パンのみに生きるにあらず   作:改造黄金虫

20 / 24
『悲劇』という単語を飾る表現は数あれど、その中で最も残酷な言い回しとはやはり、『ありふれたつまらない悲劇』というものでしょう。


第20話 Goodbye

 

 はじめて息をした瞬間を覚えているだろうか。

 己が周囲に漂う匂いを受け入れて、当たり前の糧として生きるその心地を。世界に存在し、ここにあるのだという小さな確信を。

 

 俺は忘れていない。

 

 あの時に差し伸べられた手が、俺に生を与えてくれたことを。

 

 

「ねぇ、そこのあなた。……大丈夫?」

 

 

 

 小さく、何もかもが覚束ない体のもとで、俺は生まれ変わった生活が過酷なものであることを知った。

 頼れる親はおらず、その日食う物さえも満足に存在しない。ゴミを奪い合って、更に残ったカスを舐めとる日々。

 

 けどそれも今だけの辛抱だ。もっと大きくなれば、こんなスラムを抜け出し、前世というアドバンテージを活かして、まっとうな人生を送れるようになれると、そうタカを括っていた。

 

 ここが真正の地獄の世界であったと知るまでは。

 

「……ぅぅ、ぁあああッ!」

 

 K社、翼、フィクサー、頭。

 言語を習得したことで理解してしまう、聞き覚えのある単語の数々。それを当たり前に口ずさむ人々。

 

「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ……」

 

 なんの因果か、俺はひとり都市(地獄)に堕とされていたんだ。この不条理が深く根付いた残酷な世界に。

 

「なんでこうなった……、俺がなにか悪いことをしたのか!? 嫌だ! 畜生、なんでなんだよッ!!」

「ねぇ、ちょっと……」

「ほっとけよ。そいつこないだから変なんだよ。どうせ毒でも食ったんだろ」

 

 震えが収まらず、まともに立つことすらできない。

 

 怖い……! 

 見る物すべてが恐ろしくて、身を縮めて顔を隠すことでしか意識を保っていられなかった。

 

「ハァ……、ハァ……、あう"ぅぁあ"あ"……!!」

 

 これか泣き声なのか悲鳴なのかすらも判然とせず、自分のことがなにもわからない。

 

 こんな場所でどうやって生きていくんだ? 

 なにを支えにすればいい? 

 この醜悪な狂気が蠢く世界に、どう存在すればいいんだよ……!?

 

 逃げ場のない不安と痛みに絡め取られて、指一つ動かすだけて怯えが走る。今この瞬間にさえも、誰かの悪意が俺に牙を向くのかもしれない。

 何一つとして俺の持つ当たり前が通用しない、無慈悲な底辺。それが俺に与えられた居場所だった。

 

「あぁ、嫌だ! こんな都市に、向き合うだなんて……」

 

 どれだけ喉を動かしても肺は満たせず、首を締め付けるように長く延びた苦痛が俺を苛む。呼吸の仕方も取りこぼしたせいで、踠けば踠く程にその苦しみはより一層絡まり、息を詰まらせた。

 

 苦しい……。

 

 誰か、誰かおれを………

 

 

「助けて、ください……」

 

「大丈夫よ。そんなに怖いのなら、私がずっと付いていてあげるわ」

 

 二本の腕が背中に重なり、精一杯の力で抱きしめられた。

 

 

「ほら、もう安心しなさい」

 

 その抱擁は力加減なんてことを考えもしてなくて、痛いほどに力強く、臆することのない行動。

 おもいっきり胸が押しつぶされて、その圧に肺の息を吐き切ってしまったぐらいだった。

 

「ゴホッ! ぷはぁッ! ちょっ、痛い! 痛いから放して……」

「嫌よ! あなたまだ震えてるじゃない。よっぽど寒かったのね」

 

 突き放そうとしても向こうの方がずっと強くて、俺はただされるがままに、その熱を受け止めるしかなかった。

 柔らかな温かい人肌。耳に伝わる高らかな鼓動。自分とは異なる他人の指先。

 どうにも逃げられないと観念し、おずおずと目を開けばそこには、真っ直ぐに俺を見て、俺を認める、綺麗な眼差しが待っていた。

 

「ねっ。大丈夫でしょう? 怖がりなおチビさん」

 

 堂々と額を合わせ、満開の花のような笑みを浮かべるその少女。

 

「なんだよ、お前……」

「お前じゃないわ。レイナよ、私の名前は」

 

 他と変わらないボロボロな衣服を着ているのに、その少女は誰よりも胸を張っていて。見ず知らずの他人の手を、いともたやすく掴み取り、こんな世界でも前を向いて笑ってせた。

 その無謀とも能天気ともとれるその在り方に、俺はどこか気が抜けて、知らず体の強張りを解いていた。

 

「ハァ……おチビって、背変わんないじゃん」

「あ、何よそのいいぐさ。言っとくけど、あなたはもう私の弟分だからね。ずっと一緒にいてあげるのならそうなるでしょう」

「強引だなぁ……」

 

 口からため息が一つ出てきて、自然とその空いた分の息を吸い込むことができていた。

 深く胸に刺さった氷柱を、吹き始めた暖かな風が撫でて溶かし、ゆっくりと流れ出て我が身を巡る。

 俺はその香りする空気を吸い込んで、心に火を起こす糧とし、すくんでいた足を立ち上がらせた。

 

「さあっ、行きましょう! 今日からは私たちは、絶対離れない家族なんだから!」

 

 硬く握って、ぐいぐいと引かれる繋いだ手。

 一方的で、無茶苦茶だけれども、側にいるだけで照らしてくれるその存在。それに包まれた俺は静かに笑みを浮かべて、未来を想像した。

 

 ──ずっと共にあれる明日を。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 雨の匂いがする。

 

 たしかペリトコールというそれは、塵や埃が落ちてきた水滴に弾かれ、空気中に霧散するものだと聞いたことがあった。

 

 この都市では誰も触らないヘドロや、何処かから垂れ流される廃棄水の飛沫も沢山混ざっていたが、それでも湿った香りが色濃く鼻にこびり付いてくる。

 それを風情と感じる奴は、きっと幸せ者だろう。少なくとも雨に打たれた冷たい体を、路傍の石のように捨て置かれることなどないのだ。

 

 街頭がなく、一寸先も見えない闇の果てからは、反響する雨音のみが、辺りがぽっかりと空いた深淵ではなく、地続きの道なのだと示す唯一の証だった。

 

「!」

 

