夜明けのプリンシパル ─ウインバリアシオンと彼女に惚れ込んだトレーナーのお話─   作:鵜鷺りょく

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「今は、二人で踊りたい気分なんす」




天狼星は彼方より Ⅱ 「夏合宿開幕のお話」

 

【1】

 

 ゆらゆら揺れる夏の陽炎。潮風の吹き荒ぶトラックに、汗はポツポツしたたり落ちる。

 その光景には見覚えがあった。初めて立った栄光の舞台。容赦なく降りしきる雨を背に受けながら、ただ誰かの名を呼ぶ歓声だけを聞いていた。……あの時にそっくりだ。

 

「はぁ……はぁ……ぐっ」

「どうした。この程度か?」

 

 ろくに息を乱すこともないまま、そいつはこちらに問いかける。

 同じ場所、そして同じ距離を走ってきた。だからこそ結果に言い訳はできなくて、そこにはただ互いの差だけが浮き彫りになるばかり。

 天上に立つ暴君と、地に伏せる愚者。

 散々繰り返してきたそんな構図を変えるのは、まだ簡単なことじゃない。

 

「はっ、到底足りぬな。余とていつまでも待ってやる義理はない。……与えた猶予、活かすことができねばそれまでと知れ」

「っ……」

 

 痛む肺を持ち上げて、正面を睨み付ける。それも意に介さずに、オルフェーヴルは立ち去っていった。

 その背を追って、もう一戦をしかけるだけの体力は残されていない。今のままじゃ、いくらやったって結果は同じなんだろう。

 そんなことは分かってる。だからこそ、悠長に下を向いている暇なんてないことも。

 

「……そうやって余裕ぶってろ」

 

 夏合宿初日。勝負の季節はすでに幕を開けた。

 あたしにとっての再出発。今はただ、ひたすら前だけを見つめていくんだ。

 

 たとえそれが、彼方の星に手を伸ばすような、果てない道行きになるとしても。

 

 

【2】

 

 寄せては返す波の音色。今日も今日とて容赦の無い日差しに晒される砂浜では、見渡す限りあちこちで大きな掛け声が上がっている。

 夏合宿が始まってから数日。日ごと高まる周囲の熱気に負けじと、自分もまた声を張る。

 

「よし。次、砂浜ダッシュからだ!」

「はいっ!」

 

 力強い返事とともに、小休憩を終えたウインバリアシオンが砂浜へと飛び出していく。

 今日のトレーニングもこれで折り返し。適度に休みも挟みながらとはいえこの炎天下の中、それでも衰えることのない彼女の気迫は何とも頼もしいものだった。

 

「よっ。精が出るわね、ご両人?」

「!」

 

 シオンのトレーニングを見守りつつ、手元の資料にペンを走らせていたところ。不意に誰かが話しかけてきた。

 ……この声は。

 本当に意外だったとしか言えない。こんなところまでやってきて、まさかこの人と出くわすことになるとは思っていなかった。

 

「ほい、これ差し入れ」

「何でいるんです?」

 

 そんなこちらの困惑も気にせず、その人──自称ウインバリアシオンの最古参ファンこと、URA職員の笹田(ささだ)女史はまっすぐに手を伸ばしてくる。ぶら下がっているのは、何やら中身の詰まったビニール袋だった。

 

「ゴルシちゃん印の特製焼きそばですって。何か評判良よさそうだったし、買ってきちゃった」

「そうですか。……何でいるんです?」

 

 確かに、袋から漂うソースの香ばしさは見事なものだ。だが今はどうでもいい。

 受け取らずに問いを重ねると、笹田さんは何故か得意げに答えた。

 

「ふふん、あんまりURA職員(うちら)を甘く見ないことね。仕事だって言って申請出せば、大体どこにだって入り込めちゃうんだから」

「自慢ぽく言わないでください。職権濫用の常習犯(あなたみたいな人)がざらにいたら、今頃URAの信用は地の底ですよ」

「あーうっさいうっさい。いいから受け取れ。わざわざあんたの分まで持ってきてやったんだから」

 

 頼んでないんだが……というとまたグチグチ言われそうだったので、観念して受け取る。

 まあ、応援をもらったとなればシオンは喜ぶだろう。「どうも」と軽く礼だけ言って、一旦荷物の横に避けておくことにした。

 

