パンのみに生きるにあらず   作:改造黄金虫

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この形に色々と悩みましたが、結局は心の問題なので、そこに明確な正解はないと考えました。


第21話 Lament

 

「あぁっ、……また」

 

 俺がレイナと出会ってしばらくした頃。レイナは行く宛のない奴に声をかけて、お互いに支え合う小集団を作った。俺を助けたことで、何かに触発されたらしい。

 

 けれど都市はそんな生温い善意が通用する場所ではない。何も持っていない連中が集まったところで、大したことなんて出来やしないのだ。

 

 やたらと内輪揉めをする奴。任されたことを放棄する奴。金を盗んで逃げる奴。

 元より裏路地の孤児なんて、行儀がいいものじゃない。ただでさえ弱いのに、問題を起こして集団としての不和まで広がる始末。頭痛の種は増えるばかりだ。

 

 けれどその中で、レイナが一番堪えたのは。

 

「また、死んでる……」

 

 自分が面倒を見ていた奴が、あっけなくくたばる事だろう。

 

 衰弱。事故。他殺。理解不能。

 バリエーションは無駄に豊富だが、当人たちに与えられる結果は一つ。弱くて軽んじられたから死んだ。それだけだ。

 人の死が日常にまで溶け込んだ、裏路地の治安の悪い街にとって、これは呼吸のように行われる、当たり前の摂理だった。

 

「私じゃ、守れなかったのね……」

 

 でもレイナは違った。

 その死を悼んで、引き摺られて、ゆっくりと閉ざされていく。

 

 そも彼女は、あんな訳のわからない錯乱状態になった俺を放っておかずに、その手を取って抱きしめられる人間なんだ。その情緒の過敏さは、理不尽に抉られ、奪い取られた傷跡にも容赦なく作用する。

 そうして後を引き、熱を持ったその傷は、やがて彼女の存在をも蝕んでしまうだろう。

 

 俺はそんなものを、見たくなかった。だから……

 

「そうだレイナ! ■■■しよう」

 

 

 ……何かを言っていた気がする。

 

 なんだったけ?

 

 思い出そうとしても、もう何もわからない。頭がひどく鈍くて、思い浮かぶこともなかった。

 

 ……いや、正確には逆だ。解き放たれた情報が余りにも膨大で、暴力的なまでに、次々と押し寄せるそれらを、受け止め切れないでいた。

 

 

俺の人生に意味なんかありません。

 

 

「ああ……ッ!」

 

 ズキンと頭が痛んだ。とっくに捨てたはずの痛みが蘇って、暗い死の底より手を伸ばし、俺を捕える。思わず叫んだ喉の奥で滞留した熱ががせり上がり、裂けて、頭を抉り貫くような火の激痛が刻まれる。

 

 

俺の存在に価値なんかありません。

 

 

 叩きつけられる景色は、目まぐるしく変化し続け、一秒たりとて安定することはない。

 

 俺は今どこにいるんだ? また雨に打たれているのか、それともあの工場で蟲に餌やりか。あるいはあの暗い部屋で、腐れ縁の悪友を殺した瞬間か。

 

 

俺の心は強くあれませんでした。

 

 

 唯一確かなのは、そのいずれの瞬間にも、俺の居場所は存在しないという事だけだった。無数に広がる眼前の光景に手を伸ばしても、何も変わらない。触る事もできず、ただ通り過ぎて消えるだけ。

 

 どこだ? 俺は今どこを彷徨っている?

 だれか、教えてくれ……。

 

 阿鼻叫喚な地獄絵図。

 頭が割れそうなほど反響して、混濁を増すノイズが吹き荒れる。その嵐の中で俺の存在は掻き消され、孤立は際限なく深まっていき。立っていた足場は根こそぎ崩れて、もう何処にも踏み出せない。

 俺は逃げる事もできずに、ゆっくりと落ちてきた足の下で、踏み潰さる定めにあった。

 

 あぁ、誰か

 

 

そこでようやく悟った。この蔑視と無力に潰される場所だけが、俺の居場所だったんだと。

 

 

 どうか……俺を救い出してください。

 

 

「ここよ」

 

 鈴が鳴るような声が、無数の傷痕で白く濁った空間に、小さく響いた。

 

「ここ、ここにいるわ」

 

