パンのみに生きるにあらず   作:改造黄金虫

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触れた世界を感じ、機敏に動く心を取り戻したか。おめでとう。でもそれは都市で生きるのに不要なものだった。


第18話 地へと堕ちる子

 

 静かな廊下に一人分の足跡が響いている。

 

 その音は淀みがなく、遅くも早くもない常に一定のペースを維持したまま連なり、決して止まることはなかった。

 

 道を行先には誰ともすれ違うことはない。気を遣っての事か。それとも近づきたくもなかったのか。もしくは単なる偶然か。

 いずれにせよ、俺がやるべき事も、それを果たす期限も変わることはない。

 命じられた仕事を、目上の方が望む通りにこなすだけだ。

 

 進んだ先に一つの扉を見つける。飾り気のない無骨で頑丈な部屋の入り口。密閉されたその部屋の中の様子は、外からではなにも窺い知ることはできなかった。

 

 俺は手に持った量産型の銃を下ろすと、古びた鍵を差し込んで、そのドアノブに手を掛ける。見た目通りの重たく軋んだ音を立てながら、ゆっくりと部屋の扉が開いた。

 

 僅かな照明が点滅する、ほぼ真っ暗な部屋の中に、急激な光が差し込んだ。

 

 

「よう。時間だぜ」

 

 闇の中に浮かぶのは、狭くて殺風景な内装と、床にこびりついた、古くて濃い血の染みた跡。

 

 そして鼻には嫌な悪臭が押し寄せて来た。

 流された血が酸化して固まり、ロクな処置もされていない傷が膿んだ、未だ死にきれない生き物が発する、喉を引き攣らせる死臭。

 扉が開けたことで僅かに新鮮な風を呼び込んだのだが、たちどころにこの汚れた空気に絡め取られて、泥が染み込むように飲み込んで、同化してしまう。

 

 この閉め切られた部屋の中には時計すらないせいで、傷の腐った瞬間が永遠と引き延ばされてあるかのように感じた。

 

 

 …………?

 

 一瞬、踏み込もうとした足が動かなくなった。

 これよりも凄惨な場の体験などいくらでもある。今更怖気付く理由などないはずなのに、なぜか手足が震えている。

 この情景に俺は、なにか……、言いようもない恐れを想起していた。

 

「………ふぅぅぅっ」

 

 ──いや、関係ない。どうでもいい事だ。

 

 俺はあえてこの澱んだ空気を胸一杯に吸い込むと、悲鳴を上げる嗅覚を麻痺させて、暗い部屋の中へと踏み入り、後手で扉を閉めた。

 

 

 外部から遮断され、そして内部を隠匿するこの部屋の本来の主人である沈黙が、直ちにその鎌首をもたげて、俺を締め付ける。

 

 暗闇と衰弱に時間感覚を奪われて、確定した未来がいつやってくるのかも知れない罪人には、さぞや恐ろしいものなのだろう。だが今回俺はその対象ではない。

 

 俺はこの死の床を連想させる静けさに浮かび上がる異音。鎖の鳴る音を頼りに、その対象の待つ部屋の奥に進んだ。

 

 この部屋は狭いが、幾つもの壁に仕切られ、入り組んだ作りをしている。その意味はやはり外から覗かれたくない事もあるだろうが、それ以上に万一の逃亡を阻害するためのものだ。

 

 

 部屋の中をぐるぐると迂回するように進み、やがて俺はその最奥へと辿り着く。そこにある一人分の小さな鉄格子の前に立ち、対象と向き合った。

 

 

「あぁ、やっぱり君か。……ヴァラキ」

「……その通りだ、ギャップ。俺が執行人だ」

 

 

 戦犯処刑対象:ギャップ

 今日ここでその処刑を執り行うことが、俺が命じられた任務であり、カポに上がる最後の試験でもあった。

 

 