「シオンの様子を見に来られたんですか?」

「当然でしょ。秋からは出張とか増えて顔出せなくなりそうだから、今のうちにね。……それに夏の華といったら海辺の若い子たち。何より推しの水着姿を拝まずして仕事がはかどるかってなもんよ」

「失言のオンパレードですね。通報しますよ」

「冗談だっての。面白みのない男ねぇほんと」

 

 やかましい、とは心内に留めて口には出さなかった。

 それはさておき、やはり立場的にそういった発言だけでも十分危ういと思うのだが。果たしてその辺り、この人は理解できているのだろうか。

 

「バリちゃん、がんばってるわね。ダービーの結果、引きずってないか心配してたんだけど」

「……ええ」

 

 散々続いた下らないやり取りも、ここらで幕引きらしい。

 そう言った笹田さんは、まるで我が子を見守るかのようにそっと目を細めていた。柔和な笑みを浮かべるその横顔は、さっきまでとはまるで別人のようにも思える。

 

 ……シオンのことだけは真剣だな、ほんとに。

 

「よくあそこまで立ち直らせたじゃない」

「俺じゃありませんよ。認めるのは少し複雑ですが、今回は敵に塩を送られてしまったみたいです」

「え……まさか、オルフェーヴルさん?」

 

 頷く。話の流れもあり、少しだけその経緯を話してみた。

 実際のところ、あちらにその気があったかは分からない。が、事実だけを振り返ればその通りなのだ。あの後夜祭パーティーの日、無理やりとはいえオルフェーヴルに連れられてきたことをきっかけとして、シオンは徐々に元の明るさを取り戻していった。

 以前からそうだった。良くも悪くも、オルフェーヴルの存在はシオンに強く影響を与える。彼女にのしかかる試練となることもあれば、一方では苦境を乗り越えるための強力な推進力にもなり得るのだと。

 

 その確信があってこそ、この合宿の方針は定まったのだから。

 

「そういえば、彼女と合同トレーニングを組んだんだって?」

「耳が早いですね」

「もうそこらで噂になってるわよ。何と恐れ知らずなことだ、って感じにね。まあ一部じゃ、ダービーの結果もあって二人は無二のライバルだーって盛り上がったりもしてるみたいだけど」

「結構なことじゃないですか」

 

 無論、その辺りの事情は自分も承知している。何なら合同トレーニングの件を打診した時点で、そういったケースも想定はしていた。

 

「……」

 

 それが、シオンにとってはプレッシャーになりかねないということも。

 

「あんた、無茶なこと考えてない?」

「というと」

「……前のレースは、当然私も見てた。バリちゃんは間違いなく好走してたけど、それだけに、彼女との力の差ははっきりと表れてしまった。この夏でそれを覆すつもりなら、あまり悠長にやってられないのは分かる」

 

 そっと目を伏せながら、笹田さんは言葉を続ける。

 

「でも、あの子はまだそこから立ち直ったばかり。あまり無理を通せば、身体だけじゃなく精神的な負担だって計り知れない。……それは」

「分かってますよ」

 

 もっともな指摘だ。何よりシオンのことを大切に思うこの人だからこそ、そう言わずにはいられなかったのだろう。

 それに自分はあっさりと頷いた。……非情なものだ。

 一人のウマ娘を預かるトレーナーとして、きっと他にも選択肢はあった。彼女の未来を案ずるべき立場だからこそ、もっと長期的な視点を持ち、秋より先の季節でのリベンジを考えることもできたはずなのに。

 

 俺は、それでもあの子にこの選択肢を強いたのだ。

 

「無視できないリスクは確かにある。だけど、そこは俺の尽力次第でもあるんです。……だから、方針を曲げるつもりはありません」

 

 自分に出来ることは、今までと変わらない。

 シオンの力になること。何があっても、彼女に一人で背負わせてしまわないこと。

 たとえ、いくら自分を投げ打ってでも。

 

「この夏合宿で限界まで追い込みます。何度も、何度もトレーニングの最適化を繰り返しながら、この季節を最大限に活かしてみせる」

 

「彼女が、下を向いている暇もないくらいに」

 

 

【3】

 

「──お疲れ様、シオン」

 

