専門家エミュレーション 作:実験者
廃墟のような古い学習塾。
埃が舞い、窓から差し込む薄い光が床に散らばった古い机を照らしている。壁には剥がれかけたポスターが残り、かつての賑わいを思わせるが、今は静寂だけが支配していた。
そこに、ハワイアンシャツを着た少女のような姿のバランサーが、床に胡坐をかいて座り、怠惰に本をめくっていた。ページを捲る音が、静かな空間に小さく響く。
そこに、ミレニアムサイエンススクールの元生徒会長、調月リオが現れた。彼女の足音は重く、疲労が全身に滲み出ていたが、それでも背筋を伸ばし、毅然とした態度でバランサーの前に座った。
瞳には過去の決断の重みが宿り、わずかに揺らぐ。リオは深く息を吐き、天童アリスの事件を振り返りながら、ゆっくりと口を開いた。世界を滅ぼす可能性のある存在に対して、どう対応するべきだったのかを、切実な思いで相談する。
バランサーは本から目を上げ、いつもの軽い調子で応じつつ、言葉の端々に核心を突く鋭さを忍ばせた。
「……あなたは専門家だと聞いた。バランスを取るバランサーだと。私は、ミレニアムサイエンススクールの責任者だった。そこに、一人の少女――アリスがいた。彼女の体内には謎の存在Keyが潜んでいて、それが暴走すれば世界全体が破滅する可能性があった」
「へぇ、世界が破滅か。それは怖いね」
「私はそれを防ぐために、彼女を隔離し、抹殺する決断をした。抗議を無視し、武力で強制的に連れ去った。大多数の生徒の幸福のためなら、一人の犠牲は仕方ないと思った。でも、結果として私は敗れ、彼女は仲間たちの説得でKeyから主導権を奪い返した」
「それはすごい、ハッピーエンドだ」
「……あれは、正しかったのかしら? 世界を滅ぼす存在に対して、どう対応するべきだったのか? あなたなら、どうする?」
バランサーは口角を上げ、にやりと笑い、軽い調子で言った。声は穏やかだが、その奥に経験の深さが感じられた。
「おやおや、なかなか重い相談だね、調月くん。まあ、座ったらどうだい? ハワイアンシャツじゃないけど、僕のスタイルで言うなら、まずはリラックスして話そうじゃないか。世界を滅ぼす存在。面白いね。僕の専門は幅広いから似たような話は山ほど聞いてきたよ。吸血鬼とか、蛇神とか、蟹とか猿とか……人間を食らったり、憑いたり、破滅を招いたりするヤツら」
バランサーは再びにやりと笑った。笑顔の裏に、過去の記憶が一瞬よぎったようだった。
「でもね、僕がいつも思うのは――バランスさ。こちら側とあちら側のバランスが崩れると、イジメみたいになる。どっちかが一方的に苦しむ。そして、最終的に両方が破綻するんだ」
「バランス……? 私はまさにそれを守ろうとした。大多数の安全のために、一人を犠牲にする。それが合理的だと判断した。感情を無視し、説得ではなく強制を選んだ。なぜなら、他に方法がなかったから」
バランサーはゆっくりと首を振り、皮肉っぽく言った。言葉に軽い棘を込めつつ、決して攻撃的にならないよう抑えていた。
「合理的、か。いい言葉だ。そして都合の良い言葉でもある。合理主義を否定はしないけど、単純に極端だ。みんなが幸せになる方法はないよ。ただ、みんなが不幸になる方法なら、いくらでもある。君は自分だけが不幸になる方法を選ぼうとしたんだ。一人の犠牲で済むならいい、って思うかもしれないけど……命の価値は、個々人で平等じゃないんだぜ? 一円と一兆円が違うように、一人の命と世界の命だって、簡単に天秤にかけるもんじゃない」
「……それは」
「それに、君は本当に他に方法がないって確信してたのかい? 僕の経験から言うと、強制的に抹殺しようとするヤツは、大抵自分の正義を振りかざしてるだけさ。被害者気取りは気に入らないぜ」
リオは眉を寄せ、少し苛立った様子で言った。声に感情の揺らぎが混じり、普段の冷静さがわずかに崩れ始めていた。
「正義? 私は感情を排除した。個人の感情や友情を優先すれば、世界が滅ぶリスクを放置することになる。アリスは暴走した。Keyは彼女の体を乗っ取りかけた。抹殺以外に、確実な方法はなかった。あなたは中立だと言うなら、放置するというの? バランスを取るために、何もしないのかしら? それは無責任よ」
バランサーは目を細め、真剣な目になりつつ、軽く笑って言った。笑みは柔らかく、相手を追い詰めないための配慮が感じられた。