「話は聞いたぞ。……まぁ、災難だったな」

「ハハ……。どうにか上手いことやれてるって思ってたんだけど、やっぱりダメだったみたいだよ」

 

 座り心地を考慮に入れていない、休ませるのではなく拘束を目的とした頑丈な椅子。そこへ鎖で繋がれたギャップの体には無数の傷が刻まれていた。

 その傷は二種類。大きく裂けて貫かれた傷跡と、四肢を中心に細かく損壊させられたもの。前者には粗雑ながら治療が施されていて、後者は剥き出しのまま隠しもしない。よってどちらも致命的な傷ではなく、それだけではすぐに死にいたることはないだろう。

 これは全て残された生をより苦痛で染め上げる為のものだ。

 

「順調に進んで行けてると思えば、唐突に口を開けた奈落へ叩き落とされるんだもの。……人生って本当に理不尽だよね」

 

 血を滴らせる鎖を揺らしながら、ギャップは自嘲気味に笑った。逃れられないという諦めと、それを受け入れざるを得ない圧力に歪められた顔の形だ。

 

 

 俺はただ黙って鉄格子を潜り、銃に弾を装填する。

 元より話す必要性なんて無いのだが、ただ気になる点があったから近づいた。ただそれだけであり、他に他意はない。

 

「お前がいた拠点がドーセントに襲われたって話は知っている」

 

 あの日、俺たちが出陣した後ことだ。

 万一の危惧のために残ったギャップは、部下たちを統制してきっちりと警戒と防衛を張り巡らせていたらしい。だがそこへ突如として薬指のドーセントとスチューデント達が現れて、戦闘になった。

 

「といっても、君が相手したっていうドーセントとは違って、大規模な武装なんかはない、もっと普通の奴なんだけどね」

「お前、こんな状態でも情報を仕入れられるのか……」

「それだけ君の武勇が凄いってことだよ」

 

 ともあれ、ギャップはその襲撃者と応戦したのだが、進攻する勢いを止められず、拠点は壊滅的な被害を負ったらしい。

 

「……で気になるんだが、そもそもなんで襲撃されたんだ。情報戦はこっちが上手、隠匿したならバレるはずがないだろう」

「あれ知らないの? 情報は()()じゃなくて()()から漏れたんだよ」

「だからそれだよ」

 

 そこまでは知っている。今回の件はこちらの情報を薬指に渡しやがった、裏切り者共のせいだということを。

 

沈黙の掟(オルメタ)はどうしたんだよ! 敵組織と内通、ましてやこんな杜撰なやらかし。親指の情報力にかかればすぐに炙り出せる。あの禁忌と罰則を知らねえ奴なんていねぇだろう!」

 

 やったのは傘下組織の一部と、下級ソルダート。すでにもう把握は済んでいるから、今頃は消されてるだろう。何故そんなわかりきった事をするんだ。

 

「ハァ……、僕は彼らの気持ちもわかるかな。同情はしないけど、行動としては納得してるよ」

「……何言ってやがんだ?」

「腕が捥がれたのなら、残った手足で相手を殺せばいい。……なんて、誰も彼もが君みたいに勇猛果敢じゃないってことだよ」

 

 そこでゲホッと、ギャップが咳き込んだ。血も一緒に吐いてる様子から、おそらく内臓も痛めつけられているのだろう。

 だというのに、ギャップは口を拭うと薄い笑顔を作った。ひどく疲労が滲んでいるが、いつもの飄々とした顔だ。

 

()()()()はね、傷つけられたり恐ろしいものを前にすると、その痛みと恐怖で頭がいっぱいになって、まともに自分を保てなくなるんだよ。例え正しい事を知っていたとしても、それを上手く扱えなくなる」

「……それがなんの関係があるんだ」

「薬指は"残酷さ"を目に見える形で表すのに、最も長けた連中の集まりだ。人間の理性的判断力の壊し方なんてお手のものって事さ」

 