 その日予定していたメニューを終えて、砂浜から戻ってくる。

 パラソルの日陰に入る前。出迎えてくれたトレーナーさんの姿を見て、自然と微笑みが零れた。

 

「ありがとうございます。今日は、さっきので終わり……っすよね?」

「ああ。少し物足りなく感じるかもしれないけど、初日からかなり飛ばしたからな。ちょっと休んだらクールダウンに移って、今日はもう上がろう」

「は、はいっ」

 

 バレちゃってる。さりげなくフォローまでされてしまったことに苦笑いを浮かべつつ、大人しくレジャーシートの上に腰を下ろした。

 徐々に脱力。一気に身体を冷やしてしまわないよう、ゆっくりとドリンクに口をつける。

 

「……ふー」

 

 深く息を吐く。身体に滲む汗の感触と、暑さのせいかぼーっとする頭。次第に気分を落ち着けていく中で、動いている間は気にならなかったものが実感できるようになっていく。

 まだやれるって、そう思っていたけど。トレーナーさんも言っていた通り、やっぱりここしばらくの疲労は溜まっているみたいだ。また気持ちだけが先走ってしまっていたんだってことを、嫌でも自覚させられる。

 

「…………」

 

 その隣で、トレーナーさんは手元のバインダーに何かを書き込んでいる。その横顔があまりにも真剣で、ストレッチを進めながらも、気づけば視線はそちらに移っていた。

 汗ばんだシャツ。いつもとは違う日焼けした肌の色。程よく引き締まった腕の筋肉に、トレーナー業も体力仕事だもんな、なんて感想も浮かんでくる。

 凜とまっすぐに立つシルエットは、澄んだ青空の背景も相まってとても絵になっている気がして。

 何だか、しばらく目が離せなかった。

 

「……あっ。そういえばシオン」

「!? は、はい!」

「? どうかしたのか」

 

 ハッと我に返って、思いきり首を横に振る。

 え、あたし、何変なことを……今、トレーナーさんに見とれてた?

 

「え、えと……それで、なんでしょう?」

 

 きっと暑さのせいだ。多分、絶対。

 そう自分に言い聞かせて、何とか平静を装いながら、改めてトレーナーさんに向き直る。

 

「あぁ、うん。実はついさっき笹田さんが来て、差し入れをもらったんだ。それ、バリちゃんによろしくって」

「笹田さんが?」

 

 トレーナーさんが視線で指し示す先。置かれた荷物の隣に、いくつか紙パックの入ったビニール袋が置かれていた。そういえば、さっきから何かいい匂いがするなとは思ってたけど。

 忙しいのに、こんなところまで応援に来てくれたんだ……次会った時、ちゃんとお礼言わないとだな。

 

「ありがとうございます。あとでいただくっす」

「そうするといい。それと、俺はもう少しやっていくことがあるから。クールダウンが済んだなら、早く部屋に戻ってゆっくりしておいで。……こう暑いと、外にいるだけでも疲れるからな」

「あ……そ、そっすよね。分かりました! トレーナーさんも、あんまり無理はしないでくださいね」

「ああ」

 

 若干ぎこちなくなってしまった返事。幸いトレーナーさんは気にしない様子で、朗らかに笑い返してくれたけど。

 

 ……正直、ホッとした。

 

 暑いと外にいるだけでも疲れる。うん、その通りだ。さっきから何か変な感じがするし、もしこのまま二人で日陰にいたら、またおかしなことを考えてしまうかもしれない。

 自分の荷物をまとめて、少しそそくさとパラソルの近くを離れることにした。

 

 

 ──────────

 

 

「……ん?」

 

 合宿所へと戻る途中。向こうの砂浜に、やけに目立つ一団ができていることに気が付いた。

 

「お、オルフェーヴル様! こちら、よろしければ差し入れです!!」

「何かご入り用のものはありませんか? 私、あなたのためならどこへなりとも」

「王よ! どうか私めに、御身の走りを拝する許しを──!!」

 

「……」

 

 聞こえてくるその名前に、やっぱりと納得する。集団の中心にいるのはあの金ぴか──もとい、オルフェーヴルだった。

 それを囲む大勢のウマ娘たち。何となく統率の取れていない感じからして、多分あいつのファンの子たちだろう。いつも傍にいる臣下の子たちは、むしろそれを抑える側に回っているように見える。

