていた。

 

「……」

 

 彼のことを睨み付けていたのは、僕だけだったと思う。

 

 

 

 

─────【3】─────

 

 

 気が付くと、研修の期間も終盤に差し掛かっていた。

 それまでだって、ろくに気の休まる時間はなかったけど。その頃は特に酷かった。研修の集大成として、最終レポートの提出も迫っていたんだ。

 研修での成績は今後にも響いてくる。トレーナーになるためにも大事なことだった。

 僕を含め、大体みんなが躍起になっていたよ。

 

(……あれ?)

 

 その日も、僕は図書館にやってきていた。けれど、奥の机に彼はいなかった。

 珍しいとも思ったけど、他にもあまり人は見かけなくてね。僕が早く来すぎたのかもしれない。

 後から来たら、ちょっとからかってやるか。そう思った。

 

「ん……?」

 

 奥の席までやってきた時、違和感に気がついた。

 机の下から、およそありえない角度で足が伸びていた。サスペンスドラマとかで事件が発覚する瞬間、といえば分かりやすいかな。

 

「ま、松早……!?」

 

 血の気がサッと引いて、すぐに机の後ろへ回り込んだ。

 そこに、青ざめた顔の松早が倒れていた。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

「──悪い。少し、ふらついてな」

 

 彼が目を覚ましたのは、一時間ほど後のことだった。

 ちょうど巡回中の司書さんが通りかかってね。裏の部屋を貸してくれるっていうから、倒れていた彼をそこに運ばせてもらった。

 そして仕方なく、僕が様子を見ていることになったんだ。

 

「ついじゃないよ。まったく」

 

 流石に肝が冷えた。いつもの軽口も、調子が出なくてね。

 代わりと言わんばかりに、長い溜め息を吐くことしかできなかった。

 

「あまり休めてないのかい? レポートが忙しいのも分かるけど、研修もまだ残ってるんだ。最低限の体調管理くらい」

「いや、そうじゃないんだ。そっちはもう終わってる」

「……え?」

 

 彼が何を言っているか、一瞬分からなかった。

 終わった? あのレポートが?

 単に文字数だけとっても、一般的な大学の卒論並みはある。図解やデータの質も厳しくチェックされるだろう。まだ数日が残っているこの状況で、とても片付くようなものじゃない。

 少なくとも、いい成績を目指して、しっかり作り込むつもりがあったなら。

 

「十分に詰められたとは言わないけど、提出はできる。及第点くらいにはなるだろう」

「及第点って、そんな……じゃあ、君は一体何を」

 

 言いたいことは、色々あったけど。

 それを何とか飲み込んで、まず根本的なことを尋ねることにした。

 

「あの子に渡す、資料を作ってたんだ」

 

 そして、彼は何の躊躇いもなく答えた。

 あの子。それがまるで共通の話題のように、彼は言う。誰のことを言っているのかは、僕にはすぐに分かった。

 リトルクラスにいた、幼いウマ娘。

 毎日、最後まで残って、一人で自主練をしていた。

 

「どうして、そんなものを?」

「……この研修が終わったら、ここに来るのも難しくなるだろ。このままだと、中途半端なところまでしか見てあげられなくなりそうなんだ。だから、少しでも何か残してあげられないかって」

 

 彼があのウマ娘と親睦を深めているのは、知っていた。

 初めて声を掛けたあの日から、ずっと。忙しい研修の合間を縫って、自主練に付き合うようになったんだそうで。

 彼なりに責任を果たしたいと思ったんだろう。……自分の担当クラスでもないのに。

 

「ふざけるな」

 

 その時は、とても腹が立っていた。

 それがどうしてかも分からないまま、僕は彼に突っかかっていた。

 

「言っただろう。トレーナーになるのは簡単なことじゃない。……及第点? これからにも関わる大切な課題で、本当にそれでいいと思ってるのか?」

 

 けれど、それは多分。ずっと前から置きっ放しになっていた、得体の知れないその感情のせいだったんだと思う。

 

「何で最善を尽くさない! 君は、トレーナーになりたいんじゃなかったのか!?」

「……」

 

 あのウマ娘のことを、気にしていなかったわけじゃない。

 

 見込みがないとは分かっていても。少しくらいなら、助言してあげたいことだってあった。

 でも、できなかった。だって、仕方ないじゃないか。

 手が届く距離にいるからって、それは簡単に差し伸べられるものじゃない。そんなことをして、最後まで責任が取れるかも分からないのに。

 無謀なことだ。それであの子を傷つけてしまっては、意味がない。

 

(君も、分かっていたはずだ)

 

 なのに、迷いもなく駆け出した。

 行き先も見えないくせに。これといって特別な才能があるわけでもないくせに。どうして、そうやって愚直に進んでいける。

 自分のことも後回しにして、誰かのために力を尽くせる。

 

「……分かってるさ。これが褒められたことじゃないのも」

 

 その声の響きは、あまりにも対照的だった。

 一人で苛立っていた僕。それに耳を傾けながら、静かに言葉を返す彼。その目はいつも、ただ真っ直ぐにどこかを見つめている。

 そこに、始めから僕なんて映っていなかった。

 

