夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
今を誇って、笑いあう。
……それは、まるで
そこでふと、遠い昔の出来事を思い出す。
「あれ?」
「ん。どうかしたのかい。シオン」
ぴくりと、耳が動く。小さなあたしは、テレビから流れてきたある言葉に反応していた。
それはまだ幼い頃のこと。お休みの日の午後なんかにバレエの映像を見るときは、父さんの膝の上があたしの定位置だった。
顔を上げれば、すぐ傍に父さんがいて。不思議そうに首を傾けていた。
「うん。今ね? お名前よばれなかった? あたしの……"バリアシオン"って」
「おっ、正解だ。よく聞いていたね」
「えへへ」
今思い返しても、少しだけくすぐったくなる。
そんなちょっとしたことで、とは思うけど。それでも父さんは、いつもそうやって褒めてくれた。
「そうだな……舞台の上で一人で踊ること、といえば分かるかな? 一番目立っていて、かっこよくて、みんなの視線を独り占めにする。難しくて大変だけれど、同時に一つの物語の主役ともいえる、大切な役目なんだ」
「へぇ……そうなんだ」
あの頃はまだ、何となくバレエが好きだっただけで。用語の意味なんてほとんど知らなかったから。
だからこそ、そうやって少しずつ知識に触れていくあたしのことを、父さんは密かに喜んでくれていたのかもしれない。
「じゃあ……あたしが、しゅやく?」
「はは、そうだよ。いつまでも、君は僕たちにとっての主役だ。とても愛おしくて、大切で。いつか大きくなった君が何を夢見て、どんな道を生きていくとしても。それだけはずっと変わらない」
大きな手が、優しく頭を撫でる。
そっと抱きしめられて、あたしはやっぱりよく分からなかったけど、すごく温かい気持ちになったのは覚えている。
「それから、願いでもあるんだ」
「ねがい?」
「ああ。……これから先、僕たちと同じか、あるいはそれ以上に。君のことを大切に想い、その幸せを願ってくれる人たちが、きっとたくさん現れる。
君がそんな人たちを愛し、みんなの輪の中で胸を張って、目の前に広がる世界を誇らしく歩んでいけるように。君の名前には、僕たちのそんな願いが込められているんだよ」
父さんはそう話していた。その時は多分、小さなあたしの方が首を傾けていたと思う。
それに気づいたんだろう。語りすぎてしまったねと、父さんは付け加える。
「なに、難しく考えなくていいさ。君にもきっと、いつか分かる時がくるよ」
そして、それすらも微笑ましそうにして。
父さんは、あたしに向けて柔らかく目を細めていた。
──────────
その時、まるで会場全体がひっくり返るような、どよめきがあった。
『う、ウインバリアシオン! まさか、ここで上がってきた!!』
『じりじり伸びる! 前のウマ娘たちの背中へ着々と詰め寄っていく!!』
第五十三回・宝塚記念。その終盤たる最後の直線。
最終コーナーからもつれ込む混戦の中、先頭に立ったのはオルフェーヴル。それを二番手以降のルーラーシップたち二人が追っていた。
すでに三者ともに一杯。レースの大勢はほぼ決まったかに思われていた。
「だぁぁぁぁぁッ!!」
そこで動いたのが、さらに後ろで四番手に控えていたシオンだった。
土壇場で見せた二段階目の加速。彼女もまた一杯かと思われたその状況で、まさかの逆転劇が始まろうとしていた。
「わ、わっ! すごいすごいっ! シオンちゃん、どんどん速くなってくよ!!」
「三番手……いや、もうルーラーシップも躱したか……!?」
観客たちが騒然とする。その間も、シオンは着実に先頭の影へと近づいていた。
王の勝利を見据えていた人々が浮き足立ち、自分たちにとっての主役だけを信じていた人々が熱く叫び出す。
「ど、どっちが勝つの……!?」
「んなもん分からねぇよ! けどっ──」