 まっ、全部後にしてわかった事なんだけどね。と言葉を濁し、またゲホゲホと咳き込んだ。すでに息をするだけでも消耗してしまうのだろう。

 

「結局、沈黙の掟(オルメタ)よりも、あいつらの芸術品に加工される方が怖えって話かよ……」

 

 わかってしまえば実にくだらない疑問だった。

 それだけに、こんな馬鹿みたいな尻拭いが発生したことが苛立たしい。

 

 

「でもしょうがないよ。何が原因でも、僕は目上の方に命じられた事をこなせなかった。あげく重大な損失まで組織に負わせたんだ」

 

 俺の様子を察して、ギャップがそう話を締めくくった。淡々とした口調だが、その言葉には血を滲んでいる。

 

 だがその通りだ。裏切り者は情報を漏らしただけであり、そこにやってきた薬指の撃退を失敗したのはギャップに他ならない。

 

 あの拠点は弾薬の保管庫も兼ねていた。都市において弾丸とは一発単位で高級品であり、それが大量にある場所などは財宝の金庫と相違ない。だからこそ、その場所は頑丈で万全の保安が求められるものであり、安全だという信頼もまたのしかかっていた。

 

 要するにあの場所は、親指の弾薬(資産)だけではなく、傘下組織が争いに巻き込まれて紛失しないよう持ち寄った、各々の貴重品や資産の保管庫でもあった訳だ。

 

 それが親指の過失によって全部吹き飛びました。……というのはごめんと謝って済む問題ではない。多額の上納金を納めてでも下につく価値があると、傘下の連中は親指のブランドに見出していた。今回の失態はその看板に泥を塗った訳だ。

 立場が上だからと、傍若無人の限りを尽くせば組織は回らない。傘下組織(被害者)らの不満を黙らせるには、生贄が必要だった。その椅子に座ることになったのがギャップだ。

 

「ガリアーノ様だって常々おっしゃってただろう。階級が持つのは権利だけじゃなくて、義務と信頼も背負うものだって。……だから、これは仕方ないことなんだよ」

 

 あぁ、全くもってその通りだ。

 これは多くの人間が望んだ、必然的な流れだ。逆らうことも、逸脱することも、何人たりとて許されていない。上から下へと進む一本の川の流れなんだ。

 

 だから俺も、目上の方々に従い、その命令を黙して実行するだけ。これはただ、そういう仕事だ。仕方がないことなんだ。

 

 

 ……もう用は済んだ。

 気になる点なんて引っ掛かりは残っていない。すべての出来事は納得の上で回っている。

 よって、この腐れ縁が繋がる相手を断つことも、俺の進む当然の道だ。

 

 

 俺は意を決して銃を掴むと、一度目を閉じて、再び開くと同時にその銃口をギャップに向けた。

 

「ッ!!」

 

 だがそこにはギャップからの思わぬ反撃があった。

 

 鎖に繋がれてながらも、辛うじて動く手を伸ばしてこちらに差し向けて来たのだ。その手の先に握られているのは、ギャップの愛用する煙草の箱だった。

 

「……ねぇ、ヴァラキ。奢ってあげるから、これを吸い終わるまで僕の話も聞いてくれないかな?」

 

 軽く振った箱から、一本の煙草が飛び出す。

 俺は呆れたため息と共に銃を下ろし、やや逡巡の後に、それを手に取った。

 

「ハァ……、なんでまだこんなの持ってるんだよ、お前……」

「ハハッ、誰かさんとは違って僕は仲のいい人が多いからね。餞別として差し入れてもらったのさ」

 

 そう言って目を細めたギャップもまた、自分の口に煙草を咥えると、静かに息を吐いて、真っ暗な天井へ遠い視線を向け始めた。

 

 通り過ぎた道を振り返るようにして………。

 

 

「………あっ! 火はちょうだい。流石にそれは持ち込めなかったんだ」

「絶妙に締まらねぇな……」

 

