戦争はもう終わったのかって?
あぁ、元より互いの存続をかけた絶滅戦争という訳じゃないからね。この程度の闘争でカタがつく相手なら、指切りの時点でとっくに切除してやってるさ。
結局この戦争の終わりは、両者席に着いて、交渉で落とし所を纏める事なんだよ。構成員同士の直接的戦闘や破壊工作は、その交渉で有利な条件を突きつける為の外交手段に過ぎないのさ。
加圧、空回りして歪む糸車、咽せ返る熱い蒸気。
「はいそうです。ガリアーノ様が確保したドーセントの首は三つとも現状保存キューブに。脳への直接的損傷はありません」
瓦礫、揺れる波紋、不自然でチグハグな手触り。
「お前に発言の許可は出されていない。何を勝手に喋っている?」
虫食い、街頭のない道、腕がジンと痺れる感覚、膿んだ包帯。
「補填に対する協議はこの場では行われません。どうかお下がりください」
閉め切られた扉、瓦礫、弱りゆく鼓動、車輪、悲しげな人々の囁き声、逃走、身を震わせる破砕音、握りしめて皺くちゃな紙幣、鉄材と生温い体液の据えた匂い、大丈夫だと掛けられた──
「ヴァラキ、ちょっと顔を貸してくれないかい?」
「はい、喜んでお付き合いさせていただきます。ガリアーノ様」
俺は一つの、完璧で正しい世界で生きてきた。
その世界は当然としていて、揺らぐことがない。この混然とした向かう先も見えない過酷な流れの中を、正しく規定して導いてくれる。極めて優越たる秩序の世界に生きる住民だった。
「ちょっとこの後に特別な情報提供者との打ち合わせがあってね。君にも同席してもらいたいんだ」
だがその世界に幾つもの不純物を掲げて、我が物顔で踏み荒らす者どもが侵入し、その足跡でもって穴を抉じ開けていったせいで。完璧だった俺の世界は、ひどく頼りなく揺らいでしまっている。
「ここのところ各組織との交渉ばかりだろう。変に草臥れてはしないかい?」
「……いいえ、なにも問題ありません」
俺は今までどうやって歩いてきた? 何を感じて求めている?
頭が靄がかかったように鈍く、一歩踏み出すごとにそれが間違いじゃないかと疑念が込み上げてくる。当たり前のことが揺らぐと、こうも支離滅裂な思考に陥ってしまうのか。
赤い果実、白い蛆、色とりどりの電光装飾。
あの日以来、俺は奇妙な幻覚に悩まされていた。
浮かび上がるビジョンは、時系列も出鱈目でひどく断片的なもので、エピソードとして理解する余地はない。だが無理やりに共感を刺激してきて、常に俺の心を引き摺り回している。
新しく割り振られた仕事や、面倒な交渉の場の数々に忙殺される中でもそれは俺から決して離れることなく付き纏い、俺に負担を強いてきた。
今だって、ガリアーノ様が近くにいるというのに、俺はその命令に集中できずにいる。目の前に広がる記憶に無い光景の残滓がこびりついて、幾度なく俺の意識を乱してくるのだ。
暗く澱んだ部屋の血溜まり。身を打ちつける夜の雨。乱反射して目が眩むネオン灯。末期の微笑み。
絶えず脳裏を掻き回す幻覚が、どこからか呼び起こした感情を絡めて、それを投影する瞳を形造り、情けない俺の姿を──やめろッ! 俺を、俺なんぞを見るんじゃない!