しかしギリギリの勝負の中で、対極に見えたその二つの境目が混ざり合っていく。
「いいさ、どっちが勝っても……だって今、俺たちはこんなに熱くて堪らないんだから!!」
いつの間にか、観客たちはすっかり見入っていた。彼女たちが作り出す、積み上げた因縁と、譲れない思いがぶつかるその物語に。
……まるで、奇跡みたいだ。
こんな未来なんて、もしかしたら誰も予期していなかったのかもしれない。
(……でも、俺はその光景を知っている)
そこに至った理由も。それを支えたシオンの今までの努力も。
忘れるはずがない。かつての一線、クラシック三冠を巡る最後のレース、菊花賞。あの時、逆転を成し遂げたのはオルフェーヴルだった。
レース最終盤。後方から怒濤の勢いで追い上げ、一度はシオンが先頭に立った。しかし次の瞬間、オルフェーヴルがそれを差し返した。異常な二段目の加速をして、まるで突然人が変わったように。
あれから、ずっとその理由について考えていた。それでも結局、それが何なのかは分からず終いだったけれど。
(今なら、分かる)
あれは進化──一つの成長だったんだ。
特別な技術でも、まして作戦でもない。あの場でオルフェーヴルが自分の殻を破ることなんて、きっと彼女自身にも分からなかったはずだ。
ウマ娘の成長曲線は一定じゃない。長い歴史を遡れば、それが急な変化を見せた瞬間だってあっただろう。
オルフェーヴルのそれは、確かに異質ではあった。けれどそれも、理論上は誰にだって訪れる、ありふれた可能性の一つでしかなかった。
(だったらそれは、いつか彼女にも──)
届かなくても、圧倒的だったライバルの背中を追い続けて。終わりの見えない暗闇のような日々の中でも、諦めずに努力を積み重ねてきた。
それを、ずっと見てきた。
シオンのその走りが、今この瞬間に一つの形を成そうとしている。
「逃がさないッ、オルフェーヴル!!」
「ハッ……待ちくたびれたわ。たわけが」
潤んだ目を拭い去る。前を見て、その光景だけに全神経を注ぐ。
今なおターフを駆ける彼女たちの声が、一瞬だけ聞こえたような気がした。あるいは錯覚だったのかもしれないが、それについて深く考えていられる余裕もない。
「だが、よい──存分に
「勝つ! 絶対にッ!!」
シオンが並ぶ。だが、オルフェーヴルもまだ余力を残していた。
残り二〇〇メートル。揺らいだ運命の行く先は、火花を散らす二人の手に委ねられた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
観客席の声が、肌にビリビリ伝わってくる。
それは今までに感じてきたどれよりも強くて、はっきりしていて。怖いけど、ちょっとだけ楽しい。
大歓声が響き渡るターフの先頭を、あたしたちは走っていた。
「やぁぁぁぁぁぁッ!!」
「オォォォォォォッ!!」
あたしが叫ぶと、あいつはもっと大きく叫ぶ。
あたしが一歩前に出ると、あいつは二歩前に出る。
……それは逆も同じだ。
一進一退。あとのほんの少ししかない直線の中で、あたしたちはひたすらそれを繰り返す。
(まるで、本当のライバルみたいに)
あっちがどう思っているかなんて、今でも分からないままだけど。
でも、あたしはそう思っている。そう思ってきたから、ここまで頑張ってこられた。最初に出会った時から、ずっと。
(……あんたは、ずっと変わらなかったから)
オルフェーヴルと出会わなかったら、もしかしたら、あたしはずっとスタート地点に立ったままだったかもしれない。
叶えられなかった夢の欠片を眺めるだけで、もう一度それを形にしようなんて、思えなかったかもしれない。
あたしをボコボコに負かして、何度も悔しがらせて、終わらせてくれなかった。
あんたがいたから、あたしはもう一度走り出せたんだ。
(お礼なんて、今さら言うつもりないけど)
風が強くなる。ゴールラインはもう目と鼻の先だ。
