夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─   作:鵜鷺りょく

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「彼女の手を取ったのは、俺だったんだ」




欠けた黄昏 Ⅶ 「シオンとトレーナーが再会するお話」

 

─────【1】─────

 

 

 何となく、窓の外が見たくなった。

 でも、窓辺に近づいてまでそうしたいとは、思えなかった。きっともうすぐ日が暮れる。夏が近づいているとはいっても、明るい空がずっと続くわけじゃない。

 そうしたら夜がくる。光を見失ったままの、長い暗闇がやってくる。

 今のあたしは、それを越えられるだろうか。

 

「……」

 

 天池さんの話を聞いた後は、ずっと考え込んでいた。

 このまま、今日を終わらせたくなかった。たくさんのことを知って、確かめたいことができた。あたしはもう一度、トレーナーさんと話がしたい。

 でも、何ができる? 

 残されたあと少しの時間で。ここにいる、あたしたちだけで。

 

「方針は決まったか?」

「……!」

 

 そこに、予想もしていなかった声が差し込まれる。

 たった一言で空気を塗り替えてしまうような、ずんと腰を据えたような響き。いつもの尊大さを隠そうともしない、その声の持ち主は。

 

「オルフェ……」

 

 名前を呼んだのは、天池さんが先だった。

 その声からも、同じような動揺が伝わってくる。

 

「どうしてここに……もしかして、ずっと?」

「よい、些末なことだ。貴様にも言いたいことはあるが、今は此奴が先であろう」

 

 見間違いじゃない。

 薄暗い部屋の中でも、その髪色は強く輝いて見えた。オルフェーヴルさんの視線は、静かにこちらへ向けられている。

 

「傍らに立つ者の起源を知った。貴様に向けられていた真意にも、すでに気付き始めていよう。……そして、その上でまだ語りたいことが山とある。そうだな?」

 

 ギュッと、膝の上で拳を握る。

 彼女の言葉は正しく、無遠慮に、あたしの気持ちを言い当てていた。

 

「……けど、これ以上、どうしたら」

「まだ試していないことがあるだろう。今の話を聞いていたなら、貴様も薄々は心得ているはず」

 

 仕方ないと、そう言いたげに、オルフェさんは短く息を吐く。

 

「余が、手を貸してやる」

 

 そして、あっさりそう言った。

 あたしは当然、しばらく目を丸くする。

 

「どうして」

「理由はいくつかある。……いくら寛大な余とて、いつまでも此奴の勝手を放っておくわけにもいかぬのでな」

「っ……!?」

 

 不意に傾けられた鋭い眼光。その先にいた天池さんが青ざめた。

 多分、二人にしか分からない何かのやり取り。あたしは黙ってそれを見ていた。

 

「それに、気に入らん」

 

 ふいと視線を逸らすと、オルフェさんは続ける。

 

「いつか貴様が余を討つのだと、ヤツはそう言っていた。余に幾度となく敗北し、打ちひしがれてきた担当ウマ娘の姿を見ていながら。余の威光に目もくれず、その遥か遠くの輝きを見据えるようにしてな」

「トレーナーさんが……?」

 

 彼女はわざわざ答えない。違うとも、言わなかった。

 

「あの目、叩き潰してやらねば気が済まん。いずれ貴様ともども、また思い知らせてくれる。あの偽りなきターフの上にて、今度こそ。……理由として、不足はないと思うが?」

「でも……あたしじゃ、もう」

貴様が(・・・)と言ったのだ」

 

 零れかけた弱音を、重なった言葉が吹き消していく。

 下を向くのは許さない。何だか、そう言われているみたいだった。

 

「その意味。もう伝わらぬわけではあるまい」

 

 顔を上げると、オルフェさんは待ちかねたようにそう言った。

 

 

 

─────【2】─────

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 結局、何度ノックをしても返事はなかった。

 光と影の違いも曖昧な、夕暮れ時。広い学園の中を彷徨いながら、息を切らせつつ彼女の姿を探す。

 けれど、記憶の扉は固く閉じられたまま。どれだけ考えてみても、彼女がどこへ行ってしまったのか、そのヒントさえ答えてはくれない。

 

 

 ──俺がトレーナーで、辛くなかったか?

