灰色に澱んだ空が見える。
景色としては良くないのかもしれないが、あまりに澄み切っていても過ごし易いものじゃない。雨や雪を呼んでこないのなら、曇り空は程々に良いものだった。
「ハァ…ハァ……!!」
ポタリと、ポタリと、噴き出した汗が伝って、俺の通った道に落ちる。
既に酷使しているギシギシと手足が痛み、しきりに休ませてくれと訴えるが、それを許可する権利を、俺は持たない。
まだ背の低い子どもの体にとっては、果てしなく長い坂道を登っていた。自分の体重よりうんと重たい台車を携えながら。
手足が痙攣し出して久しいが、僅かに残った気力を搾り出す様にして台車を押し続けた。途中で脱力したら、転がり落ちてくる台車に押し潰されて死ぬという噂を、冗談に思えなかったから。
「フッ、くうぅぅ…ッ。ハァハァ……」
そうして視界が白んで、チカチカと点滅する程の疲労を味わいながら、ようやく頂上に辿り着くことができた。
「あぁ、ちくしょう。……腹減った」
身体を苛む痛みと疲労と同じぐらい、空腹感が気力を削ってくる。普段からロクに食べてないのもそうだが、今は運んでいる物のせいで、尚更胃腸が締め付けらていた。
「旨そうな匂い垂れ流しやがって、クソッ! 忌々しい!」
何段にも渡る台車の棚からは、暖かな湯気と共に芳醇な匂いが、ずっと漂っていた。
緻密な手間を重ね、極上の素材を使ったのだろう。その一皿一皿が、芸術品の様に艶やかで、今にでも口に入れたくなるほど芳しい。前世でも口にする機会すらなかった高級料理の数々。
それこそが、空きっ腹の俺が必死こいて運んでいる積荷であった。
疲労と空腹。そしてそれを逆撫でするこの品々。すでに最低な気分にさせられている仕事だが。それすらも、この後に控えることに比べれば、ずっと耐えられるものだった。
「はぁ……、お待たせ致しました」
このご馳走で満ちた台車の最終到着地点。
そこには金の刺繍が施された、色鮮やかな真紅のテーブルクロスが、地平線の様に広がる、とても大きなパーティーテーブルが鎮座していた。
こんな豪勢な料理を配膳するなら、俺のように薄汚いガキじゃなくて、きちんと礼服を着こなした、プロのウェイターの役割であるべきだろう。そうでなきゃお客さんに失礼というものだ。マナーに疎い俺でもわかる。
でもこの仕事では、なんの問題ないらしい。
無造作に、淡々とテーブルに皿を配置する。その料理の品名すら説明しない。だって
「$☆4:■■・$2#÷*=……」
並べ終わるや否や、クチャクチャと奇妙なうめきを上げながら、匂いにつられて、そいつらは這い寄ってきた。
「譁ー魄ョ縺ェ蛻?↑縺?─諠?r縺溘∋縺ヲ」
「44:■$^^■■■■÷n*2#〆」
「縺ゅ≠鬢後□縲ゅh縺?d縺乗擂縺溘°」
意味のない音の羅列。それとも理解できないだけで、彼らなりの言語かもしれないが。どちらにせよ俺に関わるものではなかった。
「都市は訳のわからない事ばかりだと知ってるけど、……こんな仕事をするとは思いもしなかったな」
テーブルの上をにじり寄って来るのは、巨大なイモムシ達だった。
体長は大人の腕と同じぐらいで、緑色の身体には赤黒くて太い、血管の様なものが、びっしりと浮き出ている。
その蟲たちが数え切れないぐらい密集して、テーブルの上に積み上がっ空皿の隙間に、巣を作っていた。
群がってきた蟲たちは、ぐちゃりと、大きく裂けるように口を開けて、料理を食い漁る。
ひどく無造作で乱暴なその仕草からは、料理が持つ味も、厳格に整えられた見栄えの美しさも、何一つ理解しているように見えず。ただそこらの葉っぱを食らうのと同じぐらい、無頓着な捕食だった。
なぜ蟲にここまで手の込んだ料理を、餌として与えているのか。そもそもなぜ人間用の食事に、蟲がここまで貪欲に喰らいつくのか。疑問を挙げればキリがないが、俺の仕事の範囲では知りようがなかった
