夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─   作:鵜鷺りょく

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それは、雨上がりの虹のような。




第六章(最終章)
【Preparation】恵み雨 「シオンとトレーナーの再スタートのお話」


 

─────【1】─────

 

 

 予定していた委員会の集まりが延期になった。

 放課後。わざわざ教室まで来てくれた同じ委員会の子から、そんな知らせを聞いた。担当の先生が急用で来られなくなったんだそうだ。

 ホームルームが終わって、ちょうど移動をしようとしていたところだったから、少なからずびっくりする。

 振り返ると、教室の中はまだまだ賑やかだった。戻ってクラスの子たちと話していこうかと思ったけど、すぐに考えを改める。

 

(一時間くらい早くなっちゃうけど……いいよね?)

 

 怒られることなんて、ないだろうし。

 気を取り直して、あたしは進路をトレーナー室の方角へと向けた。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 トレーナーさんが退院してから、数日が経った。

 先月、ある事故でトレーナーさんが大怪我をした。命に別状はなかったけど、そこに記憶の障害も重なって、そっちの方は治る見込みも立たないくらいに酷かった。

 この学園で過ごした時間も、あたしのことも分からなくなっていたくらいで。しばらくは気の休まらない時間が続いた。

 カレンダーの上で言えば、たった一ヶ月と少しのこと。だけど、あたしたちにとっては長くて苦しい、本当に、終わりの見えないような毎日だったと思う。

 

(……でも、ちゃんと戻ってきたんだ)

 

 ほんの少し前のことを想うだけで。時々頬をつねっては、これが現実なんだと確かめたくなる。

 オルフェさんや天池さん。色んな人たちに支えられながら、あたしたちは、やっと今までに積み重ねたものを取り戻すことができた。

 トレーナーさんがトレーナー室にいて、トレーニングの時間になったら、二人で一緒に外へ出て行く。

 そんな当たり前の日常が、今は心の底から待ち遠しくて。

 少しでもたくさん、それに浸っていたいと思うのは、きっと自然な気持ちなんだろう。

 

 

 ──君は、俺の夢だったんだ。

 

 

「……えへへ」

 

 思い出すと、ついニヤけてしまう。ほとんど無意識のうちに、人目のある廊下の途中とかでも、お構いなしにそうなる。

 顔がぽっと温かくなって、跳ねるつま先の勢いのまま、身体を一回転させる。

 嬉しい時のピルエット。バレエを習っていた時に染みついてしまった動きで、あたしにとっては、昔からの癖みたいなものだった。

 

「──」

 

 ひと続きの動きを終えた後は、いつもちょっとだけ恥ずかしい。周りをキョロキョロしてしまって、誰も居ないことに安心する。これもいつものことだ。

 それだけ、あたしは大切なものをもらった。

 真っ直ぐで、重みがあって、温かい。何より、ここまで一緒にやってきたあたしたちが間違いじゃなかったと、そう教えてくれる魔法みたいな言葉だ。

 

 ウインバリアシオン(あたし)を走らせる、あの人の強い想いだ。

 

 今はその不器用さを知っている。似たもの同士の傷跡を抱えてきたことも。だからこそ、この先も一緒に走って行けるんだってことも。

 信じられるものがあるから、振り返らずに、進んでいける。

 

 コンコン

 

 少し歩いて、トレーナー室の前に辿り着く。

 どこか軽快なノックの音は、まるで今のあたしそのものみたいで。何となく浮ついているのは、もう少しの間だけ許してほしい。

 その一方で、扉の向こうからの返事はなかった。

 

(留守、かな……?)

 

 電気は点いている。試しに取っ手に指を引っかけると、引き扉は簡単に開いた。

 本当に留守だとしたら不用心だけど。よく仕事に没頭してしまう人だし、単に忙しいだけなのかもしれない。

 様子を見るために、あたしは隙間からそっと中を覗き込む。

 

「──え」

 

 次の瞬間には、反射的に扉を押しのけていた。

 一部だけを切り取って見えていた景色は、それでも見間違いじゃなかったと知る。

 

 部屋の中には、男の人と女の人が二人きり。

 

 二人は室内の真ん中あたりに立っていて。ちょうど、女の人の両手が男の人に向けて伸ばされているところだった。

 

「! ば、バリちゃん……!? もう来ちゃったの!?」

 

