夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─   作:鵜鷺りょく

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「それが君の強さだって、俺は信じているから」




雲間に照らす Ⅲ 「日本ダービーまでのお話」

 

【1】

 

 皐月賞は、きっときっかけでしかなかったんです。

 本当はずっと心のどこかにあって、見ないふりをしていただけで。

 

 それでも、あの日のオルフェーヴルは凄まじかった。

 前のレースとはまるで比べものにならない。単純な速さも、仕掛けどころの見極めも、元々抜きん出ていた風格みたいなものも。

 自分の冠を取り返しにいくだけだなんて不遜な言葉も、当然のように果たしてみせた。

 前だけを見据える眼差しは澄み切っていて、プレッシャーに追い立てられる様子もないまま、ただいつものあいつでしかなくて。

 みんながその勇姿に注目していた。あいつの一挙手一投足が、そのまま会場の熱気になった。

 

 オルフェーヴルというウマ娘の在り方に、皆が目を奪われる。

 まるで、壮大な物語の中の主人公みたいに。

 

「……」

 

 この一年間、あたしなりに必死で努力を重ねてきたつもりっす。強くなれた実感だってあるし、GⅠの舞台に恥じることのない走りはできるようになったと思う。

 

 だけど、どうしても……あいつを抜き去った先の景色だけは思い描けなくて。

 

 あいつの輝きから目を離せない自分がいた。それを前にする度、震えていることにも気づいてた。

 ……情けなかった。

 信じて支えてきてくれたトレーナーさん。あたしのことを応援してくれるファンの人たち。

 こんなんじゃ、みんなに顔向けできないんじゃないかって。

 

 戦う前から負けることを考えているような、こんなあたしなんて。

 

「……話してくれてありがとう」

 

 いえ。むしろ、ずっと黙っててごめんなさい。

 こんな時期になって、今更そんなこと言っても、仕方ないっすよね。

 

「そんなことない。それに、情けないなんて思わないよ」

 

 ありがとうございます。……でも。

 

「君にとって、オルフェーヴルはずっと追いかけてきた相手だ。公式戦でぶつかるのは初めてで、否応なしにここまで積み上げてきたものが試されようとしている。……不安になるのは、当たり前だよ」

 

 ……。

 

「それは恥じるようなものじゃない。今大切なのは、そんな自分を心の奥に追いやってしまわないことだ。こんなのは間違ってるって、そんな風に否定して抑え込んでしまわずに、受け入れて力にしていくために」

 

 受け入れる、っすか?

 

「そうだ。嫉妬も劣等感も、その根底にある夢も期待も、全部君のものだ。

 たくさんの思いを背負って、その全てを余さずに使って、ただ届かせたい場所まで全力で走ればいい」

 

 …………。

 

「もちろん、簡単なことじゃないと思う。だからこそ、残された時間の中で一緒に精一杯向き合っていこう」

 

「それが君の強さだって、俺は信じているから」

 

 

【2】

 

 その場所へ辿り着く頃には、少しずつ空の端が暗くなりかけていた。

 麓の街を一望できる丘の上。沈み行く夕日に向き直って、あたしは大きく息を吸う。

 

「オルフェーヴルのッ、バッカヤロォォォーーッ!!」

 

 一度飛びだした言葉は、そのまま際限なく溢れる。

 

「見てたぞ、この間の取材!! またすかして見下しやがって!! 三冠が自分のもの!? だから取り返しに行く!? そんなわけないだろ!! みんなを……あたしを舐めるのもいい加減にしろ!!」

 

 そういえば、ここで実際に叫ぶのは随分久しぶりな気がした。

 

「あんたのそういうとこ、大っ嫌いだ!! ずっと、ずっと前から!! ……見てろッ、次の日本ダービーでは絶対!!」

 

 言葉は次々浮かぶのに、それを声に出すだけの力が、勇気が、ずっと足りないような気がしていて。

 それが今は、こんなにも。

 

「あたしたちが勝って、あんたの目をこっちに向けさせてやるんだから!!」

 

 あたしは、自分の気持ちに正直になれている。

 

「ハァ……ハァ……」

 

 肺に溜めた空気と一緒に、ずっと抱え込んでいた気持ちを吐き出しきる。

 乱れた呼吸、ジンジンと痛む喉。それとは裏腹に、身体がスーッと軽くなっていくのを感じていた。

 

「……話、聞いてくれてありがとうございました」

「いや。こっちこそ、話してもらえて嬉しかったよ」

 

 息が整ったところで、後ろのトレーナーさんに向き直る。

 

