夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
「──先頭は、あたしのもんだ!!」
弾け飛ぶような金属音。その時、ゲートが開け放たれた。
それぞれが力強く一歩を踏み出した後、絶え間ない
『スタートです。まずはキレイに揃いました十六人のウマ娘──』
隊列を形成するウマ娘たち。実況が彼女たちの名前を呼び上げていく。
まずハナに立ったのは十六番。かつて日経賞でも対戦したが、序盤から大逃げを敢行し、結局最後まで捕らえられなかった子だ。今回は程々のリードに抑えながらペースを作り始める。
七番、九番もそこに続く。その後ろには二番人気のルーラーシップ、昨年秋の天皇賞を獲ったエイシンフラッシュも控えていた。
(そこから少し空いて──中団、やや後ろ)
そこに、一番人気のオルフェーヴルがいた。
やや離れた位置で一人。前後の集団に挟まれながらも、今は比較的自由な位置だ。そこに変わらずどっしりと構えていて、まだ同じくシニア級に上がったばかりだというのに、その立ち回りにはすでにベテランさながらの
……だが、安定感ならシオンも負けてはいない。
現在位置はオルフェーヴルの少し後ろ。作戦通り、今回は最後方からではなく、中団寄りの場所に構えている。しっかりコースの内側を押さえたまま、落ち着いて前の出方を窺っている。
元々脚質の似た二人だ。ここからの狙いも、おおよそは同じと見ていいだろう。
「静かな立ち上がりだね。さて、ここからどのくらい荒れるかな」
「どうだろうな……」
いっそ終盤まで
先頭、十六番のペースは相変わらず。実力者揃いのグランプリレースというだけあってか、やはり後ろを警戒せざるを得ないのだろう。続く前方集団の中でも多少の前後はあったが、全体的に見ればほとんど誤差の範囲だ。
一方、後ろの集団も気に掛かる。ここまで目立った動きはなく、中団のオルフェーヴルたちを気にしている可能性もあるが、どこかひっそり息を潜めているようにも見える。……不気味だ。
今回はこちらが選ばなかった、後ろからのロングスパートによる奇襲作戦。そんな線もあるのかもしれない。警戒しておくに越したことはないが。
(……予想通りか)
最初のコーナーを越えて、
それは膠着というより、むしろ温存か。経験も豊富な有力選手が揃っているだけあって、皆が自分の走り方に集中し、展開に左右されることなく淡々と攻め時を見据えているように思える。
ここまで来ると、生半可に場を荒らしても意味がない。余計に体力を
となれば、やはり荒れるのは終盤──
『お互い見合ったまま第三コーナーへ──っ、ここで七番が動いた!』
前方集団の一部が進撃を開始。ここでついに先頭を捕らえんと前に迫っていく。
ほとんど同時に、中団でも動きがあった。
外からルーラーシップ、次いでエイシンフラッシュ。また一方では、内側を切り裂くようにオルフェーヴルが前に出る。
(よしっ、ここだ──)
展開がはっきりと変わった。そして、ここまでは想定の範囲内。
外側で静かに構えていたシオン。彼女もまた、今まさに中団から飛び出していく最中にあった。
序盤。スタートダッシュに遅れはなかった。
次々と動き出していくウマ娘たち。みんなに置いていかれないように、あたしもそこへ続く。
(今日は、もう少し前……!)
事前に決めた作戦の通りだ。先頭集団を追いかけるフラッシュさんたちに次いで、真ん中より少し後ろの位置まで移動する。
狙いは多分同じなんだろう。その近くにはオルフェーヴルの姿もあった。
(……落ち着いて)
距離を置いて、視界を広めにキープする。一人だけに集中するんじゃなくて、それを含めた前方の様子までちゃんと見られるように。
先頭の子の逃げは相変わらずだ。前の日経賞ではしてやられたけど、今回はそんなに離れていない。この位置からなら、十分に捕まえられる余裕はある。
それから、後ろ。少しずつ隊列も整ってきていて、今はこれ以上上がってくる様子はなさそうだ。……でも、何だかプレッシャーを感じる。気を抜いた瞬間、一気に差しきってきそうな、背筋にぞわりとくるような気配だった。
(でも、ちゃんと見えてる)
前も後ろも。みんなの位置取りや、すぐ前にいるあいつの細かな息づかいも。
合わせて十六人分。地面を叩く蹄鉄の音は切れ目なく続く。少しでも冷静さを失ったら、それはすぐにノイズみたいになって思考をかき乱してくるだろう。あたしも経験はあるし、それも気が抜けない。
背景音みたいに聞き流せている今くらいの感じが、多分丁度いいはずだ。
(──この辺りかな)
最初のコーナーの後、向正面に入る。
あたしはもう何歩分か前に出ていて、オルフェーヴルとはほとんど横並びになっていた。
そこで、少しだけ身体の力を抜く。
スピードの加減に気をつけながら、まず余計な筋肉の張りを緩めていった。それから、そこまで意識的に動かしていた手足の回転を、徐々に感覚の方へ預けていく。
「すぅ──はぁ──」