「放置? いやいや、僕は何もしないわけじゃないよ。僕にできるのは、情報を与えること、橋渡しをすること、状況を整えることだけさ。直接助けたり、殺したりはしない。なぜなら、誰かが誰かを助けるなんてことは、できないからね。人は一人で勝手に助かるだけさ。君の場合、アリスって子は、結局仲間たちの説得や応援があったとはいえ、自分でKeyから主導権を奪い返したんだろう?」
リオは唇を噛み、悔しそうに黙った。視線を床に落とし、拳を軽く握りしめている。
「それが正解だよ。彼女が人間であろうとする意志を持てば、人間なんだ。Keyが憑いてても、暴走しても、最後は自分で火中の栗を拾う必要がある。君が強制的に殺せば、バランスは一時的に保てるかもしれないけど……歪みは残る。禍根が残る。アリスを殺した責任は、君が背負う。仲間たちは君を恨む。世界は救われたかもしれないけど君達の世界は救われない。それはそれでバランスが取れている、とも言えるけどね」
「私達の世界?」
「それに、Keyみたいな存在は、殺しただけじゃ消えないことが多いんだぜ? 化物は、そう簡単には死なない。向き合うことをせず殺害という手段で目を逸らす。ああいう存在は心の在り方を映すパターンも多いからね。敵だと思えば敵ってやつさ」
リオは黙って考え込んだ。肩がわずかに落ち、過去の選択が重くのしかかっている様子だった。
「……自分で解決させる。説得を信じる。私はそれを軽視した。感情を知識として理解はできても、共感できなかった。だから、支配を選んだ。みんなの幸福のためなら、少数の犠牲を……」
バランサーはゆっくり立ち上がり、肩をすくめて言った。動きはゆったりと、相手に圧をかけないよう心がけている。
「少数の犠牲。いいね、君は本気で世界を救おうとしたんだろう。それは認めるよ。生真面目な努力家だ。少なくとも君は世界に対して誠実だ。でもさ、力を持つヤツは、その力が周囲に与える影響を自覚すべきだよ。君は強かった。技術も、決断力も。だからこそ、強引に押し通そうとした本気を出せば、世界は変わる。なら、変え方にも目を向けることもできたんじゃないのかい? 最速最短だけが合理的な選択とは限らないんだぜ」
バランサーはにやりと笑った。笑顔に、ほのかな寂しさが混じる。
「君は嫌われ者になる覚悟で独裁したんだろう? それも、一つの生き方だよ。ただ、次があるなら相手を信じてみたらどうだい? アリスは、結局自分で助かった。君の犠牲なんて、必要なかった」
リオはゆっくり立ち上がり、静かに言った。声は低く、しかし決意の片鱗が感じられた。
「……理解されなくても、私の道を進む。それが私の信念だった。でも、あなたの言葉は、考えてみる価値があるかもしれない。ありがとう」
バランサーは手を振って、笑顔で言った。明るい声が、廃墟の空気を少しだけ和らげる。
「報酬は気持ちでいいよ。僕は、ただの通りすがりさ」
同じ廃墟の学習塾。
数日後、再びリオが訪れた。扉を開ける音が響き、彼女は俯き加減で座った。今度は声に自責の念が強く滲み、普段の冷静さが崩れかけていた。肩が小さく震え、目を伏せたまま言葉を絞り出す。
バランサーは相変わらずのハワイアンシャツ姿で、床に座り、軽くお茶をすすりながら静かに聞いていた。湯気の立つカップが、わずかな温かさを部屋に加えている。リオは静かに、しかし強く自分を責めるように言った。声が時折途切れ、苦しみが滲み出ていた。
「……もう一つ、聞きたいことができたの。私はアリスを殺そうとした。世界を守るためとはいえ、彼女の命を奪おうとした。仲間たちの抗議を武力で押さえつけ、強制的に連れ去った。結果として、彼女は自分で立ち直った。でも、私のしたことは変わらない。これから私は、どうやって贖罪していけばいいの? 人を殺そうとしておいて、どの面下げて生きていけばいいの……?」
バランサーはカップを置き、少し間を置いた。いつもの軽い調子で、しかし目は真剣に言った。間はリオの感情を尊重するためのものだった。
「重い話をありがとう。いいことがあったのかい? 贖罪、ね。どの面下げて生きるか、か。いい質問だよ。僕も昔、同じようなことを考えて、夜も眠れなかった時期があったさ。まあ、座りなよ。まずは深呼吸でもしたらどうだい?」
リオが黙って座り直す。息を整えようとするが、まだ乱れている。バランサーは肩をすくめて、にやりと笑った。笑みは優しく、相手を安心させるためのものだ。