「やっぱり、トレーナーさんは不思議な人っすね」

「?」

「だって、さっきみたいな話をしたら絶対幻滅されると思ってたのに。あたしがここで叫んでる時だって、割と結構なこと言ってる自覚はあるんすけど……いつも、そうやって優しい顔で見守っていてくれて」

 

 普通、少しくらいは戸惑ったりするものじゃないかな。

 あたしだって最初からこんなに平気だったわけじゃない。それこそ担当契約して間もない頃、ここで偶然出くわしたトレーナーさんに叫んでいるのを見られた時なんて、恥ずかしくて逃げ出したくなったくらいなのに。

 

 あの時、トレーナーさんは何を思っていたんだろう。

 

「俺、そんな顔してた?」

「え、気づいてなかったっすか? ……してたっすよ。嫌じゃないっすけど、いつも何だかくすぐったかったんで」

 

 目を丸くするトレーナーさん。あたしがあらためて指摘すると、そのまま何か考え込んでしまう。

 意外な反応だった。無意識のうちに、ってことなのかな。

 

「……そっか。そうだよな」

 

 そのうち、何かに気づいた様子でトレーナーさんがこちらを見る。

 

「考えるまでもなかった。だって、俺は最初から、シオンのそういうところに惹かれたんだから」

「……え」

「君が自分の気持ちに素直になっているところを見られるのが、嬉しかったんだと思う」

 

 それは……えっと、何て言ったらいいのかな。

 正面からそう迷いもなく言い切られてしまって、嬉しいのか恥ずかしいのか、頭の中がかーっと熱くなる。返す言葉もすぐには出てこなかった。

 透き通った瞳が、夕日を背にしたあたしの姿を映し出す。

 ……だからかな。

 それを見つめるトレーナーさんが、少し眩しそうにしているように見えたのは。

 

「……そろそろ戻ろうか。明日もトレーニングだし」

「あ……は、はい。そうっすね」

 

 気になってしばらく覗き込んでいたら、トレーナーさんの視線は腕時計の方へと移ってしまう。

 別に何かがあってここに来たわけじゃない。外の風にあたりながら話がしたくて、散歩がてらいつも外周で使っているコースを進んできたら、偶然辿り着いただけ。

 話したいことは話せた。溜め込んでいたものは叫び出せた。

 寄り道はおしまい。ここからはまた、日本ダービーに向けて突き進む毎日が続いていく。

 

「……そういえば、トレーナーさんって好きな食べ物とかないっすか?」

「え。どうしたんだ急に」

 

 歩き出したトレーナーさんの隣に並んで、ふとそんなことを尋ねてみる。

 急だった自覚はあるし、困った表情を向けられてしまうのは仕方ないけど。

 

「ちょっとした雑談っす。……ほ、ほら、今日だってまた、笹田さんと勝負してたじゃないっすか。あの、あたしの(・・・・)クイズで」

 

 改めて自分で言うの、ちょっと恥ずかしいな……。

 

「何だかトレーナーさんばっかりあたしのこと知ってて、ちょっとずるいなって。だから、聞いてみたくなったんす」

「な、なるほど……」

 

 一理あるか、なんて言いたげにトレーナーさんが頷いた。

 半分くらいは本当だったからか、あたしにしては上手く誤魔化せたらしい。

 

 ……多分あたしは、まだこの人のことをあまり知らない。

 

 優しい人だってことは知っている。いつもあたしのことを想って、期待して、傍で見守ってくれていることも知っている。

 でも、それ以外は?

 名前や年齢、誕生日なんかは書類で見たことがある。一年以上も一緒にいるんだし、会話のリズムとか日頃の些細な癖とか、そういうのだって何となくは。

 ただ、トレーナーさんは普段自分のことを話さないから。

 

 今になって、それが何だかとても寂しいことのように思えた。

 

「好物か……うーん、最近よく食べてるのだと、しじみとかリンゴとか」

「あたしの好きなものじゃないっすよ?」

「だよな……」

 

 揃って苦笑い。どちらも日頃からあたしがよく勧めているものだし、嬉しくはあるけど。

 いつだったか、食堂で"しじみフェア"なんて催しをやっていた時には、つい料理を頼みすぎてしまったあたしを気遣って、一緒に食べてくれたこともあったっけ。

 ……でも、今ほしい答えじゃない。

 申し訳ないけど、もうちょっとだけ悩んでもらうことにする。

 

「…………ダメだ。特に浮かばない」

「えっ、ほんとっすか」

「はは。まあ、昔から好き嫌いとかない方だったし、あんまり意識しなかったのかな」

 

 そういう問題……なのか?