「けど、俺には何もないから。お前たちみたいに眩しい夢も、トレーナーになれた後のことも。……昔からそうだった」

 

 それでも、最低限の義理を果たすように。彼は少しずつ答えてくれた。

 幼い頃から、周りと同じように夢を持てなかったこと。

 夢を見ている誰かの隣にいることで、その孤独を紛らわせていたことも。

 

 そんな彼が、レースに出会った。

 

 そこで一生懸命に走るウマ娘たちの姿に、夢中になった。輝かしい栄光を手にしながら、ウイニングサークルで笑っていたその子の姿が、心の中に焼き付いた。

 ただ、彼女たちの傍で夢を知りたいなんて。そんな不自然な願いを握りしめて、ここまでやってきたんだと。

 

「お前も、あの子のことを気に掛けてたんだろ」

「……!」

「本当に頑張ってた。あの子にも大切にしている夢がある。たった一つの、譲れない想いがある」

 

 そして、彼は当然のように続けた。

 

「だから、報われてほしいと思ったんだ」

 

 それが答えだというのは、きっと気づかずに。

 

 夢を知りたい? 彼女たちの隣でなら、それが叶う?

 バカバカしい。聞いているだけで、どれだけ見当違いなことを言っているのか分かる。それを、何もないだなんて。

 思わず腹が立ってしまうほどに、その想いは純粋だった。

 

(でも……そういうことか)

 

 そこでようやく、僕も納得ができた。

 近くにいると危なっかしくて、とても見ていられたものじゃない。それを自覚しない限り、彼が報われることはないだろう。

 けれど、もしかしたら、それは。

 いつか僕も幼心に思い描いていた。ウマ娘の隣に立つトレーナーとしての、一つの理想だったのかもしれない。

 

「…………で、資料って? どんなのを作ってるんだ」

「ん?」

「仕方がないから、僕も一枚かんでやるよ。君よりはいくらか優秀な、この僕がね」

 

 長い沈黙の後、挑発するようにそう言ってみた。でも、負け惜しみだった。

 そこで、せめていつもみたいに不機嫌そうにでもしてくれたら、まだ少しくらいは可愛げもあったのに。

 

「ああ。助かる」

 

 そういう時のあいつは、いつもバカみたいに素直だった。

 

 

 

 

─────【4】──────

 

 

 カチッ

 

 ふと、時計の針の音がした。

 顔を上げる。それはきっと、今までも同じように進んでいたはずなのに。あたしの耳には届かなかった。

 まるでたった今、現実に戻ってきたみたいに。あたしは、目の前のその人の声に集中しきっていた。

 

「……少なくとも、報われないから諦めるようなやつじゃないと思う」

 

 しばらく間を置いて、天池さんはまた話し出す。

 

「その程度なら、彼はここまで来られなかった。……ただ、何らかの心境の変化はあったのかもしれない。学園に来たばかりの頃、彼はまるで抜け殻のようになっていてね。どうしてそうなったのか、それは結局、僕も聞けず終いだった」

「抜け殻……」

「ああ。そして、彼は君と出会った」

 

 ふっと口元が解けて、微笑む。

 何となく、この人にしては珍しい、自然な表情だと思った。

 

「あの日のことはよく覚えてる。二年前、春先の模擬レース。新人もベテランも問わず、そこには多くのトレーナーがいた。もちろん、僕らも含めてね」

 

 昔の光景をなぞるように、言葉は紐解かれていく。

 

「きっと、誰もが彼女を見ていた。まるでそれが天命というように、あたかも当然のように先頭を行く、その黄金の輝きを。

 ただ、彼だけは違った。レースの終盤。後ろはすっかり突き放されて、もう追いつけるかも分からない。それでも、彼はずっと同じ場所を見ていた」

 

 言葉が伝染していく。知っているはずがなかったその光景を、あたしは頭に思い描いていた。

 先頭にオルフェーヴルがいて、それを追いかけていたあたしがいて。

 

 見つめていたのは、きっとあの人だった。

 

「抜け殻だったその瞳に、光が戻っていった。理由なんて知らない。でも、君を見つけた時に、彼は確かに変わった」

 

 目の前の景色が、また潤んでいく。もう何度目かも分からない。

 でも、温かく頬を伝う、その涙だけは。きっと、あたしにとって一番必要なものだった。

 

「そんなあいつと、また勝負がしたいと思ったんだ」

 

 

 





【あとがき】

毎度どうも、鵜鷺りょくと申します。
第40話、いかがだったでしょうか。

また過去のお話となってしまって申し訳ありません。ですが、シオンが松早のことを知っていくために、ここは外せない場面だったと思っています。
また、今までのらりくらりとしていた天池の行動原理についても。ここに来て、各自の秘めていた色々なものが明かされつつありますね。

次回更新は明日。どうしても早く書ききりたく、連日で公開させていただきます。
第五章もいよいよ大詰め。次はやっとシオンのことかな。

それではまた次回。こうしてお会いできれば幸いに思います。

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