 その話は、小さな灯りと共に始まった。

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 僕の生まれは10区でね。知ってるだろう、多くの欲望と願いが揺れる場所。ギャンブルの聖地。J社の巣だ。

 

 ………あれ? 言ってなかったっけ? まぁいいや。とにかく僕はそこで生まれて、ある程度まで家族と仲良く暮らしてたんだ。

 

 実はそこそこいい家でね。会社を経営してて、何百人もの人を雇ってた、お金持ちだったんだよ。

 

 そんな恵まれた順風満帆な人生を送ってたんだけど、ある時事件が起きた。

 

 ……といっても、そこまでヤバいものじゃないよ。取引した商品に不具合があって、大きめの額の補償金を支払う事になったってだけ。これまでどおり真っ当に稼いで、しばらく生活を慎ましくすれば十分に取り返せる。

 ……そう。致命的なものではなかったんだ。

 

 その会社の社長……、親父はギャンブルに手を出した。その勝負の指し手はまだ子どもだった僕。まぁ、別に本気じゃなかったんだろうね。ちょっとした運試し。あるいは験担ぎかな。なんにせよ、それが良くなかった訳だ。

 

 僕はその一試合で、あり得ないほど大勝ちした。

 イカサマや願望力じゃない、本当にただの偶然だよ。

 けれどそのたった一度の勝負で、負債どころか会社の年間利益額以上を稼いじゃったんだ。まさに一夜の夢のような出来事さ。……けどそれから親父がおかしくなった。

 

 会社の経営なんてそっちのけで、何かあれば僕を頼ってギャンブル三昧。まるで実の息子を福の神とでも思ってるみたいだったよ。

 

 でも言っただろう。あれはただの偶然だったって。

 

 結局賭け事なんて最後は賭場が勝つように出来てるんだ。頼られては惨敗し、そんな事を何度も僕は訴えたはずなのに、あの日の熱が消えてくれないんだろう。博打に消えるお金はどんどんと増えていった。いや、そもそも最初からそういうシステムだったんだろうね。一度足を踏み入れたら最期、期待と幻肢痛を宿した欲の糸に絡め取られる。そういう場所だったんだ。

 

 まぁそのまま、ズルズルと親父の暴走は続いて、手を着けちゃいけないお金にまで着服して会社は弾けた。僕ら一家は丸ごと、どん底に堕ちた訳だよ。

 

 家を何度も引っ越しても負債は引き剥がせない。その度に借金取りがドアを叩く激しさは増していく。結局は全てを捨てて、隣の11区(K社)まで逃げ出す始末さ。

 

 旅行や一時滞在みたいな単なる移動ではなく、棲家を引き払って逃げ出す区画間の移住は容易じゃない。まさしく一か八かのギャンブルだ。

 それでも親父は成功させたよ。僕の手を握って、やっぱりお前は幸運に満ちた神の子だってね。

 

 馬鹿じゃないか……。

 実際は他の家族の手を振り払ってでも、僕だけを執拗に捕らえて、着の身着のまま二人だけ逃げ延びたってだけなのに。もうそんな事は眼中にもなかったんだよ。

 

 

 それでどうなったかって? お察しの通りだよ。

 逃げた先に楽園なんてない。他所の巣から夜逃げしてきたなんて、まぁ酷い目で見られるレッテルだよ。少なくともまともな働き口なんて誰も与えようとはしない。

 全てをやり直すなんて語ってた親父は、結局またしてもギャンブルに逃げた。そこらのしょぼい賭場に入り浸り、勝てば酒を浴びるほど飲んで、負ければ僕のせいだと殴りかかってくる。もうそんな姿を毎日見せられると、同じ人間だと思えなくなった。

 

 

