専門家エミュレーション 作:実験者
夕暮れの庭園ベンチに、臥煙はゆったりと腰を下ろしていた。
複数のスマホを操作する仕草も優雅で、まるで時間が彼女の周りだけゆっくりと流れているかのようだった。
そこへ、足音を忍ばせるように近づいてきたのは桐藤ナギサだった。
普段の優雅な微笑は影を潜め、唇を固く結び、眉間に深い皺を寄せている。苦虫を噛み潰したような、暗い表情だった。
「臥煙さん。突然のお願いで申し訳ありません」
ナギサは丁寧に頭を下げ、声を震わせながら会話を始めた。臥煙はスマホをしまって穏やかな目でナギサを見上げた。
「あなたのお名前は、どこからか耳にしたことがあります。とても厳しく、でもとても正直で、嘘や誤魔化しを一切許さない方だと……だからこそ、私のような人間が相談する相手として、ふさわしいのではないかと思ったんです」
「それらそれは光栄だね、桐藤ナギサさん。いいよ、話くらいなら聞こう。寄り道する余裕もある」
臥煙は小さく笑い、べンチの端を軽く叩き、ナギサに座るよう促した。ナギサはためらいながらも腰を下ろし、膝の上で指を強く絡ませた。
「トリニティ総合学園のティーパーティーのホスト。実質的な生徒会長のような立場です。表向きは優雅でお嬢様らしく振る舞っていますが……本当の私は、ずっと疑心暗鬼に囚われているんです。誰かを信じることが、恐ろしくてたまらないんです」
「へぇ」
臥煙は短く相槌を打ち、静かに聞き続けた。ナギサは俯き、声を低くした。
「かつて、私はトリニティを守るためという大義の下、親しい友人さえも疑い、補習授業部という名目で人を監視し、必要なら切り捨てるような手段まで使いました。
結果、幼馴染のミカさんを追い詰め、最愛のセイアさんを危険に晒し、自分自身も大きな傷を負いました。今は反省して、皆と協力しながら学園を運営しようとしています」
「素晴らしいじゃないか。失敗から教訓を得たわけだね。それの何の問題が?」
臥煙は少し身を乗り出し、穏やかに言った。
「頭を下げ、協力を乞い、欠けた部分を互いに補い合う三位一体を目指して……。でも、どうしても、心の底から人を信頼できない」
ナギサは顔を上げ、瞳に切実な色を宿した。
「また裏切られたら? また私の選択が皆を傷つけたら? そんな恐怖が、常に囁きかけてくるんです。組織のトップに立つ者として、人を使うのは簡単でした。情報を操り、駆け引きをし、必要に応じて道具のように扱う……それなら、傷つかずに済む。でも、人を信頼するのは、こんなにも難しい」
言葉の最後は、かすかに震えていた。夕陽が二人の横顔を赤く染め、庭園の風が静かに葉を揺らした。
夕陽が庭園の木々を赤く染め、ベンチの二人の影を長く伸ばしていた。臥煙は静かにナギサの言葉を聞いていた。
ナギサは膝の上で指を強く握りしめ、俯いたまま続けた。
「信頼すれば、裏切られたときの痛みが大きくなる。疑心暗鬼な性質が、私を孤立させ、暴走させ、大切なものを壊してしまう。臥煙さん。あなたは、どうやって人を信じられるようになったんですか? 疑うことをやめられず、恐怖に縛られたままの私が、トップとして皆を導きながら、同時に本当の意味で人を信頼するには、どうすればいいのでしょうか」
臥煙は小さく苦笑を浮かべ、視線を遠くの空に向けた。ナギサは自分の胸の奥にあった弱さを、初めて他人に曝け出していた。頰がわずかに熱くなり、恥ずかしそうに目を伏せた。
「……こんな弱い部分を見せるのは、恥ずかしいです。でも、あなたなら、甘えを許さず、真実を突きつけてくださると思ったんです。どうか、教えてください」
臥煙はしばらく黙り、風に揺れる葉の音だけが二人の間を満たした。やがて、彼女は静かに息を吐き、ナギサの方へ体を向けた。
「いいよ、教えよう。まずはナギちゃん、あなたの悩みを聞かせてくれてありがとう。君はトリニティのトップとして、疑心暗鬼に陥りやすい性質を抱えながら、人を使うではなく信頼することの難しさに苦しんでいると分かった。組織を統治する立場で、過去の裏切りや誤解が積み重なり、友人さえ信じられなくなった……それは、とても痛ましいね」
ナギサが驚いたように顔を上げると、臥煙は鋭い、しかしどこか優しさを湛えた目で彼女を見つめ、言葉をぶつけた
「まず、はっきり言っておくとね。疑心暗鬼になるのは、君の弱さじゃない。むしろ、慎重で責任感が強い証拠だね」