舌を噛み、流れた血の味で喉を濡らして空虚な幻を打ち払う。
板張りの廊下を踏みしめて、瓦解した己が重心を立て直した。
「もう一踏ん張りだよヴァラキ。既に君の昇進は確約してある。この戦争の後始末さえ済めば、晴れて君もカポの仲間入りさ。その時には盛大なお祝いを開き、欲しい物があれば可能な限り用意してあげよう」
俺の胸中で行われる嵐のような不安と強迫のせめぎ合い。その葛藤を、全てを見透かしたような笑みを浮かべて、こちらに振り向いた彼女は、俺を励ますような或いは戒めるようなことを言う。
「君が今まさに味わっている忙しなさも、カポに至るまでの予行演習みたいなもの。これが平常というわけではないが、順応しておいて損はしないよ」
俺の精神状態まで把握しての発言か、それとも単なる現状の溜まったスケジュールを指してのものか。もうさっぱりわからなくなっていた俺は、静かに頷きを返すしかなかった。壊れたノイズが響く頭の中には、全てが虚な夢心地に思えてしまう。
だがそうしている間にも歩みは進み、その先に見えてくるのは、ごく小規模な会議室の扉だった。
「ガリアーノ様、ここではいったいなにを……」
「んー、まぁ着いてからのお楽しみかな」
少し待っていなさい、と一人先に入室した彼女を置いて、俺は廊下に待たされていた。なにもない空間に一人でいると、少し気が抜けて、身も心もその緊迫した構えを僅かに緩める。
だがそうやって眺めた束の間の沈黙に、冷えた空気の匂いに、亀裂が走る。その隙間を抉じ開けて、また不愉快な欠片どもが顔を覗かせ自らの存在の主張を始めた。
繋いだ手。濁った水溜り。蹲って固まってしまった小さな体に触れる温かさ。胡乱なものを見る目つき。掠れた声でしがみつく嘆願。
それらは皆、俺に休む間も与えることなく、懸命に何かを叫び伝えようとしている。けれどくぐもって、ぶつ切りになったその内容は何も聞き取ることができない。ただ喧しい騒音となって今の俺を責め立てるのだ。
「もういいよヴァラキ、入っておいで」
五月蝿い、五月蝿い、五月蝿い! 何度も湧いて出てくるんじゃない!
いったいなにが目的だ、何を伝えようと──
あぁ、いや違う。そうじゃないだろう。
そんなくだらない、考える価値もない行為に耽ってはダメだ。そんな余裕がこの世界にあるものか。ただ目の前に転がる問題にだけ向き合って、どう生きるかを必死に齧り付け。それが都市の当然だろう。
それでいい。そうあるべきだと、狂った頭に俺のあるべき姿を定義づける。不必要な感情も、目障りな幻覚も全てを踏み躙って、俺は現実の扉を開いた。
◆◆◆◆◆
「……………」
部屋の中にあったのは数人掛けのテーブルと椅子に、鉢に収まった観葉植物。簡単なお茶汲みセットが置かれただけの棚と、どちらかというとカジュアルな内装で、とても重要な話し合いをする場には見えない。
「……………」
だがそれでも重苦しい雰囲気を醸しているのは、きっちりと遮蔽が閉め切られた密室なのと、口を固く閉じたまま地面を見続けて、着席することもなくテーブルの側に佇むその者のせいだろう。
そいつは決して高貴な人物には見えなかったし、何か強い力を有しているようでもない。むしろ俺たちに対して怯えて縮こまっている様子は、よくいるただの格下相手だ。唯一奇妙な点を挙げるのならそれは。
「フィクサー? こんな場所になぜ」
その相手は裏路地の組織員やその関係者ではなく、形式上それと距離を置いた公的存在だった。
まぁもっとも、
「そんなに怯えなくても大丈夫だよ。さっきも言ったけど、目上の許可があれば礼節は気にしなくていい。……むしろ、そんな風に手間取る方が我々に対して無礼じゃないかな」
「はっ、はひぃ……!!」
ガリアーノ様の声に反応して、そのフィクサーは弾かれたように顔を上げた。そしてまじまじと俺の顔に視線を送ってきた。当然俺の方でも顔を合わせる形なのだが、俺にはそいつに見覚えなんかない。ますます疑問が深まるばかりで、この場でいったい何がしたいんだと思っていた時。突如としてそいつが人差し指を立てて俺を指差した。
「こ、この人! この人に間違いありません!!」
一体なんの話なんだ? というか許可があるとはいえ目上を指差すなんて、こいつ親指と接し慣れてないのか。そんな無数に浮かんだ考えが、次の一言で全て吹き飛んだ。
「
「なっ……! が、あ……ッ!!」
ヤバい! あまりにも突然のことですっとぼける余裕も無かった。今のは完全に知ってる奴の反応、つまりは自白だ。
