夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
夜明けの二人。再会の夕暮れ。
そして、役割を終えた学園のコースには、徐々に暗闇が降りていく。
燃えるようだった茜の空を包み込みながら、穏やかな静寂が辺りを満たしていく。
僕は、コースの外側からそれを見ていた。
上へと続く階段に足をかけて、途中で遠くを振り返る。視線の先にはたった二つの人影。泣き出すようにしながら、勢いよく飛びかかったままの赤いウマ娘と、それを受け止めきれず、間抜けに尻もちをついている担当トレーナーの姿がある。
何だかまずい光景のような気もする。僕には笑い話だけど。理事長やたづなさん、学園の関係者までそうとは限らない。
もうすぐ照明も点灯して目立つだろうし、流石に、それまでには場所を変えるべきと思うのだが。
(……ま、いいか)
少し長めに息を吐く。後はもう、どうしようもなく彼らの問題だ。僕もまた、自分のやるべきことは済ませている。
まだ言い足りないこともある気がするけど。それはきっと、これからいつでも言ってやれるような些細なことなんだと思う。
「貴様が執心する割には、存外青い男だったな」
階段を昇りきったところに、オルフェーヴルが立っていた。彼女もまた、僕と同じ場所を見つめていたらしい。
ただ、語りかけたのはこちらに対してだろう。その声に応えるのは、少しだけ気を引き締める間があった。
「そう、かもしれないね。まったく、昔から変わらない同期っていうのも、なかなか面倒なものだよ」
あえて、他人事のように言ってみる。
言葉にのる感情をごまかすのは得意だ。それはいつも通りの軽口になった。ようやく調子が戻りかけているようで、少しだけ安心する。
「だが、それゆえに勝負をつけたかったのであろう?」
「……」
「どうやら、貴様についても、認識を改めねばならんようだな。……さしづめ、かつて余に担当契約を持ちかけたのも、本当の狙いはヤツであったか」
「! 違う、それは……」
けれど、彼女はそれを許さない。
僕も焦ることはあるらしい。どうしようもなく、譲れない何かを抱えてしまう相手には、そうなってしまうのだと知った。
「それは、ちゃんと僕の意思だ。あの日、僕も君の走りを見ていた。君となら高みを目指していけると、確かにそう思ったから、僕は……」
「そうか。ならばよい」
「……え?」
「よいと言った。戯れだ。恨み言の一つくらいは許せ」
その反応を予想していたように、オルフェはこちらを見ていた。
失望の言葉だと思った。でも、ほんの少しだけ目を細めていた彼女の表情は、それとは正反対にも見える。
やがて、その視線はまたコースに戻っていく。
「……表裏一体。ウマ娘とトレーナーとは、そういうものだ」
落ち着いた声が語り出す。
あまりに前触れがなくて、それを彼女が言ったという事実に、驚くのが遅れてしまっていた。
「どちらが欠けたとしても、その真価は発揮できぬ。しかし長く苦楽をともにし、信を預けるに足る者を見つけるのは、容易ではない。この余を以てしてもだ」
目を閉じる。オルフェがまた、こちらを振り向いた。薄暗い夕闇の中でも、その柔らかな表情だけは、はっきり目に焼き付いた。
「私にそれを教えたお前が、いつまでも余所見をしていてどうする」
「オルフェ……」
「友のことが心配ならそう言え。たわけが」
たとえそれが、刹那の微笑みだったとしても。
そこにはいつものオルフェがいる。尊大な口調で、僕のことを叱りつけている。でも、その内容はあんまり頭に入ってこなかった。
どころか、少しだけ笑いそうになってしまっていたのは、内緒のことだ。
「まあよい。……今宵のうちにも、ヤツらは答えを見つけるであろう」
そのうち、
ついてこいと、背中はそう言っているようだった。
「時は近い。これよりジムへ赴くゆえ、貴様も同行せよ」
足は勝手についていく。彼女はそれを確かめようともしない。
だからこそ、それこそが、何も変わらない僕らだった。
「我らもまた、次は万全にて迎えてやらなければな」
薄暗い窓の外。それとは対照的に、真っ白な電灯が照らす廊下を、自分たちは歩いていた。きっと今までに何度も見てきたはずの通り道を、一歩ずつ確かめて進むように。
そのうち、トレーナー室の前までやってくる。
いつもの癖で鍵を探そうとして、そういえば寮の部屋に置いてきてしまったことを思い出す。