 だから消したよ。

 賭場にいたタチの悪いゴロツキにちょっと吹き込んで、酔った帰り道に襲わせてやるよう誘導したんだ。

 どうなったかは知らないけど、その日から二度と親父は帰ってこなかった。僕は解放されたんだ。

 

 

 けど、本当に大変だったのはその後だった。

 結局のところ、僕は今まで自分の力で生きた事はなかったんだから。なんだかんだと親や周囲の人、他者にしがみついて生きてたんだ。自分一人で進む道なんてさっぱりわからなかった。

 だから僕もまた同じ事を繰り返した、人に縋って生きることにしたのさ。必死に口を回して、人の気を引き、取り入ることで食い繋いだ。

 

 そしてあちこちの人に媚を売って、胡麻を擦って渡り歩き、その果てに辿り着いたのが親指って訳だよ。そこなら僕のレッテルだとかの前身も、すべて塗り潰して、指に染まるよう導いてくれると期待してね。

 

 

 ……正直に言おう。

 僕はそこに集まった同期のみんなが怖くて仕方なかった。だって彼らは僕とは根っこから違う。

 物心ついた頃から飢えと貧しさの中に晒されて、誰の庇護も受けずに、己の身一つで過酷な淘汰を生き抜いてきた。僕なんかとは比べ物にならない本物の強者たちだ。

 

 ……みんな凄い人しかいなかったんだよ。

 

 

 

「けど、その中で一番強いのが君だった! 君が誰よりも凄かったんだ!」

 

 残された煙草の火はあと僅か。その火種を自らの息で吹き消してしまいそうな勢いでギャップは叫んだ。珠のような汗を顔に浮かべ、言葉に命を乗せて叫ぶのだ。

 

「君は知りもしないだろうけど、僕を含めて同期のみんなが君に憧れてたんだよ。何度叩きのめされても、どれだけ不利に迫られても諦めず、無我夢中で喰らい付くその姿に!」

 

 思わずたじろいでしまう程の気迫。それを醸ち出すギャップはまともな息継ぎもせずに尚も身を乗り出す。

 

「君は、自分で思ってるよりも、ずっと凄い人間なんだよ……」

 

 搾り出すようにして発された一言。それを言い切ってギャップは倒れるように息をついた。もう煙草の火は消える寸前。灰の中に僅かな熱がこびりついているだけだ。

 

 

「……どうして、そんなことを俺に言った」

 

 突如として向けられた焦点。ギャップの人生という、他人事として割り切ったはずの事情が、どうしてか俺に結び目をつけてきた。

 訳もわからずただ困惑の最中に立たされているが、その命を燃やして紡がれた言の葉は、ずっと俺に緊迫を強いてくる。

 なぜ……、そんなものに向き合わされなきゃいけないんだ……。

 

 

「ハハッ、……お願いだよ」

「願いだと、……今更なんの要求をする気だッ!」

「僕のだけじゃない。()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ギャップは静かに微笑んで、真っ直ぐに俺の目を見つめてくる。

 

「……どうか、君が抱いた望みを諦めるのはやめてくれ。そんな姿は君に似合わないんだ」

 

 その視線に、もう顔もロクに覚えていない百五十人分(同期達)の眼差しが重なって、俺という存在にのしかかってきた。

 

 ポトリと、伸ばされた灰の柱が自重に耐えかねて地に落ち、足元に砕けて散った。もうこれ以上その煙が昇ることはない。

 

「時間だ。最期まで聞いてくれてありがとう」

 

 それを見届けたギャップは、口を固く閉ざし、ゆっくりと目を瞑った。もう二度と開くつもりないそれを。

 

「──ッ」

 

 頭が痛い。目がふらついて、首筋を汗が流れ伝う。浅くなった呼吸が鳴らす間の抜けた音が、嫌に耳障りだ。

 

 自分が立っている地面すらまともに捉えられない、何もかもが不安定に流れて揺れる。

 世界も、俺も、意志も、心も、押し付けられた奇異な不純物に拒絶反応を起こして嘔吐き、胃が引き攣って喉が焼けた。

 