 パシャリと、薄く張った水面を揺らす足音が聞こえた。

 駆け足のリズムで、だんだんと大きくなる一人分の水音。俺はその響きを頼りに、ボロ布でツヤを消した得物を構えた。

 

「フンッ!!」

「ガッ!! あ、ぁぁ……」

 

 泥を被り、身を伏せた状態から一気に跳ね起きて、ちょうどすれ違うタイミングで頭に鉄材を振るう。走っていた相手の慣性も乗って、その攻撃は確かにその者の意識を刈り取り、昏倒させた。

 

「……よし、当たりだ」

 

 古びてはいるが、まともなコートを着ている。そこらの浮浪者じゃない。まっとうな暮らしを営む人間だ。これなら奪う価値がある。

 

「ハハッ……、しっかり持ってるじゃねぇか」

 

 大事そうに抱える鞄には、まとまった金が入っていた。こんな時間にまで出歩いている時点で、なんらかの外せない用事でもあったのだろう。なんにせよ俺には幸いなことだった。

 

「後は……もういいか。そろそろ行かないとヤバいな」

 

 本当なら着ている衣服すら売り飛ばしてやりたいくらいだが、もうすぐ裏路地の夜が来る。あれに巻き込まれたら元も子もない。ここらで撤収が正しい選択だろう。

 

 そう思って身を引いた俺の足を、誰かが掴んだ。

 

「ぶっ……、が…ぁ。や……めて」

 

 地面から掠れた声が聞こえてくる。

 鼻が潰れて、欠けた歯の覗く口を動かして必死に紡がれた言葉。雨粒にかき消されてしまえばいいのに、嫌にハッキリと耳に届いた。

 

「……邪魔だ」

「やめて、ください……。どう、か……お願い……します」

 

 震えるほど強く握って、まるでそれが唯一の命綱だというぐらい、必死で俺の足に縋り付いてくる。歪んでずぶ濡れになった顔は、それが雨が涙かもわからないほどぐしゃぐしゃだ。

 

「離せ。邪魔だ」

「返して、ください……。そのお金は、家族の、薬を買うものなんです……」

 

 泣きじゃくる途切れ途切れの声が、ピリついた俺の神経を逆撫でする。そこから足を引き抜こうとしても、その手は奈落から這い上がろうとする糸のように、俺を掴んで離さない。

 月の影すらできぬ闇の中には、変わらない雨音だけが響いていた。

 

「邪魔だと、言っているッ……!」

「う"ッ。がはぁ"ッ!!!」

 

 苛立ち、波紋、熱暴走。

 刻々と期限が迫る焦りの中で、どうにも上手くいかない状況のなかで何かが切れて。頭の中に熱が籠る。茹った思考は単純で原始的な解答を嬉々として選んだ。

 

「邪魔だ! 邪魔だ! 邪魔だ! 邪魔だぁッ!!」

 

 幾度なく鉄材を振り上げて、渾身の力で苛立ちの源泉を叩き潰す。硬く反発してきた手応えが、段々と溶けて柔らかく砕けていく。打つ度に変化するその感触に、俺の本能が熱を帯びて息が荒くなり。冷えていたはずの体から汗が滲んで出た。

 

「お"願い、じあす……。わらひの、命より……大切ら、むふこ(息子)のものなんれず」

「五月蝿い、俺の邪魔をするなァァッッッ!!!」

 

 張り裂けそうな心臓の鼓動に掻き消されて、その者の言っていることなど、なにも理解できなかった。俺はただ吐き溢しそうな衝動以外を放棄して、逆手に構えた鉄材の角を突き落とす。その先端には、しぶとく喚き声を立てる頭があり、体重を乗せた一撃はその芯を正確に打ち砕いた。

 

「ハァッ……ハァッ……」

 

 ことが済んでしまえば、あれほど迸っていた熱は潮が引くように消え去って、残された空っぽの体には、何倍にもなった冷たさだけが募り滴っていた。

 鎮められた思考が告げる。こんな無駄な行為をする余裕が、お前にあるのかと。

 

 ドロリと体液で粘ついた鉄材を引き抜き、邪魔な手を蹴り飛ばすと、俺は必要とする物だけを抱えて走り出した。

 

 向かう先も、通り過ぎた後にも闇ばかりが広がっている。だから振り返って見る必要なんかない。

 遺された後のことなど、俺が知る由もないのだ。

 

「ハァ……ハァ……。寒い……」

 

 冷たく降り頻る雨は、体の感覚を酷く鈍らせて、走るためにキリキリと軋む肺の痛み以外は何も感じられない。初めて殺した命の重みなんて、何も。

 ただジンと痺れる腕の感覚が、そこにあるような気がしてならなかっただけだ。

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 真夜中、午前3時2分。

 

 今日は本当にギリギリの時間だった。これで明日の朝も早く起きて働かねばならないのだから。ここ最近はいつ寝ているか、俺でさえもわからない。ずっと頭が重たくて、悪夢の只中を彷徨い続けているような気分だ。

 

 ……まぁ、もしこれが夢であったのなら、きっとどんなに素敵なことだったろうか。

 朝に目覚めて、埃っぽいけど冷たく澄んだ香りを胸いっぱいに吸い込んで。その隣にはいつもと変わらぬ君の姿が待っていてくれてるんだ。怖い夢でも見たのか、もう大丈夫だって。

 

 そんなありもしない虚しい夢をなぞりながら、俺は眼前の閉め切られた扉に鍵を差した。古くて軋んだ金切り声を上げて、ゆっくりと俺の現実が蓋を開く。

 

 

「……………あぁ」

 

 チカチカと、僅かな照明だけが点滅を繰り返す、ほとんど真っ暗な狭い部屋。闇の中に浮かんで見えるのは、申し訳程度の仕切り板と、その奥に覗く粗末な毛布。

 

 一歩足を踏み入れれば、すぐさま悪臭が鼻に押し寄せてくる。

 流れた血と膿が混ざり合って、止まることなく腐敗していく据えた匂い。治りきらなかった傷が空気に触れて酸化し、半端な回復と壊死を繋いだ、生きたまま漂う死臭。

 どんなに新鮮な風を呼び込んでも、この場に入ればあっという間に汚染されて、爛れ腐ったガスに置き換えられてしまう。

 

 針の進む音が嫌だと、時計も置かれていないこの部屋の中では、腐りゆく苦痛の時間が、永遠に引き延ばされているかのように思えた。

 

 

「あ、アハハ……。やぁ、遅くなってごめんよ」

 

