夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
いつか、遠い空に夢を描いた。
ずっと、それだけを見ていたかった。
通りすがり、近くの公園の前で足を止める。
ふと目に入った奥の花壇。その一画には、小さな向日葵がいくつか咲いていた。
もう六月に入っているとはいえ、開花には随分早い。そういう品種もあるとは聞いたことがあるけれど。
「……」
初夏のそよ風が流れていく。くっきりと立体的な黄色をした花びらが、微かに揺れた。
まだまだ成長途中のようで、少し頼りなくも見えるけれど。それでも根をしっかり張って、片隅の向日葵は空を仰ぎ見る。その先にある光を追うように。
「トレーナーさん?」
「ん。ああ、ごめん」
数歩前を歩いていたシオンに呼ばれる。
何となく、くすぐったい気分になった。何を一人で感傷に浸っているんだろうかと。
気を取り直して、少し足早に彼女と合流することにした。
──────────
「皆さん。今日は、お集まりいただいてありがとうございます」
お邪魔した店内には、微かにコーヒー豆の香りが漂う。
その中心に一人で立って、ジュースの注がれたグラスを手に、シオンは背筋をピンと伸ばしていた。
「その、本日はお日柄もよく……まだそこまでっすけど、油断してたらすぐに暑くなるし、その辺むずかしいというか……はは」
店のあちこちから温かい目に見守られ、緊張の抜けきっていない声で言葉を積み重ねていく。
彼女なりに、何か気の利いたことを言おうとしているんだろう。台本などがあればこういうのもこなせる子なのだが、あいにく、今日のこの流れはほとんど成り行きによるものだ。
話し続けている間も、時々ちらりと視線が向いてくる。助けを求められているのは分かっていた。
(がんばれ)
だから、そういう思いを込めて微笑み返す。
やがて諦めたように、シオンは持っていたグラスを高く掲げた。
「それじゃ、えと──か、かんぱいっ」
「かんぱーーーーい!!」
その声を皮切りに、店の中はわっと盛り上がっていく。
喫茶店『day break』。過去にシオンのファン交流会を開催させてもらったことのあるこのお店では、今日はイベントの第二回目が開かれることになっていた。六月下旬の宝塚記念も近づく中、決戦へ向かうシオンのために企画した壮行会のようなものでもある。
色々あって急な呼び掛けになってしまったのだが。それでもいつもお世話になっているファンクラブの皆さんを中心に、今回もたくさんの人が店に足を運んでくれていた。
「き、緊張したっす……」
「お疲れ様。そんなに心配しなくても、しっかりこなせてたと思うけど」
「……トレーナーさん、全然助けてくれないし」
「ああいうのは、パーティーの主役が決めてこそだからな」
乾杯の音頭を引き受けてくれたシオンは、隣で大きな溜め息を吐いていた。
急なことだったし、やはりそれなりに疲れたんだろう。
「でへへ、シオンちゃん可愛かったよ。お顔が真っ青だったけど、あれはあれでグッジョブ☆」
「うっ……」
「あんた、それフォローになってないからね?」
「いいんです……実際、こういうのにも慣れていかないとなんで」
近くに座って話しているのは、前回もシオンとよく話していた高校生グループの子たちだ。確かに、真っ青だったこと自体がどうかはともかく、健気に頑張っているシオンの姿はとても愛らしかったように思う。今直接言ったら、本人は怒りそうだが。
そして、やはり同年代だけあって接しやすいのだろう。シオンはしばらく学生たちと話しこんでいるようだった。
「トレーナーさんもお久しぶりね」
「あ、はい。大変ご無沙汰しております」
すると、今度は反対側から声がかかる。そちらの席に座っていたのは、近くの商工会議所に勤める職員さんたちだった。
「ふふ。お元気そうで安心したわ。前の天皇賞では、お姿が見えなかったものだから」
「そうそう。俺らも心配してたんだよ。どこか具合でも悪かったのか?」
