「ウチの唐揚げはね、前の日に店を閉めたときの気分で味が変わるんですよ。昨日は塩、一昨日は醤油」
タッパには茶褐色の汁。それにヒタヒタに浸けられた鶏肉。ひとつひとつ取り出しては水気を取る。
《たまたま》ここに来ているというにはやたらに手慣れたナイスネイチャ。《ウチの》というあたりから伺える。彼女の性格のとおりだ。
「ほう。それで、今日は何の気分だったのかな?」
今日はですねえ―、といいつつ、ナイスネイチャは戸棚からひとつ、液体の入っているであろうパックを取り出し、シンボリルドルフに見せつけた。
「今日はこれです!」
酒でも入っていそうな、白い紙パックに赤く丸いキャップ。波のようなイラストで彩られたパッケージには《あご》と書かれていた。そしてそれがシンボリルドルフにはピンとこない。
「あご…?所謂《顎》ではないのは理解できるが、なんだろう…。パッケージからして魚のような気はするが…」
「トビウオですよ、トビウオ。地方によってはそういう呼び方をするそうです」
「トビウオとは、あの?」
「はい」
「大きな胸びれで、海の上を滑空したりする、あの?」
「ええ」
あごだし、とやらでテラテラに艶やぐ肉。ナイスネイチャはそれに片栗粉の化粧をしてやる。
「色々説はありますけど。コレのほうが衣がサクサクしてて好きなんですよアタシ」
ああ、と生返事をしながらシンボリルドルフは考えていた。
トビウオ。魚類。幼きころに図鑑や映像で見たことはあるが、実物と対面したことは今までにない。
天敵に襲われると海上へ飛び出し、大きな胸ビレを広げて、長いときは200メートルを超える滑空を以て逃亡するらしい。シリウスシンボリはこれを見て何かしら思うところがあったようだが、シンボリルドルフにとってはただの《動物奇想天外》に過ぎなかった。
当然、口にすることなどあり得ないものと思っていた。言い出せばきりが無いが、毒でもない限りニンゲンは大抵のものは、物理的には口を通じて体内に入れることができる。
タコやイカやナマコなどというものを食してみようと、最初に言い出した先達のことを思わず尊敬せずにはいられない。
そしてトビウオもそのような類に入るものと思っていた。
「まあ、知らない人にとっては驚きですよねー」
なんの感慨もなく、バットの上に並ぶ鶏肉たちは漏れなく余所行きの準備を終えていた。
「ああ、とても楽しみだ」
これから油へ飛び込むであろうそれらを見て、シンボリルドルフは知的好奇心からの笑みを隠すことができなかった。
知らない味を体験できる。
空腹にこれ以上のスパイスは無い。
ナイスネイチャの、《まあ見ててくださいよ》との言葉と共に、鶏肉たちは箸に掬われ、ひとつずつ丁寧に油の中へ沈められた。
からからからから、ぱちぱちぱちぱち。
水分が高温で一気に熱せられ、一種の水蒸気爆発を起こす。これにより、鉄鍋がこうして音をたてるわけだ。しかしどうにも、タマモクロスらの豪快なそれを聴き慣れていたからか、やや控えめに思える。
ところで、《唐揚げ》というのは、この《からから》という音から来ているのだろうか?
