夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─   作:鵜鷺りょく

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夜明けの二人。再会の夕暮れ。






茜日と宵ノ月 「シオンに本心を伝えるお話」

 

─────【1】─────

 

 

 そして、役割を終えた学園のコースには、徐々に暗闇が降りていく。

 燃えるようだった茜の空を包み込みながら、穏やかな静寂が辺りを満たしていく。

 

 僕は、コースの外側からそれを見ていた。

 上へと続く階段に足をかけて、途中で遠くを振り返る。視線の先にはたった二つの人影。泣き出すようにしながら、勢いよく飛びかかったままの赤いウマ娘と、それを受け止めきれず、間抜けに尻もちをついている担当トレーナーの姿がある。

 何だかまずい光景のような気もする。僕には笑い話だけど。理事長やたづなさん、学園の関係者までそうとは限らない。

 もうすぐ照明も点灯して目立つだろうし、流石に、それまでには場所を変えるべきと思うのだが。

 

(……ま、いいか)

 

 少し長めに息を吐く。後はもう、どうしようもなく彼らの問題だ。僕もまた、自分のやるべきことは済ませている。

 まだ言い足りないこともある気がするけど。それはきっと、これからいつでも言ってやれるような些細なことなんだと思う。

 

「貴様が執心する割には、存外青い男だったな」

 

 階段を昇りきったところに、オルフェーヴルが立っていた。彼女もまた、僕と同じ場所を見つめていたらしい。

 ただ、語りかけたのはこちらに対してだろう。その声に応えるのは、少しだけ気を引き締める間があった。

 

「そう、かもしれないね。まったく、昔から変わらない同期っていうのも、なかなか面倒なものだよ」

 

 あえて、他人事のように言ってみる。

 言葉にのる感情をごまかすのは得意だ。それはいつも通りの軽口になった。ようやく調子が戻りかけているようで、少しだけ安心する。

 

「だが、それゆえに勝負をつけたかったのであろう?」

「……」

「どうやら、貴様についても、認識を改めねばならんようだな。……さしづめ、かつて余に担当契約を持ちかけたのも、本当の狙いはヤツであったか」

「! 違う、それは……」

 

 けれど、彼女はそれを許さない。

 僕も焦ることはあるらしい。どうしようもなく、譲れない何かを抱えてしまう相手には、そうなってしまうのだと知った。

 

「それは、ちゃんと僕の意思だ。あの日、僕も君の走りを見ていた。君となら高みを目指していけると、確かにそう思ったから、僕は……」

「そうか。ならばよい」

「……え?」

「よいと言った。戯れだ。恨み言の一つくらいは許せ」

 

 その反応を予想していたように、オルフェはこちらを見ていた。

 失望の言葉だと思った。でも、ほんの少しだけ目を細めていた彼女の表情は、それとは正反対にも見える。

 やがて、その視線はまたコースに戻っていく。

 

「……表裏一体。ウマ娘とトレーナーとは、そういうものだ」

 

 落ち着いた声が語り出す。

 あまりに前触れがなくて、それを彼女が言ったという事実に、驚くのが遅れてしまっていた。

 

「どちらが欠けたとしても、その真価は発揮できぬ。しかし長く苦楽をともにし、信を預けるに足る者を見つけるのは、容易ではない。この余を以てしてもだ」

 

 目を閉じる。オルフェがまた、こちらを振り向いた。薄暗い夕闇の中でも、その柔らかな表情だけは、はっきり目に焼き付いた。

 

「私にそれを教えたお前が、いつまでも余所見をしていてどうする」

「オルフェ……」

「友のことが心配ならそう言え。たわけが」

 

 たとえそれが、刹那の微笑みだったとしても。

 そこにはいつものオルフェがいる。尊大な口調で、僕のことを叱りつけている。でも、その内容はあんまり頭に入ってこなかった。

 どころか、少しだけ笑いそうになってしまっていたのは、内緒のことだ。

 

「まあよい。……今宵のうちにも、ヤツらは答えを見つけるであろう」

 