そこでオルフェーヴルがもう一歩を踏み出す。あたしが追い抜き返す前に。そうして、一瞬だけ距離が開く。
大きな後ろ姿が、また目の前を覆い隠そうとする。
『いけっ、届け!』
『ウインバリアシオン──っ!!』
……そうしたら、またあの人の声が聞こえた。
それはきっと、最初の声だったんだと思う。すごく必死そうだったし、あの人が今も覚えているかは分からない。
もし覚えていたとしても、あたしにそれが届いていたなんて、きっと思っていないだろう。
(あたし、ずっと覚えてたんすよ)
そう言ったら、また笑ってくれるかな。
照れくさそうに、頬をかいて。それでも、ちょっとだけ嬉しそうにして。
(……また見たいな。トレーナーさんの、あんな顔)
最後の一歩は、そんな単純な理由からだ。
あの人を救った光。あたしたちが出会った最初の模擬レース。それでもあれは、まだ完全な光とは言えなかったはずだ。
たくさん迷って、すれ違って。あたしたちの思いはまた重なり合った。
あの日の夢の続きは、この先にある。
「っ──ハァァァァァァァッ!!」
ずっと、一緒に見たかった。
違う道を歩いてきて、それでも似たもの同士の苦しみを抱え込んできた。そんなあなたと。
今、あいつを越えて。最後のラインの、その向こう側へと踏み出して。
あたしが連れてくる。今度こそ一生忘れられないような、長い夜を越えた先にある、その眩しい景色を──。
───ダンッ!!
『っっ、ゴーーーーールインッ!! 一着、ウインバリアシオン!!』
『熱戦の続いた宝塚記念! 勝ったのは一番──
──────────
……誰かの勝利が、どこかで鳴り響いている。
頭はキィンと鳴っていて、全身には汗の感触が滲んでいく。心臓がバクバクとうるさくて、苦しい息継ぎが止まらない。
(今まで走れてたのが嘘みたいだ……)
あんなに身体が軽かったのに。前を見ているだけで、いくらだって力が湧き出してきたのに。
今はもう、一歩だって動けそうにない。
(…………でも、そっか。あたし)
ようやく、実感が追いついてくる。耳に残っていた残響が、ようやくあたしのものになっていく。
でも、本当に恰好がつかないや。下を向いて、膝に手を突いたままで。こんなんじゃ、どっちが勝ったかなんて分からない。
……あいつは、今どうしてるだろう。
「……」
「……」
どうせ、後ろでまた偉そうにしてるんだろうなって、そう思ってたけど。
顔を上げたのは、ほとんど同じタイミングだった。あいつは腰に手を当てたまま、背を伸ばして立ってはいたけど、顔にははっきりと汗をかいている。
お互いに
「……あたしの勝ちだ。オルフェーヴル」
特別な言葉は、あんまり上手く思い浮かばなかった。
最後に出てきたのは、多分とてもありふれた言葉だった。それが、今までのあたしたちが積み重ねてきたものに相応しいかなんて、そんなの分からない。
……でも、意外に。
ちゃんと声に出してみると、そんなに悪くない気分だった。
「随分、待たされたものだ」
「……」
「一体どれほどになるかと期待もしたが……ふっ。存外、大したものでもなかったな」
そう言って、くるりと姿勢を返す。
何が言いたいのかは、よく分からなかったけど。またバカにされたような気がして、あたしはちょっとだけムッとした。
「──だが、それでよい」
「
立ち止まった背中は、最後にそんな言葉を残していった。
(……余に打ち勝った、か)
正直、物足りない。
他に言うことないのかとか、もっと悔しがれよとか、色々なことを思ってしまうけど。
(やった。あたし、やったんだ。やっと……っ)
それでも、あたしはそういうところ、単純だから。
たったそれだけの言葉を噛み締めて、次々に湧き上がってくる喜びに身体を震わせて。
ようやく掴んだ大金星を掲げるみたいに、晴れ渡る青空を思いきり見上げる。
ワァァァァァァァァ……!!