 明るく、そんな腐臭など存在しないかのように、大きく息を吸い込んで笑い掛ける。それ以外の余計な感覚など、ぜんぶ潰してしまえ。

 

「いや、でも今日は凄くラッキーでね。道で困っている人を助けたら、なんとお礼を貰えたんだ」

 

 足元に散らばる汚れた包帯をどかして、その寝台へと足を運ぶ。あぁ、また暴れちゃったんだな。

 

「そのおかげで、ほら。新しい薬も包帯も沢山買えたよ。すぐに取り替えてあげるから」

 

 俺は今、ちゃんと笑えているだろうか。その笑顔は引き攣ってやしないか。そんなんでどうする、一番辛いのは俺じゃないだろう。

 

「大丈夫。きっとすぐに良くなるよ。……だから、安心して"レイナ"」

 

 血濡れたベットの上に身を置いて、苦しげに顔を歪める少女。

 俺の太陽は、ひどく血の気の引いた肌を隠し、膿で黄ばんだ包帯で何重にも結び、人としての輪郭を保っていた。

 

「くっ……あぁ"っ! あ"あ"ぁ"ぁ"ぁ"ッ!!」

 

 ベッタリと濡れた包帯を剥いで、その下の爛れ変色した肉に薬を塗る。これには耐え難い激痛がするらしく、彼女は何度も気を失い、そしてまた痛みによって叩き起こされる。そんな苦行の時を噛み締めてやり過ごすために、壊れた手足が溺れるように振れて、俺の体を強かに打ちつけてくきた。

 お互いに傷を拡げるような、損壊を伴う治療をどうにかやり遂げて、新しい包帯でその痛ましい現状を包み隠す。

 

「ハァ……ハァ……。目が、覚める度に……自分が、一匹の毒虫になったよう……感じるわ」

 

 その白く縛られて、横たわり蠢く姿は、巨大な繭にも、芋虫のようにも見えた。

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 始まりはある日突然のことだった。

 

 俺たちはあの製糸工場で、お互いの仕事をこなしていた。任された業務内容は別だから一緒に働いたことはなく、向こうが何をしているのかは知らない。けれど大変な仕事なのだろう。その賃銭は俺よりもずっと高く、レイナはその内容についてあまり語りたがらなかった。

 

 この頃俺は、ようやく現実味を帯びてきた貯蓄のことで頭がいっぱいだった。どの工房の物にしようか、それとも仕立て屋に行こうか。このお金があれば、指を咥えて眺めるだけだった目標にも手が届く。

 俺たちの夢物語がようやくその一歩を踏み出したところだった。

 

 だから俺は思いもしなかったのさ。

 この都市で期待を抱くという行為が、どれだけ儚く潰えるものであるのかを。己が望みに向かい順調に進んでいると感じれば、唐突に口を開けた奈落に叩き落とさせるという、無情なる摂理を。

 

 

 その日は何もない、いつも通りの毎日の一つだった。

 朝起きて、一つの硬いパンを二人で分け合い、工場に向かう。高熱の蒸気が行き交うパイプが幾千にも並び、神経網のように入り組んだ鋼鉄の巨人。俺たちはその体内で一つの部品として扱われ、黙々とその機構を回す役割に従事してていた。

 

 そしてその日の昼頃に異変が起こった。工場全体にズンと低い衝撃が走り、俺たちを乗せた機構そのものが突如として停止したのだ。

 

「……なんだ、あれ」

 

 そこは最もパイプが集約した工場の中心地点。ちょうどあの蟲どもに餌をやり終えた俺の目には、蒸気と煙が混ざって噴き上がり、絡みついたパイプ群が朽枝のように剥がれ落ちる光景が遠く映った。

 そしてそこは、レイナが就業する作業棟であった。

 

 ポカンと口を開けて突っ立っている作業指導員の大人や、他の子供たちを尻目に、俺は脇目も振らずに走り出した。

 

「何があった……、とくかく急げ!」

 

 普段ならとっくに止められている侵入行為だが、まごついている警備の目を掻い潜り、爆心地へと一直線に駆け込んだ。

 

「くっ……ケホッ、ケホッ。……あつッ! 熱い!」

 

 幾つもの扉を潜り、廊下を抜けた先で、俺はその異常を目にした。

 

 棟は通じる通路の扉は大きな圧力で歪み、抉じ開けられている。その内部からは加圧された蒸気が勢いよく漏れ出し、少し触れただけで肌がヒリつく温度のそれは、この先にずっと満ちているようだ。

 迷いはない。俺は適当な布で体を覆うと、最悪喉が焼かれることも承知で、その中に踏み込んだ。

 

「ふぅーっ、ふぅーっ……クソッ!」

 

 一歩ごとに張り付く熱と湿度。真っ白に濁った視界。そして壊れたパイプから蒸気が噴き出す音だけ聞こえる、無機質な無音状態。それがなによりも俺の焦燥感を掻き鳴らした。

 

 足元には幾つもの瓦礫が落ちて、奥に進むほどにその数は増えていく。視界不良もあってその歩きづらさに苛立っていれば、妙に柔らかいものを踏んだ。

 それは茹でられて、床に身を縮こまらせる子供だった。まだ辛うじて息があるらしく、ヒクヒクと手足を動かして、こちらに目を向けてくる。俺はそれが求める人物ではないことを確認すると、見捨てて先を急いだ。他人を助け出す余裕なんて、どこにもないからだ。

 

 そうして同じように転がった幾つもの体を乗り越え、たどり着いた最奥部。広い部屋の作りをしたそこは、一掃悲惨な有様だった。

 

 真っ先にそう伝えてくるのは、鼻をつく異臭だ。そこに満ちるあまりにも濃い据えた匂いで、思わず咽せ返る。床を見れば緑色の粘ついた液体がぶち撒けられていて、時折そこにあの蟲の死体が混ざっている。おそらくこれは蟲の体液なんだろう。

 

 べったりと粘る足を引きずり、白く蒸気で霞んだ影たちに近づけば、だんだんとその輪郭も見えてくる。

 幾つもの鉄柵がついた機械が大きく歪み、その近くにいた者達を絡め圧し折っていた。巨大な大鍋は丸ごとひっくり返り、その中で煮えたぎっていた波に呑まれたらしく、大勢の人がぐちゃぐちゃに熱死している。

 そして一番目立つのは、部屋の中心にある機械。大きく鎮座したそれは観覧車のように見える、巨大な糸車だった。

 