 そのうち、(きびす)を返す。

 ついてこいと、背中はそう言っているようだった。

 

「時は近い。これよりジムへ赴くゆえ、貴様も同行せよ」

 

 足は勝手についていく。彼女はそれを確かめようともしない。

 だからこそ、それこそが、何も変わらない僕らだった。

 

「我らもまた、次は万全にて迎えてやらなければな」

 

 

 

 

─────【2】─────

 

 

 薄暗い窓の外。それとは対照的に、真っ白な電灯が照らす廊下を、自分たちは歩いていた。きっと今までに何度も見てきたはずの通り道を、一歩ずつ確かめて進むように。

 そのうち、トレーナー室の前までやってくる。

 いつもの癖で鍵を探そうとして、そういえば寮の部屋に置いてきてしまったことを思い出す。

 後ろのシオンは先に気づいていたようだった。「あたしが開けます」と、ささやかながら心強い言葉とともに、扉は開かれる。

 

(……一ヶ月、か)

 

 最後にここを訪れてから、もう随分長い時間が経っていた。

 今までの遠征や出張だって、ここまで留守が続いたことはなかっただろう。何なら寮の部屋よりも、ここで過ごした時間の方が長かったかもしれない。

 何だか妙に感慨深くなっていた。指先が入口脇のスイッチに触れる。

 明かりが点いた。暗かった部屋の全体像が、一瞬にして、穏やかな光の中に浮かび上がっていく。

 

「──ん?」

「あ」

 

 最初に目についたのは、中央のローテーブルだった。

 何だかそこだけ散らかっている。テーブルの上には、数枚のクリアファイルが置かれていた。それには、やや見覚えがある。

 

 ……いや、見覚えしかない。

 

 ヒュッと背筋が凍りつく。反対に、伏せた顔が熱くなっていく。

 立ち止まっていると、すぐ後ろからは、どこか気まずそうな息づかいが聞こえた気がした。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

「すす、すみませんでした!! 部屋を片付けてたら、そのっ……成り行きで、見つけちゃって……」

「あ、ああ……いや、いいんだ。そういうことなら、はは」

 

 もちろん、全然よくはない。でも、彼女を責めるのも筋違いというものだ。本来の管理者がいなくなったこの場所を守ってくれていたのは、他ならない彼女なのだから。

 身振り手振りもまじえて、必死に謝ってくれているシオンに、精一杯に取り繕った笑顔を返す。

 

「……そうか。見つけられちゃったか」

 

 手前にあった一つを手に取る。透明なファイルの中に透ける文字は、思った通り。

 もはや理屈も関係なく、内緒で作り上げていたシオンのための資料。少しだけ未来の、あるいは突拍子もない空想のような、祈りにも似た文字や図解の数々。

 またこんなものを作って──どこかで、誰かに笑われたような気がした。

 

「……その。今こんなこと言うのは、どうかと思うんすけど」

「?」

「資料、嬉しかったっすよ。トレーナーさん、こんなものまで作ってくれてたんだって分かって。……だって、それは、多分」

 

 シオンは、そう言ってくれた。辿々しい口ぶりで、誤魔化しの見えない微笑みを浮かべながら。

 恥ずかしげに伏せられた、その先に続く言葉は、何となく分かるような気がした。傍から見れば意味の分からないようなこの資料も、彼女にだけは、何かを伝えてくれたようだ。

 

(でも、それで済ませてちゃ、いけないんだよな)

 

 そのために、自分はここへ戻ってきたのだから。

 散らばっていたクリアファイルを一箇所に集めて、トントンと向きを揃える。

 それを奥の机まで運んで、自分は改めてシオンの方を振り返った。

 

「まずはお茶を淹れようか。話は、それからでもいいかな」

「あ……はい。それは、もちろん。──あぁ、あたしも手伝います」

「いいよ。任せて」

 

 相変わらず律儀な担当ウマ娘を制止する。座って待っているように伝えると、シオンは少し、心配そうな顔をしていた。

 

「大丈夫。もう、全部思い出せるから」

 