観客席からは、今日一番にも思えるくらい、大きな歓声が降り注いでいた。
それは不思議と温かい雨みたいで。
目に染みこんだそれが溢れて、頬を伝って流れていく。
(……困ったな)
どれだけ拭っても、視界がぼやけてばっかりで。
ずっと待ち望んでいたはずのせっかくの景色が、今はよく見えない。
『ゴーーーーールインッ!! 一着、ウインバリアシオン!!』
その一報が、瞬く間に会場を駆け抜けていく。
最高潮を迎えていた観客たちのボルテージを、はっきりと締めくくるように。
(一歩届かず、か)
一着、ウインバリアシオン。二着、オルフェーヴル。
もはや状況は動かないと思われた、あの最終直線。そこからウインバリアシオンが驚異の二次加速を敢行し、先頭を走っていたオルフェを捕らえ、最終的には差し返して見せた。
まるで、大きく運命が変わったような瞬間だった。
そう思えてしまうほどに。今目の前に広がっているその光景は、少なくとも僕の目には、とても受け入れがたい色をしていた。
「…………やられたね」
どうにか気持ちを飲み込んで、そんないつも通りの口調を再現してみる。
絶対の王のトレーナーとして、落ち着いて振る舞っていたという気持ちもあったけれど。今は何より、下手に悔しさを露わにしているところを、隣の彼に見られたくなかった。
「
ただ、そう語りかけてみても、返事はなかなか返ってこなかった。
彼がつれないのなんて割といつものことだけど、流石に無視はあんまりだ。苛立ちを隠すことなく、初めてそちらを振り返る。
「────」
松早は、泣いていた。
瞳からは涙が溢れていて、それが頬を伝いながらもまだ前を見ている。その視線は、遠くの担当ウマ娘に焦点を合わせたまま動いていなかった。
あるいは、今自分がどんな顔をしているのかさえ、彼は気付いていないのかもしれない。
(……そうだ。こういうやつだったな)
変に気を遣うことはなかったのかもしれない。
こちらが悔しがっているかどうかなんて、彼は最初から気にしていなかったのだろうから。
「君のそんな顔は、初めて見たな」
「……! っ、うるさい。これは、違う。泣いてなんか……」
二言目をかけて、ようやく気が付いた様子だった。
驚いたように涙を拭って、それでもなかなか止まらないから、せめてもと悪態をつく。そんな姿は、ただどこまでも素直な子供のようだった。
「……」
何だか、いつかを思い出してしまう。
『──おい、何を泣いている。まだ一つ目を奪い返したばかりであろうに』
『あっ……す、すまない。これは……っ』
……分かってしまうのが、どうにもやるせなかった。
担当ウマ娘が勝ったのだ。GⅠレースという大舞台での、初勝利だったのだ。とても平静を保っていられるはずがない。
トレーナーなんてものは、きっとどこも似たようなものなんだろう。
「やれやれ。……強がるのも結構だけど、そろそろ行かなくてもいいのかい? 彼女、もうスタンドの前まで来ているようだけど」
話題を切り替えて、眼下のターフへと視線を移す。
ウィナーズサークル。その日のレースを制したウマ娘だけが立つことを許される、勝ち取ったばかりの栄光を高らかに示すための場所。
ウインバリアシオンは、既にその前までやってきていた。
「……がんばったのは、シオンだ。俺は、別にここからでも」
「君がそう言うのは勝手だけどね。ほら、彼女はずっとこっちを見ているようだよ」
「……」
「あ、手まで振りだした」
「…………」
「早く来いってさ。……あれ、もう呆れて睨んでる感じだよ。さっさと行けば」
何なら、事情を察したらしい何人かのファンもこちらを見ている。横にいる僕まで何だか気まずいじゃないか。
それでも、松早はまだそこにいた。
今さら何を迷っているんだと、そうも思ったが。慌てて顔ごと目を逸らそうとするその素振りに、そうなっている原因を何となく察した。
「まったく。行く前に、その顔だけは何とかしていかないとね」
「……余計なお世話だ」
「そりゃ失敬」
そこまで言って、邪魔者はようやく去って行った。
