夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─ 作:鵜鷺りょく
「それが君の強さだって、俺は信じているから」
【1】
皐月賞は、きっときっかけでしかなかったんです。
本当はずっと心のどこかにあって、見ないふりをしていただけで。
それでも、あの日のオルフェーヴルは凄まじかった。
前のレースとはまるで比べものにならない。単純な速さも、仕掛けどころの見極めも、元々抜きん出ていた風格みたいなものも。
自分の冠を取り返しにいくだけだなんて不遜な言葉も、当然のように果たしてみせた。
前だけを見据える眼差しは澄み切っていて、プレッシャーに追い立てられる様子もないまま、ただいつものあいつでしかなくて。
みんながその勇姿に注目していた。あいつの一挙手一投足が、そのまま会場の熱気になった。
オルフェーヴルというウマ娘の在り方に、皆が目を奪われる。
まるで、壮大な物語の中の主人公みたいに。
「……」
この一年間、あたしなりに必死で努力を重ねてきたつもりっす。強くなれた実感だってあるし、GⅠの舞台に恥じることのない走りはできるようになったと思う。
だけど、どうしても……あいつを抜き去った先の景色だけは思い描けなくて。
あいつの輝きから目を離せない自分がいた。それを前にする度、震えていることにも気づいてた。
……情けなかった。
信じて支えてきてくれたトレーナーさん。あたしのことを応援してくれるファンの人たち。
こんなんじゃ、みんなに顔向けできないんじゃないかって。
戦う前から負けることを考えているような、こんなあたしなんて。
「……話してくれてありがとう」
いえ。むしろ、ずっと黙っててごめんなさい。
こんな時期になって、今更そんなこと言っても、仕方ないっすよね。
「そんなことない。それに、情けないなんて思わないよ」
ありがとうございます。……でも。
「君にとって、オルフェーヴルはずっと追いかけてきた相手だ。公式戦でぶつかるのは初めてで、否応なしにここまで積み上げてきたものが試されようとしている。……不安になるのは、当たり前だよ」
……。
「それは恥じるようなものじゃない。今大切なのは、そんな自分を心の奥に追いやってしまわないことだ。こんなのは間違ってるって、そんな風に否定して抑え込んでしまわずに、受け入れて力にしていくために」
受け入れる、っすか?
「そうだ。嫉妬も劣等感も、その根底にある夢も期待も、全部君のものだ。
たくさんの思いを背負って、その全てを余さずに使って、ただ届かせたい場所まで全力で走ればいい」
…………。
「もちろん、簡単なことじゃないと思う。だからこそ、残された時間の中で一緒に精一杯向き合っていこう」
「それが君の強さだって、俺は信じているから」
【2】
その場所へ辿り着く頃には、少しずつ空の端が暗くなりかけていた。
麓の街を一望できる丘の上。沈み行く夕日に向き直って、あたしは大きく息を吸う。
「オルフェーヴルのッ、バッカヤロォォォーーッ!!」
一度飛びだした言葉は、そのまま際限なく溢れる。
「見てたぞ、この間の取材!! またすかして見下しやがって!! 三冠が自分のもの!? だから取り返しに行く!? そんなわけないだろ!! みんなを……あたしを舐めるのもいい加減にしろ!!」
そういえば、ここで実際に叫ぶのは随分久しぶりな気がした。
「あんたのそういうとこ、大っ嫌いだ!! ずっと、ずっと前から!! ……見てろッ、次の日本ダービーでは絶対!!」
言葉は次々浮かぶのに、それを声に出すだけの力が、勇気が、ずっと足りないような気がしていて。
それが今は、こんなにも。
「あたしたちが勝って、あんたの目をこっちに向けさせてやるんだから!!」
あたしは、自分の気持ちに正直になれている。
「ハァ……ハァ……」
肺に溜めた空気と一緒に、ずっと抱え込んでいた気持ちを吐き出しきる。
乱れた呼吸、ジンジンと痛む喉。それとは裏腹に、身体がスーッと軽くなっていくのを感じていた。
「……話、聞いてくれてありがとうございました」
「いや。こっちこそ、話してもらえて嬉しかったよ」
息が整ったところで、後ろのトレーナーさんに向き直る。