 そこで聞き覚えのある声がした。女の人は、あたしの知っている人だった。

 URA職員の笹田(ささだ)さん。デビュー戦からあたしを応援してくれているファンの人で、プライベートでも交流のある友人だ。このトレーナー室にも、以前はよく遊びに来てくれていた。

 最近は長期の出張でしばらく遠くに行っていたらしくて、あたしも、あんまり会えていなかったけど。

 

 

 ──ギリィ

 

 

 そんな人が、今、トレーナーさんと真正面から向かい合っている。

 ……いや、ちょっとだけ、訂正。

 笹田さんの、斜め上に向かって伸ばされている腕の先に、すっかり変わり果てたトレーナーさんの姿がある。

 

「ぐ……ぁ……」

 

 服の襟元をグッと鷲掴みにして、間接的に首を締め上げるように。

 笹田さんに持ち上げられたトレーナーさんのつま先は、明らかに地面から数センチ浮いていた。

 

「な、なにやってるんすか!?」

 

 その様子は、まるで凄惨な事件現場。何でそうなったかなんて、あたしには何も分からない。

 ただ、すっかり青ざめているトレーナーさんの顔を見て、あたしは思わず悲鳴を上げていた。

 

 

 

 

─────【2】─────

 

 

 ──────────

 

 

「……ちょっと。話が違うじゃないのよ」

 

 そして、何も知らないシオンが去った後のトレーナー室。そこには元通り、自分と笹田さんの二人だけが残されていた。

 彼女が去ったと言っても、別に逃げていったわけじゃない。いや、こちらとしては、それでもよかったのだが。

 締め上げられて、宙に浮かんでいた自分を放っておくことなく、シオンはまず一目散に駆け寄ってきてくれた。笹田さんもそこで手を離して、一旦は解放されたから、自分はこうして話ができている。

 

「あの子はまだ来ないって、あんたがそう言うから、こうやってしばきに来てやったってのに」

「すみません……ごほっ……今日は、委員会の仕事があると聞いていたので。もう少し、後になると思ってたんですが……」

 

 喉がつかえるようで、まだ微妙に話しづらい。酸素の不足を訴えるように、頭は少しボーッとしていた。

 ……まあ、この人を呼びつけたのだって、ほとんど自分なのだが。

 こうなったのには、少しばかり複雑な経緯というものがある。少し気持ちに整理をつけたくて、この人のこういう容赦のないところを頼らせてもらおうと考えた。そうして、現状へと至っている。

 

 

『何か、あったんすか……?』

 

 

 それでも、シオンに見られてしまったのは、全くの想定外だった。

 すぐに笹田さんに詰め寄るのではなく、彼女と自分を交互に見つめながら、不安げにそう尋ねていた。彼女が理由もなくそんなことをする人ではないと、シオンも信じていたのだろう。

 自分の考えのせいで二人の関係が悪くなる。そういう展開だけは、何とか避けられたようだった。

 

「ま、恨まれる覚悟くらいはしてたけど。元気そうで安心したわ。……ちょっと前まで、何にも覚えてないトレーナーの世話をしていたとは、思えないくらいね」

 

 本当にそう思う。シオンがいつも通りでいてくれることは、自分にとっても救いだった。

 色々と回り道をして、情けないところを見せて、傷つけて。

 それでも、彼女は変わらない。ひたむきで優しい、頼りになる担当ウマ娘のままだ。

 

「あらためて、今日はお呼びだてしてすみませんでした。出張からは、まだ帰ってきたばかりだったんでしょう」

「私の方から勝手に来たの。色々あったとはいえ、これでも遅すぎるくらいでしょ」

 

 不機嫌そうに答える。それもこの人なりの優しさなのだと、今なら少しは分かる。

 ここ最近であったことは、笹田さんにも大体話していた。

 彼女の方も、近況についてはシオンから度々聞いていたそうだけど。だからといって、それだけで全部を把握できたわけじゃなかっただろう。きっと、意図的に伝えられていなかったところもあったはずだ。

 

「……前々から、なーんか心配なとこはあったのよね」

 

 自分からそれを伝えれば、こうして来てくれると思った。

 不甲斐ないトレーナーのことを叱りつけるために。古くからのファンとして、シオンのことを大事に思う彼女だからこそ。

 

「私も、もっと小突いとくべきだったわ。"自分にトレーナーの資格がない"とか、本気でそんなことを考えてたなんてね」

「……」

「私は容赦しないわよ。お望み通り、手厳しいことも言わせてもらう」

 