 どこか凪いでいて、ひんやりとした声の感覚。

 一人で抱え切れずに、どこまでも身を焼き焦がしていた熱の暴走が、その差し伸べられた回路の逃げ道を伝って、散っていく。

 

 行き場を失い、どうすればいいのかもわからず、寄せられた圧迫感に悶え苦しむ俺の前に。

 突如として、真っさらな空白が広がった。

 

 誰も踏み躙っていない、全てに対して開かれた、真っ白な余白。

 

 息もほとんど絶え、原始的な欲求に突き動かされた俺は、無我夢中でその出口へと縋りついた。

 

「そう、落ち着いて聞いて」

 

 波が引いていくように、煩雑としたノイズ群が鎮まる。ブレて粉々に砕けた焦点に堺が引かれ、渦を巻く視界が律されて、安定していく。

 俺が握っていたものは、差し伸べられた手であった。

 

「貴方はずっと、ここにいるのよ」

 

 天より響く声にひざまづいた姿勢から顔を上げ、その存在を見やる。

 

 笑いも怒りもしない、淡々と真っ直ぐにこちらを見据える眼差し。

 慈悲や正義でもなく、当たり前のことを伝え諭すような、冷たい誠実さ。

 しかしなにかの規範を押し付けて測り、切り捨てるのではなく。どこまでも受け入れ、それに関心を持って寄り添おうとする、枠を逸した超越的な献身。

 

 

 俺はその相手の正体を認めると同時に、弾き飛ばした。

 

 

 

 

 

「……どういうつもりだ」

 

 ゾッとするほど低く、しゃがれた音が喉から漏れる。

 暗く彩度の薄い部屋の中では、撒き散らさせた埃が悠々と漂っていた。

 

「攻撃の意図だったならわかる。俺はお前に敵対したんだからな」

 

 腹の底から湧き出る怒りに、歯を噛み締めながらその場所を睨みつける。この激情は先の無秩序なものではなく、確かな方向性を持ったものだった。

 

「だったら、俺が錯乱してる内に殺すなり、逃げるなりすればいいだろう! なぜ最後まで側に居やがった!?」

 

 部屋の隅、吹き飛ばされて積まれた段ボール箱にぶつかり、雪崩を起こしたその存在を確かに捉えて。

 

「答えろッ!! お前はどういうつもりなんだ! 何がしてぇんだよ!!」

 

 へしゃげた箱に身を沈めて、ダラリと横たえるその少女へ、殺意を持って問いただした。

 

「さっきのあの……っ、ぐぷっ」

 

 頭によぎる光景。

 断片などではない。整然と並べられ、俺の存在に根差し繋がった、確固たる記憶の全貌。

 

 それを思い浮かべてしまえば、あっけなく膝は崩れて、床に這いつくばるように倒れ伏した。

 

「なんで……、こんなことをした……」

 

 ザリザリと指で床を掻いて、怨叉の念を込め抉り取る。ぽたりと汗が床に染みた。

 

「埋まっていた傷を暴いて、見たくもない真相を引っ剥がして、力づくで向き合わせる!! これが正しい在り方だとでもいうのか!?」

 

 不条理な力。理不尽な状況。ついに封が破れて、直面された恐怖から逃れるように、俺は声を荒げた。

 

「上から目線で図々しい! お前は神にでもなったつもりか!?」

 

 悲鳴とも、怒声とも混ざった、弾劾の叫び。搾り出すようなその問いに、伏した少女はゆっくりと身を起こして、静かに答えた。

 

 

「……わたしは神様なんかじゃないわよ。貴方が言ったとおりの存在」

 

 手をついて上体を持ち上げた、その白く澄んだ姿は、幾つかの傷と僅かな血が滲んでいて、その顔には憂いを帯びたような眼差しが乗せられている。

 

「なにもなくて、周囲に流されるだけだから、自分で何かをすることもない」

 

「わたしはずっと、貴方から流れる風に乗って、揺られていただけ」

 

 少女はなにか意を決したように目を瞑ると、両足でしっかりと床を捉え、俺と向き合った。

 

「だからこれは、貴方が望んでいたことなのよ」

 

 訳のわからない言い分を携えて。

 

 

 

「…………俺、が? 何を言ってやがるんだ。俺はずっと見たくないと、記憶まで砕いて、消して……」

「そう。だけど貴方は矛盾して、ぐちゃぐちゃに絡まり、拗れていたから、自分の状態にすら目を逸らしていたの」

 