後ろのシオンは先に気づいていたようだった。「あたしが開けます」と、ささやかながら心強い言葉とともに、扉は開かれる。
(……一ヶ月、か)
最後にここを訪れてから、もう随分長い時間が経っていた。
今までの遠征や出張だって、ここまで留守が続いたことはなかっただろう。何なら寮の部屋よりも、ここで過ごした時間の方が長かったかもしれない。
何だか妙に感慨深くなっていた。指先が入口脇のスイッチに触れる。
明かりが点いた。暗かった部屋の全体像が、一瞬にして、穏やかな光の中に浮かび上がっていく。
「──ん?」
「あ」
最初に目についたのは、中央のローテーブルだった。
何だかそこだけ散らかっている。テーブルの上には、数枚のクリアファイルが置かれていた。それには、やや見覚えがある。
……いや、見覚えしかない。
ヒュッと背筋が凍りつく。反対に、伏せた顔が熱くなっていく。
立ち止まっていると、すぐ後ろからは、どこか気まずそうな息づかいが聞こえた気がした。
──────────
「すす、すみませんでした!! 部屋を片付けてたら、そのっ……成り行きで、見つけちゃって……」
「あ、ああ……いや、いいんだ。そういうことなら、はは」
もちろん、全然よくはない。でも、彼女を責めるのも筋違いというものだ。本来の管理者がいなくなったこの場所を守ってくれていたのは、他ならない彼女なのだから。
身振り手振りもまじえて、必死に謝ってくれているシオンに、精一杯に取り繕った笑顔を返す。
「……そうか。見つけられちゃったか」
手前にあった一つを手に取る。透明なファイルの中に透ける文字は、思った通り。
もはや理屈も関係なく、内緒で作り上げていたシオンのための資料。少しだけ未来の、あるいは突拍子もない空想のような、祈りにも似た文字や図解の数々。
またこんなものを作って──どこかで、誰かに笑われたような気がした。
「……その。今こんなこと言うのは、どうかと思うんすけど」
「?」
「資料、嬉しかったっすよ。トレーナーさん、こんなものまで作ってくれてたんだって分かって。……だって、それは、多分」
シオンは、そう言ってくれた。辿々しい口ぶりで、誤魔化しの見えない微笑みを浮かべながら。
恥ずかしげに伏せられた、その先に続く言葉は、何となく分かるような気がした。傍から見れば意味の分からないようなこの資料も、彼女にだけは、何かを伝えてくれたようだ。
(でも、それで済ませてちゃ、いけないんだよな)
そのために、自分はここへ戻ってきたのだから。
散らばっていたクリアファイルを一箇所に集めて、トントンと向きを揃える。
それを奥の机まで運んで、自分は改めてシオンの方を振り返った。
「まずはお茶を淹れようか。話は、それからでもいいかな」
「あ……はい。それは、もちろん。──あぁ、あたしも手伝います」
「いいよ。任せて」
相変わらず律儀な担当ウマ娘を制止する。座って待っているように伝えると、シオンは少し、心配そうな顔をしていた。
「大丈夫。もう、全部思い出せるから」
そうして、迷いのない足取りで、戸棚の方まで移動する。
きっと、些細なことではあるんだろう。
だからこそ、これも一つの証明になる。
まずは市販のティーバッグ。密閉された外箱を開けると、思っていた通り、中身はやや少なかった。落ち着いたら、また買い出しにもいかないといけない。
次に、食器のスペースに手をつける。自分とシオン、それぞれの色がついた、似通った形のマグカップ。もちろん、今さら取り違えたりもしない。
最後に、サイドテーブルの電気ケトルで湯を沸かす。シオンの元へ帰ってきたのは、それから数分後のことだった。
「お待たせ」
「ありがとうございます」
ローテーブルの上に、二つ。湯気の立ったマグカップを並べる。
少し、迷ったけれど。そこで、ソファの端っこに座っていたシオンと目が合った。一拍おいて、同じソファの反対側に座る。
隣り合わせで、一緒にマグカップを手に取った。とても自然な流れで、緊張の一瞬がやってくる。
「……」
いくら強がっても、記憶はまだ戻ったばかりだ。
それだけで、本当に、自分は彼女の知る自分だと言えるだろうか。彼女が思い描いていた誰かに、戻ることができたのだろうか。
下らない気もするけれど。
不安に感じているのは、きっとこちらだけではないのだろうから。
「──トレーナーさん」
そっと、マグカップに口をつける。ほぅと短い息を吐いた後、シオンはそれをテーブルの上に置き直す。