「え、ええ、まあ。……すみません、実はしばらく体調を崩していまして。天皇賞の時は、自分は同行できていなかったんです」
現地までレースを見に行っていたなら、違和感を持った人もいたことだろう。
大事な担当ウマ娘の晴れ舞台で姿も見せないとは何事だ。そういう反感を抱く人も、少なからずはいたのではないだろうか。
「そうかい。身体は大切にな。こういう場を設けてくれんのはありがたいが、まずは何より、バリやんとあんたの調子が最優先だぜ?」
「はい。ありがとうございます」
返す言葉もなかった。それでも、真っ直ぐな気遣いの言葉は温かい。
それだけに、その場で本当の事情を話せなかったことだけは、少し申し訳なく思っていた。
「そういや、次は宝塚記念か。また大きいレースだよな」
「ああ。まさに、トゥインクルシリーズにおける上期の総決算と言っていいだろう。毎年人気投票で出場者が選出され、春の各レースで覇を競った猛者たちが一堂に会する。関西を代表するレースの一つで、その歴史は一九六〇年に──」
「はいはい。そういう
レース方面には結構な事情通らしい。そんな男の子の話は、けれどあっさり遮られてしまった。
なかなか手慣れている様子だ。グループのまとめ役と思われるポニーテールの女の子は、そのまま少し心配そうにシオンを見ていた。
「あのオルフェーヴルさんも出てくるんだよね。最近また力をつけてきてるって。……天皇賞の時みたいにいってくれればいいけど」
「それは、ちょっと難しいかもしれないっすね」
「え」
そこで冷静な言葉を返したのは、意外にもシオン本人だった。
「一緒に走ってると分かるんです。理由までは何ともっすけど、少なくともあの時、オルフェさんは全然本調子じゃなかった。先着ができたのも、そこが大きかったんだと思います。もし、しっかり調子を整えてこられたとしたら、宝塚では別物になってるかも」
「そんな……」
「でも、大丈夫っすよ」
そこで、ふっと表情が和らぐ。
「あたしたちだって、それは同じっすから。今だって、そのために厳しいトレーニングを続けてるんです。負けてやるつもりなんて、一ミリもないっすから」
いつの間にか、その場にいる全員の視線がシオンに集まっていた。
それでも、乾杯の時みたいな物怖じはしない。彼女の言葉は、確かにその内側から溢れ出ていると分かるような、はっきりとした自信を帯びていた。
(……本当に、強い目になったな)
今までだって、似たような場面は何度かあったと思うけど。
そのどれにも負けないくらいに、今のシオンは眩しく輝いていた。
「はっはっは! その意気だぜ、バリやん!」
「応援してるわ。がんばってね」
「か、かっこいい……あ、ごめん、私ちょっとくらっときて……」
「は、え? あんたここで気絶すんの!? 嘘でしょ!?」
たくさんの声援がこだまする。その一方では、ちょっとしたハプニングが起こっている感じもあったが。
祝福に満ちた店内の雰囲気を、自分はしばらく、感慨深い気持ちで見渡していた。
「……?」
そして、その途中。ぱっと視線を止める。
表に向かう窓の向こうで、何かが動いたような気がした。
(……うーん。やっぱり、よく見えないな……)
入口の窓から外を覗きこむ。ピカピカに磨かれたガラスは透き通っていてよく見えるけど、向こうまでの距離だけはどうしようもなかった。
見る角度を変えたり、目を細めてみたりもして。……そんなあたしの視線の先には、トレーナーさんの姿がある。
「あれ、シオンさん? 何してんの」
「あ……」
そんなところに、後ろから声が掛かった。
交流会が始まってから、しばらく時間が経っていた。パーティーの盛り上がりも程々に落ち着いてきていて、あたしはちょっとだけ席を離れてきていた。
一応今だけは、仮にもこの場の主役ではあるわけだし。そんなことをしてたら、そのうち誰かに見つかるのも時間の問題だったかもしれない。
「いや、ええと。これは、ですね……」
「あそこにいるの、トレーナーさんだよな?」
「誰かと一緒みたいだな。というかあの制服、もしかしてうちの……」