 それが、今は本当に助かっている。

 

「自分の夢がないだとか、周りのトレーナーより劣ってるだとか。あんたが抱えてきた問題なんて、本来、あの子には何の関係もないの」

 

 自分だけでは、どうにも手が届かない気がしていた。まるで忘れ物をした時のような、違和感のような何かが、まだ自分の心にへばりついている。

 それは余計なものだ。ちゃんと整理して、片付けておくべきものだ。これから、彼女ともう一度、歩き出していくために。

 

「今回みたいなケースは、レア中のレアよ。ただ運良く、あの子が受け入れてくれたってだけ。ウマ娘の支えでいなきゃいけないトレーナーが迷うことなんて、あっちゃならないんだから」

 

 ただ、厳格なURA職員としての、彼女の言葉が必要だった。

 そこまで口にすると、笹田さんは大きく溜め息を吐く。

 

「気づいてなかったのは、多分、あんただけよ」

「?」

「少なくとも、私は見てきたつもり。バリちゃんがどれだけあんたを慕ってたか。あんたと進んでいく中で、どれだけの信頼を預けてたか。……多少(いびつ)なところはあっても、あんたなりに、あの子の不安に精一杯寄り添ってきたこともね」

 

 刺々しい口ぶりは変わらない。けれど、紡がれる言葉の雰囲気が、少しずつ変わっていく。

 笹田さんの目は、何かを見透かしているように、固く構えられていた。

 

「バリちゃんのために、あんたは力を尽くしてきた。たとえ明確な成果はなかったとしても、その度にあの子は、あんたに"ありがとう"と伝えてくれたはずよ」

「……」

 

 意外な角度から、殴り返されたみたいだった。不意打ちのようなその言葉は、今までシオンと歩んできた記憶のいくつかを呼び起こしていく。

 

(ありがとう、か)

 

 そんなことは、もう数えられないくらいにあったと思う。

 彼女の律儀な性格からきているものだと、それくらいにしか思えていなかったけど。それでも、自分は、確かに。

 

「あんたは、ただそれだけのことを誇って、あの子の隣で笑っていればよかったの」

 

 その言葉は、なかなか反則じみていた。

 

 

 ──それでも、あたしはあなたがいい。

 

 

 なるべく考えないようにしていた。たった数日前の出来事のことまで思い出してきて、少しだけ、目の奥がツンとする。

 そうやって、改めて気づかされた。

 どうしようもなく、もうここにはない過去に怯えて。自分は今まで、とても遠回りをしてしまっていたのだ。

 

「……ありがとう、ございます」

「あーうっさいうっさい。散々しばかれた相手にお礼なんて言って、あの子に聞かれたらまた誤解されるわよ」

「え?」

「あんた、色々吹っ切れたら、ウソが下手になったわね」

 

 シンプルに不思議そうに、笹田さんが尋ねてくる。

 また? ……そう言われて、おそらくさっきのシオンとのやり取りのことだろうと、徐々に気づいていく。

 

 

 

 

『何か、あったんすか……?』

『あ、や、違うのよ? ……いや、そうとも言い切れないところはあるけど。聞いてバリちゃん、これには深いわけが』

 

 目の前でトレーナーが締め上げられていたというその状況。事情も分からずに困惑するシオンに対して、さしもの笹田さんも上手い言い訳が見つからないみたいだった。

 そこで、確か自分が口を挟んだのだ。

 

『俺が、お願いしたんだ』

 

 あの時はもう地面に下ろしてもらっていたけど、酸欠のせいか、頭がよく回っていなかったようにも思える。

 

『お願い、っすか? ……え。それって、さっきみたいに、乱暴されるの(・・・・・・)を?』

『うん。……ごめん。もう少しだけ、笹田さんと大切な話があるんだ。シオンは、先に準備して待っててくれるかな』

『……』

 

 

 

 

 それきり、彼女は黙り込んでいた。少しすると、言った通りに部屋を出て行ってはくれたけど。

 何だか微妙な顔をしていて、瞳の色には、やや影が差していたように思える。

 

「──」

 

 少し、血の気が引く。誤解を招きかねないやり取りだったと、今さら気が付いてしまった。

 

「あれ、下手したら私の趣味まで疑われかねないんだけど」

「……すみません」

 

