「すいません。黒パンを二つ下さい」
あの後は少し遅れるも、いつも通りの帰り道に戻ってきて、またいつも通りの日常を再開する。──とはいえ、嫌な事は良い事で相殺したくなるのが道理である。
「ヴァラキ。気を使わなくても平気よ」
「俺が食べたい気分なんだよ」
ちょっとだけ奮発して、いつもよりも少し、いい買い物をした。
「ほらよ。お待ちどう」
「ありがとうございます」
手で直に渡されるのは、腐ってこそないが、パサついて傷んでいそうな質素なパンだった。
察しの通り決して美味くはないのだが。製糸工場で昼食に配られる、あの硬質ヘドロパンよりは幾分かマシな味である。それだけでも有り難みが十分にあった。
ちなみにこれ全部で、今日の夜と翌日の合わせての二食分だ。一つのパンを二人で半分にして食べる。
当然、育ち盛りの身体には足りず、ひもじい思いを味わうのだが、なにぶん財布の中身は常に厳しいのだ。宿代に食費といった固定費を除けば、使える金はごく僅か。それだって、無駄には使えない。
「今日もまたちょっと膨らんだな」
「嬉しそうね。今度は何を考えてるのかしら?」
背嚢の奥底に仕舞い込まれた入れ物。そこにある物こそ、このひもじい現状を打破する、最も重要な鍵。
長い時間を掛けて、毎日ちょっとずつ蓄えてきた、俺とレイナの稼ぎ。その合算。つまり、二人の将来に向けた共有財産であった。
「ふふん。……まぁね。もうちょっと貯める予定だけど、今でもギリ買える工房製品はあるんだ」
使い道はもちろん、自分たちをより強くする方法だ。金を稼ぐにも、安全を手に入れるにも、まずある程度の力がないと話にならない。
今の稼ぎでは、一端のフィクサーや組織員が振り回すような、ちゃんとした武器には到底届かないが。小さな工房の数打ちの品や、中古で出回っている物なら射程圏内に入る。下手な不良品さえ掴まされなければ、そこら辺の鉄パイプやボロいナイフよりもずっと頼り甲斐があるだろう。
「あぁ…安い掘り出し物を二人分手に入れるか。それとも奮発していい武器を一つでも確保しとくか。いやいっそ、武器じゃなくて面白そうな発明品や衣服を試してみるか……」
資金は限られているというのに、考えればその分だけ候補が浮かんでくる。
「ヴァラキは本当に、工房とかが好きなのね」
「そりゃまぁ、かっこいいだろう」
高速振動で鋼鉄も引き裂く斧や、任意方向に雷撃を飛ばす腕輪に。照射した影を灼く電灯なんかが平然と置いてあるんだぞ。ホームセンターの工具コーナーの超すごい版みたいなものだ。見ているだけで永遠に時間を潰せてしまう。
「それにな。……都市の人々が生み出した、俺の知らない技術や文化を見ると、この世界の混沌とした有様を知る楽しみが実感できて、昔みたいにワクワクできるんだ」
画面越しに眺めていた都市。そのイカれた様相や、ぶっ飛び具合にはいつも興奮させられていた。
実際にその世界に住んでしまえば、正直言って苦しくて、辛い事ばかりだけれど。ああいった物を見聞きして、知ることに没頭する時間は、純粋にこの世界が好きだったという喜びを、思い出させてくれるから。
「また、いつもの妄想癖? それも相変わらずよね」
「そう言うなって。いずれ証明してみせるからさ」
そう。俺が力を求めているのは、ただ生存や安寧のためじゃない。ちゃんとした夢があるからだ。
「もっと強く、いろんなことができるようになったら、君と一緒にこの狭い裏路地を飛び出して、旅に出るんだ。俺が知ってるもの。知らないもの。全部を見て、知っていく大冒険に」
そうして見る光景の中で、俺たちは二人で一緒に過ごして。経験した事に対して笑ったり、悲しんだり、驚愕したりといろんな感情を浮かべるんだ。