高校生グループの子たちが次々にやってくる。扉のガラスを通して、みんなが同じ場所に視線を向けていた。
喫茶店の前にある公園。そこにトレーナーさんと、学生服姿の女の子が立っている。黙って店からいなくなったと思ったら、いつの間にかあの人はあんな場所にいた。
(……見間違いじゃないよな)
何度か確認してみたけど。あたしは前に、確かにその女の子を見たことがある。
去年の秋。菊花賞が終わったばかりの、あの京都レース場の端っこで。
「あれ、釘街さん……?」
みんなが騒いでいる中で、誰かがその子の名前を呼んだような気がした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
店の外に一歩を踏み出すと、
汗ばむほどじゃないが、これはこれでちゃんと夏の始まりらしい感じもする。外で話すには、まだそれほど苦でもないだろうか。
「向日葵、お好きなんですか?」
「……そうですね」
学生服を着たショートボブの女の子──釘街さんは、公園の花壇の一画をじっと眺めていた。
視線の先にあった花の名前を当ててみる。少し間をおいて、彼女は返事をしてくれた。
「昔、絵の練習でよく描いていたんです。家の近くに花畑があったので。……ただ、好きかと言われると微妙なところです」
曖昧な言い回しは、何でもない世間話の返しとしてはよくあるものに思えた。
「本当に出てきてくださるとは、思いませんでした」
「気になっていましたから。今回も、交流会には参加されないんですか?」
前回もそうだった。あの時はずっとこうして二人で話していただけで、結局、彼女が店内までやってくることはなかったから。
そう尋ねると、彼女はギュッと両手を握る。
「今の私には、あそこにいる資格がありませんから」
躊躇いながらも突き放すような、そんな答え方だった。
その視線が、奥の方のベンチへと向けられる。続いて、彼女は僅かにこちらを見た。言いたいことを察して、自分もそちらへと向かう。
……前はずっと立ち話だったっけ。
そんな特に意味のないことを考えながら、自分も同じくベンチに腰を下ろした。
──
(……やっぱり、まだ緊張はするよな)
不意によぎった苦い記憶に、少し心が落ち着かなくなる。端的に言って、それは気まずい空気だった。
釘街さん。シオンのファンクラブに所属する高校生で、ネット上ではイラストレーターとしても活動している人だ。以前までは、ウマッターでもシオンのファンアートなどを熱心に描いてくれていた。
初めて直接話したのは去年の秋。一度目の交流会の途中、仕事の電話で店の外に出てきた自分は、そこで偶然彼女と顔を合わせることになった。
「放っておこうとは、思わなかったのですか」
「? どうしてですか」
「私は以前、ここであなたに散々なことを言いました。
誤魔化しもなく言うんだなと、そう思った。
もちろん、彼女と交わした会話の内容については、こちらもちゃんと覚えている。
「最近、ウマッターの方でもあまりお見かけしなかったので。余計なお世話かもしれませんが、気に掛かっていたんです」
プロフィールから履歴を見ると、ちょうど菊花賞が終わった辺りからだったようだ。それまでは頻繁にタイムラインに自作イラストを載せていた彼女が、そこでパタリと音信を途絶えさせていた。普段の何気ないメッセージも含めて、ここまで半年近くも。
ファン活動に対する熱意が落ち着いたのだろうか。それだけのことなら、話はもっとシンプルだったかもしれない。
「資格がないと、そう仰っていましたね」
それでも今日、彼女はここに現れた。だから気になったのだ。
先ほどの言葉を反芻する。やや重い沈黙の後で、釘街さんはゆっくり口を開いた。
「……私は、あの子を
思っていたよりも強い言葉を使って、彼女は続ける。
「菊花賞でのことです。私は友達と現地まで行って、そこで、シオンくんの全力の走りを見ました。……本当に、