 一瞬だけ疑問符が浮かんでしまう。けれど、人によってはそういうこともあるんだろうか。

 

「きっと変わった子供だったんだよ。でも、しじみやリンゴが好きになったのは本当だから。シオンに感謝しないとだな」

「……そうっすか」

 

 そうやって笑いかけられてしまうと、これ以上追及する気も起きなくなってしまう。子供の頃の話とか、また気になる話題が出てきたけど。

 それでも、自分と同じものを好きになってくれて嬉しい、なんて。やっぱりあたしは単純だな。

 

「じゃあトレーナーさん。あたしがダービーで勝ったら(・・・・・・・・・・・・・)、笹田さんの言ってたアップルパイを買いに行きませんか? まだしばらくは取り扱ってそうだって話でしたし」

 

 それはふとした思いつき。そして、ある意味では決意表明。

 無謀だと笑わずに、トレーナーさんは自然と頷いてくれた。

 

「そうだな。あの人もぜひって言ってたし。正直、俺も気になってたから」

「約束っすよ?」

「ああ。楽しみにしてる」

 

 ささやかで、決して簡単じゃない約束。

 不安が消えたわけじゃない。それをどう受け入れていくか、答えだってまだ曖昧だけど。

 きっとそれは、これからを乗り越えていくための力になるはずだから。

 

 帰り道。東の空を見れば、黄昏に浮かぶ月明かり。

 今は薄らいでいるそれも、雲の少ない今日なら、そのうちよく見えるようになると思う。

 

 仄明るい夜に誘われて、また自主トレをやり過ぎてしまわないようにだけは、ちゃんと気を付けておこうと思った。

 

 

【3】

 

 ──────────

 

 

 五月の終わり。強い雨脚に晒される東京レース場で、そのレースは通常通りの開催となった。

 日本ダービー。クラシック三冠を巡る二つ目の戦いにして、数あるGⅠの中でもトップクラスの注目を集める大レース。

 地下通路の入口でシオンを見送った後。俺も観覧席について、静かにその開始時刻を待った。

 

 間もなく出走。雨にぬかるむ大地に、ウマ娘たちの足跡が刻まれる。

 シオンは作戦通りに後方へ位置取り、その前にはかのオルフェーヴルがいた。

 

 スタートから程なくして先頭のウマ娘が大きくリードを広げ、展開は縦長に。

 焦ってペースを乱される子も散見される中、それでもシオンは落ち着きを保っていた。

 周囲の状況を踏まえながらも、その双眸は宿敵の動向を静かに窺う。

 

 淡々と進むレース。ウマ娘たちの間隔は徐々に狭まり、集団は第四コーナーへと至る。

 仕掛けどころは、今だ。

 

「はぁぁぁぁッ!!」

 

 赤い閃光が集団を飛び出す。

 激しく踏み砕かれた大地が泥を吐けども、その加速は僅かとて衰えることなく。

 磨き上げたその脚を遺憾なく発揮して、後続をグングン突き放す。

 

「……なるほど。確かにいつかの模擬レースの比じゃない。さすが、この一年近くで随分力をつけさせたようだね」

 

 当然だ。胸を張ってそう言えるだけの時間を、彼女は積み上げてきた。

 自らの抱える激情と向き合い続け、地道な努力も欠かすことなく。

 

 届くはずだ。今のシオンなら。

 たとえ何者が前に立ちはだかろうとも、いつかに語り聞かせてくれたその夢に。

 

「でも、あれでは足りない(・・・・・・・・)

「ッ……!?」

 

 再びの加速。より前へ進み出さんと、力強く伸ばした足が地面を蹴り上げる。

 

「彼女──オルフェーヴルの前では、未だ無力だ」

 

 それでも、その差が縮まることはない。

 さらに先を行く(・・・・・・・)暴君の背中を、捕らえるには至らない。

 

「……」

 

 全てが決まる一瞬。拳を強く握る。

 トレーナーとして、せめてその瞬間から目を逸らしてしまわないように。

 

 ゴールイン。一着はオルフェーヴル。

 事前の宣言通り、二つ目の冠はその手に奪還されてしまうこととなった。

 

「…………シオン」

 

 二着、ウインバリアシオン。

 追いすがりながらも競り合いはなく、最後まで一度も縮まることのなかった両者の距離。

 

 着差二バ身というその結果は、この一年間に対する答えとして、無情なまでにはっきりと示されてしまったのだった。

 





※2026/3/23追記
シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=338048&uid=503660

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