 

 うわ……何か機嫌悪そう。

 

 遠目に見えた横顔に、何となくそういった雰囲気を感じ取る。休みたいところに押しかけられて迷惑だ、とでも言いたげな感じで、学園でも割とよく見かけた覚えがある。

 ああいう時は下手に近づかない方が吉……とはいえ、あの熱狂ぶりじゃ話にもならなそうだ。

 

「賑やかだな……ほんと」

 

 学園でも、ここでも。どこにいたって、あいつの周りはいつもこんな感じだ。

 ただでさえデビュー前から注目を集めていた上に、すでにクラシック三冠のうちの二つを手にした強豪。ああなるのだって当然と言えばそうだけど。

 

「……はぁ」

 

 そう分かっていても、つい溜め息は零れてしまう。

 

「ありゃ、何かお疲れです?」

「え」

 

 一人で立ち尽くしていると、そんな声が背後から。

 近づいてくる足音は二つあった。

 

「どーも、シオンさん」

「お、お疲れ様です」

「ネイチャさん……それに、シュヴァルさんも」

 

 振り返ると、そこにいたのはナイスネイチャさんとシュヴァルグランさん。普段から仲良くさせてもらっている後輩さんたちで、シュヴァルさんとは寮の同室でもある。

 二人も合宿に参加するのは聞いていたけど、こっちに来てからこうして話すのは今日が初めてだった。

 

「お疲れ様です。お二人は休憩中っすか?」

「そんなとこです。まあ、アタシは通りかかっただけだったんですけど……ほら、シュヴァル」

「! は、ひゃいっ」

「?」

 

 ネイチャさんに促されて、シュヴァルさんが躊躇いがちに前へ出る。

 

「そ、その。何だか、シオンさんが元気がないみたいだったので……声、かけたかったんですけど、勘違いだったらご迷惑かなと思って。そしたら、ネイチャさんが」

「まずは普通に話しかけてみよってね。実際、アタシもちょっと気になったんで」

「二人とも……」

 

 無意識に表に出してしまっていたのは、ちょっとだけ情けなくも思えたけど。

 それ以上に、二人が心配して声を掛けに来てくれたことが嬉しかった。

 

「……で、原因は多分アレ、ですか」

 

 ネイチャさんの視線が横へ流れる。その先には、さっきのオルフェーヴルたちの一団がまだワイワイやっている。

 

「どの世代にもいるもんですね。あんな感じにキラキラした存在ってか……ほんと、見せつけられるこっちの身にもなれってなもんで」

「……僕も、ちょっとだけ分かります」

「あはは……」

 

 おどけているようで、どこか重みを感じさせるネイチャさんの言葉。それにシュヴァルさんも小さく頷く。あたしはというと、すっかり見抜かれてしまったことで何と言っていいか分からずに、ただ困ったように笑うしかなかった。

 でも、それは多分彼女たちだからで。

 二人にも、それぞれに闘志を燃やす相手がいることは知っている。世代の主人公、みんなの注目を集める人気者。そのまぶしさに焦がれながらも、必死に努力する姿をたくさん見てきた。

 

「……ダメ、っすよね。いちいち立ち止まってちゃ。あいつがどうしてようと、自分には関係ないことなのに」

 

 仮にも先輩なのに、あたしはいつも学ばせてもらってばかりで。

 

「だ、ダメじゃないです!」

「……!」

 

 そう声を上げたのはシュヴァルさんだった。

 

「……あっ。す、すみません、急に。でも、シオンさんがずっと頑張ってたの、見てきたから。この合宿が始まってからも……だから、ダメなんかじゃないです」

「シュヴァルさん……」

 

 言葉を詰まらせながらも、気持ちを必死に伝えようとしてくれるシュヴァルさん。

 

「夏が終わる頃には、色々変わってますよ」

 

 隣で見守っていたネイチャさんも口を開く。

 

「アタシも、いつも頑張ってるシオンさん見てパワーもらっちゃってるんで」

「ネイチャさん……」

「だから、その、あれですよ。ファンの数がなんぼのもんじゃー、って。少なくともここにいるアタシたちは、シオンさんのことずっと応援してるんですよ」

 

 そこでシュヴァルさんの手を取ると、ネイチャさんはそれを一緒に掲げる。

 