 蒸気に吹かれ、ゆっくりと動くそれは、折れた鉄の骨組みに夥しい数の緑の糸を巻き付けて、軋みを上げながら空回っていた。元はきちんと繋がっていたであろう糸の先は出鱈目に飛び散って伸び、触れたあらゆるものを己が機構に巻き取り、縛り付けたらしい。

 今やその全身には、茂った海藻のように無数の糸がびっしりとこびり付き、そこに混ぜ込まれた数多の瓦礫と人間の手足が突き出て、飾り立てられていた。

 俺はその悍ましい緑の地獄絵図の中に、見覚えのある輝きを見つけた。

 

「あっ、あぁ……!」

 

 薄暗い中でもキラキラと星屑のように瞬いた金の髪。その一房が覗き出た部分、糸が絡まって繭のようになった塊に駆け寄り、必死で掴み解きにかかる。

 

「ハァッ! ハァッ……! 待ってろ……今、助けるから!」

 

 熱い。蒸気に燻され、人の耐えられる温度ではないそれを引き裂きなが、懸命に祈った。どうか生きていてくれ、生きてさえいるのなら他は何もいらないと。

 そして全ての包みを破いた果てに、俺は目にする。

 

「くっ、あぁ"っ……。ゔ、ヴァ……、ア、キ」

 

 焼け爛れた肌。腹部を貫いた鉄骨。そして半ば()けた肉体を。

 

「わぁひ……、どほ、なってゆの……」

 

 その壊れて欠けた体に大量の緑の糸が、"天蚕糸"が絡み付いて脈打っている。それはズルズルと体内に潜り込んで混ざり、()()()()()()

 

 レイナは、たしかに生きていた。変貌した姿となって。

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 その後、工場は指導員に従い通常通り働けと言ってきた。事故の対応をしてその片付けをしろと。倒れた者にかける余裕など何処にもないと。

 俺はそれを無視して、レイナを病院に担ぎ込んだ。

 

 急に現れた薄汚い孤児に、医者は胡乱なものを見る目を向けてきたが、貯めた金を見せて診察に持ち込む。

 ……火傷はしっかり冷やして安静に、とだけ言われた。これをなんとかしたいなら、もっと金を積んで巣の病院に行けと。

 そうして気休めの包帯と小さな痛み止めの小瓶を支給し、高い診察料だけを支払わされた。

 

 俺は……

 

 呆然とした、どこか現実離れした気持ちで、背中に苦しげに息をするレイナをおぶさり帰路についた。それしかできなかった。 

 

 

 

「アハハ、それでさ今日はもっといい薬を買える事ができてね」

 

 現在、レイナは俺の療養の下で過ごしている。

 

 宿を借りる子供の集団に拒まれたから、狭いボロアパートの一室を借りて、そこを拠点に。

 

「君の傷跡だってちょっとずつだけど良くなっているから、きっと全部大丈夫だよ」

 

 俺にできるのは、表層についた火傷の対処だけだった。深く根付いたその病巣には何もできていない。何処に見せても、もっといい場所に行けとだけ返される。けれど放っておけば皮膚の爛れがもっと酷くなるから、この当てのない治療を続けなければならない。

 

「ヴァ……ラキ。……また、お金は……大丈夫なの。この薬に、家賃だって……」

「大丈夫だよ。ほら、俺たちは貯めてた金があるだろう。あれをほんの少し切り崩すだけだよ。こんな支出すぐに取り戻せる」

 

 嘘だ。

 そんなものはとっくに使い果たし、この日々をどうにか誤魔化して持続させている。けれど俺は笑顔を作った。

 

「それにあの工場でたんまり稼がせて貰ってるんだ。もう人手が足りなくて大忙しさ」

 

 嘘だ。

 工場は事故の影響で人員削減を行い、俺はとっくに追い出されて、今はもっと安くてこき使われる仕事をしている。それでは到底足りないから、夜は"副業"に手を出す始末。けれど俺は笑顔を作った。

 

「だから、心配することなんて何もないよ。全部大丈夫さ」

 

 俺は明るく笑顔を作った。

 とにかく笑わなければならなかったから。

 

 異臭を気にして、日に日に態度を尖らせる大家も。足元を見て薬の値を釣り上げようとする医者も。治せるなどと嘯く詐欺師も。ここへは何も持ち込んではならない。全部仮面の下に隠して、俺自身からも見えなくするんだ。

 

「………ヴァラキ」

「さぁ、もう寝よう。明日にはきっと良くなっているはずさ」

 

 倒れかかるように伸ばされた手を掴み、柔らかくそう告げる。

 その手は指が全て溶けて癒着し、まるで人魚のヒレのようになっていた。そしてその皮の下では、筋肉のように脈動して、のたうち回る緑の糸が透けて見えた。

 

 

 床に横たわり、閉じた瞼の裏で幾度となくあの光景を思い浮かべる。

 彼女の溶け落ちた体へ貪り喰らうように吸い付き、自ら縫い込まれた糸の群れ。精製された天蚕糸は生命力に這い寄ると聞いた。その性質を利用した強化施術も。

 こんな状態になっても彼女が生を繋いでいられるのは、間違いなくそのおかげでだろう。

 

 だがそれも万能薬ではない。

 致命的に欠けた肉体を補うことはできず、穴を埋めようと絶えず傷を縫い続ける。なんの許しもなく大量に食い込んだそれらは、治療ではなく肉体への侵略であり、寄生と言ったほうが正しい。糸が弄ぶ操り人形のごとく半端に治され、腐りゆく苦痛がずっと彼女を蝕んでいた。

 

「それでも……だろう」

 

 どうしてその糸を手放すことができようか。

 苦痛に満ちた首を絞める荒縄こそが、今の彼女を死の淵から引き上げる命綱なのだ。

 

 先の見えない闇の中、唯一の繋がりを抱いて俺は眠りへと落ちる。

 これを断ち切ることなど、出来るはずがなかった。

 

 

 朝、夜が明ける前に目を覚まし、ふらつく頭を抱えてレイナの看病をする。丹念にその身を整えてから仕事に出る。罵声を浴びて休みなく働き、わずかな賃金を投げ渡される。それが終わったら夜更けに暗い道に隠れて獲物を待った。本当はずっとこうした方が効率がいいのだろうが、それはもう組織の縄張りがある。レイナの世話を抱えた俺では属せない。だからこうして、闇夜に隠れてやるしかない。当然危険も多いが、やらねば薬も買えないからだ。

 

 草臥れた足を引き摺って家に帰り、憂のない笑顔を形作る。ペラペラとありもしない日常を語り、綺麗に取り繕った金で看護を労した。

 

 休む間もない毎日の負荷は確実に俺の正常さを損なわせた。体の節々は痩せて軋み、思考には倦怠がかせ糸のように巻き付いて、日々と共に重く積まれていく。

 でもそれがなんだ。レイナは苦痛に覆われてひと時も安らげていないんだ、そっちの方が辛いに決まってる。こんなもの平気だ、まだ耐えられる。だからもっと頑張って、苦難に挑めばきっと報われる。いつか、報われるんだよ……な?