 そうして、迷いのない足取りで、戸棚の方まで移動する。

 

 きっと、些細なことではあるんだろう。

 だからこそ、これも一つの証明になる。

 

 まずは市販のティーバッグ。密閉された外箱を開けると、思っていた通り、中身はやや少なかった。落ち着いたら、また買い出しにもいかないといけない。

 次に、食器のスペースに手をつける。自分とシオン、それぞれの色がついた、似通った形のマグカップ。もちろん、今さら取り違えたりもしない。

 最後に、サイドテーブルの電気ケトルで湯を沸かす。シオンの元へ帰ってきたのは、それから数分後のことだった。

 

「お待たせ」

「ありがとうございます」

 

 ローテーブルの上に、二つ。湯気の立ったマグカップを並べる。

 少し、迷ったけれど。そこで、ソファの端っこに座っていたシオンと目が合った。一拍おいて、同じソファの反対側に座る。

 隣り合わせで、一緒にマグカップを手に取った。とても自然な流れで、緊張の一瞬がやってくる。

 

「……」

 

 いくら強がっても、記憶はまだ戻ったばかりだ。

 それだけで、本当に、自分は彼女の知る自分だと言えるだろうか。彼女が思い描いていた誰かに、戻ることができたのだろうか。

 下らない気もするけれど。

 不安に感じているのは、きっとこちらだけではないのだろうから。

 

「──トレーナーさん」

 

 そっと、マグカップに口をつける。ほぅと短い息を吐いた後、シオンはそれをテーブルの上に置き直す。

 そうして、こちらを振り返る。

 重ねられた視線の先には、とても優しい微笑みが待っていた。

 

「おかえりなさい」

「……ああ。ただいま」

 

 ずっと喉につかえていたそれが、ようやく言葉になる。

 それは本番の前の、軽い儀式のようなものではあったけれど。

 そのたった少しのやり取りの中で、もっとたくさんの何かを、自分たちは交わせたのだと思う。

 

 

 

─────【3】─────

 

 

 本題に入る前に、シオンから少しだけ、今日あったことを聞いてみることにした。

 それは主に、先ほどの模擬レースより前のこと。外出した帰りに自分と別れてから、彼女はこのトレーナー室に戻ってきた。そこに天池(あいつ)もやってきたのだという。

 大方の話は、そちらから聞いたのだそうだ。

 いつもなら、プライバシーへの配慮が何だと、色々文句を言いたくなったところだろう。だが、今回ばかりは例外だ。

 コースにいたあいつは、シオンと話している間にも、どこかへ行ってしまったみたいだったが。不覚にも、世話をかけたのは事実だ。

 いずれ、ちゃんと礼は言っておこうと思う。

 

「そう、だな。もしかしたら、同じ事をもう一回話してしまうことになるかもしれないけど」

 

 話す内容を頭で整理しつつ、途中の沈黙を埋めるように、そう前置きをする。

 

「あたしは、それでもいいっすよ」

「……」

「トレーナーさんの言葉で、ちゃんと聞きたいっすから」

 

 キュッと、隣の手が袖をつまむ。こちらを見つめるシオンの表情は、心から切実なものに見えていた。

 一度、深呼吸をして、考えを落ち着ける。

 

「──昔、何にも持てない自分のことが、嫌だったんだ」

 

 語り始めたのは、不自然に長い空白の後だった。

 

「俺は、自分のことが分からない子供だった。周りにいる同い年の子たちは、みんな眩しい夢を持っていたのに。それが羨ましくて、苦しくて。どうして自分はああなれないんだって、ずっとそう思ってた」

 

 最初の話題は、幼少の頃のことだ。

 やはり、繰り返しになってしまうところはあるのだろうが。きっと、この部分だけはあいつも詳しく話せなかったんじゃないかと、何となく、そう思った。

 

「でも、おかしなもんだな。そういう人たちの近くまで行ってみると、悔しい気持ちが薄れていくことがあった。マンガ家になりたい子と一緒に絵を描いて、プロサッカー選手になりたい子の自主練に付き合って。そういう時間だけは、何だか嫌いになれなかった」