あの時、あの子は確かに最高の走りをしていた。たとえオルフェーヴルさんには届かなかったとしても、そんな一生懸命な姿が、私にはとても誇らしかった。そしてそれは、多分あの子だけの力じゃなくて。その裏側には、トレーナーであるあなたの尽力もあったのでしょう」
スカートの上の手が、拳を握っていた。震えているのは、その声も同じだ。
「私が間違っていました。たとえ結果が出せなくても、必死で積み上げてきたものがなくなるわけじゃない。そんなこと、ずっと前から分かっていたはずなのに」
紡がれていく言葉は、何だか懐かしい気がした。
それはまるで、いつかの自分たちを思い出させるようで。
「それでも、悔しかった。会場全体が、世界が……隣にいた友達でさえ。みんなが、新しい三冠ウマ娘のことだけを見ていた。とても眩しくて、大きすぎるその輝きが、そこにある全部を塗りつぶしていくみたいで。その影でがんばっていた子たちのことなんて、とっくに忘れてしまったように」
「……」
「シオンくんの力は、まだこんなものじゃない。あと少しでも何かが違っていたら。一緒に走っていたのが、あのオルフェーヴルさんじゃなかったら」
「あの子の隣にいるのが、あなたじゃなかったら」
……ああ。やっぱり、同じ事を言っている。
不思議な縁もあるものだと、何となくそう思った。
あの日のことは、自分もまだはっきりと覚えている。新たな偉業が刻まれた京都レース場での、絶え間なく湧き続けていた熱気のことを。それは時間が経つほどに人から人へ伝わって、やがては日本中を駆け巡っていった。
もちろん、全員がそれだけを気にしていたわけじゃないだろう。ただ少なくとも、あの熱気の中に取り残されていた彼女は、とてもそう思えなかった。
「それは最低な言葉です。ただ自分勝手に、あの子の努力を否定してしまうだけの。その努力を支えていた誰かのことさえ軽んじて」
人一倍強く、ウインバリアシオンのことを想っていた。
だからこそ、その気持ちが歪んでいってしまった。自分自身にも止められないうちに、それが思いもしない形へと変わっていたのだろう。
かつての自分が、そうだったように。
「……ごめんなさい」
「私は……あの時立派に戦い抜いたシオンくんのことを、最後まで誇ってあげられなかった……っ」
降り注ぐ真っ白な日の光。その下で、彼女は赤裸々にそう告げた。
ずっと一人で胸の奥に押し隠していたんだろう。零れた叫びは悲痛で、あるいはとても、綺麗な色をしていたと思う。
──────────
小さな泣き声が止むまでには、しばらくかかった。
その間、彼女に何と言うべきかをずっと考えていた。でも結局、気の利いた言葉は出てこなかった。
「あなたは、どうしてシオンを好きになったんですか?」
それは何の工夫もない、ストレートな問いかけでしかない。
当然、意外に思ったことだろう。釘街さんはこちらへ僅かに顔を傾けた。
「なぜ、そんなことを?」
「大した理由はないんです。ただ、知りたくなっただけで」
トレーナーとしては、あまり適切な言い方ではなかったのかもしれないけれど。
今は、ただのウインバリアシオンのファン同士として。そういう風に考えれば、少しは許されるような気がした。
「……昔、トレーニング中の彼女を見かけたことがあるんです」
目元を拭って、釘街さんは答えてくれた。
「さっきもお話ししていた、近所の向日葵畑で。真夏の熱気の中、流れる汗もそのままに走り続けるシオンくんの姿に、一目で夢中になった。ただ前だけを見つめて走るあの子を、眩しい光を見上げるような向日葵たちが祝福しているみたいで。そんな光景が、心に焼き付いて離れませんでした」
「幸せな陽だまりのような。物語の大団円のような。
あの時目に焼き付けた彼女の姿を、いつか私の手で描いてみたいと思った」
自分勝手でしょう? と、彼女は続ける。
そうなのかもしれない。けれど、自分にはそれが悪いものだとは思えなかった。
ふと、空を仰ぐ。雲一つない快晴の青を見つめながら、静かに目を閉じる。
釘街さんが語ったその光景が、何だかとても印象的で。全く同じものを思い描くことはできないとしても、やっぱり自分も見てみたいと思った。