最後に深呼吸。要は、肩の力を抜いてリラックスって感じだ。
今はまだ直線。ここまで来れば、しばらく展開も動かないだろう。一定のペースを維持できている今だからこそ、落ち着いて力の整理が出来る。そうやって浮いた分の体力を溜め込んで、終盤まで持っていくのが狙いだった。
レースの緊張の中でやるのは、ちょっと勇気がいるけど……ここは、事前にしっかり練習しておいた成果が出せていた。
「……!」
第三コーナー、直前。そこで場の空気が変わった。
前だ。誰かがひっそり息を整えたのが分かった。実際、視線の先でゆっくり位置取りを上げていく子がいる。
「はっ──狙い通りだ。逃がさないぜ?」
「私もです!」
外側にいた二人の掛け声。ルーラーさんとフラッシュさんが、それぞれのタイミングで中団を離れようとしていた。
「ふんっ……!」
そこでオルフェーヴルも動く。彼女はまさかの内側に
「っ……大胆だな、相変わらず……!」
そっちは前方の子たちも集中している。それは自分から乱戦に飛び込んでいくような明らかな無茶で、もし前が詰まったりしたら、すぐにどうしようもなくなってしまいかねない。
……だから、思わずびっくりしちゃったけど。
多分、あいつにとっては一か八かの賭けですらないんだろう。ただ行けると思ったからいった。きっとそれだけのことだ。
「はぁぁぁぁぁぁッ!!」
びびってる場合じゃない。あたしも外側に向かって一歩目を踏み出す。
降りかかる遠心力の風。外を目指そうとすればするほど、それは重たくのしかかってくる。……でも、乗りこなすのはもう慣れっこだ。
体幹を意識。重心を慎重にずらしながら、前へ進む力に変換。
長いコーナーの中を巧みに曲がって、あたしはスムーズに前方集団へと合流した。
「──!?」
ここから最後の直線。
後ろで、まるで突然爆発したみたいに気配が大きくなる。地面を抉るような力強い足音がどんどん迫ってくる。
(やっぱり、終盤を狙って……!)
追いついてきたのは、ずっと後方集団に位置取っていた二番の子。ずっと感じていたプレッシャーの正体は、きっと彼女だ。
お互いの影が交差する。勢いのままあたしを躱して、彼女の背中が目の前に立ちはだかった。
「くっ……」
気を抜いていたわけじゃない、けど。
敵ながら見事なロングスパートだ。それは想定よりもずっと速く、レース中に稼いできた後方との差を一気に詰めてきた。
先頭までの距離は、さらに遠くなる。
ワァァァァァァッ……!!
歓声が一気に立ち上がる。
第三コーナー以降、レースの状況は刻一刻と移り変わりつつあった。
「オルフェっ!」
「シオンっ!」
最終コーナー。まず内側をぶった切ったオルフェーヴルが前に出る。そこからもうトップスピード。相変わらず化物じみた加速力だ。
対して、シオンは曲線に沿って外側を駆け抜ける。鮮やかなコーナリングでエイシンフラッシュたちを躱し、素早く最後の直線へと合流した。
現在三番手。前にはルーラーシップと、その先にオルフェーヴル。
やや苦しいが、前二人との距離はそう離れていない。これならまだ勝負は。
「おらぁぁぁぁぁッ!!」
「なっ……」
だが、そこで急展開があった。雄々しい掛け声とともに、後方から直線へと駆け上がってきたウマ娘がいた。
二番。それまでは存在感のなかった子だ。ずっと後ろに隠れていたのか。
そのまま怒濤の勢いで先頭争いに乱入。全員を抜き去るには至らないながら、それでも油断ならない気迫を残していた。
「だが、阪神の直線はそう長くない。……大勢は決まったかな」
「っ……」
先頭はオルフェーヴル。二番手争いをくり広げるルーラーシップたち。そして、シオンはそのさらに後ろ。
四番手だ。ここに来て、微かに見えていた勝機は遠のいてしまった。
「ねぇ、もう苦しそうだよ? このままじゃ……」
「まだだっ、バリやんならここから!」
「シオンちゃん……っ!」
揺れる観客席。その片隅からは悲痛な声が飛ぶ。
前との差が縮まらない。後ろもまだ迫ってきている。今の位置取りを維持することができたとしても、前に出られるだけの脚が残っているかどうか。
分からない。状況はすでに一杯になったと言えるのかもしれない。ここからの逆転なんて──
(いや、まだだ)
手すりを握って、もう一度足を踏ん張り直す。
シオンはまだ顔を上げている。脇を締めてフォームを崩さず、チャンスを探しながら必死に脚を回し続けている。
諦めない気持ち。それこそが、彼女の原動力だったはずだ。
それをずっと見てきた自分たちが、ここで下を向いてどうする。結果が決まる最後の瞬間まで、この目を逸らすことなんて許されない。
よそ見はしないって、そう約束したのだから。
──
「……!」
そこで、一瞬の風が頬を切る。
肌が粟立つ。それは、徐々に大きくなっていく誰かの気配だった。
吹き上がる熱風のような、毒々しい執念にも似た。
少し異質ではあったけれど。自分は確かに、それが誰のものなのかを知っている気がした。
(──シオン?)