即座にガリアーノ様の方へと顔を向けるが、そこには己が口に拳を添えて、クスクスと優雅に笑う彼女の姿があった。その所作からは驚きや疑いの相は見えず、ただ愉快そうに薄目でこちらの様子を眺めるだけだ。
「フフフッ……ありがとう。ついでに説明もしてくれるかい」
「は、はい……」
俺の反応を確認するまでもない。それはつまり……
「あ、あの私、以前まで薬指の方と協力関係にあって。あ、でもその人が今回の抗争で死んじゃって……、あの、レルズさんって言うんですけど、知りませんよねアハハ……」
「それでその人が言ってたんです。幾人ものマエストロの方々が注目してた
いつから泳がされていた……。いや、なんでそれをこのタイミングで明かした。
「わ、私こないだ見つけたんですよ、あなたが街で自警団に追われてた時に連れてたアレ。ほとんど布で隠されてたけど、なんだかゾワゾワさせられる、あの変な白いの。あ、アハハ……、半分当てずっぽうだったけど、本当にあってたんだ……」
もうこのフィクサーの言い分はどうでもいい。今本当に話を聞かなきゃならないのは──
「ガリアーノ様!! ……少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
「フハハハッ!! ……あぁいいとも、構わないのよ可愛いヴァラキ。しばし二人っきりで話をしようか」
堪えかねたように大きな笑い声を響かせた彼女は、その口元を綻ばせながら手を拍き、部屋の入り口に目をやった。その扉から音も立たずに猟犬が現れると、フィクサーの肩を掴んで外へと連れ出していく。
「えっ、あの……。私は」
「下がれ。話は聞いてただろう、口答えするなら顎を砕く」
「は、はひぃ!」
冷たい
「……さて、君はさぞや気になることがあるのだろう。私の愛しいヴァラキ」
一歩、にじり寄られた。
俺から始めた内談であるのに言葉が出てこない。喉が干上がって、頭も空っぽだ。
「君が深く悩み、苦難の崖際に立たされているのなら、すぐさま手を差し伸べて、その問題を解決してやりたいと、私は常に思っている」
三、四、五歩と止まることなく連なって、あっという間に壁際にまで追いやられた。逃げ場のない俺の姿を、その黒く濁った瞳で鋭く捉えて、そっと手を差し伸ばしてくる。
「けれどね。君はもう、カポになるんだろう。そんな相手に手ずから餌を盛って、口まで運んでやるのも、ちょっと失礼になるかもしれないからね」
俺の頬を優しげに撫でた手は、そのままゆっくりと下に向かい、俺の首へと当てがわれた。その指は首の脈拍を感じ取るように巻き付いて、強く食い込む。万力のように揺るぎなく、肉を裂いて頸椎にまで触れようかというほど強固に締め上げられた。
「私に、言わせてごらんよ。そしたら全部を教えてあげよう」
「がっ、ハァ……ッ!!」
パッと手が離されて、呼吸を求める激しい息遣いと共に俺は床に倒れ込んだ。その俺を上から見下ろしてくる表情は、やはり何度見せつけられても悍ましい喜悦に歪んでいた。
「ゲホッ! ハァハァ……ッ、あなたは……知ってたんだ」
動揺と酸欠で朦朧とした頭を回して、返しの言葉を捻り出す。言わせてみろとは即ち、駆け引きで情報を引き摺り出せということだろう。カポという対等な立場にある交渉相手として。
「俺が、その探し物を隠匿していたことを、知っていたんですね。……
記憶を掘り返して探るこの一連の出来事。その中で浮かび上がる違和感があった。
「あの報告の際に、あなたはやけにあっさり引き下がった。下の自分たちでさえ多忙であったのに、それ以上の業務を抱えるあなたが態々直接聞き取りに来ておきながら」
「フフッ、気づいたかい。まぁ君に会いたかった、という理由も多分にあるんだがね」
そう言って彼女は懐から煙草を取り出す。それはあの安煙草ではなく高価な
シガーは口に咥えられることなく手の中で転がし弄ばれている。その程度の推論では胸中を明かすつもりはないとの主張だ。
「そしてその後は敢えて放置して出方を伺った。忠実な部下がなにを企んでいるかを把握する為、その間の行動を観察していたのでしょう」
「といっても、さっき君が言った通り私は忙しかったからね。あくまでも間接的に、軽く情報を探っただけだよ」
俺の言い分に対して簡潔な応答だけを返してくる。どこまでも平易な口調だが、今のところは正解の道を選べている証拠だ。
「そして現段階までなにもせず普段通りに扱い、あまつさえ昇進さえ許したのは、俺がどこにも内通していない。個人の秘密に過ぎないと断定したからです」