「くそっ……、意図してやってるなら趣味が悪すぎるだろ」
後の仕事は、彼らの食事が終えるのを待って、残った皿を回収して帰る事。だから、それまでの間だけが唯一の休憩時間と呼べた。
つまり俺が飯を食えるまとまった時間だった。
汚れた背嚢から取り出したのは、安くて硬いパンと、拾ったペットボトルの水筒。
パンは硬すぎてそのままじゃ噛めもしないから、水筒に汲んだ鉄臭い水をかけて解す。……無味無臭な塊に不快な香りがトッピングされた。
クチャクチャ。パキパキ。ゴリゴリ。グチャリ。
背を向けたテーブルからは、水気の滴る咀嚼音の合唱がBGMに掻き鳴らされている。気に障ったので振り向いて見れば、ちょうど一匹の蟲がステーキを踏み潰しながら、オムライスの中に頭から突っ込んで食い散らかしていた。
「…………ッ」
正直こんな所で食いたくもないが、今食わねば本当に身体がもたなくなる。意を決してパンを口に詰め込んだ。
……不味い。
藻の浮かぶ泥水を一塊にしたような、混然とした苦さとエグみが舌の上で痺れる。早く飲み込んでしまいたいが、まだ硬すぎるので、よく噛み締めて、砕かないといけない。その時間がただただ苦痛だった。
「+9€■■&5」
「78☆#>■$…g*■3」
背後では相変わらず、温かな香りと湯気が柔からく流れてきていて。それを粗雑に食い散らかす雑音もまた響いていた。どちらからも逃れたくて小さく背を丸めて、固く自分を閉ざす。逃げ道はただ、目の前にある食事に没頭する事しかない。
「クソッ、クソッ、クソッ……」
今、自分が何をしているのかもわからない。
ただ一つ、ハッキリしているのは、この先何があったとしても、この低く押しやられるような感覚だけは、生涯忘れられないだろうという実感だけが、重くのしかかっていた。
ちょうど俺が食い終わるのと同じ頃に、彼らの食事も終わったらしい。静まり返ったテーブルから皿を回収する。
食べ残しなんてものは当然なくて、皿は全て舐めとったように白く照っていて、粘ついていた。
回収の最中にふと、一匹の蟲が空皿に口を寄せて、糸を吐いた。10センチ程度の短いそれは、綺麗な緑の色をしていた。
「これが天蚕糸……か」
初めて間近に見るそれは、この曇天の下でも綺羅星の様に瞬いて、柔らかく手に触れた。
繊維の宝石と揶揄されるこの生糸が、こうして生み出されていると、糸を持て囃す人々は知っているのだろうか? 知りたくもないだろう。
「過程はどうあれ、よい結果があればそれでいい。本当に都市らしいな」
自重気味に呟いて、足早にテーブルを後にした。まだまだやらねばならない仕事があるからだ。遅れたら指示する大人に、容赦なくぶん殴られてしまう。
「あぁ、でもこのお土産は喜んでくれるかな」
背嚢に仕舞い込んだ、小さな糸屑。それを彼女に贈る瞬間を想像してみれば、重くなった足取りも、軽やかに弾ませる事ができた。
◆◆◆◆
「えっ! こんなもの、どこの生産工程から盗んできたの!?」
仕事を終えた帰り道で、手渡したそれについての反応は、予想通り驚いてはくれたが、そこに喜びが混じるのではなく、怒りが滲んでいた。このままでは彼女にぶん殴られかねないので、慌てて誤解を解きにかかる。
「違う、違うって! 素材や製品を盗んだわけじゃないよ。ほらこんなに短いの、布切れの端にもならないだろう」
「……でも黙って持って帰ってるじゃない」
「本来ならあの工程で出ないエラー品だよ。バレないって。皿に引っ付いたゴミなんだから……あっ」
言って気づいたが、それを今し方、プレゼントとして渡したのだった。
「と、言っても。俺たちにとっては宝物だから……」
「はぁ……。フォローになってないけど、それも事実よね」
なんとか納得してくれたのか、握っていた拳を解いて、一息つく彼女。
