夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
「それじゃあ、いってきます。」
薄暗い地下通路を抜けて、ターフの上に一歩を踏み出す。
風が運ぶ会場の歓声。降り注ぐ夏の日差しは
指の隙間から空が覗いて、それが天高くまで抜けるように晴れ渡っている。どこまでも自由に広がるその青い色が、今は何だか気持ちよかった。
「──あ」
「む?」
少しずつ視線を下げていく。そこでピタリと足が止まった。
あたしを待っていた、ってわけじゃないんだろうけど。こっちに気が付いた様子で、キラキラした金のタテガミがふっと
パドックへと向かう道の途中に、オルフェさんが一人で立っていた。
「ど、どうもっす」
「ああ」
最初に交わした挨拶は、お互いに短い。どうしても間が持たなくなる。
でも、そういえばこの人とはいつもこんな感じだったようにも思う。今さら
「あ、そうだ。レースの前に、少しだけいいっすか」
「ふむ。……許す。述べるがよい」
「もう先月のことなんすけど。あの時のレースのお礼、ちゃんと言えてなかったと思って」
記憶を無くしたトレーナーさんを元に戻すために、オルフェさんは一緒に走ってくれた。
あの時はそれどころじゃなくて、ついお礼も言いそびれてしまっていた。その後も、今日までこうして直接話すタイミングもなかったから。
変な心残りになってもよくない。その場で姿勢を正して、あたしは背中を曲げる。
「改めて、その。あの時はありが──」
「くだらん。何かと思えばそんなことか」
「っ……」
一蹴だった。何となく、半分くらいはこうなりそうだと思っていたけど。
……だったらいいか。多分この人も、あたしにそう言って欲しくて手を差し伸べてくれたわけじゃないんだろう。
「相変わらずっすね。……だったらもう一つ。そのくだらないことついでに、別で確認しておきたいこともあるんですけど」
「何だ」
「
「……ふむ」
そう聞くと、今度はちょっとだけ考え込むみたいに腕を組む。
その模擬レース中のことだ。あの時、どうやって走ればいいのかも思い出せなくなっていたあたしに、オルフェさんは大体そんな感じのことを言った。仮にもレースの途中だったから、その時は、
落ち着いて思い出してみると、ずっと違和感があった。それが今思っている通りだとしたら、あたしは多分、ちゃんと怒るべきだ。
「ふっ、そうだな。言ったやもしれんが、それがどうした? 此度のレースも、そしてその先も限りなく、貴様は余の後塵を拝することになろう。それが天命であるが故にな」
「……そうっすか。うん、やっぱ聞いといてよかったです」
もちろん、この場で怒鳴ったりするわけじゃない。いや、そうしたい気持ちもあるけど。
ギュッと拳を握る。やる気もどんどんみなぎってくる。
結局、あたしとこの人の関係なんて、まだこれくらいでいいんだと思う。
「おかげで、また遠慮なくあんたをぶっ倒しにいけます」
「はっ。世迷い言を」
軽く笑い飛ばして、オルフェさんが進み出す。
その先はパドックだ。言うまでもなく、もう今日のレースの出走者たちがそこに出そろっている。
春のレースを戦い抜いてきた強豪たち。彼女たちを背にして、オルフェさんの視線がこっちを振り返った。
「ならば精々、力を尽くすがよい。この場にいる我らを相手にな」
「……望むところっすよ」
ここは阪神レース場。今年の春のグランプリレース、宝塚記念の舞台。
今までずっと憎んで追いかけてきたその背中。それを睨み付けながら、挑戦者の一人として、あたしも壇上へと登っていく。
──それじゃあ、いってきます。
「……」
広げた両の手の平に、まだ彼女の温もりが残っていた。
すでに満員も近くなり、ひたすら賑わっている観客席の中腹。自分もまた、そこでパドックの開始時刻を待っていた。
選手も出そろってきている。そちらももうすぐと言ったところだろう。
もう三十分も前のことだ。
シオンとは、控え室を出たところで別れた。
今までにも、何度か大きなレースは経験してきた。ただ今回の宝塚記念は、自分たちにとっては特に気合いの入った一戦になる。心配なら、そのまま地下通路までついていくことだってできた。
そうしなかった理由は単純だ。今の彼女なら大丈夫だと、心の底からそう思えたから。
期待も不安も、一人で隠すことなく。いつも通りに緊張していたシオンを、自分は今度こそ、ちゃんと送り出すことができたのだ。
──────────
「……トレーナーさん。今、すごく情けないこと、言っていいっすか?」