 俺の反論を認めてながら、あっさりとそれを捻じ曲げて、真実を突きつけるように一歩踏み込む。その顔には、額についた傷から血が伝い、小さく流れていた。

 

「貴方はなにも手放せていなかった。無理に埋められた傷が、熱を持って膿み、内側から自我を壊してでも這い出ようと空回りしていたの。わたしはその蓋を開けて、なるべく無傷で取り出しただけ」

「無傷……だと」

 

 俺は自分の姿を見る。表層の肉体は何もなくとも、その在り方はかつてないほどに無様で、ズタズタに欠けてこぼれ落ちている。

 もう立つことすらままならない程だ。

 

「これの……何処が無傷なんだよ!! 俺は、俺は何の支障もなかったのに……、無理矢理穿(ほじくり)り出されたんだ!!」

 

 なにが傷だ、なにが無理に埋めただ!

 こんなもの全部邪魔だった。いらなかったものだろう。現に最近までずっと、こんな心が迷うこともなかったはずなのに。

 

「あぁ、そうだ! お前のせいだ! この痛みが始まったのは、お前と出会ってからじゃないか!」

 

 永遠に眠っていた記憶を叩き起こして、俺に不要な感情を呼び出させたのも。

 完璧に融和して、一体として振る舞えていた親指の仮面を剥がしたのも。

 規律によって定めらた、俺の進むべき道が霞んで、こんなにも不安定になったのも。

 

「全部お前のせいだな! クソアマがぁ!!」

 

 ひざまづいた姿のまま放たれる、切迫した叫び声が、人気のない静まり返った廃墟に反響して散っていく。後にはただ、荒い息遣いが続くだけだった。

 

 その荒みが落ち着くのを見計らって、空白に響かせるよう、静かに少女はその首を横に振るう。

 

「残念だけれど、それも違うわ。言ったでしょう、貴方は何も手放せていなかったって」

 

 そうしてあの光のない黒檀色の瞳を開くと、また一歩踏み出し、俺との距離を縮めた。

 

「貴方が私と出会う前から、その症状は潜航していた。仮にわたしの影響がなくたって、いつかその迫り来る過去に蝕まれて、轢殺されていたでしょう」

 

 俺はそれを拒むように鬱屈と牙を剥いたが、少女は相対するように背を真っ直ぐ伸ばすと、その威圧を乗り越え進む。

 

「どんなに踏み壊して、見ないようにしても意味なんてなかったの。だって貴方が、他ならぬ貴方自身が手放せずに、その糸をずっと握り続けていたから……!」

 

 その諭すようだった語りは、ついに熱を帯びて性急に即し、キリキリと引き絞られた言葉が、決定的な真相を穿ち暴く。

 

「貴方はずっと、苦痛の極限に立たされていたのよ! そこから一歩だって動けていなかった!!」

 

 白く、白熱した宣言が波打って響き、俺の心臓を貫いた。

 

 

 

「………そうだよ」

 

 気づく間もなく、呆然とただ無意識のままに、その一言は口からこぼれ落ちた。

 そしてその後はもう、決壊するように次々と言葉が溢れ出てくる。

 

「俺はずっとそれに囚われ続けていた。どんなに引き離しても、ずっと……君を想っていたんだ」

 

「日を追うごとに、過ごした瞬間が重なって、欠片になってもその輝きは変わらず、俺の人生を照らして、その惨めさを際立たせた! だから俺は闇に身を沈めたんだ……!」

 

 一度認めてしまった亀裂が、強固に築いた器に伝染して、際限のない瓦解を招き、その内にあった見たくもない本性を露わにする。

 

「本当は……"レイナ"を、忘れたくなかったんだよ……」

 

 ぐちゃぐちゃになって、支離滅裂な感情の起伏に翻弄されながら口にしたその言葉は、途方もなく重く、熱を持っていて。俺の胸からストンと、幾多の重圧を連れ、抜け出ていった。

 

 その空を泳ぐ音の揺らぎを、少女は口を閉ざして、眺めていた。

 

 

「……おい、じゃあこれはなんだよ」

 

 ずっとへたり込んだまま、情けなく床に俯いた姿で、俺は歯を軋らせた。

 

