夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
晴れた空に、雫が光る。
傘はまだ、開いたままで。
聞き慣れたメロディが鳴り始める。タンタンと、床を叩くシューズの音が後に続いた。
そこは学園内の一画。ダンスレッスンの授業でお馴染みのスタジオだ。放課後は解放されていて、ちゃんと申請すれば、生徒たちが自主練に使用することもできる。
「おっし、そこで連続ターン! 前出て~、最後にびしーっと──ウェイウェ~~~~イッ!!」
「こ、こうっすか? う、うぇーい……」
隣で踊るヘリオスさんの真似をして、ぎこちないステップを踏む。彼女の動きはとても思い切りが良くて、ついていくのでやっとだった。
身体だけを動かして、最後のポーズを作る。……掛け声までは、上手くいかなかった。
「……あの、すみません。これ、ちょっとやり過ぎなんじゃ」
「はは。表情硬いよー、シオン」
「思いきったアレンジだね。何だか新鮮だなぁ」
「やっぱり違和感あるんすよね!?」
お腹を抱えて可笑しそうなパーマーさんと、ただ純粋に感想をこぼすミラクルさん。
離れたところで見ていた二人の反応は、何だかちょっとずれていた。
「なっはは、こーいうのは派手なんがいーんだって! もっかいやってくべ、シオちん!」
「そ、そういうもんすか……?」
当のヘリオスさんは、まだまだ元気でノリノリだった。
疲れの見えないその明るさは不思議なもので。向かい合っていると、もう少し続ければ何かが見えるのかもとか、そういう予感も湧いてきてしまう。
「そーそ! じゃあ次はー……あっ、そだ! こういうの入れてみるのもよくね!? マジヤバな気すんだけど!」
「え、ここから……わわっ、ち、ちょっとまってください!」
だけど、その動きは変幻自在。その場のテンションで思い浮かんだらしい新しい動きも、目の前でどんどん取り入れられていく。
(こ、これは流石に……)
目まぐるしくて、何だか頭がクラクラしてくる。
結局ヘリオスさんくらいしかこなせないアレンジなんじゃないか。そう気づいたのは、もうしばらく練習を続けた後のことだった。
──────────
次のレースが決まって、それに向けた本格的なトレーニングも始まってきた頃。忙しい日常の一方で、あたしは当日のウイニングライブに向けた練習も進めていた。
そして、今日からは、クラスメートのパーマーさんたちにも手伝ってもらうことになっている。
さっきまで受けていたヘリオスさんのレクチャーは、ライブをもっと盛り上げるためのパフォーマンス研究の一環だ。観客席を湧かせるようなアレンジはないかなと、そんな相談からの成り行きだったわけだけど。
「……あらためて考えると、すごいっすよね」
汗を拭って、水筒を傾けながら会話を続ける。パーマーさんがこっちを振り返った。
「ヘリオスさんのライブって、いつもダイナミックで勢い任せにも見えるんすけど。その実、ちゃんとみんなで盛り上がって、最後まで一体になって熱くなれるっていうか」
「だねー。しっかりみんなを巻き込んでくれちゃって、まさしく太陽って感じだよ」
そう頷くパーマーさんも、どこか誇らしげだった。
「……ただ」
でも、その視線はすぐに向こうへと向けられる。スタジオの壁際には、ヘリオスさんがもたれ掛かって座っている。
真っ白に燃え尽きたみたいに、彼女はぐったりとしていた。
「何より本人が楽しんじゃうから、ライブが終わった後なんかは、ああなっちゃうことも多いんだけどね」
「何か、申し訳ないっす……せっかく付き合ってもらったのに、あたし上手くできなくて」
「まあ、そこは気にしなくていいんじゃないかな。……ヘリオス、大丈夫だった?」
「うん。張り切りすぎて、いつもみたいに疲れちゃっただけみたい」
戻ってきたミラクルさんに、パーマーさんが問いかける。彼女も、慣れた様子で苦笑いを浮かべていた。
その後で、今度はあたしの方を見る。
「ヘリオスから伝言。"あとは頼んだ。頑張って、シオン"……だって」
「……!」