「心配かけてゴメンよ。でも君に喜んで欲しかったんだ──"レイナ"」
「うん。それはわかってるわよ」
淡い金髪を揺らしながら隣を歩く、幼馴染であるレイナ。
彼女は何かにつけて、俺の行動を咎めたがっていた。
「ヴァラキ。あなたが私の為を思って、いつも無茶ばかりするのはわかるけど──」
「あ、いや半分くらいは、俺の好奇心なんだけど……」
「私の為を思っているのはわかるんだけど!」
頬を力強く掴まれて、強引に顔を突き合わされる。
「まず何よりも、あなたが無事であることが一番嬉しいの! 危ない真似をしないで欲しいの!」
合わさった彼女の瞳が、真っ直ぐに俺を映して、揺れる。
「無茶はやめて。あなたは私の……大切な家族で、弟分なんだから」
最後の方は、とても小さな声になっていたけれど、その一つ一つに、切実な想いが込められていて、俺の胸に強くのしかかった。
慕われて、大切に思われているという実感による高揚と、彼女にそんな事を言わせてしまう現状への苛立ち。そしてちょっとした反抗心が、俺の喉もとをくすぐる。
「弟分……か。まだそんな扱いするんだね」
「むっ、何? ……文句でもあるの!」
「まぁね〜。同い年で世話も焼かれてないのに、ずっとそれなのは納得しかねるよ」
彼女の凄みにだって、素知らぬ顔で受け流してみせる。いつまでもガキ大将と子分のような関係ではないのだ。
「はぁ、生意気な。……ちょっと前までは大人しくって。何をするにも私の後をついてきたくせにさ」
「あっ! その話をするなら、昔の君だって──」
「……待って! あれ見て!」
不意に、彼女が手をかざして前を遮ると。もう片方の手で、道の脇にある、建物同士の隙間に開いた狭い小道を指差した。
既に夕暮れも終わりかけて、濃度を上げる暗闇の中で、それはただのボロ布に見えた。しかしよく目を凝らして見れば、それに小さな手足が突き出しているのがわかった。
「私、この子を知ってるわ」
「あぁ。たしか同じ宿の……フランクだっけ?」
彼女に連れられ駆け寄るが、触って確認したその体からは、とうに熱が失われていて、硬くなっていた。乾いた涙の痕が残るその顔は、何度か言葉を交わした事のある、知人のなれ果てであった。
「非道い……。全身アザだらけで、骨が何本も折れてる」
「ようやく腕が認められて、ミニッツメン入れたって喜んでたけど、本番でしくじっちまったみたいだな」
裏路地で親や家族がいない子どもたちは、当然だが自分の家だってない。だから多くの場合、同じような境遇の子ども同士で集まって、金を出し合い、何処かの部屋や倉庫を借りて夜を過ごす。そうしなきゃ生死に直結する死活問題だから、誰に言われるでもなしに皆そうしていた。
そうして見ず知らずの他人同士であっても、毎晩寄り集まって雑魚寝してれば、嫌でも顔を覚えるし、言葉も交わすようになる。死んだ彼もそうやって知り合った一人だし、もっと言えば俺とレイナだって同じような出会い方だった。
「弔ってあげるべきかしら……」
「いや、そんな時間はないよ」
この辺りは自警団も維持できないぐらい貧しく、治安も相応に悪い。そして日が暮れてしまえば、更に危なくなるのだ。
そしてそんな事は彼女だってわかっている。その上でここを離れられずにいた。
(クソッ、殺すんならもっと目立たずにやってくれよ……)
自分でも最低な事だとわかるが、そう思わずにいられなかった。
指が何本もおかしな曲がり方をした冷たい手を、そっと握る彼女の瞳が、また曇って、濃い影を落とす。その有り様は、もう見ていられなかった。
「結局、私たちはどこまでも軽んじられるのね」
「レイナ、もう行こう。これ以上ここに留まるべきじゃない」
彼女の手を死体から引き離して、強引に立ち上がらせる。まだ反応の鈍い彼女を牽引して、その場を立ち去ろうとしたその時。何人もの足音が近づいて来るのを感じた。