「お前は言ったよな、俺自身の"恐怖"と"罪"だと。恐怖はそうだ、その通りさ。だが罪って何だよ!」

 

 空になった心に鞭打って引き絞り、かき集めた激情を目の前の少女に叩きつける。その精一杯の抵抗は、震えた声だった。

 

「手放せなかったことか!? 助けられなかったことか!? 十分な治療を受けさせてやれなかったことか!? 他人から殺して金を奪ったことか!? 彼女の死体を売っぱらったことか!? 最期に手を差し伸べられなかったことか!? 俺なんかと、出会ったことか!?」

 

 腹の底から直接引き出すような言葉の群れ。もう堰なんてとっくに壊れてるから、止めようがない。

 

「答えてみろよ! お前は、なんでもわかる鏡なんだろうッ!」

 

 拒絶と懇願。

 睨みつけて、縋り付くような眼差しを受け止めた少女は、ただ静かにその慟哭を断った。

 

「前にも言ったけれど、わたしはあくまで浴びせられた記憶と感情、(あまね)く色の混在する奔流をなぞり、その表層の雫を識れるだけ。全てを理解することなんて、出来やしない」

 

 淡々と、あるいは譲歩であるように、俺の求める答えに否と返すと、突き放すように告げた。

 

「わかるのは、貴方がそれを感じて、抱えているということだけ。真に貴方の苦痛を理解してやれるのは、貴方以外にはいないのよ」

 

 その言葉を最後に、少女は口を噤んで、無言の姿勢を示した。

 

 風も声も響かない部屋の中に、耳が痛いほどの沈黙が押し寄せてくる。

 

 

「…………」

 

 何も聞こえない。けどそれが何よりの雄弁な返答だった。

 

 人は白紙を見ると、なにかを書き連ねたくなる本能を持つ。

 

 以前この少女が言っていたことだが、まさしくその通りだ。

 この沈黙はどうしようもないほどに、俺の真実を浮き彫りにしていた。だって俺はずっと、最初から──

 

「知ってるよ……、知ってたんだよ……」

 

 取り繕った矜持も、臆病な抵抗心も、全てが剥がれた心の奥底で、ついに俺はそれと直面する。

 

「俺は、俺は……()()()()()()()()()自分がとうに知っていた、その苦痛に対する答えを……見なかったことにしたんだ」

 

 地下の底の牢獄で、数多の試練に立ち向かったセフィラ。

 天を突く摩天楼の図書館で、積み上げられた本の犠牲に葛藤した館長と司書。

 血に塗れた苦難の旅路で、痛みに転がりながら日々を紡ぎ、各々の答えを探した囚人たち。

 

 彼らが見せてくれた物語は、紛れもなく都市の生き様で、自らの苦痛に対する闘いだった。

 

「指の狂気に、親指の規律に全てを委ねて、与えられた殻に自我を押し殺して振る舞うのが間違いだなんて、わかってたんだよ……」

 

 罪の本質とは他者に糾弾されるものではなく、自分自身で抱え込むものであるが故に。俺はずっと、この事を胸の内で罪悪と見做していた。誰に言及されなくとも、俺自身がそう感じていたんだ。

 

「過去も、痛みも、恐怖も、後悔も、いろんなことから目を逸らして逃げても、どこにも進めやしないって……わかってんだよッ!!」

 

 側にあったゴミ箱を殴りつけ、八つ当たりに弾き飛ばす。大きく凹んだそれは空中でゴミの内臓をぶち撒けると、虚しい空っぽな墜落をして、無様な俺を嘲った。

 

 

「……おれは、この世界のことが、好きだったんだ。そこで描かれる話が大好きだったんだよ……」

 

 からからと響く音に揺られて、ついに俺は白状する。

 

「だけど俺は、この世界で生きていけなかった……!」

 

 その醜い弱さを。

 

「当たり前だろう! こんな苦痛に耐えられるものか! 不条理に奪われて、その死すらも価値に貪られる! その人が持っていた優しさなんて、誰も見ちゃくれねぇ!!」

 

 だからあんなにも優しく照らしてくれた、俺がこの世界で息をしていられるよう、手を繋いでくれた彼女は、もういない。

 誰にも報われずに、物語の舞台にも上がれずに、惨たらしく散った。

 

「俺が生きる居場所をくれた人はもう……いなくなっちゃったんだよ……」

 