「まず最初に言っておくよ。君は悪人じゃない。少なくとも、完全に悪人じゃない。世界を滅ぼすかもしれない存在を止めるために、一人の命を犠牲にしようとした。それは、冷酷かもしれないけど、無責任じゃない。むしろ、責任感が強すぎたと言えるだろう。多くの大人は、そんな決断すら避けて、誰かに押しつける。君は自分で背負おうとした。それだけは、自分で認めてあげてもいいんじゃないかい?」
リオは目を伏せて言った。声が小さく、罪悪感が重くのしかかっている。
「……それでも、私は間違えた。彼女を信じず、仲間を傷つけた」
バランサーは頷きながら、軽く手を振った。動作は穏やかで、相手を否定しないよう配慮していた。
「ああ、間違えたよ。僕もそう思う。でもね、贖罪ってのは、自分を永遠に責め続けることじゃないんだぜ。それじゃただの自己憐憫さ。被害者気取りは気に入らないけど、加害者気取りも同じくらい嫌いだよ。自分を責めて潰れるのが贖罪だと思ってるヤツは多いけど、それはただの目を逸らしているに過ぎない。贖罪が何かを論ずる気はないけど、一つの考え方とするなら生きて、変わって、繰り返さないことさ」
「持論だけどね」とバランサーは付け加えた。言葉に少し照れを混ぜて、重くなりすぎないよう調整する。バランサーは少し声を低くして、真剣に言った。
目がリオをまっすぐ捉え、誠実さが伝わる。
「君がこれからできることは、シンプルだよ。まず、アリスやゲーム開発部の連中に、ちゃんと謝ること。顔を上げて、頭を下げて、自分は間違ってた。君たちを信じられなくて、申し訳ないって言う。それが一番きついだろうけど、一番大事だ。次に、君のやり方を変えること。これまでは支配が合理的だと思ってたんだろう? みんなの幸福のために、少数の感情を切り捨ててた。でも、アリスは自分で立ち直った。仲間たちの絆が、Keyを抑えた。つまり、君の計算外の感情や信頼が、世界を救ったんだよ。それを認めて、次からは少しだけ、他者を信じる余地を残す。完璧じゃなくていい。少しずつでいいんだ」
リオは小さく呟いた。声に戸惑いと抵抗が混じる。
「……謝る? 私に、そんな資格が……」
バランサーは笑って、しかし優しく言った。声に温かみが滲み、隠された優しさが感じられた。
「資格なんて、最初からないよ。謝る資格があるヤツなんて、この世に一人もいない。それでも謝るんだ。顔を下げて生きるんだ。それが、人間ってものさ。君は賢い。技術も、頭も一流だ。だったら、その力を今度は守るためじゃなく、信じるために使ってみたらどうだい? ミレニアムは混乱してるんだろう? 君がいなくなって。だったら、戻って、ちゃんと向き合う。嫌われてもいい。ビッグシスターの悪名がさらに広がってもいい。それでも、顔を上げて生きる。それが、君の贖罪になると、僕は思うかな」
「これも一つの見方だ」とバランサーは付け加えた。言葉を押しつけがましくならないよう、余地を残す。バランサーは立ち上がりながら、いつもの軽い調子に戻って言った。明るさが部屋を照らすように。
「まあ、僕にできるのはここまでさ。アドバイスはしたけど、実際に動くのは君次第だね。命懸けになることと、死んでもいいと思うことは違うよ。自分を殺すほど責める必要はない。生きて、間違えた分だけ、ちゃんと返していけばいいのさ」
リオはゆっくりと立ち上がり、初めて小さく頭を下げた。表情にわずかな光が差した。
「……ありがとう、バランサー。あなたの言葉は、残酷だけど、誠実だった。……もう少し、考えてみるわ」
バランサーは手を振って、笑顔で言った。声は優しく、別れを惜しむように。
「うん、また何かあったら来なよ。報酬は、いつもの気持ちでいいさ。気をつけて帰りなよ、調月くん」
バランサーはリオの自責の念を真正面から受け止め、甘やかさず突き放しすぎず、ちょうど良い距離で諭した。リオの善意と責任感を認めつつ、やり方の誤りを指摘し、自己憐憫や永遠の自罰を否定する。
代わりに、生きて変わること、謝ること、他者を信じる余地を持つことを、具体的な贖罪の道として提示した。軽い調子を保ちながら、核心では優しく厳しく、隠された優しさが滲む言葉を選んだ。
リオはそれを受け止め、少しずつ前を向く兆しを見せた。
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