 

 俺たちは互いに理性を削り尽くし、生死の境で狂気を縋って、歯を食い縛り耐えていた。それでも……。

 波で削られる砂の城を、無理やり手で押さえつけるような暮らしは、ついにその薄氷を踏み抜いた。

 

 

「……ねぇ、久しぶりに、またあなたの話を聞かせてくれる」

 

 風が白く凪いで、とても涼やかな夏の黎明のことであった。その日レイナは、とても穏やかに流暢に口を動かせた。

 

「あぁ……もちろん。君の言うことなら、なんでも叶えてあげるよ」

 

 俺はその懐かしい声色に惹かれ、彼女の待つベットにふらりと近寄った。目がチカチカする。夜明け前の薄ら蒼く染まった空の色が、疲弊した脳に鋭く突き刺さった。

 

「どんな話がいい? 君が元気づけられるのならいいんだけど……」

「そうね……」

 

 窓の外に一羽の鳥が音もなく羽ばたき、遠くへと消えてゆく。

 

「前に、あなたが雨に打たれて、ずぶ濡れになりながら言ってた、願い星と涙の話。……あれをもう一度聞きたいな」

「あぁ……、大丈夫だよ。いくらでも話すから」

 

 掠れた声で紡ぐ物語。

 まるで世界が俺一人だけになったような沈黙の中で、必死にその隙間を埋めようと言葉を重ねた。強く握ったその手に宿るのは、彼女の鼓動なのか糸の収縮なのかも、もう判別がつかない。

 

「ふふっ、やっぱり無茶苦茶だけど、楽しいわね。あなたの話は」

 

 彼女は久々に屈託もなく笑って、静かに息を吐いた。

 

「私が語れる話は、苦くてつまらないものしかないもの」

 

 自力では起き上がれず、ずっと天井に向けられた虚な目がゆっくりと瞬く。その視線はどこか遠くを眺めていた。

 

「ヴァラキ。あの工場で私がやってた仕事はね、収繭っていう天蚕糸を収穫することだったの」

「収穫……」

「そう。あの蟲たちが最後に辿る道の果て。決められた末路」

 

 蟲。俺が世話を焼いていた、あの巨大な芋虫たちのことだ。なぜあんな豪勢な飼育をするのか知らないが、肥え太らせたそれを次の工程に送り込むことまでが、俺の仕事だった。

 

「前に大人が話しているのを聞いたわ。あの蟲は生まれたときからずっと選別されてるって」

 

「常に他と比べられて、劣っているものは目の前で轢き潰したり、逆に一つの個体だけを優遇したりして格差を植え付けるんだって」

 

「そうして他者を蹴落として、勝ち残った自分が最も優れた存在だと刷り込まれながら繭を作るの。美しい姿になれることを夢見て。……それを刈り取るのが収繭よ」

 

 彼女の手がなにかを掴もうとぎこちなく動く。そこにこびり付いた記憶を探るように。

 

「孵化を待つ彼らを、唐突に無骨な鉄と灼熱の中へ突き落として徹底的に解体するの。決してその命を断つことはせずに、新鮮なまま。生まれ変わりを待つ彼らに、終わりのない切除と苦痛だけを強いて、殺しきらないよう調整する。私にはそれが誰よりも上手にできた。」

 

 そう言って、彼女はひどく疲れたように乾いた笑みを浮かべると、自嘲気味に鼻を鳴らした。

 

「蛹の中でドロドロに身を溶かして、思い描いていた綺麗な線の一つ一つを、見せつけるように切り取って踏み躙る。そうして壊された可能性に絶望した彼らは、ただ夢にだけ執着するの。自分が正しく羽ばたけた未来を。羽が砕けなかった理想を」

 

「それをハンスの車輪……あの大きな糸車の下で轢き潰して繭の糸に宿らせることで、本当の天蚕糸は出来上がるの」

 

 一息に語り尽くした彼女は、首を動かしてその顔を俺に向けた。

 

「……ねっ、退屈で嫌な話でしょう」

「あ、あぁ、……でももう終わったことだろう。君が気にすることはないもないよ。さぁ、疲れただろう。ゆっくりと休みな」

 

 俺はそれに向き合いたくなかった。だからこの話も遠く埋めて、またいつもの日常に戻そうと彼女をベットに抑える。

 けど彼女はそれを拒み、縛られていた糸が解けるように、その身を起こした。

 

「レイ、ナ……」

 

 彼女は動けない。

 だってあんなにズタズタなんだ。その証拠に包帯には赤いシミが滲んで、広がっている。

 

「ヴァラキ」

「レイナ、ダメだ! すぐに横にならなくちゃ!」

「ヴァラキ! ……もうわかってるでしょう」

 

 手が伸びて俺の顔を掴み、真っ直ぐに見据える。その瞳には、痩せ衰えて酷いクマをつくった子どもが、出来損ないな壊れた笑顔を貼り付けているのが映って見えた。

 

「もう……終わらせてよ」

 

 俺の頬を触る手が裂けて、赤い血が伝い流れる。どうしようもなく冷たかった。けどそれを拒むように緑色の糸がのたうち、蟲のように手の中で這いずっていた。

 

「私に繋がる糸を、断ち切って……」

「あっ、あぁ……いやだ。嫌だよ!」

 

 その感覚に、その圧に、伝えられた言葉に耐えきれずに、俺は彼女を押しのけ突き離した。

 

「………知ってるわよ。でも耐えられないのは、私も同じなの」

 

 ベットに倒れ伏した彼女の手には、小さなナイフが握られていた。あの一瞬で俺のポケットから取ったのだ。

 

「あ、あっ、あぁぁッ!」

 

 俺は動かなかった。止めようと思えば駆け寄って抑えれた筈なのに、その後どうすればいいのかが、なにもわからなかったんだ。大丈夫だなんて嘘を剥ぎ取られてしまったから!