「やっぱり、トレーナーさんは不思議な人っすね」
「?」
「だって、さっきみたいな話をしたら絶対幻滅されると思ってたのに。あたしがここで叫んでる時だって、割と結構なこと言ってる自覚はあるんすけど……いつも、そうやって優しい顔で見守っていてくれて」
普通、少しくらいは戸惑ったりするものじゃないかな。
あたしだって最初からこんなに平気だったわけじゃない。それこそ担当契約して間もない頃、ここで偶然出くわしたトレーナーさんに叫んでいるのを見られた時なんて、恥ずかしくて逃げ出したくなったくらいなのに。
あの時、トレーナーさんは何を思っていたんだろう。
「俺、そんな顔してた?」
「え、気づいてなかったっすか? ……してたっすよ。嫌じゃないっすけど、いつも何だかくすぐったかったんで」
目を丸くするトレーナーさん。あたしがあらためて指摘すると、そのまま何か考え込んでしまう。
意外な反応だった。無意識のうちに、ってことなのかな。
「……そっか。そうだよな」
そのうち、何かに気づいた様子でトレーナーさんがこちらを見る。
「考えるまでもなかった。だって、俺は最初から、シオンのそういうところに惹かれたんだから」
「……え」
「君が自分の気持ちに素直になっているところを見られるのが、嬉しかったんだと思う」
それは……えっと、何て言ったらいいのかな。
正面からそう迷いもなく言い切られてしまって、嬉しいのか恥ずかしいのか、頭の中がかーっと熱くなる。返す言葉もすぐには出てこなかった。
透き通った瞳が、夕日を背にしたあたしの姿を映し出す。
……だからかな。
それを見つめるトレーナーさんが、少し眩しそうにしているように見えたのは。
「……そろそろ戻ろうか。明日もトレーニングだし」
「あ……は、はい。そうっすね」
気になってしばらく覗き込んでいたら、トレーナーさんの視線は腕時計の方へと移ってしまう。
別に何かがあってここに来たわけじゃない。外の風にあたりながら話がしたくて、散歩がてらいつも外周で使っているコースを進んできたら、偶然辿り着いただけ。
話したいことは話せた。溜め込んでいたものは叫び出せた。
寄り道はおしまい。ここからはまた、日本ダービーに向けて突き進む毎日が続いていく。
「……そういえば、トレーナーさんって好きな食べ物とかないっすか?」
「え。どうしたんだ急に」
歩き出したトレーナーさんの隣に並んで、ふとそんなことを尋ねてみる。
急だった自覚はあるし、困った表情を向けられてしまうのは仕方ないけど。
「ちょっとした雑談っす。……ほ、ほら、今日だってまた、笹田さんと勝負してたじゃないっすか。あの、
改めて自分で言うの、ちょっと恥ずかしいな……。
「何だかトレーナーさんばっかりあたしのこと知ってて、ちょっとずるいなって。だから、聞いてみたくなったんす」
「な、なるほど……」
一理あるか、なんて言いたげにトレーナーさんが頷いた。
半分くらいは本当だったからか、あたしにしては上手く誤魔化せたらしい。
……多分あたしは、まだこの人のことをあまり知らない。
優しい人だってことは知っている。いつもあたしのことを想って、期待して、傍で見守ってくれていることも知っている。
でも、それ以外は?
名前や年齢、誕生日なんかは書類で見たことがある。一年以上も一緒にいるんだし、会話のリズムとか日頃の些細な癖とか、そういうのだって何となくは。
ただ、トレーナーさんは普段自分のことを話さないから。
今になって、それが何だかとても寂しいことのように思えた。
「好物か……うーん、最近よく食べてるのだと、しじみとかリンゴとか」
「あたしの好きなものじゃないっすよ?」
「だよな……」
揃って苦笑い。どちらも日頃からあたしがよく勧めているものだし、嬉しくはあるけど。
いつだったか、食堂で"しじみフェア"なんて催しをやっていた時には、つい料理を頼みすぎてしまったあたしを気遣って、一緒に食べてくれたこともあったっけ。
……でも、今ほしい答えじゃない。
申し訳ないけど、もうちょっとだけ悩んでもらうことにする。
「…………ダメだ。特に浮かばない」
「えっ、ほんとっすか」
「はは。まあ、昔から好き嫌いとかない方だったし、あんまり意識しなかったのかな」
そういう問題……なのか?