「え?」
ナギサの声が小さく漏れた。
「君は学園の秩序を守ろうとして、情報を独占し、極端な手段を選んだ。でも、それが結果として人を傷つけ、自分自身も傷つけた。そこに気づいているナギちゃんは、すでに変わり始めている。信頼する難しさについて。あなたは全ては大義のためと言い訳しながら、人を道具のように扱ってしまった。でも、本当の信頼とは、一方的に頼る関係じゃない。人は互いに助け合うことでしか生きられないからね」
夕陽がすっかり落ち、庭園の街灯が柔らかな光を灯し始めていた。ベンチに座る二人の周りを、夜風が静かに通り抜ける。
臥煙は穏やかに言葉を続けた
「君が補習授業部の子たちやミカ、セイアを疑ったのは、誤解を放置した結果だ。誤解を解く努力をしないのは、嘘をついているのと同じ。君はそれを自覚しているから、苦しんでいるというわけだ。組織のトップとして、人を使うのではなく信頼する……それはもちろん簡単じゃない」
臥煙の声は優しかったが、一つ一つの言葉は理路整然としていて、逃げ道を塞ぐような鋭さを持っていた。
「ナギちゃんのように、過去に騙された経験がある人は特に。でも、人を信じないまま統治しようとするのは、結局自分を孤立させるだけ。シスターフッドや救護騎士団に頭を下げて協力を求めたあなたは、正しい一歩を踏み出した」
臥煙はそう言って、ナギサを称賛するように微笑んだ。しかし、その微笑の奥には、どこか厳しさを残す光があった。
「独断を捨て、対等な関係を築く努力を続けなさい。私から言わせてもらえば、信頼は努力で築くもの。乗り換えられないよう、互いに絆を保つための研鑽を怠らないことだ。友人との関わりで迷うなら、こう考えてみるのも良いだろう。ミカやセイアとの傷は、都合の良いハッピーエンドで誤魔化さない。自分で始めたことは、自分で終わらせる。謝罪し、本音を話し、互いの過ちを認め合う。それが責任というものさ。心が繋がっていれば十分、なんて甘い言い訳を、お姉さんは今回は通用しないと考える」
臥煙は静かに息を吐き出し、ナギサの瞳をまっすぐ見据えて告げた。
「行動と結果が整合する関係を、ゆっくり築きなさい。君はもう、暴走の代償を払った。反省しているなら、それを力に変えられる。許される嘘なんてない。でも、誤解を解こうとする誠実さは、必ず人を引き寄せる。トリニティを統治するあなたが、疑心暗鬼を乗り越えて信頼を積み重ねる姿は、きっと学園の生徒たちに希望を与えるはずさ。みんなを信じるならば、自らの未来も信じることも大切だとお姉さんは思うよ」
ナギサは臥煙の言葉を一言一句逃すまいと聞き入り、時折小さく息を呑んだ。感銘を受けたように瞳が揺れ、わずかに頰が赤らんだ。しかし、それでも表情は暗いままで、ゆっくりと視線を落とした
「臥煙さんのおっしゃることは、理屈としてはわかります。嘘は許されない、誤解を放置するのは罪、信頼は努力で築くもの……すべて、正論です。あなたのような、揺るぎない信念をお持ちの方からそう言っていただければ、きっと多くの人は救われるのでしょう」
ナギサの手が、膝の下で固く握りしめられた。指先が震え、爪が掌に食い込むほど強く。街灯の光が彼女の横顔を照らし、複雑な影を落としていた。
「でも……私は、そんなに強くないんです。臥煙さんは疑心暗鬼は弱さじゃない、慎重さの証拠だとおっしゃいました。でも、私にとっては違う。疑うことが、私の日常になってしまった。情報を集め、裏を取り、誰かが少しでも不自然な動きを見せたら即座に警戒する……それが、もう癖になってしまったんです」
夜の庭園は静まり返り、街灯の光が二人の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。風が冷たくなり、ナギサの肩がわずかに震えた。彼女は俯いたまま、声を絞り出すように続けた。それは組織のトップとしての発現する当たり前の病巣だった。
「頭では信じようと思っても、心が拒否する。拒否してしまう。ミカさんの裏切りも、セイアさんの襲撃も、補習授業部を道具のように使ったことも……すべて、私の疑いが招いた結果だってわかっています。信じていれば、あんな極端な手段には出なかったかもしれない。でも、信じた結果、トリニティ全体が崩壊したら? 何千人もの生徒の未来が台無しになったら? その責任は、私一人で背負えるものじゃない」
