ビルの内部は、想像していた以上に静まり返っていた。
がらんとした空間に、打ち放しのコンクリートの匂いがこもっている。
足を一歩進めるだけで、硬質な足音が壁にぶつかり、何度も反響して戻ってきた。
視界を巡らせる。
柱の位置、天井の高さ、扉の数。
遮蔽物になり得るもの、逆に死角になりやすい場所。
「透明化は索敵向き、尾白は近接」
自然と、頭の中で役割分担が出来上がる。
葉隠は姿を消し、死角から動きを探る。
尾白は正面から圧をかけ、意識を引きつける。
――個性としては悪くない。
むしろ、組み合わせとしてはかなり素直で、実戦向きだ。
訓練を積めば、間違いなく強くなる。
少なくともハズレ個性と呼ばれるものではない。
だが、トップになる姿は想像できない。
この試験の特性上、俺が核の前を離れるのは得策じゃなかった。
ヴィラン側が不用意に動けば、それだけで隙になる。
しかも、あの二人の個性では遠距離から核を破壊する手段がない。
つまり――
こちらが待てば、向こうから出てくるしかない。
「やっぱりいるよな、黒野!」
尾白の声が、反響して響く。
同時に、床を強く蹴る音。
踏み込みが速い。
迷いもない。
右――
いや、違う。左だ。
風を切る音と、床鳴りの重さ。
あれは見せかけじゃない。
しっかり腰が落ちている、本気の踏み込みだ。
よく鍛えてる
一瞬でそう判断する。
「……いい蹴りだな」
身体を半身にずらし、尾白の蹴りを紙一重でかわす。
視界の端を、白い道着が掠めた。
そのまま間合いに入り、肘を差し込む。
力任せじゃない。
体勢を崩すことだけを狙った一撃。
「っ!」
尾白の身体が床を転がる。
だが、そこで終わるほど甘くはない。
すぐに受け身を取り、距離を詰め直してくる。
判断が早い。
実戦慣れしている。
右の拳が飛んでくる。
それを、左手で受け止める。
骨に伝わる衝撃。
だが、想定内だ。
「なぁ、俺が気づいてないと思ってるか?」
わざと、言葉を投げる。
視線は尾白から外さない。
左手に力を込める。
拳を握り潰せるほどの圧をかけると、尾白の顔が一瞬で歪んだ。
「このままインファイトしてる間に、葉隠が核を回収するつもりだったんだろ」
作戦自体は悪くない。
シンプルで、分かりやすい。
だが――
相手が悪かった。
苦痛に耐えきれず、尾白が全力で後退する。
距離を取る判断は正しい。
「気づいてるか?」
視線だけで、背後を示す。
「そこの扉、もう閉まってんだぜ」
尾白は一瞬、理解できないという顔をした後、慌てて後ろを振り返った。
「な……どうして」
「さあな」
肩をすくめる。
本当は理由を説明してやってもいい。
だが、今は必要ない。
「まぁ、後でわかるさ」
思ったより、いい蹴りだった。
間合いの取り方も、踏み込みの鋭さも、高校生としては十分すぎる。
だから、少しだけだ。
お礼みたいなものだ。
個性を使ってやる。
本当に、一瞬だけ。
《加速》
世界が、ぴたりと止まった。
音が消える。
空気の流れが凍りつく。
コンクリートに反響していたはずの足音さえ、途中で切り取られたように消失する。
――遅い。
あまりにも、すべてが。
尾白の身体は、今まさに後退しようとした姿勢のまま固まっている。
踏み出しかけた足。
わずかに開いた口。
筋肉に走る緊張まで、はっきりと見て取れた。
考える必要はなかった。
黒野は半歩だけ踏み込む。
床を蹴る感触すら、ほとんど感じない。
拳に力を込める。
狙いは顎――いや、少し下。
意識を刈り取る位置。
尾白の顎が、ゆっくりと迫ってくる。
黒野は、全力のアッパーを叩き込んだ。
《解除》
次の瞬間。
――轟音。
空気が一気に戻り、時間が叩きつけられる。
尾白の身体が、まるで糸を切られた人形のように宙を舞った。
「がっ……!」
短い悲鳴すら、最後まで声にならない。
背中から床に叩きつけられ、二度、三度と転がる。
そして、動かなくなった。
静寂。
黒野は、ゆっくりと拳を開いた。
指先が、少しだけ痺れている。
……あれ?
頭の奥に、ほんのわずかな違和感。
締め付けられるような感覚。
まあ、いつものやつか。
使いすぎた時に出る、軽い頭痛の前触れ。
これくらいなら、問題ない。
視線を上げる。
「……で、次は」
黒野はわざと間を空けた。
沈黙が、相手の想像力を刺激するのをよく知っている。
ヴィランらしく――
そう、ヴィランらしく。
相手の心を少しずつ、確実に削るための言葉を選び抜き、
何もない空間へと、声を投げた。
「葉隠。聞こえてるかは知らねぇけどな」
ゆっくりと視線を巡らせる。
当然、誰の姿も見えない。
だが、扉の近くにいるという確信だけは揺るがなかった。
「正直言っていいか?