 

 

 そう、尋ねたつもりだった。

 どうしてそんなことをと、彼女は言った。

 

 

『トレーナーさんは、あたしのこと……っ』

 

 

 彼女は、泣きそうな顔をしていた。

 口にするべきじゃなかったと、すぐに気が付いた。

 

 彼女はずっと傍にいてくれた。自分が何も覚えていないと、そう知っていながらも。

 きっと、たくさんの辛い気持ちを飲み込んで。毎日あの病室に通ってきては、何気ない言葉を交わし続けてくれていた。

 それがどうしてかなんて、本当は分かっていたはずなのに。

 何故、信じてあげられなかったんだろう。

 

 ──お前なんかに、何が分かるんだ。

 

 それは多分、いつまでも拭うことのできない、そんな記憶から。

 そこまでしてもらえるだけの価値があったのかと、疑ってしまった。彼女の真っ直ぐさに報いられるだけの、そんなトレーナーになれた自分のことを、どうしても想像できなかった。

 ……だって、そうだろう?

 大切だったはずの、たった一人の担当ウマ娘。彼女のことさえ、自分はもう、何も思い出せないのだから。

 

「随分慌てているね。探し物かい?」

「! 天池……」

 

 最後の希望に縋るように、トレーニングコースの近くまでやってきていた。

 それは今日、彼女に案内してもらったばかりの道筋だった。それを辿った先で、見知った顔に出くわした。

 

「君にしては勘が良いじゃないか。偶然、なんだろうけどね」

「天池、お前、シオンのこと……」

「知ってる。だから、ちょうど迎えに行こうと思ってた」

 

 来なよと、踵を返す。呆気にとられつつも、慎重にその後ろへ続いた。

 次第に、コースの中へと入っていく。

 草原の香りが胸をすく。新鮮なようで、少し肌をひりつかせるような違和感。外から見ていたことはあっても、その内側へ踏み込んでいくのは、何となく躊躇いがあった。

 

「落ち着かないかい? ……あぁ、そうか。今の君の感覚だと、ここへ来るのも初めてってことになるのか」

 

 そう言って、長い溜め息を吐く。

 前を向いたままで、天池の表情は窺えなかった。

 

「無情なものだよ。彼女にも、君にとっても。君たちがここに来たことなんて、もう数え切れないほどもあったはずなのにね」

 

 しばらく歩いて、足を止める。

 

「……けど、いくら何でも、そろそろ目覚めの時間だよ」

 

 静まり返るコースの中を、そよ風が流れていく。

 役者は揃ったとでも言いたげに、まるで今、その場の時間が動き出したみたいだった。

 

「君はもう一度、彼女の走りの(とりこ)になるんだ」

 

 天池がスマホを掲げる。ピーッと、何かの合図が鳴った。

 

 ダダッ

 

「──!」

 

 その向こうから、二つの人影が飛び出していった。

 刹那、視線が交差する。その先にいたのは、ウインバリアシオンだった。

 

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 

(……! トレーナーさ──)

 

 西の空から日が照りつけていた。

 一瞬、光が斜めに差し込む。あたしの目は、わずかに眩んだ。

 

「余所見をしている暇があるのか?」

「あ……くっ……!」

 

 オルフェさんは、その隙を逃さず加速する。

 芝の二四〇〇メートル。彼女が提案したコースは、またそれだった。

 夏合宿の最後。あの時の模擬レースは、きっと日本ダービーの再現だったんだと思う。……それなら、今度は何の。

 

「何も考えず、今の貴様の全てを出しきれ。さもなくば、彼奴を救うことなど」

「分かってる! ……分かってるんすよ、そんなことは」

 

 蹄鉄の音が地面を削る。リズミカルに、その回転はどんどん速まっていく。

 考えている暇なんてない。それでも、思考は止まらない。

 苦し紛れのスタートダッシュ。オルフェさんの後ろに何とか食らい付きながら、ただ脚を緩めないことだけに神経を注ぐ。

 今のあたしには、それが精一杯だった。

 