「頼まれちゃったね」
あんなに疲れても、あたしのことを気にして……。
少しだけ、身が引き締まる。あたしの変化を感じ取ったのか、パーマーさんが笑って言った。
「じゃ、休憩明けたら、私たちも参戦しよっか。メニュー、ちょっと借りていい?」
「はい。どうぞ」
床の上に置いてあった資料を拾って、パーマーさんはパラパラと捲っていく。
それはトレーナーさんのレイアウトを真似て、あたしが自分で作ってみたレッスン用のメニューだった。
「……ふふ」
「? どうかしたっすか」
「やっぱり、センターパートの練習が多めだなと思って」
「うっ……やっぱり、気づいちゃいますよね」
気にしていたところを突かれて、つい驚いてしまった。
センターと言えば、やっぱりライブの花形。その日のレースで、見事に一着を射止めたウマ娘だけに許されるパートだ。
レースの結果はいつだって分からない。だからあたしたちは、基本的にそれぞれのパートをバランス良く練習している。時には、センターへの憧れのあまりに、多少そっちに偏ってしまうこともあるだろうけど。
「そういう意識だけでも、何か少しは変わってくるのかな……と」
トレーナーさんも復帰して、あたしたち二人にとっての再スタートとなる一戦だ。あいつも出てくると思ったら気合いも入って、自分的にも、思いきったメニューになってしまっていた。
分かっていたけど、ちょっとだけ気まずい。調子に乗ってるとか、笑われたりしないかな。
「やっぱり、元通りのシオンだね」
「そーだね。ちょっと安心しちゃった」
「え」
隣でメニューを見ていたミラクルさんが笑う。それにつられてパーマーさんも。
「いつも遠慮しがちだけど、自分がこうだって決めたところだけは、ちゃんと譲らない。……私たちの知ってる、素直で頑張りやのシオンだ」
「! そ、そうっすかね……き、恐縮っす」
「そうやって照れちゃうとこもね」
思わず視線を逸らしていた。パーマーさんがあんまり真っ直ぐなことを言ってくるから。
そうすると、今度はミラクルさんの視線とぶつかる。彼女も静かに、優しく微笑みかけてくれていた。
(……そっか。あたし、また心配かけて)
色々なことがあって、こうやって、元の日常に戻ってきた。大変なのはまだこれからだとしても、あたしはまだ、みんなにちゃんと向き合えていなかったのかもしれない。
クラスにいても、落ち込んでいるあたしに、みんなが声を掛けようとしてくれていたことは覚えている。……もう大丈夫だって、ちゃんと伝えなきゃいけなかったのに。
「遠慮とかしないで、併走とかにも呼んでよね。色々落ち着いたら、またみんなで遊びにもいこーよ」
「……はい。ありがとうございます」
あたしも、何とか笑い返す。ちょっとだけ泣きそうになったのも、ひっそり飲み込んで。
その間も、視界の隅っこで。見間違いじゃなければ、ヘリオスさんがグッと親指を立ててくれていた気がした。
その日の晩は、久しぶりにお泊まり会があった。
集合先は寮の自室。あたしは待っているだけだったから、集合なんて言ってしまうのはちょっとだけおかしな気もしたけど。
「お待たせしました」
「やっほー! シオンさん、ひっさしぶりー」
程なくして、シュヴァルさんが戻ってくる。ほとんど同時に入ってきたヴィブロスさんは、いたって平常運転だった。
「いらっしゃい。お待ちしてました」
あたしも笑顔で出迎える。
二人の妹たちの後ろには、ちゃんとヴィルシーナさんも続いてきていた。
──────────
そうして、今晩は四人。みんなで囲んだ床の上には、次々にカードの山が積み重なっていく。
定番のババ抜きだ。前の番のヴィブロスさんに向かって、あたしは自分の手札を寄せる。
「うーん、こっちかな……いや、こっち!!」
小さな指が左右に揺れて、しゅっと端に移動する。
引いたカードをひっくり返すと、ヴィブロスさんはしゅんとした様子で、それを自分の手札に加えた。
「もー、揃わなーい。ババは引かなくてよかったけどさー」
「ふふ。残念だったっすね」