「? 何かあったのか」
軽く会場の様子を見に行って、控え室に戻ってきた時のことだった。
シオンは大人しく備え付けの椅子に座っていた。きちんと姿勢を正して、風の凪いだ海のように落ち着いた表情のままで。
……ただ、見ていると確かに、少し違和感があった。
それが何なのか。考え込んでいると、そこで彼女の口元だけが小さく動いた。
「その、実は緊張しすぎて……立てなくなっちゃったんすけど」
「!?」
意外すぎた告白。自分は慌てて傍まで駆け寄っていた。
その通りだった。近くで見ると、彼女の身体は嘘みたいにガチガチになっていた。部屋を離れる前までは軽いストレッチなんかもしていて、決してそんなことはなかったはずなのに。
「な、何かできることはあるか?」
「とりあえず、手を貸してもらえないかと……まずは椅子から」
「お安いご用だ」
右腕を差し出す。シオンはそれをゆっくりと掴んだ。
身体の震えが伝わってくる。それをしっかりと握り返して、彼女を少しずつ椅子の上から引き剥がしていく。
事を慎重に進めていくうちに、手の平の震え自体は徐々に落ち着いていった。
「……やっぱり、これが安心するんすね」
「だったらいいけど。体調は本当に大丈夫か? 今ならまだ」
「はは……それが、そっちはむしろ絶好調に思えるんすよね。こんなんで、どの口がって思われるかもっすけど」
そう言って苦笑い。嘘を言っているようには、とても見えなかった。
しっかりと背筋を伸ばして、シオンが最後まで立ち上がる。
繋ぎ合った手は、まだお互いに離さないままでいた。
「何だか、懐かしいっすね。菊花賞の時も、こうしてもらったんでしたっけ」
「そう、だったな。確かに、あの時も君は緊張してた」
思えば、今のこの状況ともどこか似ている気がする。間に神戸新聞杯もあったとはいえ、夏合宿から積み上げたもの全てを出し尽くすことのできたあのレースは、ある意味では自分たちの再スタートでもあった。
三冠を巡る最後の一戦は、シオンにとっても多くの葛藤があった。それなら、今回もそれと同等以上の不安を抱えているのかもしれない。
(だから、菊花賞の時も、こうして)
記憶が輪郭を強くしていく。同じタイミングで、シオンがもう一方の手をこちらの手に重ねた。
そのまま、両手でしっかりと握りしめる。目を閉じて、まるで祈りを捧げるように。
「すみません。もうちょっとだけ、このまま」
「……ああ」
残った微かな震えを越えて、その先にある彼女の鼓動まで伝わってくる。
激しく脈打っていたそれも、徐々に一定のリズムを取り戻していく。最初は臆病な小人のようだったけれど、それでもしっかりと地に足を付けて、彼女の身体には確かな熱が灯されつつある。
(あの時と、同じ……)
ただシオンにお願いされるまま、同じように手の平を差し出していた。たったそれだけのことしか出来ていなかった。
彼女がまた、これで十分だと言ってくれたとして。自分は本当に、それでよかったのだと胸を張れるだろうか。
今この場で最も近くにいて、ここにいるウインバリアシオンの支えになることができる、たった一人の担当トレーナーとして。
「──!」
そっと触れた指先から、彼女が驚いたのが伝わってきた。
ちょうど、自分ももう片方の手が空いていた。少し迷って、結局それくらいしかできないなと、そちらの手を伸ばした。
「大丈夫。君はもう、どこまでだって走って行ける」
シオンの頭を撫でながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
まるで何かを託すように。そうすることを、いつしか自分は
「……えへへ」
それに応えるように、シオンが顔を上げる。
彼女は真っ直ぐで、それから柔らかく解けるような笑顔を返してくれていた。
「もう一度見せてくれ。シオン」
「他の誰でもない。君が信じる、
──────────
(……思わず、あんなことをしてしまったわけだけど)
今になると、少しだけ後悔もある。というか単純に照れくさかった。
いくらトレーナーだからといって、流石に距離が近すぎたのではないかと。
「……ふふ」
それでも、彼女が笑ってくれたのは見間違いじゃなかった。
だったらそれでいいじゃないか。少なくとも、そんな反省は後でいくらでもできるのだから。
今くらいは、大切なパートナーと通じ合えたあの瞬間を、嬉しく思っても。
「なんだい、手の平なんて愛おしそうに見つめて。……控えめに言っても、ちょっと気持ちが悪いな」