 トレーナーさんに、もう一度あたしの走りを見せる。

 

 それが、オルフェさんから持ちかけられた作戦だ。そしてそれは、あたしも少しだけ考えていたことだった。天池さんの話を聞いたその瞬間から。

 もし、二年前の出会いを再現できたなら。

 それが本当に、あの人にとって大切なものだったなら。

 その光景を見せることが、トレーナーさん自身の気持ちに、何かを働きかけるかもしれないと。

 縋るしかなかった。ただの頼りない空想だって、分かっていても。

 

(違う……これじゃ、まだ)

 

 呼吸がぎこちない。

 全身が、まるで自分のものじゃないみたいに、重かった。

 

 こんな走りじゃ、あの人には届かない。

 これで済むなら、きっともうやれていた。一ヶ月前、あの天皇賞のレースを見てもらった時点で、それは果たせていたはずだ。

 実際、あの時はもっと走れていた。

 そして、それでも変わらなかった。今は、それ以上の何かが要る。

 

 今のあたしには、何が足りない?

 

「貴様は今、何を(しるべ)として走っている」

「……?」

 

 最初のコーナーに入った。降りかかる遠心力を耐えて、コースの膨らみを最小限に留める。

 少しだけ差が開いた。そこで、またオルフェさんの声がした。

 

「以前にも同じ事を聞いたな。夢のため、そして自らを信ずる者たちのためにと、貴様は答えたはずだ」

「……」

「今でも、それは変わらぬか?」

 

 コーナーの終わり。あたしはもう少しだけ、何とか距離を詰める。

 

「先のジャパンカップは、(いささ)か見るに堪えなかったな。余所見でもしていたか? 眼前の相手の動向にさえ注意が向かぬとは」

「っ、違う! あたしは、そんなこと……」

「事実、貴様は前に出る好機すら見過ごした。もう少し早く勝負に出ていれば、少なくとも先頭には届いていただろうに」

 

 ズキッと、頭が痛む。口を出る言葉と、思い浮かべていた記憶は矛盾していた。

 余所見。……そうだったのかもしれない。少なくともあたしは、あたしの走りだけに集中できていなかった。

 あの時、前を見ていられなくなるくらい、あたしが気にしていたのは。

 

「貴様の言う主役(プリンシパル)とは、何だ? 与えられる声援ばかりを気にかけて、ただそれだけに突き動かされて走るような(もろ)き者か? そんなもののために、愚直にも努力を積み重ねてきたと」

「それは……っ」

 

 脚がぶれる。僅かに、態勢が崩れた。

 

「こ、の……まだ……!!」

 

 踏み止まって、何とかもう一度前を向く。何かを言い返したい気持ちが溢れてきて、あたしは少し、呼吸のリズムを整えた。

 雲の晴れた空の中に、あいつの背中だけがはっきり見える。

 

「そうだ。貴様はもう、それを知っている」

 

 そして、オルフェーヴルは大地を踏み締めた。

 

「後ろを振り返る必要などない。何より貴様を信ずる者たちも、そんなことは望まなかったであろう」

 

「貴様はただ、()だけを見て走っていればよかったのだ」

 

 背中が遠ざかる。開いた距離は、ほんの一時。

 次の瞬間、無意識に踏み出していた脚が、その空白を埋めていた。

 

 

 

 

─────【3】─────

 

 

 動き出したコースの途上。二人の影が、だんだんと重なり始める。

 オルフェーヴルとウインバリアシオン。栄光を欲しいままにしてきた三冠ウマ娘と、それに何度も辛酸を舐めさせられてきた因縁の二番手。

 それは調べて目にしただけの情報だ。今の自分が知っているのは、たったそれだけ。

 彼女たちのレースを見るのは、先月の天皇賞に続いてこれで二度目になる。

 

「……!」

 