時には俺の話と重なるものもあるだろう。そうなれば妄想だなんて切り捨てられることもなく、俺の話にも耳を傾けてくれる。この残酷な世界でも、夢や信念を持って、強く生きている人々の物語を。
(そうすれば君だって、もう一度……)
「ダメ。そんな無謀を抱いてちゃ、足元が疎かになって転ぶだけよ」
はっきりと、強い否定の言葉が彼女から発される。その声には、俺に傷ついほしくないと言っていた時と、同じ感情が込められていた。
「私たちは弱くて、簡単にいなくなっちゃう。だからもっと目立たないように生きないと……」
「レイナ……」
寒波に晒されたように身を震わせて、下を向くレイナ。その言葉は俺だけに向けられたものじゃなく、自分にも言い聞かせる戒めのものだった。
元来、レイナは明るくて、無鉄砲なまでに力強い性格だった。
有無を言わせずにグイグイと人を引っ張って、だれか困っていれば手を差し伸べる。明るく笑って、高らかな声を張り上げる。太陽みたいな人柄だったのだ。
けれど、過酷な現実が一つ、また一つと彼女の翼に傷をつけて、暗く沈めてしまった。
裏路地の孤児として生きるならその方が断然いいのだろうが、俺はあの輝きに救われた人間だった。
(あの、いっちばん背の高い大きなビル。あそこは私たちみたいな、親や家族がいない子供たちの家にするの)
(お日様と星空がとっても近い世界を見渡せれば、きっと寂しさだって安らぐはずだもの)
荒唐無稽で、到底叶うはずもない夢物語。だけどそれを語る声はとても真剣さがあって、自信に溢れていて。聞いているだけで胸が温かく感じ、笑うことができた。
「レイナ、今はまだ信じなくてもいいんだ」
固く食いしばるように握ぎられた手を取って、その上か自分の手を重ねて、包み込む。
「でもこれは約束する。俺が絶対に、君の不安と無力感を振り払って、心のままに動けるよう助けるって」
彼女を蝕むその震えに、ただ寄り添って言葉をかけた。それが今の俺にできる唯一の支えだと、そう思ったから。
少ししてから、彼女が顔を上げて、ぽつりと呟いた。
「助けるって、あなたが払ってくれるんじゃないのね」
「そりゃぁ…まぁ。自我を救えるのは、自分だけって散々言われてるし。俺にできるのは手助けまでだよ」
心の中心にまで他者がズカズカ入り込んで、救ってやるなどと
「はぁ……しょうがないわね」
俺の跳ね除けるような口調に対して、彼女はため息混じりに、そして呆れたように笑った。
「信じてあげるわよ。あなたのその夢。目指す未来を」
「えっ、レイナ……!?」
その答えに思わず詰め寄って、何度も念を押すように確かめる。
「ほんと!? 本当に!?」
「お、弟分がそこまで言うんだもの。ここで意地を張らなきゃ、姉として廃るでしょう」
目を合わせてくれず、顔はあさっての方向を向いてはいるが、触れ合った手だけは、しっかりと握り返してくれた。その場しのぎの誤魔化しではなく、ちゃんと本気で考えているのだと伝わってきた。
「やった! 約束、約束だからね!」
「はいはい。約束してあげるわよ」
そう言うと彼女は小指を立てて、突き出しててくる。
指切り。このおまじないは俺が教えたものだ。これまでも大切なお願いや願掛けをする時には、何度か交わしたものだった。
そうして差し伸べられた指に、俺も自分の小指を合わせようとするが、ふとあることを思いついた。
「ちょっと待って。いいものがあるんだった」
この約束は今までしたものよりも、特別なものにしたかった。そしてそれを彩るちょうどいいものを、俺は持っていた。
「どうせ結ぶんなら綺麗なものにしよう」
ゴソゴソと背嚢にから取り出したのは、軽くて細い一筋の糸。緩やかにきらめく天蚕糸だ。