 掠れてくぐもった声が喉から響く。まるで子どもじみたその言い分に、本当にあの時から止まったままだったんだと、思い知らされる。

 

「それでも、前を向けってのかよ……」

 

 怖くて瞑っていた"目"を、それでももう後に退けなくて、俺は自らの意思で顔を上げる。これ以上無視して、向き合わずにいられることが出来ないと、悟ったから。

 

 

(……あぁ、やっぱりだ)

 

 少女を真正面から見据えて、その奥底を深く覗き込んだ。

 

 そうして見えてくるのは、反射して映された俺自身の心。その心象風景。

 

(……やっぱり俺には、これしかないのか)

 

 そこにあったのは、冷たくて、果てることなく広がった暗闇だけだった。

 

 どこに行くべきかも定まらず、何も残されていないひび割れた荒野。

 手を伸ばしても掴めたものはなく、ザラついた寒さが身を枯らす、孤独な放浪。

 

(無理だよ……、俺はもう……立ち上がれない)

 

 途方もなく怖かった。その先を歩いていける気がしなかった。

 一人で、あてどなく続く暗い道を進むなんて、受け入れられる筈がなかったのだ。

 

 俺は弱くて、どうしようもなく弱くて、耐えられる勇気が持てなかった……。

 

 俺自身が抱えて、俺自身が作り出した不安の鎖。一人ぼっちの嗚咽が奏でる空虚な風の音色。折れた心は、ただ逆らうこともせずに、星のない夜の闇に沈んでゆく。

 

 どこまでも堕ち続け、何物にも触れられずに、虚無と冷たい喪失の中でバラバラに砕けて、俺は無価値な自分を手放した。

 

 

 その刹那に。

 浮かぶだけだった景色が、何の色も帯びていなかったそれが、自ら踏み出して、俺に触った。

 

「ヴァラキ、貴方に遺されたのは、それだけじゃないのよ」

 

 力を失い、倒れる最中にあった体を誰かが支えて、二本の腕で強く()()()()()()()

 

「あっ……」

 

 いつかの過ぎし日。抱きしめてもらった感覚が、俺に生を与えてくれた、忘れられないあの瞬間と重なって、糸が繋がり結ばれる。

 

「わたしには何もないけれど、それでも与えて貰ったものはあるの。教えてくれたことも」

 

 その体は冷たくて、潔癖なまでの白は寄せ付けない感覚がしたけれど。その節々には俺がつけた傷があり。そこから滲み出た血は、とても温かくて、色づいていた。

 

「都市で生きる人は皆、見えない鎖に縛られて自由に動けず、ずっと引き摺られているんだって。だからその流れの中でひび割れて何かを落としても、それを思い出す暇もなくて、欠けた事をちゃんと悲しんでやれないんだって。あのお爺さんが言ってたわ」

 

 どこか懐かしむような声色。

 寄せられた小さな抱擁は、あの強引で力強いものとは違ったけれど、やっぱり強く俺を掴んで離さなかった。

 その温もりが教えてくれる、干からびた荒野の奥底には、まだ眠っているものがあるのだと。

 

「誰も彼もがそんな状態だから、都市は常に張り詰めて、息もできないくらい圧し固められた。……でもね、わたしは空っぽな空白だから。今だけは、もう自分を抑圧しなくていいの」

 

 ちゃんと目を開いているのに、視界が歪んだ。

 また変調をきたしたのかのかと身構えたが、その情動はほろほろと強張りを溶かして、俺の抱えた鎖に染み入ってくる。

 

「貴方がずっと堪えていた本当の想い。それは」

 

 熱く、温かく瞼から溢れて、流れ落ちた。

 それはずっと凍りついた過去に、血が通って、溶け出したものだ。

 

「あぁ……、なんで、なんでレイナは死んじゃったんだよ……!!」

 

 俺は()()()、彼女が死んだことを認めて、涙を流した。

 

「ずっと一緒にいたかったさ!! 離れたくなんてなかった……!! チクショウ、なんで……俺を一人にしていくんだよ……!!」

 

 急速に押し寄せた潮騒の音は、砂の枷を簡単に押し流してしまい。抱きしめてくれるその少女に、俺はみっともなく泣きついた。

 