 そして、そのレースは、一度目とは全く違う印象を受けた。

 脚運びにはまだ余裕があるが、それでも一片の隙も見せないオルフェーヴル。一方で、その後ろについたシオンの走りもまた、不安定だった立ち上がりから徐々に洗練されたものになっていく。

 

 静かに迎え撃つ王と、果敢に立ち向かう挑戦者。

 これが二人の本当の姿なのだと、本能的に直感した。

 

 それは、これまで何度も観客たちを熱くさせてきたという、無二のライバル関係。

 評判の通りだ。それならこの胸の高鳴りも、思わず釘付けにされてしまっている視線のことも、納得ができる。

 だから、特別じゃない。自分はただ、懸命に走るシオンの姿だけを、その目に捉えていた。

 

「懐かしい顔をしているね」

 

 それまでは静かだった。隣から天池の声が聞こえる。

 

「あの日も君は、ただ彼女だけを見ていた。意固地な拘りでもなく、オルフェばかりに注目する周囲への反骨心でもなく。ただ純粋に彼女の、ウインバリアシオンの走りに心を躍らせているように」

 

 そうして耳を傾けている間も、ウインバリアシオンは加速し続ける。

 依然、オルフェーヴルは立ちはだかる。それでも、彼女は目の前の障壁から目を逸らさない。

 

「それが君だ。いつだって身勝手に、ただ自分の信じた輝きだけを見つめ続ける。どれだけ不利な状況だとしても、それに寄り添う」

 

 やはり、視線は逸らせない。

 けれど、なぜか頭だけはひどく痛かった。

 

「なのに、ここで終わるのか? 彼女を見出した責任も、預けてもらった信頼も放り出して、逃げ出すのか?」

 

 ターフを駆け抜ける蹄鉄の音。語りかける天池の声。

 額を抑える。嫌な汗が滲む。呼吸も乱れて、そのうち、地面に立っている感覚すら覚束なくなる。

 目眩と吐き気。あらゆる異常が、立て続けに脳を揺さぶる。

 

「今彼女が何のために走っているか、分からないはずがないだろう」

「っ……」

「ずっと、彼女のことだけを見てきた君なら」

 

 それでも、この目に映る光景だけは、少しだって動かせないまま。

 意識の奥底で、開かずの扉を殴りつけるような、鈍い音がした。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 ひびの入った向こう側から、何かが流れ込んでくる。

 それが誰のものかは分からない。行き場のない、落とし物の夢を覗いているみたいだった。

 けれど少しずつ、それは自分の感覚に馴染んでいく。

 

 

『誰よりも、輝く存在になりたい。あいつを負かして、浴びせられる喝采ぜんぶ奪い取って』

 

『いつか、最高の主役(プリンシパル)に』

 

 

 かつて、そう語っていたウマ娘がいた。

 彼女はとても努力家だった。どうしても叶えたい夢があって、でも、そのためには絶対に倒さなければいけないライバルがいて。

 周りに無謀だと言われて、一人きりになっても、涙を堪えて必死に走っていた。

 やがて、そんな彼女にも、担当トレーナーができた。

 打倒オルフェーヴル。シンプルなようで、決して簡単なものじゃない。そんな目標を掲げて、彼女たちの物語は幕を開けた。

 

 たくさんの不安に悩んだ、春の終わり。

 

 次第に大きくなる、ライバルの存在感。それに耐えて、いくつもの辛い夜を越えてきたのに。

 結局、最初の雨のレースは惨敗に終わった。

 

 夏がやってきた。それはとても過酷な季節だ。

 

 数え切れないほどの汗を拭って、倒れそうになりながら、それでも彼女は耐えた。

 耐えきって、最後にはライバルの背中に大きく近づいてみせた。

 

 秋には、大変なレースが続いた。

 

 一度目は届かなかったものの、二度目は一矢を報いた。逆転されてしまったけれど、彼女は笑って走っていた。

 それまでに積み上げてきたものを、ちゃんと誇ることができた。

 

 そして、厳しい冬が牙を剥く。

 