いつか、シオンが誰よりも強い輝きを放つ、そんな瞬間が訪れて。
たくさんの喝采が、温かな陽だまりのように、戦い抜いたその勇姿を包み込む。
彼女が刻みつけた光から、誰も目が離せなくなる。
……それは、まるで。
自分がトレーナーになることを誓った、あの時のレースの終幕のように。
「今も、その気持ちは変わらないんですね」
「……」
「だったら、それでいいんだと思います」
「え?」
かつての自分なら、そんな風に答えることはできなかったかもしれない。
自分自身が彼女の傍にいることさえ、どこかで後ろめたく思っていた、あの頃なら。
「自分も同じです。ただ自分勝手に、シオンが夢を叶える瞬間を一番近くで見たくて、彼女のトレーナーになった。そんな気持ちが空回って、彼女を傷つけてしまったこともある。未熟な自分のことが、どこまでも情けなかった」
それでも、他の誰でもない。ずっと隣にいたシオンが、それを受け止めてくれた。
だから、今はこんなにも胸を張っていられるのだと思う。
「まだまだこれからです。足りない所はあるけど、それでも自分は彼女の隣にいたい。精一杯彼女を支えながら、一緒にがんばっていきたい。……できればあなたにも、そうやって走り続けるシオンの
「私に……?」
「シオンも喜びます。それだけ一途に、彼女の幸せを願っていてくれるあなただから。その声がきっと、彼女を支える力になる」
ベンチを立って、数歩前に進み出る。自分の視線の先には、今も交流会が行われている喫茶店があった。
振り返ると、釘街さんと目が合った。
こちらの言いたいことは察してくれたのだろう。それでも、しばらくはまだ踏ん切りがつかない様子だったが。
「……やっぱり、同じ目をするんですね。あの子と」
「?」
「そういうところが、少しだけ羨ましかったのかもしれません」
やがて諦めたように笑う。そうして、彼女も立ち上がった。
「そういえば、向日葵が好きかと聞かれていましたね」
「はい」
「お答えしたとおりです。好きかどうかは分かりませんが、それでも、昔から憧れていたのかもしれません」
視線が斜め下へと傾く。
ふっと釘街さんが目を細める先で、花壇の向日葵は、相変わらず空を仰ぎ見ていた。
「私も、あんな風に。自分の信じた光だけを、見つめ続けていたかったから」
【3】
一通り話し終えて、公園を離れる。釘街さんを連れて、喫茶店まで戻ってきた。
控えめに空調の効いた店内。入口の扉を開けると、何故だかそこに人だかりができていたことに気づく。
「! し、シオンくん……」
「え? あっ、はい。こ、こんにちは」
どこか気まずそうな高校生たちのグループに混じって、そこにはシオンの姿もあった。
対して後ろの釘街さんはというと、シオンと顔を合わせた瞬間に、まるで石のようにカチコチになってしまっている。
(ああ、そうか)
彼女は今回が初参加だ。こうしてシオンと直接会ったのも、これが初めてだろう。熱心なファンの反応と考えれば自然なのかもしれない。
「こんにちはっ、釘街さん。私、覚えてる? 去年同じクラスだったんだけど」
「へ。あぁ、はい。お久しぶり、です」
「釘街さんもシオンちゃんのファンだったなんて、全然知らなかったよー! 同担どうし、さっそく向こうでもっと推し語りしない!?」
「推し語り……? あっ、ちょっと……」
グループの女の子に手を引かれて、釘街さんは店の奥へと連行されていった。
これもファン同士なら自然……と言っていいのだろうか。
「……」
「シオン、どうかした?」
遠ざかる二人を見送っている途中で、ふと隣からの視線にも気づく。
気のせいじゃなければ、シオンはどこか不安そうにこちらを見つめていた。
「す、すみません。さっきの子と何話してたのかなーって……トレーナーさん、彼女と知り合いだったんすね」
「ああ。前に、ちょっとだけ話したくらいだけど」
もしかすると、シオンも知っている子だったのだろうか。それなら気になっていたのも分かるが、今は何だか少し警戒しているようにも見えた。