「てわけで、シオンさんファンクラブ、ここに結成(けっせー)ってね。盛り上げてくぞーっ」

「! お、おーっ……!」

 

 

「…………」

 

 

「あ、あれ? シオンさん……?」

 

 少しの沈黙の後。こちらを覗き込むようにしながら、ネイチャさんが声を掛けてくれる。きっと、あたしのリアクションがないことに戸惑ったんだろう。

 実際、失礼なのは承知で……あたしは、しばらく何て言っていいか分からなかった。

 

 だって、今はこんなにも胸が高鳴っていて。

 

「……すみません、あんまり嬉しくて。この気持ちをどう伝えたらいいか、ちょっと分かんなくて」

 

 本当に優しくて、温かい後輩さんたちからのエール。そのあまりの威力に、あたしは文字通りどうにかなっちゃいそうだった。

 

「とりあえず、その……ちょっと、抱きしめさせてもらっていいっすか(・・・・・・・・・・・・・・・・)?」

「えっ」

「…………えぇ?」

 

 返事が返ってくるよりも先に、身体はじりじりと二人との距離を詰め始める。

 

「し、シオンさん? 何か、様子が……」

「…………」

「目が据わっちゃってる!? と、トレーナーさん!! 早くトレーナーさん呼んできてーッ!!」

 

 なおも強まる日差しの下。実はそんな会話があった後のことを、あたしはよく覚えていない。

 ただ最後に聞こえたのは、必死でトレーナーさんのことを呼び続けている二人の声だったと思う。

 

 

【4】

 

 次に気が付いた時、あたしは体操着の姿で保健室にいた。

 

 目の前にいたのは、心配そうにこちらの様子をうかがうトレーナーさんたち。話を聞いたところ、どうやらあたしは砂浜で気分を悪くしてしまったらしくて、先生の話では熱中症一歩手前だったそうだ。

 ネイチャさんたちに呼ばれてきたトレーナーさんが合宿所まで運んで、付き添いの二人が服を着替えさせてくれた。そうやって今、あたしはこうして保健室のベッドで横になっている。

 

「……疲れ、出たのかな」

 

 呆然と天井を見つめながら、そう独り言ちる。幸い症状は軽いものということで、今日だけ安静にしていれば治ると言ってもらえた。実際少し休んだ今ではやや怠さが残るくらいで、いつもの練習終わりとそう変わらないくらいまで落ち着いている。

 ネイチャさんとシュヴァルさんには早いうちに戻ってもらった。二人ともトレーニングがあるはずなのに、あたしのことを心配してずっとここにいてしまいそうだったから。トレーナーさんはついさっきまで傍についていてくれていたけど、浜辺に荷物を置いたままなことを思い出して、今は一旦席を外している。

 

 ……ネイチャさんたち、何か様子が変だったな。

 

 そういえばと思い出す。まるで隠し事でもしているみたいだったというか。特にシュヴァルさんなんて、時々あたしの顔を見て顔を赤くしていた気がするし……あれ、あたし、何かしちゃった?

 

「…………考えないでおこう」

 

 直感だけど、何かとんでもないものに触れてしまいそうな気がする。最初にトレーナーさんと別れてからというもの、今日は何だかずっとおかしな気分だ。

 

 今は他に患者がいないのか、保健室の中はとても静かだった。時折カーテンの向こうに先生の気配を感じるくらいで、基本はそれ以上に、窓の外の蝉時雨がよく響いている。とても夏らしいとは思うけど、残念ながらあたしには、それだけで時間を過ごせるような感性はないらしくて。

 じっとしているだけだと、すぐに考え事の方が先に出てしまう。

 

 我武者羅だった夏合宿の出だし。初日の合同トレーニングでまたも見せつけられることになった、オルフェーヴルの背中。

 ひたすら雨の強かったダービー。その後にあったウイニングライブ。今更だけど、あいつもしかしてセンターの振り付けしか練習してなかったんじゃないか。余がそれ以外を覚える必要があるか、とか何とか言って。

 ……ムカつく。いや想像でしかないんだけど。

 見てろ。絶対、合宿の間に叩きのめしてやるからな。

 

「……」

 