 

 彼女には、できれば聞かせたくない類の話ではあったけれど。

 

 カップに残っていたお茶を、一気に飲み干す。その間も、シオンは黙って耳を傾けてくれていた。

 その先を話すのは、もう少しばかり、溜めが必要だった。

 

「それがどうしてだったのか。分かったのは、この学園に来てからのことだった。……君と出会って、俺は初めて、その理由を知ったんだ」

 

 結局、そうやって寄り添っていても、自分が何かを得られるわけじゃないのに。それでも、心のどこかでは嬉しくも感じていた。

 トレーナーになれば、それも何となく分かっていくのかと期待していた。そしてそれは、思っていたよりもずっと鮮明な形で、実感させられることになった。

 

「あの日、俺は君の走りに夢中になった。ライバルへの執着も、その向こう側にある夢の輝きも。たくさんの気持ちを込めた一生懸命な姿に、心の底から憧れた。それを支えたいって、そう思った」

「トレーナーさん……」

「……だから、君のトレーナーになれてよかったって。俺は、本当にそう思ってるんだよ」

 

 話していると、つい呼吸を忘れそうになる。シオンの呼びかけがあって、自分は何とか、それに笑い返すことができた。

 どうしても必要だった言葉は、そこで伝えられたのだと思う。

 

「誰かの力になれること。その夢や目標が叶ってほしいって、そう願っていられること。俺は多分、それだけでよかったんだ。……格好つけすぎかもしれないけど。それに気付けただけでも、ここまで来られた意味はあったんだと思う」

 

 そう、十分だった。きっとその時点で、もう自分は一つのゴールラインを越えていた。

 トレーナーとしての一歩目を踏み出した瞬間に、ずっと抱えてきた空っぽな気持ちは、満たされかけていた。

 

「気付けたのは、シオンのおかげだ。いつだったか、君は俺に見つけてもらえたんだって言ってくれたけど。……あの日、君と出会って救われたのは、俺の方だったんだよ」

 

 もう一つ、伝えたかったことを口にする。シオンの表情が解けて、抑えていたんだろう微笑みが顔を出し始める。

 ここで終わってもいいんじゃないか。彼女を見て、一瞬そう思いかけたくらいだった。

 

(……でも、問題はその先にある)

 

 まだ、立ち止まるわけにはいかなかった。

 シオンと出会って、自分は確かに前に進んだ。でも、それだけでは足りなかった。

 幼い頃、曲がりなりにもトレーナーという目標を得るために、あのレースが必要だったように。目指す何かがなければ、自分はきっと、シオンとの新しい一歩を踏み出せなかったはずだ。

 そしてそれは、きっと気づかないうちに、胸の内に芽生えていた。

 

「君に返したいものが、たくさんあった」

 

「それでも、結局。俺は、ちゃんと君を支えてあげられなかった」

 

 憎しみ、それでも焦がれてきたのだろう、ライバルに。

 オルフェーヴルに打ち勝つという目標さえ、一度も叶えてあげられなかった。

 何も出来ない自分の無力さが、また嫌になった。

 

「君の力になれないなら、俺はここにいちゃいけない。もしかしたら、俺じゃない他のトレーナーだったら、もっと上手くできたのかもしれない。……あの時俺は、間に合うべきじゃ、なかったのかもしれない」

 

 未熟だったあの資料は。自分なりの精一杯の思いを綴った手紙(紙切れ)は、本当は届くべきじゃなかった。

 分かっていた。……分かってたさ。

 痛いほどに。この胸を掻きむしってしまいたくなるほどに。そんなことは、誰よりも自分が分かっていた。それなのに。

 

「それでも、俺は君の隣にいたかった」

 

 彼女が、他の誰でもない、ウインバリアシオンとして走り続ける姿を。因縁の相手とぶつかって、いずれ打ち破っていくまでの道行きを。

 誰よりも輝く主役(プリンシパル)になる。その夢を叶えて。

 あのウイニングサークルの中で、太陽みたいに笑っているその姿を、一番近くで見ていたかった。

 