「シオンさん、持ってるのかな……意外に表情変わんないから、どっちか分かんないや」
そう言われて、ちょっとだけ得意げになる。
休み時間や放課後にクラスメートたちと遊んだ時は、すっかり負かされてばっかりだったのに。今のあたしは、ヴィブロスさんすら唸らせるくらいには上達したみたいだ。
「そうっすかね? へへ。実は最近、ちょっとだけコツが分かってきたんすよ」
「えぇ、どんなー?」
「大したことはないんすけどね」
何回やっても、負けてばっかりでも。やっぱり、みんなとこうやって遊ぶ時間は楽しいんだと思う。
だったら、素直にそれを表に出せばいいんだって分かった。駆け引きだとか気にしすぎずに、ずっと笑っていれば、それがある意味でポーカーフェイスになる。
それは多分、あたしにも合っていると思った。
「シオンさん、どうぞ」
「あ、はい。あたしの番っすね」
今度はシュヴァルさんの方に向き直って、カードを選ぶ。
彼女もあたしと同じで表情には出やすい方だと思うんだけど。調子に乗っていたのか、あたしは深く考えずに、手を伸ばしてしまった。
「…………あっ」
手元に来たカードをひっくり返して、一瞬、時間が止まる。
噂をすれば影、というやつかもしれない。
たった今ババを掴んでしまったあたしは、つい動揺が声に出てしまっていた。そこで、隣のヴィブロスさんが目を光らせる。
「あー、さてはシオンさん……引いちゃったね?」
「い、今のはノーカンっす! いや、引いちゃったのは戻さないっすけど……ちょっと、油断しちゃっただけですから」
慌てちゃって、何だか言い訳みたいになる。ヴィブロスさんはクスクスと笑っていた。
次の番には何とか引き取ってもらわないと。その時に十分な平静を保つために、あたしはしばらく呼吸を整えていることにした。
「お姉ちゃん。お姉ちゃんってば」
「! へ……あ、ええと。何かしら、ヴィブロス」
「次、僕が引く番だよ」
「あ。そうなのね……ごめんなさい、私ったら」
「……」
戸惑いがちに差し出されたヴィルシーナさんの手札。そこに、シュヴァルさんが慎重に指を伸ばす。
心配そうにしている二人の横顔が、やっぱり印象に残っていた。
──────────
それからも、あたしたちはトランプやボードゲームで時間を潰した。
そういう時間は、相変わらずすぐに過ぎていって。部屋の中には二つ分、小さな寝息が聞こえるようになっていた。
「二人とも、寝ちゃったっすね」
「ええ。そうですね」
反対側のベッドにもたれ掛かって、シュヴァルさんとヴィブロスさんが目を閉じていた。二人で身を寄せ合うようにして、そんな仲睦まじい光景が、微笑ましかった。
あたしとヴィルシーナさんは、しばらくそれを眺めていた。愛おしそうに妹たちを見守るその横顔は、確かに、いつも通りにも見えるけど。
「……シュヴァルは、何か言っていましたか?」
「え?」
「その。例えば、今日のお泊まり会の理由、とか」
「……いえ。あたしは、何も」
何とか答えを返す。でも、それは嘘だった。
本当は、シュヴァルさんたちからは色々聞いている。あたしにとっても、それは前から気になっていたことだったから。
……ここ最近、ヴィルシーナさんは、何だか元気がない。
「そうですか。……ごめんなさい。シオンさんもお忙しいでしょうに。この子たちに、どうしてもと言われたのではありませんか」
「そんな。あたしは、全然」
「……私が、もっとしっかりしていれば」
ヴィルシーナさんが目を伏せる。それだけで、綺麗な紺色の髪が目元を覆い隠してしまう。
泣いてはいないんだろう。でも、そう見える気もした。
しばらく沈黙が続く。ようやく覚悟を決めて、あたしはそれを声に出すことにした。
「オークスのこと、考えてますか」
「……」
ヴィルシーナさんは、すぐに答えなかった。
五月の後半に開催されたオークス。それはトリプルティアラを目指すウマ娘たちにとっての、重要なレースの一つだ。二つ目のティアラを賭けたその一戦は、今年も熾烈を極めていた。
一着を射止めたのは、ジェンティルドンナさん。