そうして、こちらを振り返る。
重ねられた視線の先には、とても優しい微笑みが待っていた。
「おかえりなさい」
「……ああ。ただいま」
ずっと喉につかえていたそれが、ようやく言葉になる。
それは本番の前の、軽い儀式のようなものではあったけれど。
そのたった少しのやり取りの中で、もっとたくさんの何かを、自分たちは交わせたのだと思う。
本題に入る前に、シオンから少しだけ、今日あったことを聞いてみることにした。
それは主に、先ほどの模擬レースより前のこと。外出した帰りに自分と別れてから、彼女はこのトレーナー室に戻ってきた。そこに
大方の話は、そちらから聞いたのだそうだ。
いつもなら、プライバシーへの配慮が何だと、色々文句を言いたくなったところだろう。だが、今回ばかりは例外だ。
コースにいたあいつは、シオンと話している間にも、どこかへ行ってしまったみたいだったが。不覚にも、世話をかけたのは事実だ。
いずれ、ちゃんと礼は言っておこうと思う。
「そう、だな。もしかしたら、同じ事をもう一回話してしまうことになるかもしれないけど」
話す内容を頭で整理しつつ、途中の沈黙を埋めるように、そう前置きをする。
「あたしは、それでもいいっすよ」
「……」
「トレーナーさんの言葉で、ちゃんと聞きたいっすから」
キュッと、隣の手が袖をつまむ。こちらを見つめるシオンの表情は、心から切実なものに見えていた。
一度、深呼吸をして、考えを落ち着ける。
「──昔、何にも持てない自分のことが、嫌だったんだ」
語り始めたのは、不自然に長い空白の後だった。
「俺は、自分のことが分からない子供だった。周りにいる同い年の子たちは、みんな眩しい夢を持っていたのに。それが羨ましくて、苦しくて。どうして自分はああなれないんだって、ずっとそう思ってた」
最初の話題は、幼少の頃のことだ。
やはり、繰り返しになってしまうところはあるのだろうが。きっと、この部分だけはあいつも詳しく話せなかったんじゃないかと、何となく、そう思った。
「でも、おかしなもんだな。そういう人たちの近くまで行ってみると、悔しい気持ちが薄れていくことがあった。マンガ家になりたい子と一緒に絵を描いて、プロサッカー選手になりたい子の自主練に付き合って。そういう時間だけは、何だか嫌いになれなかった」
彼女には、できれば聞かせたくない類の話ではあったけれど。
カップに残っていたお茶を、一気に飲み干す。その間も、シオンは黙って耳を傾けてくれていた。
その先を話すのは、もう少しばかり、溜めが必要だった。
「それがどうしてだったのか。分かったのは、この学園に来てからのことだった。……君と出会って、俺は初めて、その理由を知ったんだ」
結局、そうやって寄り添っていても、自分が何かを得られるわけじゃないのに。それでも、心のどこかでは嬉しくも感じていた。
トレーナーになれば、それも何となく分かっていくのかと期待していた。そしてそれは、思っていたよりもずっと鮮明な形で、実感させられることになった。
「あの日、俺は君の走りに夢中になった。ライバルへの執着も、その向こう側にある夢の輝きも。たくさんの気持ちを込めた一生懸命な姿に、心の底から憧れた。それを支えたいって、そう思った」
「トレーナーさん……」
「……だから、君のトレーナーになれてよかったって。俺は、本当にそう思ってるんだよ」
話していると、つい呼吸を忘れそうになる。シオンの呼びかけがあって、自分は何とか、それに笑い返すことができた。
どうしても必要だった言葉は、そこで伝えられたのだと思う。
「誰かの力になれること。その夢や目標が叶ってほしいって、そう願っていられること。俺は多分、それだけでよかったんだ。……格好つけすぎかもしれないけど。それに気付けただけでも、ここまで来られた意味はあったんだと思う」
そう、十分だった。きっとその時点で、もう自分は一つのゴールラインを越えていた。
トレーナーとしての一歩目を踏み出した瞬間に、ずっと抱えてきた空っぽな気持ちは、満たされかけていた。
「気付けたのは、シオンのおかげだ。いつだったか、君は俺に見つけてもらえたんだって言ってくれたけど。……あの日、君と出会って救われたのは、俺の方だったんだよ」
もう一つ、伝えたかったことを口にする。シオンの表情が解けて、抑えていたんだろう微笑みが顔を出し始める。
ここで終わってもいいんじゃないか。彼女を見て、一瞬そう思いかけたくらいだった。