「……なんで、こんな簡単なことも、言えなかったんだろうな」

 

 それを口にしても、彼女はきっと笑わなかった。

 見つめているからこそ、何度でも熱くなった。簡単に手放せないからこそ、みっともなく足掻こうとした。

 ずっと、それを知らなかった。

 だからって、もっと早く気づいてもよかったとは、思うけれど。

 

「君は、俺の夢だったんだ」

 

 行き先のない。星も見えない夜を彷徨いながら、それでも探し続けていた答え。

 それは、ウインバリアシオン(彼女)と駆け抜けたその日々の中に、確かにあったのだ。

 

 

 

 

─────【4】─────

 

 

 もう日は沈んでいた。窓の外は暗くなっている。

 この時間になると、活気づいていたコースの方も静かになる。それはもちろん、校舎の中も同じだ。部屋の外から何も聞こえなくなることなんて、珍しくもないことだった。

 音のないトレーナー室。トレーナーさんは今、あたしの隣にいる。とても大切な話を、あたしに語り聞かせてくれていた。

 

「……ごめん。ごめんな、シオン」 

 

 それは本当に優しい物語だった。不思議と、どこかで聞いたことのあるような、懐かしい思い出話だった。

 純粋で、温かくて。胸の中に、そっと溶けていくような。

 あたしが願った。あたしが一番聞きたいと思っていた、この人の本心だった。

 

「全部、俺のワガママだったんだ。俺は、自分勝手な気持ちのためだけに、ここにいた。そうやって、君のことを傷つけた」

 

 それなのに、トレーナーさんの声だけが、悲しそうで。

 目元を伏せて、垂れた前髪がそれを隠すから、よく見えない。泣き出しそうにしているのに、涙は零れない。

 

「はじめから俺は、君のトレーナーでいる資格すら、なかったんだよ……」

 

 どうして、そうなるんだろう。

 何一つ、あたしは聞き逃したりなんてしなかった。今の話のどこに、謝るようなことがあったっていうんだろう。

 

(……あぁ、でも)

 

 あたしも、知っている気がする。

 昔、同じように泣いている女の子がいた。その子はバレエのダンサーを目指していて、舞台の上で一番輝く誰かになりたかった。

 そのために、たくさん練習をした。それでも、結局届かなくて。

 大切にしていたトウシューズを、なかなか捨てられなくて。手を離す最後まで、(うずくま)って泣き続けていた。

 "ごめんなさい"って、謝り続けていた。

 

 

 ──がんばったね(・・・・・・)シオン(・・・)

 

 

 父さんたちは、あたしを責めなかった。

 忙しい中でも、たくさん時間を作って、練習を見てくれていたのに。期待して、発表会にも来てくれていたのに。

 叱ったりもしないで、ただ、優しく頭を撫でてくれた。

 

 同じ世界を目指してくれたことが、嬉しかったんだと。

 そのために、たくさん頑張るあたしの姿が、誇りだったんだと。

 

 そう言って、抱きしめてくれた。

 そんなことを、どうして、ずっと忘れていたんだろう。

 

(きっと、この人がよく似ていたから)

 

 自分のことが見えていないところも。だから余計に傷ついて、頑張りすぎてしまうところも。それさえ自慢には思えなくて、こうして謝ってしまうところも。

 自分の努力で、救われた誰かがいるなんて、信じられなくて。

 それでも立ち止まれずに、こんな遠いところまで、走ってきてしまったんだろう。

 

 きっと、言葉だけじゃ足りないんだ。

 どうしたら、この気持ちを伝えられるんだろう。……そう考えて。

 

 

 ギュッ

 

 

 あとはもう、感情のまま立ち上がっていた。

 トレーナーさんの前に立つ。泣くのを我慢している子供みたいに、寂しそうなその頭を、精一杯に抱きしめる。

 

「……正直、変わった人だなとは思ったっすよ」

 