「そうだ。情報を制する者はその内にいくつもの隠し事を抱えることと同義であるから、多少の秘匿は皆やってるもの。……けどまぁ、目上に尋ねられて明確に嘘を答えるのはかなりアウト寄りだけどね。重要なのは手段や行動ではなく、結果的に反意を抱いているか否かということさ」
そして問題はここからだ。俺の推察が正しく的を得ていれば、勝ちの目はある。
「今になってその事実を突きつけてきたのは、俺の秘密が暴かれたからでらなく、あなたの手より離れそうだから。そうなんですよね」
「……あのフィクサーは、関係者が死んだことで薬指とのツテを失ったらしくてね。それでも自分の成果の見返りを得ようと、間抜けなことに情報屋に売りに来たんだ。幸い私の息が掛かったとこだったおかげで、内々にまとめ込んだのだが……。情報とは水よりも軽く漏れやすいものだ。特に君は派手にやったから、これだけで封殺しきれたと考えるのは悪手だろうね」
彼女はシガーを弄るのを止めて、冷たい眼差しを俺に向けた。同時にゆっくりとこちらに手を差し伸べてくる。手のひらを上に広げた形で。
「それを寄越せヴァラキ。手柄を欲するにしても、君には過ぎたる代物だ」
「……いいえ、問題はないはずです」
理路整然と並べられた筋書き。だが俺はその手をはっきりと拒んだ。
大丈夫だ、俺の知る彼女ならきっといけるはずだ。
「ガリアーノ様、あなたはあの報告の後に、手紙にて記しておられました。この件は手荒に罰したから終わりだと。それが俺の内心まで把握した上でのものなら、既に不問となっているはずです」
「ふむ……、それで?」
「次でこれはあなたへの純粋な頼みです。先程おっしゃったあの発言『カポになった祝いに欲するものがあるのなら用意する』と。俺はそれに、
一瞬ポカンとした間が空いて、彼女の時が止まる。そして次の瞬間大きく噴き出した。
「ハッハッハッ! そうきたか! たしかに乱暴だが筋は一応通ってはいるね。戦争の功労者たっての頼み、叶えてやると言った手前無下にするのは道理にもとる」
嬉々として破顔し、その身を震わせる様子からは、直前まで発していた肺を押し潰すような圧が霧散しており、実に朗らかだ。
「加えて薬指の連中が取り戻さんと欲するものを堂々と保持するなんて。それはさぞかし、カポとしての箔付になるだろうしね」
「ええ!! でしたら──」
「でも駄目だ。それは許可できない」
しかし、その緩んだ雰囲気から彼女は態度を一転させると、俺の目論見をあっけなく放棄した。一切の取り付くにべもない。
俺が何か間違いをしたのかと思えば、彼女はシガーを捨て、懐からあの安煙草の紙箱を取り出した。駆け引きは終わり懐を開いた合図。つまり条件を満たしたのは確かな筈だ
「いい線はついていたよ、伊達に私と長くいた訳じゃない。可愛くねだらたそのお願いだって、本当は聞いてあげたいぐらいだ」
「だったら、なぜ!?」
「その話には視点が足りていない。言っただろう、それは君に過ぎたる代物だと」
ジリジリと火が回り、鼻を引き攣らせる澱んだ不味い煙が広がった。
「どうして薬指はそれを探しているのか? 君はその理由を単なる芸術的な執着だと解したみたいだけど、実は他にもある」
彼女はその燻る穂先を俺の眼前に掲げ、先程の宣言通り、全てを語り出した。
「
◆◆◆◆◆
走る。走る。ただひたすらに全力で走る。
息継ぎも、ベース配分もなに考えずに、持てる力の限りを尽くして足を動かし続ける。
『今回の騒乱の最中でも、薬指がずっと捜索していたもの。連中と取り引きした情報交換によって、ようやくこちらもその実態を知ることができた』
時間が惜しい。一分一秒でも早く、あの場所に行って、確かめねばならない。
『なぜ連中が頑なに"作品"という呼称を用いないのか。それは自ら作り上げたものではなく、外部より入手したものだったからだ』
街を抜け、人通りの目減りする道を突き進んで、あの誰も近寄らない廃墟群へと足を踏み入れる。
『直接見るだけでも危険とのことだから、てっきり認識兵器の類かと思ったんだが、それはある種の指標であり、証拠でもあったのさ』
暗く入り組んだ屋内の闇を突き破り、その構造の最奥部、ダミーに置いた瓦礫を勢いに任せて蹴り飛ばす。そして露わになった隠し部屋の入り口を跳ね開けた。
「レイナッ!!」
「わっ!! びっくりした!!」
真っ黒な部屋の中には、俺が出たときと変わらぬ少女の姿がちゃんとそこにあった。