(……でも、問題はその先にある)
まだ、立ち止まるわけにはいかなかった。
シオンと出会って、自分は確かに前に進んだ。でも、それだけでは足りなかった。
幼い頃、曲がりなりにもトレーナーという目標を得るために、あのレースが必要だったように。目指す何かがなければ、自分はきっと、シオンとの新しい一歩を踏み出せなかったはずだ。
そしてそれは、きっと気づかないうちに、胸の内に芽生えていた。
「君に返したいものが、たくさんあった」
「それでも、結局。俺は、ちゃんと君を支えてあげられなかった」
憎しみ、それでも焦がれてきたのだろう、ライバルに。
オルフェーヴルに打ち勝つという目標さえ、一度も叶えてあげられなかった。
何も出来ない自分の無力さが、また嫌になった。
「君の力になれないなら、俺はここにいちゃいけない。もしかしたら、俺じゃない他のトレーナーだったら、もっと上手くできたのかもしれない。……あの時俺は、間に合うべきじゃ、なかったのかもしれない」
未熟だったあの資料は。自分なりの精一杯の思いを綴った
分かっていた。……分かってたさ。
痛いほどに。この胸を掻きむしってしまいたくなるほどに。そんなことは、誰よりも自分が分かっていた。それなのに。
「それでも、俺は君の隣にいたかった」
彼女が、他の誰でもない、ウインバリアシオンとして走り続ける姿を。因縁の相手とぶつかって、いずれ打ち破っていくまでの道行きを。
誰よりも輝く
あのウイニングサークルの中で、太陽みたいに笑っているその姿を、一番近くで見ていたかった。
「……なんで、こんな簡単なことも、言えなかったんだろうな」
それを口にしても、彼女はきっと笑わなかった。
見つめているからこそ、何度でも熱くなった。簡単に手放せないからこそ、みっともなく足掻こうとした。
ずっと、それを知らなかった。
だからって、もっと早く気づいてもよかったとは、思うけれど。
「君は、俺の夢だったんだ」
行き先のない。星も見えない夜を彷徨いながら、それでも探し続けていた答え。
それは、
もう日は沈んでいた。窓の外は暗くなっている。
この時間になると、活気づいていたコースの方も静かになる。それはもちろん、校舎の中も同じだ。部屋の外から何も聞こえなくなることなんて、珍しくもないことだった。
音のないトレーナー室。トレーナーさんは今、あたしの隣にいる。とても大切な話を、あたしに語り聞かせてくれていた。
「……ごめん。ごめんな、シオン」
それは本当に優しい物語だった。不思議と、どこかで聞いたことのあるような、懐かしい思い出話だった。
純粋で、温かくて。胸の中に、そっと溶けていくような。
あたしが願った。あたしが一番聞きたいと思っていた、この人の本心だった。
「全部、俺のワガママだったんだ。俺は、自分勝手な気持ちのためだけに、ここにいた。そうやって、君のことを傷つけた」
それなのに、トレーナーさんの声だけが、悲しそうで。
目元を伏せて、垂れた前髪がそれを隠すから、よく見えない。泣き出しそうにしているのに、涙は零れない。
「はじめから俺は、君のトレーナーでいる資格すら、なかったんだよ……」
どうして、そうなるんだろう。
何一つ、あたしは聞き逃したりなんてしなかった。今の話のどこに、謝るようなことがあったっていうんだろう。
(……あぁ、でも)
あたしも、知っている気がする。
昔、同じように泣いている女の子がいた。その子はバレエのダンサーを目指していて、舞台の上で一番輝く誰かになりたかった。
そのために、たくさん練習をした。それでも、結局届かなくて。
大切にしていたトウシューズを、なかなか捨てられなくて。手を離す最後まで、
"ごめんなさい"って、謝り続けていた。
──
父さんたちは、あたしを責めなかった。
忙しい中でも、たくさん時間を作って、練習を見てくれていたのに。期待して、発表会にも来てくれていたのに。
叱ったりもしないで、ただ、優しく頭を撫でてくれた。
同じ世界を目指してくれたことが、嬉しかったんだと。
そのために、たくさん頑張るあたしの姿が、誇りだったんだと。
そう言って、抱きしめてくれた。
そんなことを、どうして、ずっと忘れていたんだろう。
(きっと、この人がよく似ていたから)
自分のことが見えていないところも。だから余計に傷ついて、頑張りすぎてしまうところも。それさえ自慢には思えなくて、こうして謝ってしまうところも。