 彼女は躓いてしまった。転んでケガをして、一人では立ち上がれないほどの挫折を味わった。

 それでも、周りの仲間たちが支えてくれた。泣き出しそうになりながらも、彼女はまた次の季節へと進み出していく。

 

 物語は、そこで途切れていた。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

「……」

 

 それは一つの舞台。自分は、観客席の最前列から見ていた。

 一人のウマ娘、その競技人生を描いた物語。

 それは柔らかな春の陽気と、淡く広がる暁の空を思わせるような、スポットライトの光から始まった。

 

 最初に惹かれたのは、彼女の走りだった。

 

 届かないと知りながら、それでも手を伸ばし続ける。毒々しい執着を隠すこともなく、目の前を覆い隠す黄金のタテガミを睨み付けながら、どこまでもそれを追いかけようとする。

 憧れの光があった。憎しみの闇があった。

 その両方を秘めた瞳には、それでも燃え盛る炎があった。

 

(俺は、それを知っている)

 

 それが心の底から苦しくて、思わず胸を掻きむしってしまいたくなるほどのものだと知っている。目指すものが遠ければ遠いほど、ふとした瞬間に投げ出したくなってしまうものだということも。

 まるで諸刃の剣。何よりそれを振りかざしている自分自身のことを、何度も嫌ってしまいそうになった。

 そして、厄介なことに。そうやって辿り着く場所が、自分にとっての幸せだとも限らない。

 

 それを、知っている。

 でも、彼女はそれだけじゃなかった。

 

 何が違うのだろうと思った。ただ前だけを見て、闇雲に走っていても苦しいだけなのに。いつか、後悔するかもしれないのに。

 その走りは、本当に眩しかった。

 後になって、気づいた。彼女には夢がある(・・・・・・・・)。今まで何度も見てきた、キラキラと輝く何かを持っていたみんなと、彼女は同じ顔をしていた。

 それは、自分にはなかったものだった。

 

 嫉妬、劣等感。

 夢、目標。

 

 彼女は、その全部を持っていた。

 自分が知っていた感情。自分が最後まで知ることのなかったもの。

 同じ悔しさにもがき苦しんでいても、そこには確かに、彼女にしかない夢がある。

 その走りには、多くの可能性が秘められていた。

 

(……叶って、ほしいな)

 

 彼女のトレーナーも、同じ思いを持っていた。

 それなのに、そいつはとても頼りないやつだった。

 

 

『シオンのためになるなら、俺もできることをやりたいから』

 

『どんなに些細なことでも、一緒に背負わせてほしい』

 

 

 スカウトを受け入れてもらえただけで、すっかり舞い上がっていたんだろう。

 大したこともできないのに、それらしい言葉を並べるばかりで。

 

 

『この夏合宿で限界まで追い込みます』

 

『彼女が、下を向いている暇もないくらいに』

 

 

 自分の身を削ることでしか、彼女の努力に応えられないと知っていた。

 そのせいで、彼女に余計な心配をかけた。

 

 

『俺はもっと、君の走りを見ていたい』

 

 

 最後には、ただワガママを言った。

 疲れ果てて、もう走れないと泣いている彼女に。それでも重荷を背負わせた。

 

(……情けない)

 

 どうして力になれないのだろうと、彼は嘆いた。

 もし、自分がトレーナーじゃなかったら? そんなことを想像したりもした。

 

 きっと、最初から届かなくてもよかった。

 

 あの資料が届かなくても、彼女にスカウトを断られたとしても。ただ、自分の気持ちを告げることができた。

 君の走りをずっと見ている、と。そう言葉に出来た。

 

 隣にいるのは、自分じゃなくたっていい。

 そう、思っていたはずなんだ。

 

 

『あたしのトレーナーは、あなたしかいないんですから』

 

 

 なのに、どうして。

 どうしてあの時、自分はその言葉に縋ってしまったんだろう。

 ただ、彼女の幸せを願っていられればよかったのに。いつか夢を叶えるその姿を、少しだけ近くで見ていられればよかったのに。

 

 

『ウインバリアシオン』

 