 心底呆れた様子で、笹田さんがまた溜め息を吐く。

 

「ったく……あんたがそんな調子じゃ、こっちの計画も狂うっての」

「? 何か言いましたか」

「何でもない。ほら、あんたもさっさと準備しな。バリちゃんが待ってんでしょ」

 

 それから、バシッと背中を叩かれる。内臓が飛び出そうなほどの力加減だった。

 そして、笹田さんはそのままトレーナー室を出ていった。

 

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 

「……はぁ」

 

 トレーナー室の扉を閉める。と同時に、私はまた頭を抱える。

 一応、自分から来ておいて何だけど。やっぱり、何かと気の重い時間だったように思えた。

 

 バリちゃんからは、事前に色々聞いていた。

 彼女が話さなかったことは、改めて松早(あいつ)から聞いた。

 

 だから、私はそれなりに色々なことを知っていた。長く傍を離れている間に、あの子たちに何があったのか。苦しいレースが続いていたことも、その途中にあったケガのことも、味わった挫折も。

 結局は全部、よくある話だ。この世界では特に。そうやって夢を諦めていくウマ娘たちを、今までたくさん見てきた。そういうところはどうしようもなく、私もURAという大きな組織の中の人間なのだ。

 あいつはそれに向き合った。私は、何もできなかった。

 それだけのことだ。……だから、せめて憎まれ役くらいは買うつもりで、ここにやってきたわけだけど。

 

(……それも、上手くできたかどうか)

 

 ああいう役目は得意だ。私は言うべきことには迷わないタイプだから。……でも、ちょっとは疲れる。

 深呼吸をする。ぐいっと、身体を上に伸ばす。

 まあいいかと、やっと思考を切り替える。どうあれ、あの子たちはもう大丈夫そうだ。こっちが勝手に悩んでいたって、これ以上できることは何もない。

 この後は戻ってまた仕事だ。出張までして慎重に進めていた例のプロジェクトも、やることはまだ山ほど残っている。

 考えるだけでも、気が滅入ってきそうだけど。

 

「私にできること、か」

 

 それでも、自分なりのちょっとした思惑があれば、忙しいのも案外悪くない。

 今はまだ、秘密でいい。こんなのは、きっと成り行きに任せてしまうことだ。あの子たちがこの先どうなるかなんて、そんなの分からない。

 私はこれからも、ただそれを見守っていけばいい。

 

(……いつか、話せるといいわね)

 

 私が惚れ込んだ。私にとっての、物語の主役に。

 頑張り屋の赤いウマ娘と、小憎たらしい担当トレーナーの、未来(これから)について。

 

 

 

 

─────【3】─────

 

 

「──ごめん。遅くなった」

 

 今日のトレーニングの支度を終えて、建物から出てくる。そこに、いつものジャージを着たシオンが立っていた。

 

「……お疲れ様です」

「あ……やっぱり、怒ってる?」

「そういうわけじゃないっすけど」

 

 判断に迷う。彼女がそう言うならそうなのかもしれない。けれど、キュッと逆三角に結ばれた唇からは、少しご機嫌斜めなのも伝わってくる。

 納得できないことがあるのは、間違いなくそうなのだろう。やっぱり少し、説明をしておく必要がありそうだった。

 

「ちょっと、遠回りして行こうか。時間もあるし」

 

 今日使うコースは、直前まで別の予約が入っていたはずだ。あんまり早く行って、後片付けの場に遭遇するのも気まずい。

 反対側の道へと促すと、シオンも素直についてきてくれた。

 

「笹田さんには、怒られましたか?」

「そうだな。……やっぱり、気づいてたんだ」

「そんな感じかなって、ついさっき納得したんすよ。トレーナーさんが変なこと言うから、最初はびっくりしたっすけど」

「はは……」

 

 思慮深い子で助かった、というべきなのかもしれない。

 笹田さんが決してそういう趣味趣向じゃないことも、わざわざフォローしておくまでもなさそうだった。

 

「全部、話したんすね」

「……ああ」

 

 だからこそ、気づかれてしまったこともあるのだろうけど。

 しばらく歩くと、広場の辺りまでやってくる。噴水は穏やかな音を立てるばかりで、いつかとは違って、そこは至って平穏な午後の景色だった。

 不意に、足を止める。宙を舞う水流が美しいアーチを描くまでは、まだもう少しあるのだろう。

 