思い通りにならないのは相変わらずだ。ああいうところは面白くもあるけれど、同時に、やっぱりまだ憎たらしくもあった。
「……負けてしまったか」
溜め込んでいた息を吐き出す。手すりを握りしめる手には、いつしかうっすらと血管が浮き出ていた。
悔しいものだ。たった一度でも。
負けたくない相手に負けた後は、腹の底から気持ちが溢れ出て、
今はなおさらだ。この結果は、もう自分一人だけのものではないのだから。
(すまない……オルフェ)
力の抜けた視線が、下に傾く。今僕は、きっと酷い顔をしていることだろう。
こんなの、他の誰にも見せられたものじゃないのに。
「……?」
そこで、不意にポケットの中が震えだした。スマホが鳴っていたのだ。
(……知らない番号だ)
何だこんな時に。
腹が立ってそのまま切ってやろうとも思ったのだが、不思議と出なければまずいような、そんな直感が脳裏に走っていた。
『──何を俯いているのだ。貴様は』
「!?」
通話ボタンを押して、開口一番に聞こえてきたその声に驚く。
それは間違いようもなく、まだターフの上にいるはずのオルフェーヴルのものだった。
「お、オルフェ!? え、君、一体どこからかけて……」
『観客席の者より拝借した。レースの場に機器を持ち込むわけにもいかぬであろう』
「そりゃそうだけど」
また当たり前みたいに言ってのける。色々納得はできたけれど、しれっと謝らなければいけないことも増えていた。
とりあえず、その観客席の方のことだけは、後でちゃんと覚えておくように念押ししておこうと思った。
『前を見よ。
「……え」
『ただ一度の敗北程度で、我が治世は揺らがぬ。いずれヤツには、王に楯突いた報いをくれてやるだけのことだ。……余が直々にな』
……見られていたのか。
まだレースの結果が出たばかりだというのに。狼狽えていたこちらとは対照的に、彼女の声は淡々としていた。
でも、その奥には微かな震えを感じる。リベンジへの思いは、もう心の中で燃え盛っているのだろう。
『
「……!」
そこで再び、ターフの上へと視線が移る。その先にオルフェが立っていた。
こちらを真っ直ぐに見つめている。自分のトレーナーが何を成そうとするか、しかと見定めるように。……それが彼女なりの信頼であることを、僕はとっくに知っていた。
「そうだな。……ああ。その通りだとも」
一人じゃないのは、僕らだって同じだ。
次こそは、勝つ。その先もずっと、勝ち続ける。もう二度と、前を走らせることなんて許すものか。
……そして、また何度でも悔しがらせてやるんだ。
あの忌々しくも、やっぱり目を離すことの出来ない。どこまでも諦めの悪い、手強い
観客席をあとにしてからは、とにかく走り続けていた。
許されるなら、あのまま観客席の階段を駆け下りてしまいたかったけれど。そのままターフへと飛び降りて、彼女の隣に駆けつけたかったけれど。
……本当は、それくらいの気持ちが溢れていたんだ。
それなのに、今さらになって。一体何を強がっていたのだろうと、そう呆れていた。
「──遅いっすよ。トレーナーさん」
地下通路を抜けて、もう一度外に出てくる。大観衆の視線に晒される中を、それでもひたすら急いだ。
散々遠回りをして、自分はようやくシオンの待つスタンド前へとやってくる。
「はぁ、はぁ……ごめん。ちょっと、その……なかなか、気持ちが落ち着かなくて」
「? ……あ、そっか。そうだったんすね」
息を整えつつ、顔を上げる。
そうして向かい合うと、何かに気づいたようにシオンが笑った。
「トレーナーさん、目が真っ赤っすよ」
「……そう言うシオンだって」
「! ……たはは。そういえば、そうだったっすね」
感極まっていたのは、お互い様だったみたいだ。
でも、仕方がない。恰好がつかないとしても、本当はわざわざ隠すようなことでもなかった。
自分は、その涙に胸を張るべきだったのだ。今の彼女のように。
「もうちょっと、こっちに来てください」
「……ああ」
残っていたお互いの隙間を、もう少しだけ歩み寄る。シオンの視線が斜め上を向いて、自分もそれを追いかけた。