退屈そうに保存食を齧っているその後ろ姿。月も星もない薄暗闇の中に白く浮かぶ空虚な隙間。この世のものとは思えぬ人工の漂白美。
余人にあまりにも刺激的で、目を眩ませるその姿に。俺は厚手の布を放り投げると、覆い隠れるように言い、切らした息もそのままに歩み寄る。
「ハァ……、ハァ……、レイナ。お前は……」
「ちょっとヴァラキ、急にどうしたの? 戻るって言ってた期間より短かったけれど、何かあったの?」
「お前の、正体についての話だ……」
「……あら、それはちょうどいいタイミングね!」
俺の言葉に対して、レイナはなにか嬉しそうに腕を振ると、立ち上がって言った。
「わたしもね、貴方とたっくさんお話しができたおかげで、新しい過去を思い出したのよ。なんと、
「………なんだよそれ? 今のわたしってどういうことだ?」
相変わらず意味深でよくわからない事を言い出す奴だ。今重要なのは俺の話たが、その突拍子もなく出された言葉が妙に気になって、思わず尋ねてしまう。
「それが何かって? 見ての通り、ここにいる『わたし』の事よ。今のわたしは生み出されまだ間もないみたい。その前にあったわたしは消えちゃったもの」
「消えたって……?」
「無限の屈折に晒されてバラバラに粒子状に砕け散り、あやゆる技術でも修復できないくらい離散した? ……らしいわ」
それから布で隠れたレイナの顔部分が上に向けられる。その焦点は俺から外れて、どこか遠い場所を探るようだ。また、糸が結びつくようにしてできた記憶の像とやらを、自分が持つ確かな記憶を掘り起こしているのだろうか。
ぽつりぽつりと、レイナは朧げな言葉を紡いだ。
「そこは床も壁も天井も、すべての四隅が真っ白に埋め尽くされた建物にあった。小さな部屋の中でわたしはいくつもの硝子に挟まれていたわ」
『それはとある翼で行われている、新しい特異点となり得る技術の開発』
「そんなわたしを前にして、三つの人影が立っていたの。わたしの体質を知っていたのでしょうね。決して直視しようとしてこなかったの。だから彼らのことは、ほんの僅かしかわからないわ」
『その過程で偶発的に生まれた特異個体』
「一人はとてもキザで、ツンケンと角ばっている丸眼鏡の人。もう一人はずっと朦朧としいて、傷と共に深く沈み込んでいるけど、なにか想い抱えてた人。そして最後は──」
『N-404の名の持つ意味は──』
「何層も厚い殻を纏って、
『
「やはり………。お前を創り出したのは、薬指じゃない!
クソッ! 外れて欲しかった情報が、より確固たるものとなって立証されてしまった。これではもう避けようがないじゃないか。
あぁそうだ。確かに言ってたな白で埋め尽くされた研究室と、そんなヒントでわかってたまるか。白色だと薬指の連中と紛らわしいんだよ。
要は
「ちょっとヴァラキ、大丈夫? そんなに気を張り詰めちゃって。貴方、もう壊れる寸前よ……」
床で頭を抱え、全力でなにか策を絞り出そうとする俺を心配してか、レイナがそっと手を当ててくる。
その光景が俺には
「ハァッ……ハァッ……ハァッ」
息ができない。
どれだけ喉を動かしても、肺がまったく満ちていかない。まるで首を絞めらているかのようだ。
……俺は今まで、どうやってこの苦痛を抱えて生きてきたんだ。
『ヴァラキ、特異点に纏わるもの全てが莫大な富を産むことはわかるだろう? ましてやまだ特許も認可されていない垂涎の代物だ』
過去と衝動と嫌悪と苛立ちと幸福と現実と幻覚とで、ぐちゃぐちゃになった頭の中を、彼女の語った内容がこだまする。
『我々はそれに美を見出すことはないが、放置することなど到底できやしない』
断然として揺るがない声色で、俺の脳を甘く痺れさせる呪縛の響き。
『是非とも親指の研究機関で迎えるべきじゃないか。うまくいけば巨万の力となり、仮に何もわからずともN社とのいい取り引き材料になる。こんな宝をいったい誰が放っておくものか』
それらは全て理路整然としていて、正しい世界の流れを指し示している。
『ヴァラキ、これは命令だ。君の持っているそれを組織に渡しなさい。それは君に過ぎたる代物だ』
俺は……
その必然的に定まった流れの中にいて。
いつだって、正しい道を歩む人間としてあるために、一切の迷いを見せず、命令を………、カポになるために支払った犠牲を…………
「う"う"ぅぅぅ……、カ"ア"ァ"ァ"ァ"ッッ!!!」
「ヴァラキ? なにを!」
俺は渾身の力で頭から地面に叩きつけた。
なんども、なんども、なんどでも……!!