 なんて、そう息巻いてみても今すぐとはいかないんだけど。

 気を抜くと、こっそり砂浜へと駆け出していってしまいそうだった。それでもぐっとこらえて、今は明日の自分に任せるしかないんだと言い聞かせ続ける。

 秋に向けて、じっと力を蓄えるために。

 

 それで、いいんすよね……トレーナーさん。

 

 

 ──────────

 

 

「合同トレーニング、ですか?」

 

 それは夏合宿の前。あたしがダービーの後夜祭パーティーに合流した後のこと。

 話があると言って、そう切り出したトレーナーさんの言葉に、あたしは反射的にそれを繰り返していた。

 

「ああ。来月から始まる夏合宿。その中で、あちらと一緒にトレーニングを行う時間を取る。細かいところはこれからだけど、専用のメニューも組んで、併走とタイム計測もやるつもりだ」

「……」

「そのことを、ついさっきオルフェーヴルのトレーナーにも伝えた」

 

 合同で、練習……あたしが、あいつと?

 

「……ごめん。一気に言い過ぎたな」

 

 あたしが何も言えずにいるのに気づいたんだろう。少しばつが悪そうにしながら、トレーナーさんは頬をかく。

 

「い、いえ! こっちこそすみません。何だか、突然のことでびっくりしちゃって」

「そうだよな。そもそも、俺もまず君に無断で話を進めたことから謝らないとだった」

 

 あっちのトレーナー()なかなか捕まらなくて。やや疲れた目でそう零すトレーナーさんに、何となく成り行きを察する。

 うちもそうだけど……やっぱり、トレーナー業って大変なんだな。

 何だかあらためて心配になってくるけど、ひとまず今はおいておく。事情は飲み込めていて、あたしに先に話せなかった理由についても、何となく想像がついた。

 トレーナーさんは待っててくれたんだ。そうして、少しずつ準備を進めながら。

 

「……ダービーは、俺たちの完敗だった」

 

 あたしが、その事実に向き合えるようになる時を。

 

「反省点はあらかた洗い出した。見せつけられた実力差についても、今は受け入れるしかない。……でも、それ以上に得られたものもあったって、俺はそう思ってる」

「得られたもの……」

「ああ」

 

 

「あのレースで、君は本当にオルフェーヴルのライバルになった」

 

 

「…………へ?」

 

 つい変な声が出てしまった。

 トレーナーさん、今なんて言った? あたしが、ライバル……オルフェーヴル、の?

 

「なな、何言ってんすか!? しかもそんなしれっと」

「何もおかしな話じゃない。あの日、君が走ったのは日本ダービーだ。紛れもない大舞台、当然、あの場に選りすぐりの実力者たちが揃っていた。確かにオルフェーヴルは圧倒的だったかもしれないけど……じゃあ、そんな彼女に最後まで食らい付いていたのは誰だったか」

「それは……あたしっすけど」

「そうだ。あの日、あの場にいた誰よりも、君は彼女に迫って見せた。その事実は確かなものだ」

 

 まだ整理しきれないあたしの一方で、とんでもないことをさらさら語りつつも、トレーナーさんの声はいつも通りだった。そう聞こえるなら、それがお世辞や出任せじゃないことくらいは、あたしにだって分かるけど。

 

「要は意識の問題なんだ。君は今、確かに彼女と同じ舞台に立っている。もう遠くから見つめているだけの相手じゃない。ここまで積み上げてきたものには、ちゃんと意味があった。今回合宿を共にするのは、より効果的なトレーニングを求める以上に、君自身の中でその意識を強めてもらうためでもある」

 

 そこで一度言葉が切られる。その続きこそが本題なんだと、まるで暗にそう告げるみたいに。

 

「もちろん、リスクはある。より身近で練習する以上、君は常に彼女との差に向き合い続けることになる。ただでさえ大変な合宿に加えてのそれだ。特に精神的な負荷は計り知れないだろう。

 だから、無理にとは言わない。まだ確定はしていない話だし、考え直す時間も十分にある。あくまでこれからの選択肢の一つとして、俺はそれを君に託したいんだ」

 

 トレーナーさんの目がまっすぐにこちらを見ている。何だかそれには覚えがあった。

 初めて言葉を交わした日。いつかの夜明けに、仄紫色の空の下で契約を結んだ時の、あの目だ。

 

「……あたし、は」

 