責任と罪悪感がナギサを押しつぶそうとしていた。古今東西、リーダーが同じ理由で潰れていく典型的な姿だった。彼女の声はかすれ、指先が膝の上で白くなるほど強く握りしめられた。
「だから、頭を下げて協力を頼んだんです。シスターフッドにも、正義実現委員会にも。でも、心のどこかでこれも利用されているだけかもしれない。いつか裏切られるかもしれないと囁く声が消えない。消えないんです」
穏やかな共感と肯定の言葉だった。しかし、次の瞬間、臥煙の声が低く、強く響いた。
「そうだね、その考えは概ね正しい。君の苦悩は人を率いる立場の者なら大抵の者が体験するものだろう。過去を学べばそれらの事例は溢れるほどだ。統治者は重い」
臥煙は静かに頷き、言葉は夜空に溶かした。
「とは言え言えるのは当たり前のことだけだね。信頼を積み重ねる努力をすることだ。それしかない。いや、それが最善だ」
「信頼を積み重ねる、ですか……。努力すればできる、ですか。あなたはそうおっしゃる。でも、私はもう、何度も努力して、何度も裏切られて、何度も自分が間違っていたことを思い知らされてきました。傷は癒えても、跡は残る。次にまた同じ傷を負ったら、今度こそ立ち上がれなくなるかもしれない。自分で終わらせることも、対等な関係を築くことも、わかっています。でも、怖いんです。もう一度、心を開いて、もう一度、誰かを本気で信じて……それでまた壊されたら、私にはもう、何も残らない」
それは方法を求める問いではなく、ただの感情の発露だった。ナギサの瞳に涙がにじみ、声が震えた。
ナギサは大きく息を吐き、肩を落とした。
「……ごめんなさい。こんな弱音ばかりで。あなたのような立派な方に相談したのに、結局、悲観的なことしか言えなくて。でも、きっと……私は、まだ変わらないのかもしれません。この疑心暗鬼と、ずっと一緒に生きていくしかないのかもしれない。これで、良いのかもしれない」
臥煙のその視線は、逃げ場を一切与えないほど鋭く、夜の闇の中で冷たく光っていた。
「おいおいナギちゃん。それは駄目だ。弱音を吐くこと自体は構わない。でも、それをこれでいいのかもしれないと結論づけて、自分を甘やかすのは許さない」
灯の光が二人の顔を淡く照らすだけになっていた。冷たい風が葉をざわめかせ、ナギサの髪を軽く揺らした。
静かに立ち上がると、ナギサに向かって人差し指をまっすぐに突きつけた
「嘘は駄目だ。特に、自分自身に対する嘘は、絶対に。ナギちゃんは疑心暗鬼が癖になってしまった、信じたらまた壊されるかもしれない、と。それは確かに事実だ。可能性としては有り得る。だから論点はそこではない」
「そこでは、ない?」
ナギサが小さく聞き返した。
「誤解を解く努力しないのは誤解を放置しているのと同じということさ。ナギちゃんは自分の恐怖を慎重さや責任感の仮面で覆って、努力を放棄しようとしている。恐怖を必要だから仕方ないと誤魔化したことを嘘ではないと言えるかい? 私は強くない、私は弱い、でも努力——そんな言い訳は通用しない。私はね、ナギサちゃん。強さとは、傷き、恐れ、震え、それでも立ち上がることを言うのさ」
臥煙の言葉は鋭く、ナギサの胸に深く突き刺さった。彼女はわずかに体を震わせ、視線を逸らせた。
「君はもう、エデン条約の傷を負って、意識を失って、それでも立ち上がった。ミカを弁護し、セイアと共に頭を下げて協力を乞い、アリウス自治区まで出向いた。それが強くないとは言えない。次に傷ついたら立ち上がれないかもしれないああ、そう感じているんだろうね——だからこそ、私の下へ来た。都合の良い逃げ道。未来を保証してほしくてやってきた。だけど誰も未来を保証なんてできない」
臥煙の声は低く、しかし確かな力強さを帯びていた。その言葉が、ゆっくりとナギサの心に染み込んでいく。ナギサは唇を噛み、瞳を伏せた。
「ナギちゃんはトリニティのトップだろう? 何千人もの生徒の未来を預かる立場だろう? だったら、自分の恐怖を誤魔化していい役割ではないだろう。疑心暗鬼の気持ちを、こういうものだと自分に嘘をついて統治する? それこそが、最大の無責任というものさ。生徒たちは、君の背中を見て行動する。疑うことを慎重さと美化して見せたら、彼女達も同じように人を信じられなくなる」
臥煙は一息置き、静かに告げた。