 それしか、思いつけなかった。

 ちょっとだけ、恥ずかしいけど。多分、今はこれが一番なんだ。ただの言葉で届かないなら、行動で示すしかないんだ。

 あたしは、そのまま言葉を続ける。

 

「まだ何の成果もないあたしのことを、ずっと見ててくれて。誰にも信じてもらえなかった夢も、すぐに受け入れてくれた。黙ってたくさんのメニューを作って、ファンクラブの人たちとも連絡を取り合って……自分を削って尽くしてくれるあなたのことが、本当はちょっとだけ、怖かった」

 

 トレーナーさんは、身を固くしている。それでも、あたしは離れなかった。

 悲しい時は、誰かに傍にいてほしい。泣きたい時は、温かく受け止めてほしい。きっと、誰だってそう思う。

 トレーナーさんは、頑固だから。何も感じない機械なんかじゃなくて、泣きたいことがあっても、限界までそれを隠して、頑張れてしまっただけなんだろうから。

 ここにはあたししかいない。あたしにしか、受け止められない。

 だから、一方的だって、抱きしめる力を強くする。

 

「でも、やっと、分かったんです。トレーナーさんは、ちゃんとトレーナーさん自身の気持ちで、あたしの傍にいてくれた。……ワガママだっていい。格好つけてたって、いいんです」

 

 自分のことを後回しにすることだけは、しないでほしいけど。

 それも含めて、今まで見てきた全部が、この人だと知っているから。

 

「それでも、あたしはあなたがいい」

「……!」

「一緒に傷ついて、ずっと支えてきてくれた。あなたとなら、あたしはこの先も、どこまでだって走っていけます」

 

 あたしは、トレーナーさんに見つけてもらえた。

 トレーナーさんは、あたしに出会って、夢を見つけられた。

 

 どっちが先でもいい。たとえ自分勝手でも、そうやってここまでやってこられたのが、あたしたちだ。

 あたしの走りは、もうずっと前から、誰かを救っていた。

 トレーナーさんが、そう教えてくれたんだ。

 

「ここまできて、今さら、イヤとは言わせないっすよ」

 

 そこで、ちょっとだけくすぐったくなって。冗談っぽく、そう誤魔化してみる。

 湿っぽくなった空気を笑い飛ばすみたいに、喉を震わせて、明るい声を出してみる。

 

(……ああ、でも。やっぱり、しんどいな)

 

 何とか、あたしも格好つけてみようとしたけど。結局、肝心なところであたしは、まだ弱くなってしまうみたいで。

 やっぱり、耐えきれなくて。

 気づけば、目の前にあったトレーナーさんの肩に、くしゃくしゃになった顔を埋めていた。

 

一緒にいて(・・・・・)辛くなかったか(・・・・・・・)、なんて」

 

「もう二度と、言わせませんから」

 

 腕が少しだけ傾く。抱きしめ返すことはしなくても、あたしのことを支えるみたいに、大きな肩が包み込んでくれる。

 相変わらず、少しだけ不器用に。それでも、しっかりお互いを受け止め合って。

 二人ぼっちの夕闇は、眠るように優しく、静かに更けていく。

 

 





【あとがき】


毎度どうも、鵜鷺りょくと申します。
第42話、いかがだったでしょうか。

これにて第5章が無事完走となりました。
まずは、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
総括すると、記憶喪失という大事件を経て、シオンと松早トレーナーが互いの原点に立ち返るまでのお話でしたね。

君は俺の夢だった。

それでも、あなたがいい。

作中にもあったシオンたちのセリフです。お互いに相手のことを思っているのに、それでも自分のことは信じられない。そんな二人が、相手に本音を告げるためのお話でもありました。
今まで積み上げてきた物語が、ここで一度清算となりましたね。

そして次回より、いよいよ最終章となります。
一つの節目を迎え、迷いを振り切ったシオンたち。二人を待ち受けるもう一つのゴールラインとは。

次回更新は7/18(土)予定です。
少し長めのお休みをいただきますが、その分最後までしっかり書き上げてまいりますので、何とぞよろしくお願いいたします。

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