ヴィルシーナさんにとって、デビュー前から追いかけてきた因縁の宿敵。今となっては、同じティアラ路線における最大の障壁だ。
(……四月の桜花賞に続いて、二連敗)
平気でいられるはずなんて、ない。
表に出さないようにはできたとしても、その心内はきっと。
「勝てる、つもりでした。今度こそ」
「……はい」
「桜花賞もそうだった。デビューしてからずっと、私はその悲願のために、多くを積み上げてきたはずだったのに」
少しずつ、言葉が零れ出ていく。
あたしは、それに静かに耳を傾けていた。
「私は……やっぱり、あの人には」
そして、その先は続かない。
思いもせずに、言いかけただけだったんだろう。つい気持ちだけが先走って、それでも言葉にならないように、また別の気持ちが抑え込む。
そういう時の感覚を、あたしも知っている。
全く同じじゃなくても。ちょうど一年前は、あたしも同じように、俯いていた。
「強いっすね。ジェンティルさん」
「ご覧になっていたんですね」
「はい、中継で。……本当は、応援にも駆けつけたかったんすけど」
オークスの時期は、あたしもまだ一杯一杯だった。画面越しに見守って、ひたすら祈っているくらいしかできなかった。
ヴィルシーナさんは良い走りをしていたと思う。前に見かけた自主練中の時よりも、桜花賞の時よりも、彼女は確実に力をつけていた。
でも、ジェンティルさんはさらにその上を行った。
「……悔しいっすね。心の底から、勝ちたくてたまらない相手なのに。どれだけ頑張っても、その後ろ姿がどんどん遠ざかっていくみたいで」
「……」
「何だか、自分だけが置いていかれてる気がして」
少しだけ姿勢を正す。……こういう時、もうちょっと気の利いたことが言えたらいいのに。
結局、あたしもそれをどうしたらいいかなんて、分からない。
まずは
今、あたしから返せる言葉は、きっとそんなに大したものじゃない。
「すみません。あたし、ずっとヴィルシーナさんに謝りたいことがあったんです」
「え?」
「それが、その。二つくらいあって」
自分でも急な切り出し方だと思った。顔を上げたヴィルシーナさんも、目を丸くしている。
でも、ようやく面と向き合って、話せるようになっていた。
「まず、さっきは嘘を吐きました。あたし、実はシュヴァルさんたちから色々聞いてたんです」
言いながら、そっちはもう気づかれてたんじゃないかなとも思う。
ババ抜きのごまかし方が上手くなったからって、やっぱり嘘は苦手なままだ。他でもないヴィルシーナさんを騙しきれたとは、ちょっと考えられなかった。
「お二人が言ってました。姉さんの元気がないから、少しでも何とかしてあげたいって。お泊まり会なら自然にできるし……自主練の時間を削ったりもしないだろうからって」
「あの子たち、気づいて……」
「無理しすぎじゃないかなって、心配してたっすよ」
あたしも、ここ最近のヴィルシーナさんの帰りが遅いのは知っていた。
あたしでもそうなんだから。もっと身近にいるシュヴァルさんたちなら、それよりずっと早くに気づいていただろう。
「そういうのって、結局隠しきれないんだと思います。家族にも、友達にも……トレーナーさんにだって。一人だけで気持ちを抱えようとしても、傍にいる誰かが、それを放っておかない」
簡単なことのようで。それを実感したのは、あたしもまだ最近のことだったけど。
「でも、それでいいんです。そこで一人になったら、悪い方に考えていくだけだから。たまには、どうしようもない気持ちを誰かに伝えて……少しくらい、頼ったっていいんです」
どこかでそう気づいていて、でも、最初は上手くできなかった。そうやって、あたしは大きな間違いをしてしまった。
ギュッと、拳に力が入る。あたしは無意識に深呼吸をしていた。
ゆっくりと息を吐いて。まだ気持ちが前を向いているうちに、次の言葉を続ける。
「あたし、あなたに酷いことをしたんです」
「私に?」
「はい。もう去年のことっすけど。気持ちに余裕がなくなってた時、何度も負けて、それでも毅然とジェンティルさんに挑み続けるヴィルシーナさんが、眩しく見えた。眩しくて、羨ましくて……置いていかれそうな気がして」