「自分の心は変わらないのかもしれない——疑心暗鬼と一緒に生きていくと決めるのは、君の選択だ。好きに折り合いをつけてれば良い。でも、それを仕方ないと理由をつけて言い訳するのは嘘だ。君は変われないのではなく、変える努力を放棄しようとしているだけ。最後に、はっきり言っておくよ」
臥煙は言う。ハッキリと
彼女の声が一段と鋭くなった。
「良い嘘と悪い嘘は認める。けど許される嘘はない。自分に対する嘘も、他者に対する嘘も。君が今やっているのは、自分にこれ以上傷つきたくないと甘える、あるいは傷つくのは仕方がないと諦めるための嘘に過ぎない」
ナギサは動揺を隠せなかった。瞳が揺れ、息が浅くなった。臥煙は少し突き放すように、淡々と言った。
「泣きたいなら泣くと良い。でも、泣き終わったら、立ち上がって努力すること。苦しい気持ち、悲しい気持ち、怖い気持ちと共に自らの道を選び、進む。ナギちゃんには、その強さがちゃんとあるはずだと、お姉さんさん信じているよ」
ナギサはしばらく沈黙した。やがて、覚悟を決めたように顔を上げ、静かに口を開いた。
「……臥煙さん。あなたの言葉は、確かに正しいと思います。甘えを許さない、というその姿勢も、誤解を放置するなという厳しさも……すべて、理にかなっている。あなたが私に突きつけた鏡は、歪みなく私の姿を映し出している。それを否定するつもりはありません」
だけど、とナギサは続ける。
「私は、変わらなければならない。疑心暗鬼をこれでいいと言い訳して、自分を甘やかしていたのは事実なのかもしれません。あなたがおっしゃる通り、それは自分に対する嘘でした。トリニティのトップとして、生徒たちの未来を預かる立場として、そんな甘えは許されない。でも……それでも、どうしても拭えない恐怖があるんです。私は、これまで何度も選択を誤ってきました。補習授業部を創設したとき、ミカさんを疑いすぎたとき、セイアさんを守れなかったとき……どれもトリニティのため、大義のためと信じて下した決断でした」
それでも、と感情を口にする。
「結果は惨憺たるもので、私の選択は多くの人を傷つけ、学園全体を危険にさらした。私は、きっと耐えられない。トップとしての立場は、孤独を強いるものだとわかっています。でも、完全に孤立したら、私はもう立ち上がれないかもしれない。あなたは「強さとは傷ついたまま立ち上がることだ」とおっしゃいました。でも、私はまだ、その強さを信じきれない。信じたいのに、信じたらまた否定されて、粉々に砕かれるんじゃないかと怖いんです」
ナギサは俯き、声を落とした。街灯の下で、彼女の肩が小さく震えていた。
夜の庭園はすっかり冷え込み、街灯の光が二人の吐く息を白く浮かび上がらせていた。ナギサは俯いたまま、震える声で言葉を絞り出した。
「……ごめんなさい。また弱音になってしまいました。でも、これは言い訳ではなく、ただの事実です。私は変わろうと努力します。あなたのおっしゃる通り、泣き終わったら立ち上がってみせます」
涙が頰を伝い、膝の上にぽたりと落ちた。彼女は袖でそっと目を拭い、深く息を吸った。臥煙はベンチに再び腰を下ろし、ナギサの隣に静かに座り直した。声はこれまでより柔らかく、しかし変わらぬ確かさを保っていた。
「ナギちゃん。勘違いしてはいけない。自分に嘘をつかないということと、恐怖があると認めるのは両立するよ。むしろ両立した時こそ、自らに対して誠実であると言える。君のなかの恐怖が、足を少しだけ重くしていることを、認めてあげること。それでも、前に進むこと。疑いつつも信じて進む。矛盾しているが、それこそが人間だ。それこそが嘘をつかず生きるということさ」
ナギサはゆっくりと顔を上げ、涙に濡れた瞳で臥煙を見つめた。
小さく呟く声は、かすかに震えていた。臥煙は穏やかに頷き、夜空を見上げながら静かに言った。
「辛いですね」
「辛いし、苦しいし、絶望的だ。でも、そこから得られるものは確実に君の幸福に繋がると、全てを知るお姉さんとして言わせてもらうよ」
風が二人の間を通り抜け、庭園の木々がざわめいた。ナギサは唇を噛み、涙を拭いながら、わずかに頷いた。
街灯の光が彼女の横顔を優しく照らし、震えていた肩が、少しずつ落ち着いていくのが見えた。
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