「おい、そいつは俺たちの物だぜ」
第一声にそう発しながら、詰め寄ってくるその連中は、皆俺と同じような年頃の、子ども達だった。
お互いに薄汚れた格好で、一目で同じ裏路地の孤児とわかる姿だが。唯一、俺たちと彼らを分ける特徴が、示したように腕に巻かれた布切れの有無として存在した。
「ミニッツメンの連中か……」
「そうだ。なんか文句あるか?」
「いや無いよ。君たちが用があるのは彼だろう」
「おおそうだ。話が早いのは嫌いじゃ無い」
大仰にケタケタと笑いながら、彼らは死体に群がると、それを検分し始めた。
「言っとくが、こいつから何か漁っちゃいねぇだろうな?」
「盗る物なんてないだろ。あったら殺った時に盗られてるだろうし」
「ははっ、違いねぇ。ビビって逃げ遅れた奴はなんざ、価値のあるもんもねぇよな」
「ねぇ! その子をどうする気なの!」
適当に交わされる軽口の応酬に、突如としてレイナが切り込んできた。
その鋭い口調に、両者に一瞬の緊張が走り、俺の頬を冷や汗が伝った。
「こいつは、俺たちの身内だぞ。部外者が何を──」
「この後、弔う気はあるの!?」
ぴたりと、死体の隅々まで引っ剥がしていた彼らの手が止まる。まるでそんな言葉自体を初めて聞いたかのように、奇妙な沈黙が場に満ちた。
「アハハハーッ! なんだよそりゃあよう!」
直後にリーダーらしき人物が膝を抱えて爆笑する。他の奴らも釣られて下品な笑いを響かせた。
「そんな一眼にもならない事に、手間と時間を掛けてなんになるってんだ! あー笑える!」
「じゃぁ、どうして運ぼうとしてるのよ!」
あらかた暴かれたその死体には、幾つもの縄が結ばれて、持ち手の輪っかまで付けられていた。
「売るんだよ! 汚ねぇ孤児でも買い取ってくれる所があるから、そこに持って行くんだ」
「──ッ、仲間じゃないの!?」
「仲間だよ。でもこのままほっといても掃除屋に消されるだけだろ。それなら俺たちの飯の種になるのが優先だろうが?」
なぁ? と同意を求めるように、俺の方に視線を投げかけてくる。俺はそれになにか反応を返すこともなく、ただレイナの肩を掴んだ。
「それでもッ──」
「レイナ、確かに死んだ彼は俺たちの知り合いだったけど、繋がりで言えば彼らの方がずっと深いんだ。その彼らがこう決めてるんだから、俺たちに言える事はないよ」
「あなたまで……」
「それにひょっとしたら、自分が死んだ時にそうするって、約束を交わしてたのかも知らないじゃないか」
そう言って、相手に視線を投げ返せば、ヘラヘラとした頷きが返ってくる。
「あぁ、そうなんだぜ。こいつ…名前なんだけっけな? まぁ仲間の遺志は継いだやらねぇとな」
言い終えるやいなや、彼らは全員で死体を持ち上げると、息を揃えて走り出した。死体を運ぶその手つきは淀みがなく、完全に物を扱うそれであった。
「じゃあな! 甘ったるい馬鹿ども! せいぜい道端で慰め合ってろよ!」
ゲラゲラと不快な嗤い声をあげて、あっという間に消えて行く様は、まさに
「…………」
「レイナ。こればっかりは君が気にする事じゃ無いよ」
「……わかってるわよ、そんなの」
俯いて、静かに肩を震わせる背中を、そっと抱きしめる。その今にも崩れてしまいそうな小さな体を、少しでも支えたかったから。
「でも、本当に何も残らずに。誰にも思い出されずに消えて行くなんて、……悲しすぎるじゃない」
頬を伝って流れる一筋の雫。硬い地面に落ちて、散ってしまうのが惜しくて。なんとなしに手のひらで受け止める。
「大丈夫。大丈夫だよ」
とても温かくて、染み入るような感触がした。
9章が楽し過ぎて、執筆が遅れに遅れた、懸命なる投稿者。ワン・ダーウェイと申します。(謝意)
一万字オーバーしたので半分に分割です。ほぼ完成してるので続きは明日投稿します。