 焦りと無力感がごちゃ混ぜになって、歩き方さえ覚束ない。

 

「ヴァラキ。あなたはいつも食べてるパンなんかより、もっと美味しいものがあるって言ってたわよね」

 

 そんな俺に優しく、軽やかに微笑んで。レイナは手を己が胸に向けた。

 

「私はもう十分もらった。だから残ったものは、前に会ったあの盗賊団の子みたいに使いなさい。それで……」

「レイナ……、俺はそんなもの──」

 

「私がいなくても、ちゃんと生きていてよ」

 

 慰めるように咲いた笑顔が、散った。

 

 ストンと。静かに撫で上げるように手が動き、時が止まる。未練を残さないよう、すみやかに。

 

 一滴の血も溢さずに、必死に脈打たせていたその心臓へ、ナイフの柄が突き立てられ、精密にその流れを止めた。

 

 糸を失った人形のように、その体から強張りが抜けていく、解けていく。バラバラに。

 

 微笑んだ口元は、最後まで形が残ったまま、だんだんと熱を喪失していった。

 

 俺の目の前で落ちていく彼女の手。

 埋まってしまった指に結んだその約束の糸を、俺は最後まで掴むことができなかった。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 ………日が昇り、また落ちていくのを感じた。

 

 暗く染まった部屋の中で、俺は呆然として立っていた。どれだけそうしているのかもわからない。ただこうして過ごす以外になにも思いつかなかったから、そうするしかない。

 

 真っ黒な沈黙を抱えて、いつまでそうしていると。ふと、口に違和感を覚えた。

 乾ききった舌を動かして吐き出したそれは、白い蛆虫だった。

 

 体をくねらせて蠢くそれは、この部屋の腐臭に呼ばれてきたのだろう。あるいは、もう俺からも漂っているのかもしれない。何故だか笑えたその想像を肯定するように、蛆は俺に這い寄って。

 突然その進路を反転させた。

 

「あっ……」

 

 そこ先にあるのは、彼女の横たわるベットであり、ずっと俺が近寄れもしなかった場所だ。

 だが今は弾かれたように動き、駆け寄ることができた。

 

「あぁ……っ! クソ、ちくしょう!!」

 

 そこには既に、何匹もの蛆共が群がり小さな巣を作っていた。

 静かに眠っているように見える彼女の体は、また蝕まれていたのだ。

 

「やめろ! やめろォ!!」

 

 必死に手を振るい、彼女にたかるゴミを払い落とそうとするが、そこが限界だった。何日もロクに食べていない体は、もう満足に動せない。

 

 ふらついて、掠れ声ですらボヤけた俺の意識に、遺された言葉がこだました。

 

(前に会ったあの盗賊団の子みたいに──)

 

「まさか……」

 

 その考えに、甘く垂らされた禁断の糸に、死の淵にある俺の肉体が反応した。その一度芽生えた欲は、深く根付いて離れない。死肉に肥える蛆のごとく、蠢いていた。

 

「俺に、やれってことか……」

 

 このまま放っておいても、もっと惨たらしいものに変わるだけだろう。

 彼女の意を汲まなければならない。その方がいい。

 なにより、それ以外に思いつく生き方が残っているのか?

 

 頭の中で、考えてもいないのに都合のいい意見が飛び交う。否定しようとしたのにその声はとても鋭くて、何も言い返せなかった。

 

 俺は自分の口に手を当てて抑え込もうとする。

 ……少し、湿った感覚がした。

 

 

 

 

「おおっ! なんだこれ!? 珍しいな」

 

 その場所は、少し探せば見つけることができた。

 店主の男はいかにもといった怪しい風態で、すぐに商談に移った。

 

「ん〜。初めて見るタイプだから、ちょっと奥で試すか。いいだろ小僧」

「……何をするんですか?」

 

 俺はその男に尋ねると、そいつは持ってきた"それ"をシーツに包んで物のように担ぎ、ニヤリと笑った。

 

「なぁに、ちょっと試食させるのさ」

 

 

 そう言って案内された暗い倉庫の中には、大量のドラム缶が並んでいた。よく見ればそれらは常に微細な振動を起こしている。単なる保管庫ではないのは確かだろう。

 

「これは、いったい……」

「フヘヘ、いい物持ってきたからな。特別に見せてやるよ」

 

 下卑た笑いと共に一つの蓋が開かれた。その中からは嗅いだ覚えのある異臭が漂ってくる。

 

「まさ、か……」

 

 ドラム缶の中には、サイズは小さく色も異なるが、……あれと同種のものであろう"蟲"が、人間の死体を喰らっていた。

 

「そう天蚕糸の蟲、その亜種さ。こいつらは糸を吐かねぇ欠陥品種改良だが、擦り潰すと鮮やかないい色を出すんだこれが。それで絵の具としての使い道ができた」

「潰される蟲の、……エサ?」

 

 その男は自慢の逸品を披露するように、ケラケラと笑って説明した。俺は……吐き気がして、男の手から俺のものを奪い返そうとして、力が入らず転び倒れた。

 

「おぅ、どうしたんだ?」

「かっ、返せ! こんな……、こんなものより、もっとマシな所があるだろう!」

「あ〜ん? でもこれが今裏路地の流行りなんだぜ。どこ行っても同じことしてると思うぞ」

 

 その言葉を無視して立ち上がりろうとした瞬間に、ガタンと辺りが大きく揺れた。その振動は倉庫にある全てのドラム缶から断続して響き、それらが集約して向けられる一点にあるのは……。

 

「うぉ! 凄え食いつきだなこの嬢ちゃん。おい小僧!! 俺は決めたぞ、絶対にそれ買ってやる。ほらこんだけの額を払うからよ!」

 

 男が提示してきた金額は、俺たちが必死に貯めた資金よりもずっと高かった。周囲でガタガタと鳴る音は、俺に一つの選択しかないように囁いてくる。視界が狭まり、胃が締め付けられた。もうどうしたらいいのか、ずっとわからないままだ。

 

「よしっ! 交渉成立だ。こういう流行りものはパッと売り捌いて、いち早く足抜けするのが吉だ。どうせならお前も、もっと早く持ってくればよかったのにな」

 

 息ができなくて、もがくように掻いた手に金が寄せられる。握りしめて皺くちゃになったその紙幣はひどく乾いて、ザラついていた。

 

「都市には流れがあるんだよ小僧。変な感情なんか持たずに、黙々とそれに乗るほうが賢明なのさ」

 

 俺は意味を失った糸の代わりに、今日を生きる糧を手にした。そうしないと飢えた現実が待っていたから。

 だからこれはすべて仕方がないことなんだ。そう自分に刷り込んで、考えるのをやめた。

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 街を歩く。

 向かう宛はない。でもそのおかげで足取りは空っぽで、息も透明だった。

 