目をこらす。ターフの上に見えていた情報を、頭の中でもう一度整理し直す。
立ちはだかる三つの背中。果敢にそれを追いかけるウインバリアシオン。彼女の躍動が、ほんの一瞬だけ緩やかになった。
深く、姿勢が沈み込む。踏み込んだ脚に力を溜めるように。
(! いけるのか……?)
もはや一杯になったと思われた、その状況から。おそらくシオンは更なる加速を始めようとしている。
かつて、その横顔には不安が残っていた。あの時の判断は、とても冷静ではなかったと思う。
でも、今は。今の彼女なら。
(っ──! 行けっ、シオン!!)
精一杯の掛け声を飛ばす。過去の自分の制止を振り切るように。
直後、風が逆巻いた。
ターフを駆ける二つ結びの赤い髪が、そこで天高く舞い上がる。
「だぁぁぁぁぁッ!!」
力強く、揺らめいて。
それはまるで、煌々と燃え盛る炎のようだった。
(っ……四着、かな。このまま行くと……)
向かい風が吹き付ける。少しも近づけない前との距離に焦りながら、それでも、頭の奥だけは微かに冷静だった。
精一杯の力は、もう全身に行き渡っている。どれだけ息を吸っても、どれだけ脚の回転を速めようとしても、きっとこれ以上は変わらない。長くない最終直線の中じゃ、この状況は確かに苦しいという他ない。
(まだ、何か足りない……?)
心のどこかでは、そう感じてもいた。それは前みたいに気が逸って、ただ自分自身を追い詰めるような荒んだ気持ちじゃない。
あたしはまだ、この先に行けるかもしれない。
……なんて、これといった根拠もない、ただの予感から出てきた期待だった。
(あの背中……いい加減、見飽きなきゃいけないのにな)
立ちふさがるルーラーさんたち。そのさらに向こう側で、オルフェーヴルはまだそこを走っていた。
まるで仁王立ちでもしているみたいに、しっかりと先頭に陣取って。スピードは全然衰えないし、むしろもっと速くなっているくらいにも見える。
……当たり前に、そこにあった背中。それはまだ、心の底から憎たらしくて。
どうしようもないくらい、キラキラしていた。
「……」
どれだけ否定しても、多分あたしは変われない。あいつはまだあたしの憧れで、昔からずっと目指してきた主役の姿そのもので。
だから、やっぱりあんな風にはなれない。
遥か遠くに輝く一等星。ただそこにあるだけで、何もかもを惹き付けて、その目を釘付けにする。
悔しいけど、それだけは変えることの出来ない事実だった。
「シオンちゃん!」
「バリやん!」
「頑張って、シオンくん!!」
……でも、ちょっとだけ違うんだ。
こうやって前だけを見ていても、今はみんなの声が聞こえる。あいつばっかりを応援していたような世界の中から、それだけを見つけることが出来る。
(それで、十分だった)
どこまでいっても、あたしはあたしだ。どれだけ不器用でも、情けなくても。そんな自分を抱えたまま、走って行くしかなかった。
それを見ていてくれた人たちがいる。みんなが見ている景色の中で、きっと今もあたしは輝いている。
それを証明したいから、まだ走るんだ。
あいつの向こうにそれがあるから、諦められないんだ。
──もう一度見せてくれ。シオン。
控え室で聞いたトレーナーさんの言葉が、もう一度頭に浮かんでくる。
(あたしが信じる……ウインバリアシオンの走りは)
泣いてばっかりで、恰好なんてつかなくて。それでも、その舞台の上で自分に出来ることを、諦めずに最後までやりきってみせる。……あたしの努力は、それを支えるためにあったのかもしれない。
今は、そう信じられる。だから。
「だから、どけ……っ、退けよ!!」
もう一歩、思いきりターフへ踏み込む。精一杯に屈んで、ありったけの力を下半身に集中させる。
視線は前に。その間も先頭は遠のいて、後ろの足音は迫ってくる。……それでもやれる。前のあたしができなかったとしても、今回もそうとは限らない。
今、この加速は、あいつにだって絶対届く。
「その場所は──
足下の地面が砕け散る。同時に、あたしは姿勢を前に押し出した。
風が変わった。止まっていた景色が勢いよく流れ出して、あたしはその先へと駆け抜けていく。
ただ思いのまま。今の自分が、行けるところまで。
【あとがき】
毎度どうも、鵜鷺りょくと申します。
第47話、いかがだったでしょうか。
ついに始まった宝塚記念本番。レース開始からその終盤に至るまでのお話でした。
前方に立ちはだかる三人のウマ娘。果たして、シオンはその先まで届くのか?
次回、最終話は本日20:30より公開予定です。
シオンたちの物語の幕引きを、どうかその目で見届けていただければと思います。