「何言ってんですか、そんなわけ無いでしょ。アタシも正確な由来は知りませんけど、それではないと思いますよ」
会長さんも面白いこと考えますね、と溢しながら箸で面倒を見てやる。
からから、ぱちぱちの音が小さい、ということがどういうことか。アタマの良いシンボリルドルフには幾つかの答えがあったが、先んじてナイスネイチャが秘密を漏らした。
「アブラの温度を低くしてあるんです。ちゃんと中まで熱が入るようにね。アタシ、いくら熱が通っていたとしても、中身の赤い肉は苦手なんですよ、血生臭くて。…それに、《アタる》確率は低いほうがいいですしね」
ゆっくり、じっくり、箸で転がして唐揚げを構うナイスネイチャ。シンボリルドルフよりも下の学年であるが、その目はなんだかそれを超越した、とても今の年齢では考えられない慈しみを孕んでいる。
シンボリルドルフの知る彼女は、斜に構え、一歩引き、レースでさえも《正攻法》ではなくあえて邪道を選ぶ。受けるにしても投げるにしても、直球勝負ではうまくいかない。
気性難とまでは言わぬまでも、なかなか難しい性格だった。そんなナイスネイチャが、正面から、真剣に目の前の鶏肉と向き合っている。
彼女の新しい面を見た気がした。
そうして7〜8分ほど経っただろうか。ナイスネイチャは鶏肉たちを油から引き揚げた。
最後までじっくり構ってもらった彼らは、きつね色に輝く装いをキッチンペーパーの上で誇らしげに湯気を立てている。見ているだけで余計に腹が空く。
「出来上がりか?」
気が逸るシンボリルドルフ。ナイスネイチャは人差し指を左右に振って応えた。
「まだです。少し休ませて、もう一度揚げます。…こんどは、アッチアチにしたアブラでね」
先程の工程で中までしっかり熱は通ったはず。だのにわざわざ再びアブラに放り入れる理由がシンボリルドルフにはピンとこなかった。
焦がさないように、という意味もあったろうに。熱い油に強火で揚げてしまえば、それも意味を失ってしまうだろう。
そして、彼らはそのままでも充分に美味しそうだからだ。
「…まあ、ひと粒くらいいいか」
小皿にひとつだけ唐揚げをとり、シンボリルドルフに寄越す。
「舌、ヤケドしないようにしてくださいね」
ふう、ふうとそれを冷まし、頃合いになったところ、シンボリルドルフはひとくちにそれを戴いた。
しゃくっという衣の割れる感覚と共に、香ばしさと鶏肉と醤油の旨味。そして見知らぬ甘みが彼女を楽園へと誘った。
「この…、どこか懐かしい甘みとあとに残る深いコク…!これが《あご》というやつか…!」
じっくり飲み込み、シンボリルドルフは感嘆するほか無かった。学園の食堂で出される唐揚げも旨い。それは旨い。店で出されても文句のつけようのない程に旨い。
しかしこの唐揚げはナイスネイチャ曰く《未完成》であるにも関わらずそれに遜色ない―新鮮さ込みでいえば凌駕さえしている。
「とても美味しい。店でも開いたらどうだ」
割と本気でナイスネイチャを説得したい気に駆られる。
「なに言ってんですか。アタシにそんな度胸ありませんよ。…店ならマア、ここにあるし」
最後の方は何を言っているのかわからなかったが、ナイスネイチャは照れ隠しに肉を構いはじめた。
「…うん、そろそろかな」
ぱちん、ぱちんと、何も入ってないはずのアブラが音をあげ始める。相当な温度になっていることだろう。
「…さて会長さん。わざわざこうして2度揚げする理由はわかりましたか?」
百と何十℃を指している温度計を見てニヤリ。ナイスネイチャはキッチンペーパーから肉を引き上げた。
「…うむ。君の言うように、肉の赤い部分をなくし、確実に火を通したいが、火加減によっては焦げが生ずるリスクがある。その対処として、《そもそも中まで熱の入った肉を揚げなおす》ことで、本来欲しかった食感を手に入れる、ということかな?」
うーーーん、75点ですかね、とナイスネイチャは笑った。
「確かに会長さんの言う通りです。ちゃんと中まで火を入れて、半生だかレアだかいう部分を完全になくしてしまう。特にアタシはそういうのキライだからよくやります。そのうえで揚げなおして、表面を焦がさずに食感を手に入れるのも間違いありません」
ですが、といいつつナイスネイチャは肉を再びアブラへ投じる。
じゅわあああああああああっ、と、高温のアブラで揚げるとき特有の、食の本能をハンマーでブン殴られるような、そんなアブラの音。