 ふらふらと通りを歩いていると、ふと鮮やかな一色が目に留まった。灰と土気色の沈んだ色彩の中に輝く、赤くて丸い果実。店先に並んだ林檎の色だ。

 

 無意識に、惹き寄せられるように近づけば、棍棒を持った店主が犬を見る目で出迎えてくる。ちょうど一つ分の金を見せればそれをひったくり、代わりに商品を投げつけてきた。

 

 手に収まった一つの林檎。

 張りのあって瑞々しい、真っ赤な手触り。

 初めて口にする、真っ当な食べ物。

 

 その罪の果実に歯を立てて、シャクリと咀嚼した。

 

「………」

 

 噛んで、噛んで、丹念に舌の上で果肉を転がし続ける。決してすぐには呑み込んではいけない。その滴る汁の一つまで、味わい尽くさねばならないのだ。

 

「………なんで」

 

 歯で噛み潰して、搾り出したその汁をどれだけ啜れども、感じられない。酸味も、温かさも。なにも。なにも……。

 

 口の中身を手に吐き出して眺めてみれば、バラバラに砕けた白い果肉が、蛆のように散らばっていた。決して動きやしないのに、それらは粗末に潰された怒りを持って、手の上で蠢いているように錯覚できた。

 

 齧られた林檎を見る。

 紅い皮を剥いで、内側から覗く真っ白な中身も、全部蛆虫が詰まった巣に見えて、綺麗な色を台無しにされたようだ。

 

 あてどなく林檎を手に携えて歩く。

 ふらり、ふらりと。糸の切られた凧のように街を漂い。目的もなく雑踏に紛れて進み続ける。体がいやに軽かった。

 

 そうしていく内に太陽が早回しのように宙天を過ぎて、辺りの街並みは夕日色に焼かれて黒く焦げる。

 ギラギラと輝いて消えるその星を、湾曲して伸びる影に立ち尽くし、何もせずに眺めていた。遠い地平線の彼方へと沈んで、都市の影に捕まるその残光を。

 

「……あぁ、もうすぐ掃除屋の時間か」

 

 暗く張り付いた夜の影を見ていたら、いつの間にかとっくに日付が変わっていた。凛と世界を照らしていた日ざしに代わり、ビルの窓に灯った人工の星々が、冷たい光をもって夜闇に眠ることを拒んでいる。あれほど大勢で賑わっていた街路には、もう誰もいない。

 

「帰らないと。ゴミと一緒に消える……か」

 

 月のない夜空を眺めて、いまだ手に持っていた林檎を口にする。すっかり干からびて砂の食感がするそれを胃に詰め込むと、俺はひとり帰路に着いた。

 

 今日、都市は何事もなく回っている。だから俺の明日も当然のように訪れるんだ。何も変わらない日常が、この先ずっと続いていく。

 

 朝に目を覚まして、その日のパンを買って、そのために働いて、帰って寝て。それから……。

 

 その後はどうすればいいんだっけ?

 

 わからない。

 けど都市は問題なく動き続けてるんだから、俺もそれに合わせて生きなければならない。感じるまでもなく、そういうものだ。

 見えない糸に手足を吊られ、操られるような毎日を繰り返して、俺は意味もなく生存を続けていった。

 

 

 

「絵画コンクール、発表」

 

 何度か季節が過ぎたある日のことだ。

 とても気になる単語を耳にして、久々に自分の意思で足を止めた。肌寒い夕暮れのことで、俺の背中を冷たい風が吹きつけてきた。

 

「絵の具……」

 

 貴賤を問わず素晴らしい絵を決めるために、11区で広く公募した中から選りすぐりのものを競う大会。そのおかげで絵の具がとても売れていると、あの店の男が自慢げに語っていたのを思い出す。

 

 もしそうだとしたら、きっとその画材で作られた絵も見られるのか……?

 

 なにかを名残惜しむように、俺は自分の足先を変え、歩き出した。永遠に欠けた空白に、なんらかの意味を求めて。

 

 

 進む度に賑わいを増す街は、幾つもの色を灯した電光で飾り付けられていた。スピーカーから流れる曲は楽しげな鐘の音で、人々はラッピングされた箱を抱えている。

 

「そういえば、今日はクリスマスなのか……」

 

 俺がいつもいる街では、そんなものを祝う余裕なんてない。貧しいからずっと灰色のままだ。だから毎年遠くにある灯りを眺めて、二人の静かなパーティを開いて歌った──

 

「ぐぅッ! ……ハァッ! ハァッ!」

 

 一瞬浮かんだ光景が、すぐに無力感に潰される。空っぽで隙間だらけになった胸の内は、ただ痛みしかもたらさない。俺は足を早めて、それを振り払った。

 こんな街の様子に意味なんてない。俺にそれを与えてくれるのはきっと、別のものだ。多分素晴らしい胸を打つ作品ができているんだろう。それでみんなが称賛する物になっていれば、俺のやったことに少しは意味だって……

 

「……なんだ?」

 

 会場では大勢の人々が集まり、皆一様にざわついていた。その話題の方向は何か一つに向けられているようだ。

 人波をかき分けて、大勢が指差す騒ぎの中心へと進んでいく。するとそこには、醜く崩れ落ちた絵の前で、少年と犬が血を流し、事切れていた。

 

「可哀想に、なんて哀れなんだ」

 

 人々が言う。彼はこの街に住む少年で、愛犬と共に真面目に働き、皆に愛されていたと。

 そして画家を夢見て、巣の美術大学に進学するために、この大会に全てを賭けて臨んだのだと。

 

「こんな粗悪な品物に騙されるなんて、なんて惨いことだ」

 

 彼が選んだ絵の具、最近出回ったそれは他と一線を画するほど鮮やかで、煌びやかな色合いを持つもっていた。それをかき集めるために彼は生活すら捨てて、背水の覚悟で傑作を生み出し、結果見事に選出された。

 だがそれは一時の幻のようなものだった。その蟲で作った絵の具は、塗りたくられて時間が経つと、死んだように色を落として、最後には崩れてしまう粗悪な作りをした欠陥品だったのだ。

 そうして一番手で予算を通った彼の絵は、本選であっさりとゴミになった。絶望した彼は喉を突いて、こうして壊された絵の前で、愛した犬と共に沈んでいるんだと。

 

「なんて酷い話だ……」

「あの子はこんな死に方をしていい子じゃなかったのに……」

「惜しいことだ」

 