余計な不純物が、不快感が消え去るまでいくらでもそれを繰り返す。
壊れてまもとに動かなくなった頭を、完膚なきまでに潰して、空虚な幻想を、傷で埋め立て、破壊するッ!!
「…………
……そうして、やっと手に入れた静けさの中で、俺は自らの役割を宣告した。
余りにも多くの情景が重なったからか、頭の中でバチンとブレーカーが落ちたかのように、なにも感じられない。ただ真っ白で、軽く、空虚だ。
今ならどんな痛みだって感じやしない。なんだってできそうな気分なんだ。
そんな俺の様子を"それ"は黙って見ていた。
「そう。それが貴方の選んだ答えなのね」
「……言っただろう、俺は親指だと。お前がその妨げになったなら、命じられたままに、始末するまでだ」
出口は俺が背で塞いであるし、これを捕縛する対処法も俺は熟知している。逃げる素振りを見せたなら、その手足を捥ぎ取ってやる。
……もっとも、その用心は不要なものだろうけどな。
だってこいつには、自発的に生存しようという意志すらも存在しないのだから。
初めて会った時から、自分のことをどうでもいいと言い、危害を加えられても離れようとしない。
なにもない空っぽな奴だから、フラフラと周りの風を受けて、その時々で形を変えるだけ。
都市という世界の中で自分を維持できず、押し付けられた流れに沿って生きたフリをする間抜けな存在。それがお前だ。そして俺だ。
「……たしかに、わたしはそんな意思すらあやふや。けど、気になってることはあるのよ」
それはするりと、自らの置かれた危機的状況すら介さない自然な動きで俺に近寄ってきて、被っていた布を解いた。
「初めて会った時から見えたその結び目。ぐちゃぐちゃに拗れているのに、貴方が決して手放せなかったその想いを……」
見たくない、どうしようもなく身がすくむ感情の根源。鏡に映った俺の記憶。
そんなものは目を逸らして、被せ直せばそれで終わる。そう簡単な答えがあるのに、俺の視線がそこに引き寄せられていた。
逆らえない……! なんで逃げることすらできないんだ。痛みなんか、さっき振り払ったところだろうが!
「ここでお別れというのなら、その在り方に決着をつけましょう。貴方が選ぶのはその後よ」
あぁ、嫌だ!
怖い、見たくない……!
「やめろ! やめてくれレイナ!! それは俺にいらないものなんだ」
俺は、そんなものと向き合わない!!
「いいえ、もう自分で気づいてるでしょう。貴方が抱えているものは既に抑えの限界を超えている。蓋をして見ないフリしても、やがて決壊を待つばかりだってことを」
白い姿に浮かんだ、底なしの黒い瞳に意識が吸い寄せられる。
「貴方の、恐怖と罪に直面する時よ」
その奈落のような井戸の底へ滑落して、俺は踏み締めた記憶の中に目を覚ました。
一応の伏線回収。
実はレイナの設定は初期から変わっていません。最初から一貫してこうでした。リンバス時点で九人会崩壊から何年も経ってるっぽいので、時系列的には問題ないかと思います。
あと囚人と関わらないとあらすじにありますが、直接的に関わってはないのでそこはセーフとさせてください。
そして次回は過去編になります。お楽しみに。