「100%じゃあ、ありません。彼らはこうしていち度揚げられ、冷やされて、もう一度熱せられることで、120%美味しくなるんです」
私たちにもよくわかる関係で言いましょうか、とナイスネイチャは肉を構いながら話しだした。
「生の肉は、学園に入学したての私たち。トレーナーもいません」
2分ほどで肉を引き上げ、次の肉を放り込む。再びアブラの音がシンボリルドルフの本能をフルスイングしていった。
「そしてトレーナーと出会い、トレーニングを受け、メイクデビューを走ります。これが、さっきまでの未完成の唐揚げですね」
ふたつ、みっつ、と、2度揚げされた唐揚げがバットに並ぶ。先のそれよりも衣は強固になり、こころなしか逞しい装いに感じられた。
ここまではぬるま湯ってやつですね、とナイスネイチャは自虐気味に笑った。
「そうして、ついにGIの最高の舞台に立つ。それがこの2度揚げってやつで、レース走りきったウマ娘の姿が、今あなたの目の前にある、完成品たちです。そう考えると、さっきアタシが言った《120%》ってのもわかるでしょ?」
トレーナーとの関係によれば、ウマ娘は本来のチカラを超えた領域に至ることができる。それはシンボリルドルフがその身で成してきたことでもあり、ナイスネイチャの説明には意義の唱えようもない。
さしずめ目の前の唐揚げたちが纏うのは勝負服。己の誇りを懸けた一張羅。
しかし相手は物言わぬ鶏肉。それを相手に、そんなことをしようだなんて。
「ふふ、君も優秀な《トレーナー》ということだな」
会長さんも面白いことを言うんですね。とナイスネイチャは僅かはにかんだ。
「はい、出来立てですよ。持って帰るぶんは別に作っておきますから、食べててください」
卓の上にトン、トン、トンと唐揚げ。いつの間に仕込んだのかインスタントの味噌汁、そして湯気たちのぼる白米が置かれた。
立派な昼食である。
「これは…!―買ってきた野菜たちに申し訳ないな」
「他所の店のモンなんて、あとからなんにでもすればいいんですよ。とりあえずほら、どうぞ」
そ、そうか…と、それでもやや後ろめたそうに、シンボリルドルフは大きな袋たちを脇へ詰めた。
「では」
丁寧に手を合わせる。食材への感謝、命への感謝、そしてなにより手ずからこれを作ってくれたナイスネイチャへの感謝。
唐揚げをひと口。途端、ナイスネイチャの言う《120%》がシンボリルドルフに押し寄せてきた。
旨味のGIはクライマックスの最終直線。先のそれとは比較にならないほど心地よい《ガリガリッ》という衣の砕ける音と共に様々な味が押し寄せてくる。
先頭は衣。2度揚げのときのアブラはいくらか出汁の溢れたそれであり、衣は僅かにアゴの風味を持っている。
その後すぐ、鶏肉の肉汁がシンボリルドルフの舌を支配する。2度揚げする前の休ませる時間は、肉汁を落ち着かせ内に寄せ、噛み締めたときの旨味をより強くするためのものだった。
後方からものすごい勢いで詰めてくるのはアゴ出汁。醤油の香ばしさとトビウオからなる甘みが、胸ビレという翼を広げて飛び去っていく。知らないはずなのに懐かしい景色に、シンボリルドルフは強烈な印象を覚えた。
そうして喉元を駆け抜けていった味覚たちが調和し成される後味というウイニングライブを、最前席でしかと味わい、この唐揚げは真に完成されたのだ。
「どうですか?アタシの120%。他では味わえませんよ?」
ひとつの唐揚げをしかと味わい、ゆっくりと嚥下したシンボリルドルフ。
「感謝する」
最初に出てきたのは感謝だった。
「きみはこの唐揚げを作るのに、多くの手間をかけてくれた。それがこうして、味や香り、食感という明確な何某を以て私を満たしてくれる。これほど有り難い話も無い。私の為に…とは言わないが、誰かが誰かを想い、そうして成されるものの尊さを思い知らされたよ」
大袈裟すぎますよ、とナイスネイチャは笑った。
「―でも、どうしてアタシが…料理をするヒトたちが、そんなかけなくてもいい手間暇かけてまで、美味しいものを作ろうとするかわかりますか?」
もちろん、好きでやってるンだから、それを極めたいっていう意地とプライドもあるんでしょうけど。
「今の会長さんがしているみたいな、そんな顔が見たくて、面倒くさいことしてる、っていう自覚はあるんですよね」
シンボリルドルフが《ウマ娘の幸せ》の為に邁進する。
同じように、ナイスネイチャも《目の前の誰かの幸せ》の為に腕を振るう。
根本は同じ。大なり小なり、幸せを願う者たちの、特別で幸せな、そんな昼下がりだった。