 人々の視線はずっと少年に向けられたまま、口々に可哀想だと同情の涙を重ねている。

 俺はその群衆の中で、透明人間になったように誰とも触れ合わず、ただ崩れた絵を見ていた。

 

 ヘドロ状に腐って、元が何色であったのかも判別できないその有り様。みっともなく垂れ下がって、粘ついた糸を張るその姿を見るものは、誰もいない。当然だろう、それは無価値だからだ。

 だからそれを騙して押し付けられた少年に、皆同情しているのだ。

 

「ハ、ハハッ……」

 

 未だ可哀想な少年の事情を語る群衆から踵を返して、その場を後にする。あたりがどこも眩しい、暗い場所に行きたかった。

 

 

「ハァッ……ハァッ……」

 

 逃げて、逃げて。迫り来る街の明かりからひたすらに遠ざかる。そこに俺の居場所なんて存在しないから。

 

「ハァッ……! ハァッ……! ハァッ……!」

 

 息がまともに吸えていない。だからどうした肺なんて捩じ切れてしまえばいい。そう言い聞かせて足を上げるも、制御が効かずに絡まって、荒い舗装に倒れ込む。頭からみっともなく泥を被った。

 

「ハァッ! ハァッ! ハァッ! ハァッ……!!」

 

 止まったところで、この息苦しさは変わらない。足掻いても喉が締め付けられる。今まで俺はどうやって過ごしていたんだ。どうやればこの苦しみを解消できるんだ。

 ジリジリと焦げつくような痛みが全身に回り、地べたで溺死するという錯覚が、頭を真っ白に焼き切った。

 

「なんで、だ……?」

 

 悲鳴を上げる頭蓋がこぼした一つの疑問。

 それは今までそういうものだと押し込めて、見てしまわないようにしていたもの。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()……?」

 

 辺りにあるのは寂れたネオンの光だけ。暗い夜道に無機質な光を投げかけて、それで終わり。沈黙だ。

 

「なんで誰も見ないんだ? なんで誰も哀れまない? 悲しまれないだ? なんで君は、あんな闇の中で消えたんだ……」

 

 堰を切ったようように流れる俺の感情は、誰にも届くことなく都市に溶けて、沈む。

 

 水面を息継ぎぐように見上げた夜空は、伽藍とした黒だけがあり、そこに月と星はなかった。

 

 不意に一滴の雫が頬に伝う。

 冷たくひび割れた水滴。排ガスに塗れた大気を濾して濁る液体。どこにでも降るただの雨。

 あっという間に激しさを増したその雨足は、容赦なく俺を打ちつけて温もりを奪い去った。

 

 

(前にあなたが雨に打たれながら言ってた、願い星と涙の話──)

 

「あぁ、そうか……。そういうことだったんだ」

 

 幾つもの散らばった記憶、彼女に語った思い出話。それが俺にたった一つの答えを示してくれた。

 

「悲劇は、"人間"にだけ与えられるものなんだ」

 

 この世には目を向けられるものと、そうでないものがいる。

 

「虫ケラが踏み潰されてたって、誰も悲しむわけがないじゃないか……」

 

 捨てられた物に囲まれて過ごし、歯形のついたパンを食らって生きる。そんな存在を誰が気にかける。街の雑踏とゴミに紛れて誰も見向きはしないよ。

 

「俺は……、最初から人間じゃなかったんだ」

 

 雨に揺られるネオン光が何度も点滅し瞬く。

 俺にはそのノイズが、ようやく正解に辿り着いた、出来の悪い生徒へ贈る、喝采のように聞こえた。

 

 

 

 雨は、遂に止むことを知らずに夜通し降り続けた。

 

 芯まで冷え切った体には、その凍える感覚も感じ取れない。

 代わりに空っぽな笑いが込み上げてくる、奇妙な焦燥が俺を突き動かしていた。

 

「ハハッ……そうだ、そうだよ。始まっていなかったんだ」

 

 なにも満たされない心の内。ズキズキと痛んで締め上げてくるその疼きを。

 

「俺は人間じゃなかったんだ……。だから、()()()()()()()()()()()()

 

 極度に晒された疲弊で足が痙攣し震える。どうでもいい、そんなもの無価値じゃないか。壊れるなら壊れてしまえ。

 

「そう人間に……。まともな飯を食い、汚れてない服を着て、誰が見ても立派に見える人間になれば」

 

 その時ようやく──

 

「俺の物語は始まるんだ! それまでのすべてに価値なんかないんだ!」

 

 霧が晴れて、実にさっぱりした気分だ。

 世界なんてこう単純であった方がいい。

 

 目標を定めたら、あとはもう進むだけ。そこに至るまで、どれだけ傷を負おうが、誰を殺し奪い、踏み躙ったとて知ったことか。どうせ全部価値なんかないゴミだろう。

 

「ハハッ! ハハハハッ!! 邪魔だ! 邪魔だぁッ!!」

 

 胸の内側でなにかが叫ぶ。それはひどく目障りで、俺の進む道を邪魔立てするものに違いなかった。

 

「そうに決まってる! こんな無意味に過ごした日々が、必要な訳がないだろうッ!!」

 

 そうだ、知らない! こんな蟠りしかない記憶なんて、見返す価値もない!

 

 結局は全部、痛みに繋がるだけじゃないか……。

 

「あぁ、そうだ。捨てよう。こんな邪魔なものなんて。消した方がいい」

 

 ふらふらと、誘蛾灯に釣られたようにとある店を目指す。

 

 都市では求められるものに応じて、技術が生み出される。だからどうして裏路地には、こんなものがあるの不思議だったけど、今ならわかる。

 

 記憶を粉砕して忘れる技術。

 都市に生きるのなら、それは苦痛を積み上げることと同義である。当然忌まわしい記憶なんて増える一方だろう。忘れられるのなら、みんなそうしたがるさ。

 

「この処置は副作用として対象以外の記憶も一緒に──」

「いい。全部壊してくれ」

 

 これが終わったら、俺は真っ当な人生へと踏み出すんだ。邪魔なものは全て切り捨てて、それで人間に……。

 

 閉じた瞼の裏で、煌びやかな金髪が散った。星屑のようにも輝くそれはとても綺麗で……俺はドス黒く塗り潰した。

 

 もう二度と、浮かび上がってこないことを願いながら。孤独と冷たさだけを握りしめて。

 

 





振り切れたように見えますが、何も切れてません。
もしカルメンチェックがあれば、確実にねじれていたでしょう。運が良かったですね。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。