 ダービーの後は、ずっと雨の音が聞こえていた。

 それはあるいは万雷の喝采。あたしではない誰かへと向けられていた祝福の声。力なく俯いていたあたしにとっては、どちらにしても大差はなかった。

 静かな夜には悪い夢を見た。ゴール際の一瞬だけを切り取って、まるであの日をやり直そうとするような幻覚。その中でさえ、どれだけ手を伸ばしても、あいつの背中には届く気がしなかった。

 このまま頑張り続けて意味があるのかって、そんなことを思った時もある。それが怖くて、足はすくんで、気づけばずっと縮こまってしまっていたけど。

 

 今、その先へ進むための道標がそこにある。

 

「正直、トレーナーさんの言うことを、全部のみこめたわけじゃないっす」

 

 一言ずつはっきりと、ごまかしもなく伝え聞かせるように、トレーナーさんは思っていることを語ってくれた。

 向き合っていると分かるんだ。託すって言ってくれた、その言葉の通りなんだって。……だからあたしも、思ったままを口にすればいいんだって信じられる。

 

「トレーナーさんの言ってくれたことが本当でも、あたしはまだあいつのライバルは名乗れない。ダービーで勝てなかったこともずっと引きずってて、未だにあいつと向き合うのは怖いと思う。

 それでも、トレーナーさんはまだ信じてくれてるんすね。あたしがやり遂げられるって」

「……ああ」

 

 そう問い返せば、力強く頷いてくれる。

 

「俺もできる限り君を支える。オルフェーヴルとぶつかって、それでも下を向いている暇がないくらい、この夏合宿を充実したものにしてみせる」

「……スパルタそうっすね」

「こればかりは諦めてくれ」

 

 少しだけ冗談めかして言うと、トレーナーさんの表情は和らいだ。

 

「シオン」

「?」

「俺はずっと信じてる。君の力も、思いの強さも。まだトレーナーとして頼りないところもあると思うけど……それでも、君の夢を叶えるって約束だけは、絶対に忘れたりしないから」

 

「これからも、ついてきてくれるか?」

「……。はいっ」

 

 

『ただ今より、会場中央にてダンスのお時間とさせていただきます。参加はご自由です。皆様、どうぞ最後までごゆるりとお楽しみください』

 

 

 そうして、大切な話も一段落を迎えた頃。会場に一つのアナウンスが流れた。

 振り返れば、中央の辺りにあったテーブルはすでに退けられていた。広く開けた円形の空間に、手を取り合った人々が続々と進み出ていく。

 

「ダンス、っすか。……あの、トレーナーさん」

「ん?」

「よかったら、あたしたちも参加しませんか。あいつからもらったもので、やっぱり複雑っすけど……それでも、せっかくドレスもあることですし」

 

 そう提案すると、トレーナーさんは一瞬困った顔を浮かべた。

 

「でも俺、ダンスの経験は……」

「大丈夫っす。簡単になら、あたしが教えますから」

 

 なんて言ってみた。本当のところ、昔習っていたバレエとは勝手が違うところもあるだろうし、そんなので指南役を名乗るのはどうかと思ったけど。

 

「今は、二人で踊りたい気分なんす」

 

 そんな気持ちだけで、何とかなる気がしたんだ。

 

 躊躇う手を取って、次の瞬間にはただ無邪気に駆け出していた。

 程なくして刻まれる二つのステップ。小気味よく重なり合うその音は、今でも鮮明に覚えていた。

 

 

 ──────────

 

 

 トレーナーさんの顔、何だか新鮮だったな。

 

 経験がないと言っていたんだから、戸惑うのは当然だ。だからって途中で投げ出したりせず、最後までついてきてくれた。本人にそう言ったら、多分また気まずそうな顔をするんだろうけど。

 初めてもらったトレーニングメニューがそうだったみたいに、その思い出もあたしの中で大切に刻まれていた。

 

 ゆっくりと目を閉じる。今日は多分、悪い夢は見ない。

 それはきっと、あなたが一緒に前を向いていてくれるから。

 

「……また明日」

 

 降りしきる蝉時雨の音が、遠ざかっていく。





※2026/3/23追記
シリーズ用の質問コーナーを開設してみました。
必要に応じてお使いください。(『活動報告』に飛びます)
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=338048&uid=503660

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