「バリやーん!! やったなーっ!! よくがんばったーッ!!」
「ぶぇぇぇぇぇッ、シオンぢゃああああん!!」
「ッ……とっても、かっこよかったですよー!! おめでとーっ!!」
見上げた観客席の一画では、よく見慣れた真っ赤な幟がはためいていた。そこにいるのは、ずっとシオンのことを見守ってきてくれた、あのファンクラブの人たちだ。
同じように、目を赤くしている人がいた。今まさに、大粒の涙をこぼしている人もいた。十人十色の表情の中で、みんながシオンの勝利を喜んでくれていた。
「素敵な勝負をありがとーっ!」
「君のおかげでオルフェも強くなった! でも、次は負けないからなーっ!!」
反対側では、また別の声も上がっている。オルフェーヴルの名前を呼ぶその声は、早くも次の戦いを期待しているようでもあった。
きっとあちらのファンなのだろうが、その声援自体が、二人が確かなライバルだと認められた証なのだと思う。
(……他にも、たくさん)
誰を応援していたかなんて、関係ない。
そこにいるたくさんの人が、今はウインバリアシオンの名前を呼んでいた。勝者を
「やっと、ここまで来られたんすね」
「ああ。……本当に、よくがんばったな」
「えへへ……」
そうやって照れる姿も、少しも変わらない。
こんなところまで辿り着いた今でも、やっぱり、シオンはシオンのままだった。
「──トレーナーさん」
凜とした声で、改めて名前を呼ばれる。見ると、シオンがこちらに手を伸ばしていた。
「今まで、ありがとうございました。あたし、あなたと出会えて……あなたがトレーナーになってくれて、本当によかった」
「……」
「これからも、よろしくお願いします」
それはきっと何の含みもない、いつもの彼女らしい、純粋なお礼の言葉だったのだろう。
一番欲しかった言葉は、もうとっくにもらったつもりでいたけれど。その上でまた、彼女の声は強く胸を打って、目の奥をツンとさせる。
……まずは一旦、
「……ありがとう。俺も、シオンと出会えてよかった。隣にいられて、ずっと幸せだったんだ」
落ち着いてから、ようやくシオンの手を取った。
「これからも、よろしくな」
「──はいっ」
お互いの手の平を、ギュッと握る。決して
応えるように、歓声は大きくなる。それがきっと、最高の瞬間だった。
(……ああ、そうか。これがそうなんだな)
シオンが連れてきてくれた景色。長い夜の明けた先にあった、温かな日の当たる場所。
決して諦めることのなかった彼女が迎えた、物語の大団円。
──さあ。どうか、その目に焼き付けてくれ。
あの日の夢の続き。たくさんの祝福に満ち溢れた、この大きなひだまりの真ん中で。
今、俺たちの
【あとがき】
毎度どうも、鵜鷺りょくと申します。
最終話、いかがだったでしょうか。
まずはここまでお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。
当シリーズ、『夜明けのプリンシパル』はこれにて一度終幕となります。
長く続いたシオンたちの苦悩と、オルフェ陣営との決着。
宝塚記念での勝利という、史実とは違う結果に思うところがある方もいらっしゃるかもしれませんが、長い物語が目指してきた二人の夜明けと、その向こう側にあった答えともいえる景色を、何とか最後まで描けたのではないかと思います。
さて本作、筆者にとっては初のシリーズ完結となります。
なので、この場で色々語りたいことは山とあるはずなんですが、それはまた後日。最終的な登場人物表などとともに、ひっそり書き記させていただければなぁと思います。
ギリギリまで作業をしていて時間が足らないのもありますが、何分、自分の中でまだ気持ちが整理できない状況でもありますので……。
この場は最後となりますが、重ね重ね、ここまで当シリーズを読んでいただけたことには、本当に頭の下がる思いでございます。
よろしければ、ご意見やご感想もいただけると嬉しいです。最終話だけに限らず、今までで印象に残ったシーンや台詞などでも。
それでは、またいつか。
どこかでお会いできれば幸いに思います。