「命、令……。親指の…規律に……」

 

 弱くて、溶け落ちた俺に残された最後の寄る辺。揺らぐことなく刻み込まれた、必然の理。

 

 その導きに全てを委ねて、不敬なる罪人の額に銃口を押し付ける。

 

(ヴァラキ、君は──)

 

「人間に、なるんだッ……!!」

 

 引き金を絞り、炸裂した銃声が、思考を掻き乱す不愉快な沈黙を完膚なきまでに破壊した。

 

 その残響が散り、跳ね飛んだ水音が落ちきると、ようやく世界は真っ当な静けさを取り戻した。

 錆びた鉄の匂いが、冷え冷えとした現実感を与えてくれる。

 

「この、クソ野郎が……。全部わかっててやっただろう……」

 

 まともに戻った視界に入り込むそれを見て、俺は苦々しく溢した。

 銃弾が飛び出して、真っ赤に弾けた後頭部と違い、その正面の顔は額に小さな穴が空いただけで、比較的きれいに遺されている。後で晒し首にするための必要な処置だったが、それを利用された。

 

「最後の最後に、こんな呪いを残しやがって……」

 

 その渾身の悪戯を成功させたかのような、晴れやかに笑う表情は、ひどく俺を苛立たせ、不快な惨めさを際立たせてくれた。

 






「あぁ、やっぱり自分じゃダメだったか」

怒声と気迫の攻めが合った叫び。数多の剣戟と銃声が飛び交う戦場にて、その襲撃者(ドーセント)と向き合ったギャップは、改めてそう思い知らされた。

いかに虚を突かれたとはいえ、こちらはもしもの警戒を怠らず、万全の布陣を敷いていたのだ。容易に崩せるようなものではない。
今だってそう、向こうが押してくればそれに合わせて流動的に人を指揮してその勢いを削ぎ、無謀の対価に出血を強いるだけで勝てる戦い。……そのはずだった。

「これを知ったら君はなんて言うんだろう。"災難だった"、……とかかな?」

入団以来もっとも長い関係を築いた相手を思い浮かべながら、ついぞ自分が成し得なかったその特異性について考えを馳せる。

「でもこれは不幸な偶然じゃないよ。いつか僕に襲い来る必然だった」

どの指であろうと、幹部にまで台頭する者は、皆押し並べて人としてどこか壊れた者たちである。裁断される人体と防壁、自らの損傷すらも光悦として弄ぶその敵対者を見て、彼は心底怖気付き、そして悟った。

「やっぱり僕は、そんな風に狂いきれない」

ある種の極限な世界において勝るのは、なんであれ絶対的な覚悟や信念、あるいは狂信を持つ存在であり、いずれにせよ彼には踏み込めなかった領域である。
頭のネジを外すために、彼なりに向き合ってきたつもりであるが、結局はその一線を越えられなかった。

都市。人によって作られたその残酷で無慈悲な格差の底で、醜悪なる狂気を掲げて己が存在を維持する指の生態に、彼はついていけなかったのだ。

「だからまぁ、相応しいのは君なんだろうね」

どちらか一方が勝ち上がれると言った勝負。けれど彼には結果が見え透いた出来レースであり、たがらこそこんな最期も、当然の流れとして受け入れた。

「あぁ、でもさ。君がもし別の道を見つけたのなら……」

最後に見た顔。そこにはこれまで感じたことのない奇妙な変化が見られた。硬く凝り固まった執着心でもって、全てを粉砕するその恐るべき在り方。その姿に小さなヒビが入り、内側に何かがチラついていた。それがもし、ずっと抑圧してきた彼の本音であるのなら。

「その時は、恐れずに君自身が望む選択をしてくれ。そっちの方が僕は嬉しい」

笑顔で背を押してやるのが、友としての役目だろうから。
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