『君を、スカウトさせてほしい』

 

 

 いつの間にか、同じ舞台の上に立っていた。

 照らし出すスポットライトが眩しい。それはまるで大きな太陽のようだった。どうしようもなく光が強くて、とても拒めない。

 

(……あぁ、そうか。そうだったな)

 

 目の前には、彼女が立っている。

 今にも泣き出しそうな顔をしながら、こちらに手を差し出してくれている。

 

 

『よろしくお願いします。トレーナーさん』

 

 

 ……そのトレーナーは、気に入らないやつだった。

 そいつより彼女に相応しい人を、他に何人も知っている。そのうちの誰かなら、彼女をもっと幸せにできたのかもしれない。

 

 でも、違った。

 

 広がる未来を予感させるような、雲のない晴れ空を覚えている。

 ギュッと、その胸に抱きしめられていた、未熟だった資料のことも。

 

「──ありがとう」

 

 そして、それは他の誰でもない。

 彼女の手を取ったのは(・・・・・・・・・・)俺だったんだ(・・・・・・)

 

 

 

 

─────【4】─────

 

 

 ごうごうと風が流れていく。そこに淡々と短い足音を刻みつけながら、あたしは走り続ける。

 

(ここで内側をキープ……それなら、もう動かない)

 

 近づく最終コーナーの気配。目前のオルフェーヴルはどっしりと構えたまま、最短ルートでそこを目指している。

 躱される心配はない。位置取りを微調整して、彼女が作った傘の中で向かい風をやり過ごす。

 息を整える。その背中への注意を保ったまま。

 

「……」

 

 ただ、目の前の相手だけを見て、走る。

 こうしていると、とても簡単なことのように思えるけど。同時に、自分がどれだけそれが出来ていなかったのかを自覚させられる。

 もうどれだけ前になるんだろう。

 少なくとも、今みたいに。こいつの後ろを走っている時だけは、あたしは目を逸らしたことはなかったのに。

 

「──!」

 

 風が強くなる。あたしたちはコーナーに入っていた。

 傘の中を飛び出す。隙間の見えない内側をきっぱり見切って、あたしは少し早めにオルフェーヴルの外側に回った。

 そのまま恐れずに走る。襲いかかってくる遠心力を体幹で乗りこなして、さらに前へ。

 

「させんッ!」

「っ……」

 

 作戦はちゃんと狙い通りに決まった。それでも、オルフェーヴルはさらにあたしの前に出る。

 正面から受けて立ってきたのは予想通り。その上で、こいつはさらにスピードを上げてきたのだ。

 残りは最終直線。距離はまだある。

 ここからは仕掛けどころの駆け引きだ。あちらの脚は、多分まだ十分残っている。

 あたしは、あとどれくらい保つだろう。

 

(……振り返るな、か)

 

 身体は熱を増していく。手足も全力で回転を続ける。一方で、頭だけは少しずつ冷めていった。

 思い出す。前にも、同じようなことを言われた気がする。

 精一杯の力で走りきることの出来た、菊花賞。あたしはその日、初めてオルフェーヴルの前に出た。

 嬉しかった。それまで頑張ってきたことが、やっと少し報われたんだって。頭の中にあるのは、そのことばっかりだった。

 ……負けたのに、楽しかった。

 だからって、そう思ってしまうのは、いけないことだったのかもしれないけど。

 

 

『今は、振り返らなくていい』

 

 

 最初にそう言ってくれたのは、トレーナーさんだった。

 七人目の三冠ウマ娘が生まれたあの会場で。あの人だけが、隣にいてくれた。頭を撫でながら、十分じゃない結果を、それでも一緒に誇ってくれていた。

 そこに、ファンクラブの人たちもやってきた。悔しさも、感動の涙も、あたしと同じ色んな思いが、みんなの表情の中に見えた気がした。

 あの時、あたしはもう、一人じゃなかった。

 