「……大丈夫。俺たちと同じだ」
「同じ?」
「ああ。君のことが大好きで、大切で。ずっと君の幸せを願ってきた。少し不器用なだけの、君の大ファンだよ」
「……そうだったんすね」
もう一度語り合えて、それを再確認することができた。
それもシオンのおかげだ。自分もかつて、彼女に心を救われたことで、変わることができたのだから。
「……だいすきで、たいせつ」
「し、シオン?」
そこでギョッとする。そうやって微笑ましく向かい合っていたところで、彼女の顔が見る見る赤くなってきていた。
店内は十分に涼しい。そのはずが、そのうち湯気さえ立ってきそうな彼女は、まるでそこだけ炎天下に放り出されたように暑そうだった。
「真正面から
「え?」
「トレーナーさんってこういう人なんだ。ふーん」
「こりゃバリやんも大変だ」
「俺のせいなのか……?」
どういうわけか、高校生の子たちからは揃って冷ややかな視線を向けられていた。
まったく身に覚えがないのだが。自分が何かをやらかしてしまったことだけは、どうやら間違いなさそうだった。
──────────
数時間後。夕方になって、その日の交流会はお開きになった。
片付けも終えて、喫茶店をあとにする。そのまま真っ直ぐ学園まで戻ってもよかったのだが、何だかまだ余韻が冷めなくて。結局シオンとは、少し寄り道をしていこうという話になった。
「今くらいの時間だと、過ごしやすいっすね」
「そうだな。……今日は、また何か叫んでいくのか?」
「それ、しばらく控えてるんすよ……聞いた話じゃ、一部の子たちの間で変なウワサになってるみたいなんで」
「? そうなのか」
他愛のない話を交わしながら、緩やかな坂道を登っていく。
ここに来るのも、もう何度目だろう。
丘の上に位置する小さな公園。何も変わらずにいてくれたはずのその場所は、それでも、いつかの冷たい夜の時からは随分様子が違って見えた。
「あ。ここにも咲いてるんすね」
何かを見つけたらしく、シオンが不意に駆け出していく。視線でそれを追っていくと、ここにも手入れがされている花壇があったことを思い出した。
しゃがんでいるシオンの隣に立つ。その足下を覗き込むと、そこにもまた、小さな向日葵が数本植えられていた。
「……そういえば、トレーナーさんは花言葉って興味ありますか?」
「花言葉? 向日葵の?」
「はい。何ていうか、もしかしたらって思ったんすけど」
どこか期待を秘めたような眼差しで、シオンが顔を上向ける。
果たして、自分のようなやつが花言葉なんて話題に詳しいと思われていたのだろうか。
「特別、詳しいわけじゃないよ。でも、確か昔ちょっとだけ調べたことがあったな。……もう忘れてしまったけど」
「本当っすか?」
「……」
「ふふ、怪しいな。もしかして、照れてたりして」
「どうだろうな」
見透かされている。無愛想な自覚はあるけれど、自分もさすがにそれくらいの感情は持っていた。
だって、
(少なくとも、シオンには)
変わらない憧れであり、強い情熱を抱くその人であり。
ずっと、その光だけを見つめていたいと、心からそう思っているからこそ。
「これからも、よそ見は禁止っすからね」
「……ああ。もちろん」
多分それは、この場で改めて言わなくても、もう彼女には伝わっている。
悪戯っぽく微笑むシオンの姿は、相変わらず眩しく。後ろに広がる鮮やかな夕空の色と、美しく溶け合っていた。
【あとがき】
毎度どうも、鵜鷺りょくと申します。
第45話、いかがだったでしょうか。
宝塚記念の直前。シオンとファンたちの日常を描いたお話でした。
途中から出てきた釘街さんを含め、第4章以来の登場です。皆さん覚えておられましたでしょうか?
かつて、菊花賞の終わり。シオンの走りを讃えながらも、彼女とトレーナーに対して暴言を口にしてしまった。そんな一ファンの強い思いと、それを受け止めるシオンと松早の変化をきっちり描けていたら幸いに思います。
そして今回は二本立て。もう一本がすぐに上がる予定です。
ついに始まる宝塚記念。その出走までのお話になります。