自分の努力で、救われた誰かがいるなんて、信じられなくて。
それでも立ち止まれずに、こんな遠いところまで、走ってきてしまったんだろう。
きっと、言葉だけじゃ足りないんだ。
どうしたら、この気持ちを伝えられるんだろう。……そう考えて。
ギュッ
あとはもう、感情のまま立ち上がっていた。
トレーナーさんの前に立つ。泣くのを我慢している子供みたいに、寂しそうなその頭を、精一杯に抱きしめる。
「……正直、変わった人だなとは思ったっすよ」
それしか、思いつけなかった。
ちょっとだけ、恥ずかしいけど。多分、今はこれが一番なんだ。ただの言葉で届かないなら、行動で示すしかないんだ。
あたしは、そのまま言葉を続ける。
「まだ何の成果もないあたしのことを、ずっと見ててくれて。誰にも信じてもらえなかった夢も、すぐに受け入れてくれた。黙ってたくさんのメニューを作って、ファンクラブの人たちとも連絡を取り合って……自分を削って尽くしてくれるあなたのことが、本当はちょっとだけ、怖かった」
トレーナーさんは、身を固くしている。それでも、あたしは離れなかった。
悲しい時は、誰かに傍にいてほしい。泣きたい時は、温かく受け止めてほしい。きっと、誰だってそう思う。
トレーナーさんは、頑固だから。何も感じない機械なんかじゃなくて、泣きたいことがあっても、限界までそれを隠して、頑張れてしまっただけなんだろうから。
ここにはあたししかいない。あたしにしか、受け止められない。
だから、一方的だって、抱きしめる力を強くする。
「でも、やっと、分かったんです。トレーナーさんは、ちゃんとトレーナーさん自身の気持ちで、あたしの傍にいてくれた。……ワガママだっていい。格好つけてたって、いいんです」
自分のことを後回しにすることだけは、しないでほしいけど。
それも含めて、今まで見てきた全部が、この人だと知っているから。
「それでも、あたしはあなたがいい」
「……!」
「一緒に傷ついて、ずっと支えてきてくれた。あなたとなら、あたしはこの先も、どこまでだって走っていけます」
あたしは、トレーナーさんに見つけてもらえた。
トレーナーさんは、あたしに出会って、夢を見つけられた。
どっちが先でもいい。たとえ自分勝手でも、そうやってここまでやってこられたのが、あたしたちだ。
あたしの走りは、もうずっと前から、誰かを救っていた。
トレーナーさんが、そう教えてくれたんだ。
「ここまできて、今さら、イヤとは言わせないっすよ」
そこで、ちょっとだけくすぐったくなって。冗談っぽく、そう誤魔化してみる。
湿っぽくなった空気を笑い飛ばすみたいに、喉を震わせて、明るい声を出してみる。
(……ああ、でも。やっぱり、しんどいな)
何とか、あたしも格好つけてみようとしたけど。結局、肝心なところであたしは、まだ弱くなってしまうみたいで。
やっぱり、耐えきれなくて。
気づけば、目の前にあったトレーナーさんの肩に、くしゃくしゃになった顔を埋めていた。
「
「もう二度と、言わせませんから」
腕が少しだけ傾く。抱きしめ返すことはしなくても、あたしのことを支えるみたいに、大きな肩が包み込んでくれる。
相変わらず、少しだけ不器用に。それでも、しっかりお互いを受け止め合って。
二人ぼっちの夕闇は、眠るように優しく、静かに更けていく。
【あとがき】
毎度どうも、鵜鷺りょくと申します。
第42話、いかがだったでしょうか。
これにて第5章が無事完走となりました。
まずは、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
総括すると、記憶喪失という大事件を経て、シオンと松早トレーナーが互いの原点に立ち返るまでのお話でしたね。
君は俺の夢だった。
それでも、あなたがいい。
作中にもあったシオンたちのセリフです。お互いに相手のことを思っているのに、それでも自分のことは信じられない。そんな二人が、相手に本音を告げるためのお話でもありました。
今まで積み上げてきた物語が、ここで一度清算となりましたね。
そして次回より、いよいよ最終章となります。
一つの節目を迎え、迷いを振り切ったシオンたち。二人を待ち受けるもう一つのゴールラインとは。
次回更新は7/18(土)予定です。
少し長めのお休みをいただきますが、その分最後までしっかり書き上げてまいりますので、何とぞよろしくお願いいたします。