 結果を諦めるわけじゃない。

 ただあたしは、いつも前だけを見て、全力で挑み続ける。

 勝ちたい。一番になりたい。その感情だけで、何もかもを出し切る。その後で得られたものを、誰かと分かち合う。

 笑って、泣いて。そして、また一緒に前を向く。

 そんな走りを、してみたいと思った。

 

(……いいのかな。それでも)

 

 あたしの全力は、多分、綺麗なものじゃない。

 特に、オルフェーヴル(こいつ)相手には。嫉妬も、劣等感も、暗い気持ちを含めた何もかもが剥き出しになる。勝ちたいって、前を向くことしかできなくなる。

 

(それ以外の全部が、見えなくなってしまう)

 

 後ろで声援をくれるみんなのことも、きっと。でも、そうやって結局、何の結果も出してこられなかった。

 今のあたしに、それが許されるだろうか。

 

 

『それが君の強さだって、俺は信じているから』

 

 

 そう言ってくれたあの人は、もういないけど。

 ……違う。そうじゃないだろ。

 これから、取り戻しに行くんだ。今まで一緒に歩んだ時間も、紡いだ信頼も、きっと全部この先にある。

 

(お願い、届いて……届いてよ……)

 

 かつて、あの人が夢中になってくれた。その走りが、今のあたしなら。

 後ろを振り返らないのが、ウインバリアシオン(あたし)の走りだって言うなら。

 

(許されなくたって、いいから……!)

 

 今は、たった一人。あなたに届けば、それでいいんだ。

 だから──

 

 

『シオンっ!』

 

 

 その時、また風が吹いた。

 前を塞ぐような向かい風じゃない。進路を逸らしてくるような、横風でもない。

 それは、そっと背中を押すように。控えめで、いつも遠くにいて。

 でも、何度もあたしを勇気づけてくれた。

 

「っ……ダァァァァァァ!!」

 

 聞き間違いだったのかもしれない。都合のいい妄想だったのかもしれない。

 横並びの足音。その少し先に向かって、あたしはもう一歩を踏み出す。

 

 後ろを振り返ったのは、ゴールラインを越えた後のことだった。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 それは、たった数分間のことだったはずだ。

 どんなレースも同じ。たったそれだけの間に、あたしたちは色んな思いを刻みつける。その脚で、その叫びで。全身と全霊をかけて。

 見ている人たちもそう。あたしたちが競い合う中で示したものを、みんなもまた同じだけ受け取ってくれている。

 あたしたちはいつだって、そんな不思議な世界を駆け抜けてきた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 だから、そこにどんな奇跡が起きたって、おかしくはないのかもしれない。

 息を整えるのも忘れたまま。あたしは今、それを目の当たりにしているんだと思った。

 

「……トレーナー、さん……?」

 

 小さな予感がして、その名前を呼ぶ。

 

 東の空が青く見えた。その中に、月はようやく顔を出している。

 西の空はまだ赤い。沈みきる前の夕日が、小さくこちらを覗いている。

 

 そんな時間のことを、何て呼ぶのかは忘れてしまったけど。

 

「……シオン」

「あ……」

 

 振り返った先に、トレーナーさんが立っている。返ってきたその呼び方は、すごく懐かしい気がして。

 あたしを見つめるその目に、光が映る。それだけで、十分だった。

 

「──っ」

 

 最初はゆっくり。脚は少しずつ早くなっていく。

 駆け出して、詰まっていく距離。

 誰よりも早く、あたしはその胸の中に飛び込んでいた。

 

 





【あとがき】


毎度どうも、鵜鷺りょくと申します。
第41話、いかがだったでしょうか。

第五章の大詰め。そして、本作にとって一つの集大成のようなお話でした。
振り返らず走ることを思い出したシオン。彼女にもらったものと、自分自身の原点を思い出した松早。
濃い内容も多く、拙い表現もあったかもしれませんが。二人の感情の揺れ動きが、少しでも多く伝わっていれば嬉しく思います。

そして次週、第五章のエピローグとなります。
全てを思い出した松早。彼が本当にシオンに伝えたいこととは、いかに。

従来通り、土曜20:00の更新予定となります。

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