「何も伝えてなくて、ごめん。でも、こればっかりはちゃんとけじめをつけておきたかったから。どんな事情があるにせよ、俺が何もかもを忘れて、君を傷つけてしまったのは事実だ」

「……」

「自己満足でも、その罰は必要だと思った。ここから、もう一度やり直していくために」

 

 話しながら、肩にさげていた鞄を探る。やがて、中から一枚のクリアファイルを取り出して、シオンに手渡した。

 

「あ、新しいメニューっすね……うっ。これは、また」

「その通り。今のシオンに合わせて、作り直してみたんだ」

 

 自分にとっては一ヶ月ほどの完全なブランクだった。再スタートの一歩目は慎重にと、退院してからの数日は、まず今のシオンの状態を見ることにした。

 問題がないのは、すぐに分かった。自分がいない間も、シオンは一人で練習を続けてくれていたのだそうだ。ひとえにその成果と言えるだろう。

 先月の天皇賞への出走も、レース勘を鈍らせない効果に繋がっていると思う。大変な事態の中で、それでもシオンは自分が戻ってくることを信じて、一人でも準備をしてくれていたのだ。

 

「……トレーナーさんって、やっぱり結構スパルタっすよね。いや、次のレースも近いし、これくらいの目標が必要なのは分かるっすけど」

 

 ならば、自分もちゃんと応えないといけない。そうして気持ちも新たに、自分でも厳しめに思えるくらいの数値を設定して、メニューを組んでみたのだけど。

 シオンの反応は、何となく予想していた通りだった。逆に言えば、辛抱強い彼女でもそうなってしまうくらいのレベル、だと言っていいだろう。

 

「今のあたしに、できると思いますか?」

「もちろん。大変だとは思ってるけど。シオンならできるって、俺は信じてるから」

「……そう言われると、受け取るしかなくなっちゃいますね」

 

 ふっと表情が解ける。そっと抱きしめられた資料の端が、そよ風に揺れていた。

 懐かしい感じがした。初めて出会った日の彼女も、今と同じような顔をしていただろうか。

 

「でも、思ったことは、何でも言ってくれ」

「?」

「メニューのことも、トレーニングのことも。君自身のことも。どんなに小さなことでも、一緒に背負わせてほしいから」

 

 前にも、同じようなことを言ったかもしれない。

 けれど、一度離れてしまった今こそ、それはもう一度必要な宣言だと思った。

 

「俺も、ちゃんと変わっていくよ。これからも、シオンのトレーナーで在り続けるために」

「……」

 

 情けないところもあるだろう。力が及ばないこともあるだろう。

 そういうのは多分、すぐには変われない。悩んで苦しんで、一つずつ受け入れていくしかない。

 

 ……それでも、きっともう大丈夫だ。

 

 今ここにいる自分を。この世界を目指して走ってきた、かつての自分自身を。他でもない、シオンが受け入れてくれた。

 最初から、それだけでよかったんだ。

 

「それ、トレーナーさんもっすよ」

「え?」

「あたしだって、同じ気持ちですから。……それでお互いに一方通行とか、もう嫌なんで」

 

 照れ隠しをするみたいに、シオンが笑う。

 ずっと、たくさんの苦難を超えてきた。その光景はまるで、長い雨が上がった後の鮮やかな虹のように。しっかりと目に焼き付いて、離れそうにない。

 

(……まだ、時間はあるな) 

 

 もう少しだけ、広場で寄り道をしていくことにする。

 まずは二人でベンチに腰を下ろした。水のせせらぎが心地よく、明るい昼間の陽気が包み込む。

 そこに出来たての資料を広げて。自分たちは久しぶりに、とても穏やかで長い話をした。

 

 





【あとがき】


お久しぶりです。鵜鷺りょくと申します。
第43話、いかがだったでしょうか。

今回より第六章が開幕です。
シオンたちの始まりの物語を描いてきた本シリーズも、ついに最終章となりました。

前章での再会を通して、再スタートを切ったシオンたち。URA職員の笹田さんは第四章ぶりの登場になりますが、覚えていらっしゃいましたでしょうか。
シオンが前を向き、松早トレーナーの禊も済んだ。そんな回だったと思います。

【Preparation】と題して、次のレースの準備期間にあたるお話は次週も続きます。
この物語の終幕を支えるお話として、楽しんでいただければ幸いに思います。


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