 泣いて、泣いて。

 ただ押さえつけて、見てしまわないようにした思いの丈を、全身から感じ取っていた。閉じた殻から剥き出しになり、電撃のように身を焼く衝動。涙を流して、嗚咽をこぼし、震える体を、白い少女はそっと撫でつけた。

 

「もしも何処かに、すべての人々に代わって涙を流すものがいたとしても、やっぱり自分の為に泣いてあげられるのは、自分だけなんでしょうね。……だからどんな理由があっても、人間が涙を流さなくていいなんてことは、きっとないんでしょう」

 

 融解した情動も、棘のついた蟠りも、すべてを吐き出して澄み切った心の中に、不意にぶつ切りにされた過去が再生される。

 

 

「そうだレイナ! 葬式をしよう。そいつを弔ってやるんだ!」

「……とむ、らう?」

「あっそうか、都市だと15区ぐらいでしか重視してないのか」

 

 生きた人間が金と時間を天秤にかけて動き回る都市では、死者を想うなど無意味な行為とされて久しい。だがそれでも完全に失われていないのは、きっとまだ意味が残っているからだ。

 

「そう。ちゃんとお別れして、胸を張って送り出すんだ」

 

 弔いは、残された人間のためにするものなんだから。人が生きて死んでいく限り、ずっと必要とされるものだろう。

 

「こんなにもお前を想っていた奴がいるんだから、そんなに悪い人生じゃなかったぞってな」

 

 亡くなった人を、悼み懐かしむ心があるのなら、きっと世界が変わり果てても、それがいらなくなる日も来ないだろうから。

 

 

「ハハッ……、結局その後リーダーが妙な儀式を始めたって、みんな逃げて解散したんだよな……」

 

 馬鹿みたいな結末だと俺はガッカリしたけど、レイナはとてもスッキリした面持ちだった。

 だから俺も一緒になって笑ったんだ。

 

「そっか、俺はレイナを弔ってやれてなかったんだな……」

 

 長く詰まっていた胸のつっかえがようやく取れて。久々に息を吸えた気がした。

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

「……………」

 

 薄暗い部屋の中を、悠々と二筋の煙が立ち上っている。

 

 その火元は、ギャップの奴から貰った甘ったるい薫りのする煙草だ。せっかくだからと、アイツの分も一緒に立ててやっている。

 俺はそれを線香代わりにして、静かに両手を合わせ祈っていた。彼らと過ごした日々を、その冥福を。

 

「………」

 

 その側では一人の少女が所在なさげに立っている。いつもは煙草の匂いを嫌がるこいつも、今はずっと黙って見ているだけだった。放っておくのもなんなので、俺はその少女の名前を呼ぶ。

 

「レイナ、……ありがとうな」

「えっ……! あ、うん」

「? なんだその反応は」

 

 基本物怖じしせず踏み込んでくる奴だろうに、なぜか妙に余所余所しいその返信が気になった。

 

「いや、今更なことなんだけれど。……過去を取り戻した貴方を相手に、わたしがそう名乗ってもいいのかしらって」

「……ハァ? そんな事を気にするのか。お前が?」

 

 これまで散々好き放題やってきた癖に?

 そんな感情を込めた怪訝な睨みを効かせれば、フイッと顔を逸らさせた。

 

「だってまぁ……、これまでは貴方がそれを直向きに求めていたから、その衝動に乗っていたからだし……。さっきのアレコレだって貴方が今にも自壊しそうだったから、強引に踏み込んだというか……」

「………ハァ。要するに落ち着いたら、ちょっと気恥ずかしくなった訳か。阿呆らしい」

「アホって貴方……」

 

 若干不貞腐れたように口を窄める少女。俺はその頭に手を置くと、鼻で笑ってやる。

 

「別にお前をあの子の代替品として見てる訳じゃねぇんだ。それはもうお前の存在を示すもの。だから堂々と言ってやれ、わたしの名前はレイナだとな」

「わっ、あわわっ」

 

 そのままガシガシと強く撫でつけてやれば、少女は慌てたように身を引いて、その乱れた髪を整える。そして落ち着かせるように一呼吸すると、自分の胸に手を置いた。

 

「……そう、なら改めて名乗らせてもらうわね。わたしはレイナ、レイナという名前よ」

「あぁ、そうだ。その方が俺も気分がいい」

 

 ジリリと音を立てて、二つの煙柱が燃え尽きる最後の一際眩しい反応を示すと共に、その火が消えた。僅かな残り香もまた、音もなく散っていった。

 