「やかましい。空気を読んで今すぐ黙って家に帰れ」
「おっ。久しぶりにキレッキレじゃないか」
控えめに言って、いいところで水をぶっかけられたような、最低の気分だった。
振り返ると、やはりあいつだ。オルフェーヴルの担当トレーナーであり、同期の天池が立っていた。
「その調子なら、変に気を遣う必要もなさそうだね。やれやれまったく。こう長く接していると、君の毒舌も案外心地が良くなってくるものだ」
「口が減らないヤツだな……気持ちが悪いのはどっちだよ」
毒を吐いても喜ばれるのなら、それはもうどうしようもないのかもしれない。ここまで続いた腐れ縁も、そろそろ切り時が見えてきたというところだろうか。
……まあ、流石にそれは半分くらい冗談ではあるが。
「まあまあ。ほら、もうパドックが始まるよ」
観客席の賑わいは聞こえていた。自分もそろそろじゃないかと思っていたところだ。
大きなスクリーンが動き出す。実際のステージの方でも、ウマ娘たちが壇上に並び始めていた。
『一番、ウインバリアシオン』
最初に登場したのは、シオンだった。
それはまるで、これから堂々と舞台に向かう一流のバレリーナのように。鮮やかで切れ目のない、見事な
今回は三番人気というのが、少し悔しいところではあったが。それでも、彼女のパフォーマンスは十分に観客席を湧かせていた。
『十一番、オルフェーヴル。──一番人気です』
そしてパドックの中盤が過ぎ、ついにその名が呼ばれる。
瞬間、歓声が大きく立ち上がった。まあそうなるだろうと思えるくらいには、もうそれにも慣れてしまっていたが。
その瞳はどこにも執着することなく、ただ遥か遠くの一点を見つめるように。オルフェーヴルは静かに虚空へと手を伸ばす。そこに自分の得るべき栄光が見えているのだろうか。その指先は震えもなく、微動だにしていなかった。
「はは。どうだい、あのオルフェの高貴な姿は」
後に続くウマ娘たちのパフォーマンスも終わった頃。興奮を抑えきれない様子で、天池がこちらを振り返った。
「もはや一縷の隙さえもない。あれこそまさに絶対の王の姿だ。ベストコンディションの彼女には、もはや誰一人として手が届きはしないだろうね」
「ああ……まあ、いつも通りだな。今さら驚きもないさ」
長い溜め息が零れる。その後で、こちらも負けじと言い返した。
「その油断が命取りにならないといいな。見たろ、うちのシオンの美しいレヴェランスを。一番手からあの出来映えだ。正直、王の威光とやらもいくらか
「君の目は節穴か? あれほど格好いい彼女の姿を目の当たりにしておいて」
「バカ言え。うちの子の方がずっと格好よくて可愛い」
「いいや、うちの子の方がたまに見せるギャップが可愛くて尊い」
いつの間にか、それは下らない口論にまで発展していた。
お互いに次々と担当への褒め言葉を並べつつ、その傍らで、ゲートインに向かっていくウマ娘たちの姿を見送っていた。
「……ああ、そうだ。一つ言い忘れてた」
やがて、最後のウマ娘の姿がゲートの中に収まる。
その頃には、流石に自分たちの言い合いも落ち着いていた。まともに議論を続ければ話は尽きなかったのかもしれないが、いい加減バカらしくなってきたのだ。
忘れていた用件を思い出したのは、ちょうどそんなタイミングだった。
「例の一件。……世話になったな」
「……え。それ、今言う?」
「今言っとかないと、気持ち悪いと思ったんだ」
そのことだけは、やはりどうしても借りになるだろう。いつか、ちゃんとした形でそれを返さないといけないのは分かっている。
勝手だが、今は心につかえていたものを整理したかっただけだ。この場で深々と頭を下げたって、それこそどさくさに紛れた形になってしまうだろう。
「相変わらずマイペースだな……まあ、しばらくは貸しておくよ。正直、今はそんなことどうでもいい」
「そうか。じゃあ、ここは遠慮なく」
お互いに視線だけを交わして、最後は短く済ませることにした。
「「今日は絶対、うちが勝つ」」
それから間もなく、レース開始を告げるファンファーレが高らかに鳴り響いた。
【あとがき】
毎度どうも、鵜鷺りょくと申します。
第46話、いかがだったでしょうか。
今回は宝塚記念出走までのお話。火花を散らすシオンとオルフェ、そしてトレーナーたち。
お互いを深く知り合ったシオンと松早のやり取りなんかも、印象的だったのではないでしょうか。
そして、次回もまた二本立て。長かったこの物語も最終回となります。
最後までどうか、気長にお待ちいただければと思います。