お前の居場所は――俺には、まったくわからない」
一拍。
「でもよ」
視線を足元へ落とす。
床に伏せ、息を荒くする尾白の姿。
「お前のパートナーはさ。
お前を信じた結果、ここで転がってる」
踏みつける直前で、わざと止める。
見せつけるように、近づく。
「で?
お前は今、何してる?」
クハッ、と喉の奥で笑いが漏れた。
わざとだ。
余裕と嘲りを、音に乗せる。
「透明化って言っても、所詮はただの女子高生だろ」
言葉を重ねるごとに、声音を冷たくしていく。
「痛い目見てまで、仲間や核を取り戻しに来る覚悟なんか――
あるわけねぇよな?」
そして、最後は。
怒りを込めたふりをして、吐き捨てる。
「やめちまえよ、ヒーローなんて」
一歩、踏み出す。
「てめぇみてぇな雑魚に来られても、周りが迷惑するだけだ」
さらに畳みかける。
「自分が可愛くて仕方ない
――葉隠透ちゃんはさ」
名前を、わざとフルネームで呼ぶ。
「マジシャンにでもなればいいんじゃねぇの?
姿消してナンボ。天職だろ」
言い切った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
……やっべ
内心で舌打ちする。
さすがに、言いすぎだろ
演技とはいえ、ラインを越えている自覚はある。
後で――本気で謝らないとな。
だが、今は止まらない。
「勇気があるなら、その扉を開けてみろよ」
核を背に、黒野はゆっくりと両腕を広げた。
逃げ場はないと、視線と態度で突きつけるように。
「その瞬間――」
わざと、言葉を切る。
「俺はお前を潰すけどな」
言い切ると同時に。
躊躇はなかった。
感情も、迷いも、そこにはない。
振り下ろされた足が、尾白の腹部を正確に捉える。
「ぐはっ……!」
鈍い衝撃音が、コンクリートの床に反響する。
空気が一瞬、揺れた。
尾白の身体はそのまま床に押し付けられ、肺から空気が無理やり吐き出される。
呼吸が乱れ、喉から掠れた音が漏れる。
黒野は足を離さない。
体重をかけたまま、じっと見下ろす。
視線を逸らさず、逃がさず、許さない。
「言えよ、尾白」
声は低く、淡々としていた。
怒鳴りもしない。
だからこそ、重い。
「助けてくれってさ」
わずかに、力を込める。
尾白の身体がびくりと跳ねる。
「……葉隠、って」
その名前を口にした瞬間だった。
黒野の目だけが、ほんの一瞬――刃のように細く鋭くなる。
だが、それは一瞬で消えた。
次の瞬間には、いつもの軽い調子に戻っている。
「……っ」
尾白は、歯を食いしばった。
背中に走る激痛に顔を歪めながらも、喉の奥から必死に声を絞り出す。
呼吸は浅く、肺がうまく膨らまない。
それでも――
その口から出た言葉は、黒野が“待っていたもの”ではなかった。
「……呼ぶ、わけ……ないだろ……」
言葉は途切れ途切れで、掠れている。
だが、視線だけは逸らさない。
床に押さえつけられたまま、それでも真っ直ぐに前を見据えていた。
その視線の先にいるのは、目の前のヴィラン役をやっていた黒野ではなかった。
日頃の穏やかな雰囲気に戻り、優しい笑顔でこちらを見ている。
「……そうか」
黒野が、静かに頷いた。
「オールマイト。もう終わりにしてくれ」
「これ以上は無駄だ」
その声には、怒りも焦りもない。
淡々とした、評価の声音。
――尾白は、十分すぎるほどやった。
後で頭なでなでしてやろう
そんな場違いな考えが、一瞬だけよぎる。
その直後だった。
バコッ!
鈍く、重たい音。
核の部屋の扉が、外側から叩きつけられる。
続けて、岩が転がり込んできた。
「へぇ……」
黒野は足を退け、ゆっくりと振り返る。
「考えたな」
岩を投げつけ、扉を強引に開ける。
そうすれば、誰が、いつ、どのタイミングで部屋に入ってくるのか――
視認できなくなる。
透明化の弱点を、状況で補う判断。
悪くない。
むしろ、冷静で合理的だ。
――でも。
「……甘い」
呟きと同時に、黒野は息を吸った。
《加速》
世界が、歪む。
音が消え、
空気が固まり、
時間そのものが引き伸ばされる。
透明かどうかなんて、関係ない。
黒野は、扉の外へと歩き出す。
ゆっくりと、両腕を広げる。
視覚ではなく、感覚で探る。
床の微かな沈み。
空気の抵抗。
心拍の揺らぎ。
――いた。
「……お」
指先が、何もない空間に触れた瞬間。
確かな感触が返ってくる。
「見ーっけ」
そのまま逃がさない。
捕獲テープを取り出し、手早く巻き付ける。
抵抗する暇すら、与えない。
《加速解除》
世界が、一気に戻る。
音が弾け、空気が流れ、時間が再開する。
床には、テープで拘束された葉隠の姿。
そして、その様子を見上げる尾白。
黒野は、軽く肩をすくめた。
「――訓練終了、だな」
声は、あくまで軽いまま。
だがその場に残ったのは、
一瞬だけ使われた力がもたらした、圧倒的な差だった。