 

「はぁ……、これからどうすればいいんだろうな」

 

 心はかつてないほどに淡く、落ち着きを払っている。

 だからといってすべての悩みや不安が消滅したわけではない。強迫観念が解けたとて、進む先は依然として見えてこなかった。

 

「いっそ、このまま時が止まっちまえばいいのにな……」

 

 薄暗く閉め切られた部屋の中は、依然と静かで緩やかに閉ざされていて、ここを訪れた時からずっと変わらずにあるようだが、俺が何をしていても時間はそれを置き去りにして進み、世界は回り続けていく。

 定められた期日までの針は、刻々と迫っていた。

 

「半端に時間があるから、こうも迷うのかな……」

 

 迷い。

 以前までなら絶対に有り得なかった個人の脆弱。それが今最も俺を悩ませるものだった。

 掴もうとしても得られず、一歩踏み出すことができないもどかしさに頭を抱えて、ついレイナに言葉を漏らした。

 

「なぁレイナ、俺がこのままお前を親指に引き渡すとして、その時お前はどうするんだ?」

「……それ本人に聞くもの? ひどい質問ね。まぁ、けれどわたしの答えとしては一つかしら。……それが貴方の望む選択なら、粛々と受け入れるわ」

「受け入れるって、なんでそんな軽々しいんだ。初めて会った時からそうだが、危機意識というものがなさすぎるだろう」

 

 ただ周りに流されるだけだからと。こいつがそういうスタンスをとっている事は重々承知の上だが、それでも俺は知りたかった。その心の内側を。

 

 するとレイナは少し俯くと、困ったようにはにかんで、こう言った。

 

「………だって、突然放り出されたこの世界を、どう生きればいいのかわからないもの」

 

 ……………。

 

 なんだそれ?

 

 なんだってそんな理由で──

 

「ハハ……、そうなのか」

 

 俺は……、この世界で自分のあるべき生き方がわからなくなって。痛みと無力さに自らを投げうち、周りの環境に依存して、盲従することをよしとした。

 自分の意思で選び、道を切り拓くことをやめた。望みを捨て去ったんだ。

 そしてそれこそが俺の罪だと、少なくとも、俺自身が痛感していた。

 

「俺たちは、似たもの同士だったんだな……」

 

 道を見失った迷い子。暗闇に目を瞑り、風を待っていた間抜けな人間。それがお前であり、そして俺でだったのだ。

 

 

 

 

 しばし後、俺は一人廊下に佇んでいた。

 

「ハァ……、これじゃ堂々巡りだ。結局俺はどうすればいいんだろうな」

 

 レイナに待っていろと告げて部屋に残してきた。決めねばならないのは俺自身だからだ。

 

 けれども、どうしようもなさが煮詰まって、壁に身を寄りかからせて、暗い天井を眺める。その心の内では何度も荒唐無稽な考えが浮かんでは躓き、現実のあるべき姿と捩れ絡まって、螺旋のように渦を巻いていた。

 そこから踏み出す勇気が持てなかった。

 

 そんな伽藍として騒々しい隙間を縫って、一つの声が飛来して、突き立てられる。

 

 

 それはいつも飄々として、俺を苛立たせ、事あるごとに構ってきた相手のもの。

 

(どうか、君が抱いた望みを諦めるのはやめてくれ。そんな姿は君に似合わないんだ)

「……ギャップ」

 

 今際の際で奴が遺した言葉。勝手に押し付けていきやがった身勝手な願望。

 けどそれが今の俺には、妙に耳に残っていた。

 

 

 "望み"

 俺自身の抱いた我欲。断ち切れなかった願いを。

 

 

 そこに続くようにして、また新しい言葉が蘇る。こんな情けない俺へ笑いかけて、グイグイと引っ張っている存在。

 

(私がいなくても、ちゃんと生きてよ)

「……レイナ」

 

 俺を励ますように、その先へ送り出すように咲いた微笑み。

 俺はそれが忘れられなかった。

 

 

 "理想"

 俺が見ないふりをしてきたもの。切り離せなかった在り方を。

 

 

 そして見失った俺の姿を照らして、同時に俺が手を繋いで歩いた隣人。

 

(それでも与えて貰ったものはあるの。教えてくれたことも)

「………レイナ」

 