「動かないでよ……」
「片手だとやりにくそうね。手伝おっか?」
「いや、君がやるとむしろこんがらがるだろう」
大雑把な質の彼女を落ち着かせて、どうにかお互いの小指に巻きつける。ちょっと歪つだけれど、固い結び目が出来上がった。
「ゆびきりげんまんっと。これでいいのよね?」
「うん。俺はいつか君を連れて旅に出て。君はそれを信じる。約束の成立だ」
夕暮れは地平の端に隠れて、薄暗い夜が広がっている。それでも空には大きな月が昇っていて、世界を静かに照らしていた。
「…………ところでこれ、ちょっと短過ぎない? 流石に繋ぎっぱなしは無理でしょう」
元々短い糸を更に結んだのだから、小指をつなぐ幅は数センチもなかった。
「あ〜…。結び目が無事なら、切っても大丈夫だと思うよ」
「よし! じゃあ切ろう。流石に恥ずかしいし」
言うや否や、彼女が懐から刃こぼれしたナイフを取り出すと、それを大きく振りかぶった。
「えっ! いけるの? これ天蚕糸だよ」
「まだ未加工の生糸なら、そこまで頑丈じゃないでしょ」
えいっ。と一息で振り下ろされた一閃は、見事に指の間を捉えて。微塵の抵抗もなく糸を切り離した。
「……そんな得物でよく切れるね」
「ふふん。カッコいいでしょう」
普段は不器用なくせに、こう言う事は本当に上手にできる。実際喧嘩の腕前は俺よりもずっと上なのだ。それを示すように、糸の切り口には一切のガタ付きもなく、綺麗な断面が覗いていた。
「ほらヴァラキ! 早く帰るわよ!」
ふと前を見れば、少し先で彼女が手を振っている。その顔は、かつての自信に満ちた笑顔を浮かべていて。その輝きに引き寄せられるように、俺も駆け出した。
「やっぱり、君は凄い奴だよ…」
そう彼女はとても強い人だった。守ってやるなんて烏滸がましい存在だ。胸を張って困難に立ち向かい、ズンズンと先に進んでいってしまう。俺はその歩みに置いていかれないよう、ずっと走り続けているのだった。
「待って、すぐに追いつくから」
指の結び目を撫でる。二人の間に繋がれた、ちっぽけな糸。
それは数多の苦痛が牙を剥き、何もかもが不安定なこの世界に、唯一垂らされた命綱のように、俺の心を安住の地へと結んでくれた
「あぁ、たとえこの先何があったとしても」
この瞬間を。君と共に過ごすこの日々を抱えて、噛み締める度に。
俺の人生を彩り続けてくれるのだろう。
『まぁ、結局。全て掃き捨てて。二度と取り出すことがないよう、押し潰してしまったんだがな』
──不意に真っ黒な影が世界を覆った。
在らん限りの怒りと落胆を凝縮したような、低い男の声が響くのと同時に、あたり一面から明かりが消えたのだ。
「……レイナ!?」
彼女の返事はない。どころか周囲から全ての物音が消滅していた。その影に包まれたものは、街も人も全て等しく、静止している。例外は俺ただ一人だけだった。
どうにもできずに途方に暮れて。この影を作り出した原因、上空にある何かを見上げてみれば、だんだんとその形がはっきりとしてきた。
「あれは……靴底?」
記憶にはない非現実的な光景。
当然こんな光景にだって見覚えはない。だというのにその姿は妙に見慣れて、奇妙な共感を呼び起こしていた。
「あぁ……そうか。あれは全部」
崩落するような音と共に、確実に迫ってくる、真っ黒な靴底。
それを構成する全てのものは、俺自身の偏執と痛みから出来ていた。
あれは、もう踏み躙られたくなくて、他の誰かを踏み躙るために形作った、俺の暴力性。劣等感。惨めさの象徴だった。
しかし、どうしようもなく巨大で、畏怖的なその構造物に、頭は恐怖で支配されて、無我のうちに背を向けて走り出した。
「あっ!?」