一瞬だけ疑問符が浮かんでしまう。けれど、人によってはそういうこともあるんだろうか。
「きっと変わった子供だったんだよ。でも、しじみやリンゴが好きになったのは本当だから。シオンに感謝しないとだな」
「……そうっすか」
そうやって笑いかけられてしまうと、これ以上追及する気も起きなくなってしまう。子供の頃の話とか、また気になる話題が出てきたけど。
それでも、自分と同じものを好きになってくれて嬉しい、なんて。やっぱりあたしは単純だな。
「じゃあトレーナーさん。
それはふとした思いつき。そして、ある意味では決意表明。
無謀だと笑わずに、トレーナーさんは自然と頷いてくれた。
「そうだな。あの人もぜひって言ってたし。正直、俺も気になってたから」
「約束っすよ?」
「ああ。楽しみにしてる」
ささやかで、決して簡単じゃない約束。
不安が消えたわけじゃない。それをどう受け入れていくか、答えだってまだ曖昧だけど。
きっとそれは、これからを乗り越えていくための力になるはずだから。
帰り道。東の空を見れば、黄昏に浮かぶ月明かり。
今は薄らいでいるそれも、雲の少ない今日なら、そのうちよく見えるようになると思う。
仄明るい夜に誘われて、また自主トレをやり過ぎてしまわないようにだけは、ちゃんと気を付けておこうと思った。
【3】
──────────
五月の終わり。強い雨脚に晒される東京レース場で、そのレースは通常通りの開催となった。
日本ダービー。クラシック三冠を巡る二つ目の戦いにして、数あるGⅠの中でもトップクラスの注目を集める大レース。
地下通路の入口でシオンを見送った後。俺も観覧席について、静かにその開始時刻を待った。
間もなく出走。雨にぬかるむ大地に、ウマ娘たちの足跡が刻まれる。
シオンは作戦通りに後方へ位置取り、その前にはかのオルフェーヴルがいた。
スタートから程なくして先頭のウマ娘が大きくリードを広げ、展開は縦長に。
焦ってペースを乱される子も散見される中、それでもシオンは落ち着きを保っていた。
周囲の状況を踏まえながらも、その双眸は宿敵の動向を静かに窺う。
淡々と進むレース。ウマ娘たちの間隔は徐々に狭まり、集団は第四コーナーへと至る。
仕掛けどころは、今だ。
「はぁぁぁぁッ!!」
赤い閃光が集団を飛び出す。
激しく踏み砕かれた大地が泥を吐けども、その加速は僅かとて衰えることなく。
磨き上げたその脚を遺憾なく発揮して、後続をグングン突き放す。
「……なるほど。確かにいつかの模擬レースの比じゃない。さすが、この一年近くで随分力をつけさせたようだね」
当然だ。胸を張ってそう言えるだけの時間を、彼女は積み上げてきた。
自らの抱える激情と向き合い続け、地道な努力も欠かすことなく。
届くはずだ。今のシオンなら。
たとえ何者が前に立ちはだかろうとも、いつかに語り聞かせてくれたその夢に。
「でも、
「ッ……!?」
再びの加速。より前へ進み出さんと、力強く伸ばした足が地面を蹴り上げる。
「彼女──オルフェーヴルの前では、未だ無力だ」
それでも、その差が縮まることはない。
「……」
全てが決まる一瞬。拳を強く握る。
トレーナーとして、せめてその瞬間から目を逸らしてしまわないように。
ゴールイン。一着はオルフェーヴル。
事前の宣言通り、二つ目の冠はその手に奪還されてしまうこととなった。
「…………シオン」
二着、ウインバリアシオン。
追いすがりながらも競り合いはなく、最後まで一度も縮まることのなかった両者の距離。
着差二バ身というその結果は、この一年間に対する答えとして、無情なまでにはっきりと示されてしまったのだった。
※2026/3/23追記
シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=338048&uid=503660