「もうがんばらないでくれって……そう、思ってました」
言い訳なんて、できない。
いつかは、ちゃんと謝らなきゃって思ってたけど。こうやってちゃんと話せるまで、随分と時間が経ってしまっていた。
「最低っすよね……ごめんなさい。本当はあたし、こんな偉そうに話せる立場でもないんです」
そういう醜い自分がいる。どん底まで追い詰められた時、それが表に出てきてしまった時の感覚を、はっきり覚えている。
許されないけど、他にどうすることもできなかったんだ。そんな事実を受け止めるのは、まだ簡単じゃなさそうだけど。
「……そうですか。知らない間に、そんなことがあったのですね」
「!」
すとんと、肩の上に何かが乗っかった。
さらさらとした髪が流れて、それがくすぐったく頬を撫でる。
「感情というのは、ままならないものですね」
「ヴィルシーナ、さん……?」
「謝罪の言葉、しっかり聞き届けさせていただきました。……ふふ。シオンさんは、本当に真っ直ぐな方ですね」
……そんなわけない、とは思うけど。
甘い香りがして、少しだけびっくりする。あたしは変に緊張してしまっていたけど、その間も、ヴィルシーナさんは身体を傾けたままだった。
「お詫びのついで、と言ってはなんですが。少しだけ、このままにさせていただいても?」
「は、はい……あたしは、別に」
「ありがとうございます」
小さく、お礼の言葉が聞こえた。
やや間があって、ヴィルシーナさんは、もう少し話し続ける。
「すみません。この子たちにも、あの人にも。本当のことを伝えるのは、まだ少し、怖いみたいで」
「ヴィルシーナさん……」
「弱いですね。私は」
「そんなことないっすよ」
きっと、今のあたしの言葉を、受け取ってくれたんだろう。
だからって、それをすぐに行動に移すのは、簡単なことじゃないと思うから。
あたしも、ようやく身体の力を抜いていく。
「あたしも、まだまだですから」
しばらくして、ゆっくりと目を閉じる。支えあって、二人で眠る。
まるで、よく似たところのある姉妹みたいに。そう言ってしまうのは、もしかしたら失礼なことだったかもしれないけど。
お互いの体温が馴染んでいく。そうやって語り合った時間は、まだあたしたちしか知らないことだった。
次の日の放課後には、また厳しいトレーニングが始まった。
「ラスト十本! 最後まで気を抜かずにな」
「はい!」
「は、はーいっ」
熱がいっぱいいっぱいになった身体は、もう限界に近かった。そんな中で走り続けながら、精一杯の声をトレーナーさんに返す。
隣を走るネイチャさんにも目配せをする。闇雲に続けて、ペース配分がおざなりになったら危ない。
だから、無理はしないでくださいねと。そう言ったつもりだったんだけど。
「っ……よっしゃあっ、やってやろうじゃないのーッ!!」
結局、ネイチャさんは最後まで食らい付いていた。
普段は緩く見える時もあるけど、こういう時は気を抜かない。そういうところが、やっぱりすごいと思った。
──────────
「ハァ……ハァ……ダメだわ。もう一歩も動けん……」
「だ、大丈夫っすか? あ、みずっ、水ありますよ」
「あ、ありがと……」
芝生の上で大の字になったまま、限界で動けそうにないネイチャさんに水筒を手渡す。
ゴクゴクと、彼女は思い切りよく喉を鳴らしていた。
「ぷはーっ……あー、生き返るぅ……」
「ふふ」
あんまり、笑っちゃいけないのかもしれないけど。遠慮のない彼女のそういう仕草に、つい肩の力が抜けてしまっていた。
「しっかし、シオンさんのトレーナーさんが、まさかここまでスパルタだったとはねぇ……こっちからお願いしたっていっても、うちの人でもここまでいかないよ」
「……やっぱり、そうっすかね?」
「うん。思う」
つい同意してしまう。あたしは慣れているし、そういうものだと思って大体受け入れているけど。客観的に見ると、ネイチャさんの感じ方が普通なのかもしれないと、ちょっとだけ納得もできる。
「……でも、そうだね。厳しいだけじゃないのも、分かる気がするよ」