直後に、何かにつんのめって、無防備に転んだ。
振り返ってみれば、手に絡みついた緑色の紐がピンと張って、動かないレイナに食い込んでいた。
「そっか、この約束の糸は命綱じゃなくて」
ピクリともしないレイナは、打ち込まれた杭のようにその場に固定されていて、そこに繋がれた俺も当然動けなかった。
そのまま何もできずにへたりこんでいると、遂に目と鼻の先まで靴底が迫ったきた。地を覆うその影は一層の濃さを増して、何もかもをドス黒く染め上げる。
「奈落へと引き摺り込む、切れない鎖なんだ」
ゴシャリ。と全身から音が鳴った。
靴底に踏み潰された世界で、全ては闇に溶けて、コナゴナに粉砕されたのだ。
更に、その破壊は一度では終わらず、幼き飴細工の世界を、無慈悲に、執拗に、何遍も何遍も捻り、踏み壊し続けた。
───
─────
ようやく静けさを取り戻した時には、白く濁った傷跡だけが残された。無数に削られたガラス窓のように、白くて無感覚な世界がただ、遺されていた。
何もない世界で瞼を開き、俺は目を覚ました。
「…………また、昔の夢か」
薄暗闇が張り付いた灰色の天井を見つめながら、脳内にて再生された、過去の残像を咀嚼する。俺自身が捨て去って、ずっと意味のない破片としか触らなかった記憶の物語だ。
当然だが、最後の靴底による終末は起きていない。あれは俺の生み出したイメージとかだろうか。どうあれここより先はまだ見せられないらしい。
「まぁ別に、見たくもないけどな……」
この感覚からして、どうせロクなものじゃないのだろう。だったらそれは捨てたままがいい。そんなものがなくても、今を生きていくのに支障はない。
「そうだ……今だな。やらねばならない問題に、試練があるのは」
身を起こして、眠気にぼやけた思考を振り払う。同時に腕時計を確認して、日時に基づくこれからのスケジュールを組み立てていると、手首に巻き付いた一本の糸が目についた。
「随分とまあ、気楽そうだな」
その糸を視線で辿っていくと、部屋の隅に転がる小さな寝袋へと行き着いた。すっぽりと覆い隠されたその形状は、規則正しいリズムで、上下に僅かに揺れている。
なんて事のない、ただそれだけであるというのに、何故だかずっと見ていたいと思えた。
──けど、そうもいかない。
ガリアーノ様から指定された待機時間の終了が、刻々と近づいているのだ。これを破ることはあり得ない選択だった。
両手で頬を張り、意識を完全に覚醒させると、帰還のための荷造りを始めた。その際に物音は極力立てないように注意を払う。レイナを起こさないためだ。
もとよりこの事は伝えてあるのだから、わざわざ眠りを妨げてまで別れをいう必要もないだろう。それに起こしたら起こしたで、五月蝿そうだったからな。
「あぁ、戻らないとだな」
厳格な雰囲気を漂わせる銃身。ギラついた銃剣の刃。それらを指先でなぞる。
この都市で、ずっと素顔を晒したまま生きていくことなど出来はしない。一度脱げたその仮面を、親指の在り方を。しっかりと顔に貼り付けて、銃を手に取った。
ふと、手首から伸びるこの糸をどうするか。という問いが頭をよぎる。
「結び目さえあれば大丈夫……か」
なるべく手首に近い辺りに銃剣を当てて、素早く引く。一瞬の抵抗の後に、綺麗な糸輪だけが残された。袖を引き上げて、それを深く隠すように仕舞い込んだ。
「じゃあな……レイナ」
廃墟にある一室。そこから踏み出して、俺の日常へと帰還する。
──その去り際に、僅かに振り返る。断ち切られた緑の線が見えた。その切り口は少し歪な出来栄えだった。
休暇は楽しんだかい? じゃあ戻ってこようか。
君の首輪に結ばれたリードは、常に私の手に握られてるからね。