 俺と同じ迷いに足をとられて、それでも差し伸べてきた手。その冷たさと温もり。

 

 

 "感情"

 絶えず俺に付き纏い、あらゆる色を灯していたもの。どんなに荒み怯えていても、ちゃんとそこにあった自我(エゴ)を。

 

 

 踏み躙られて、深く埋まっていたそれらを、泥の底よりゆっくりと掬い上げる。

 それはとても熱く脈打って、俺の身に余るものかと思えたけれど。どんな形であれ、向けられた優しさが俺を導いてくれて、臆面もなく受け入れられた。

 

 

 それが螺旋を解く鍵となって、絡まったイメージを分かち、俺が進む二つの道を、はっきりと見据えることができた。

 

 

抗う。全てを賭してでも抱いた望みを諦めず、新しい一歩を踏み出す

 

従う。思い出したもの全てを再度砕き埋めて、目を瞑ってこの場に止まる。

 

 

 

 わかりやすく可視化したのなら、こんな形だろうか。

 かつて画面の前に座っていた俺なら、慌ててセーブした後に、小一時間は悩んだのだろう。

 

 けど今はセーブデータなんて気の利いたものはなく、紛れもなく一方通行で、逃げることができない選択肢。どちらかを選び取らねばならない、確定した未来だ。

 

 

 ……俺は弱い。

 一人ではとても立ち上がらず、息もできないくらいだ。

 だから俺は、俺を見ていた者たちの声に、耳を傾ける。

 

 

(君は自分で思っているより……ずっと凄い人間なんだよ)

(やっぱり無茶苦茶だけれど、楽しいわね。あなたの話は)

 

 

 俺が今ここにいて、生きていられるのは彼らの、或いは俺の知らないもっと大勢の支えと犠牲があったからだろう。

 

 その者たちの血で紡いだ、赤い糸こそが、俺の生を連綿と繋いでくれた縁であり、証だった。

 

「……なら、その果てにあるのが、しょぼくれて頭を地面に擦り這うだけの物語りなんてのは。味気なさすぎて、好きになれないよな」

 

 俺は顔を上げると、息を思いっきり吸い込んだ。

 

 埃っぽさ、苦味、甘い残り香、スパイシーな菓子、僅かな芳香剤、据えた泥、どこからか染み込んだ雨水、柔な人肌の香り。

 

 遍く色が氾濫する、都市の雑多な空気を吸い込んで、それを心に火を起こす糧とする。体に広がった熱は、すくんでいた足を、強く立ち上がられせた。

 

「あぁ、そういえばそうだったな」

 

 今日何度目かの発見は、思わず苦笑してしまうもので。

 

「望んだ物語を選択するのが、プレイヤーの役割だったんだ」

 

 俺は心が踊る方角へ、期待と不安を胸に携え、踏み出した。

 





溜め込んだ鬱屈や蟠りを吐き出してスッキリする、完全開放戦形式でした。
時系列的にまだ光の種がないので、E.G.Oもねじれもありません。でも物理的に発現させなくても、心の力は決して無力なものではないですからね。



被験体404号 仮称:レイナ】
 鏡技術の研究として繰り返される数多の実験の中偶発的に生み出された特異個体。元の素体は10区の裏路地にいた普通の少女。今はその原型も残っていない。
 無限に照射される鏡面世界の中で、存在するということ自体が霧散したが、なぜか肉体が無傷で残った結果生み出された、人の形をした空白地帯。その存在を真っ向から認識してしまうと、人の意識は個として持つ境界を見失い、そこへ向けて拡散していってしまう性質を持つ。(精神に強固な殻を持つものであれば多少の耐性を持つのだが、その場合鏡写しの自分と記憶や感情に直面させられ別の負荷をかけられる)
 たしかに珍しいものではあったが、別段求めるものではない上に、発展性も見られないことから、ヘルマン理事は単なる一標本として放置していた。それを産業スパイとして潜り込んだ薬指関係者が、アセアを拉致るついでに盗み出し薬指に渡った。(Leviathanの描写から、薬指は白夜以前から鏡の実験をやっていたと考察)
 そこでは覗いた者の自我を抉り出す備品(キャンバス)として扱われ、研究指標の名目であちこちの出資者(パトロン)へ秘密裏に披露されていた。その輸送車が襲撃されたことで、この話の本編につながる。
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