「はい」
それがここまであたしを連れてきてくれたことには、何の違いもない。
できると信じているから、しっかりメニューを作り込んでくれているんだって。今の大変さは、あたしにとっては誇りでもあった。
「……」
「? ネイチャさん」
「あぁ、ごめん。大したことじゃ、ないんだけどさ」
気づくと、ネイチャさんがじっとこっちを見ていた。気のせいじゃなければ、少し満足そうに。
聞き返すと、彼女は照れくさいのをごまかすみたいに、笑った。
「もう、大丈夫そ?」
「……あ」
「いや、見れば分かるっていうのは、その通りなんだけどね。はは……何言ってんだろ、あたし」
珍しく、不器用な言い方だと思った。
言葉が上手くまとまらない感じで。でも、何が言いたいのかは、ちゃんと伝わっていたと思う。
「あたしは、もう大丈夫っすよ」
「……そっか」
胸を張って。力強く笑顔を浮かべるようにして、そう答える。
向き合ったネイチャさんの顔色も、少しずつ綻んでいく。
(……また、色々お世話になっちゃったもんな)
ジャパンカップでケガをした時も、トレーナーさんが入院して、一人で頑張っていた時も。気が付くと、ネイチャさんが傍にいてくれた。
ぎこちなくなっていたあたしたちに、話ができる場を用意してくれた。トレーナーさんがいない間、一人で頑張ろうとしていたあたしのことを、慰めてくれた。
表向きは、堂々として。だからこそ、きっと、ずっと心配をかけてしまっていたんだと思う。
「ありがとうございます。本当に。あなたがいなかったら、多分、あたしとトレーナーさんはもっと」
「シオンさんたちが頑張ったんだよ。あたしは大したことしてなくて……ただ、できることをやってただけだから」
約束もあったしね。よく分からないけど、ネイチャさんは最後に小さく呟いていた。
「次、宝塚記念だったよね。また、オルフェーヴルさんも出てくるんでしょ?」
「はい。だからこそ、負けてられないっすね」
「ふふ。その意気その意気」
そして、ふわりと目を細める。
「がんばってね。トレーナーさんほどとは、いかないかもだけど……あたしもシオンさんのこと、陰でずっと応援してますから」
「ネイチャさん……」
どこか一歩引いたような口ぶりで。それでも、言葉は力強く。
いつもの彼女らしいと言えば、そうなのかもしれない。嬉しかったけど、何となく、ちょっとだけ寂しい気もした。
「……色々落ち着いたら、どこかにお出かけしませんか?」
「え?」
「シュヴァルさんも誘って。ちょっとした、小旅行みたいな」
もらってばかりじゃダメなんだって、そう思った。
たったそれくらいのことで、何が返せるんだって気もするけど。
「一緒に、ゆっくり過ごしたいなって思って」
「ずっとあたしを応援してくれてた。
そう言うと、ネイチャさんが驚いたような顔をする。
それは去年の夏。合宿の間に交わしていた、彼女にとっては、何でもない会話だったのかもしれないけど。
あたしにとっては、ずっと忘れられないくらい、大切な言葉だった。
「っ……ほんと、
「あはは……すみません。何か、締まりがなくて」
「そんなことないけど。まあ……うん。りょーかい」
頬を掻いて、しばらく視線が泳ぐ。でも、最終的にネイチャさんは頷いてくれた。
「その代わり、レースはしっかり決めてきてよね」
「はい。もちろんです」
お互いに、小さく握った手を掲げる。似合わないな、なんて思いつつも、あたしも手を伸ばす。
コツン、と。合わせた拳が、控えめな音を響かせていた。
【あとがき】
毎度どうも、鵜鷺りょくと申します。
第44話、いかがだったでしょうか。
今回は、第四章ぶりの友人たち集合回でした。様々なことを乗り越え、強くなったシオンがみんなとどう向き合うのか。そういうお話でした。
色んな子たちのやり取りを書くのは大変な反面、やっぱり楽しいものですね。
【Preparation】──最終決戦に向けた準備編も、いよいよ終幕です。
次回より宝塚記念編。ついにオルフェーヴルとの決戦となります。乞うご期待。