堺東。大阪のミナミともキタとも違う、独特の粘り気のある空気が流れる街。
駅前の商店街を歩きながら、さっきまでの商談のことを思い返す。
相手は“堺の商人”を絵に描いたような、愛想だけは良いが財布の紐は鋼鉄でできている店主だった。1円単位の攻防戦。精神をごっそりと削られた挙句、結局商談は決裂した。
「……やれやれ。時間と愛想の無駄遣いだ。これではROI(投資対効果)が合わん」
ふと気がつくと、俺は商店街の喧騒を抜け、少し薄暗いエリアへと足を踏み入れていた。
翁橋(おきなばし)。かつての色街の残滓が漂う、大人の迷宮だ。ここには、表の商店街とは違う、少し淀んだ、しかし濃厚なフェロモンの匂いが漂っている。
(ポン、ポン、ポン……)
立ち止まり、ネクタイを少し緩めた瞬間、身体の奥底で警報が鳴った。
「……いかん。監査の時間だ。腹が減った……のではない。……溜まっている。俺は今、猛烈に……抜きたい」
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いつものように本能に従って裏路地へと進む。
キャッチだろうか、強面の男たちが路上で気だるそうに引き攣った笑顔で愛想を振りまいている。先程の店主を見習うべきだ。あのオヤジなら瞬く間にやり手のキャッチとして名を馳せるんじゃないか。
そんなことを考えながら、彼らを避けるようにして奥へ奥へと進んで行くと、一軒の看板が目に留まる。
『ゆでたまご』
……いい店名だ。男なら誰しも、その響きに“ツルッとした肌”の幻影を見る。しかも、ギャルのお尻と燻製たまごが並んだイメージまで浮かんでくるじゃないか。
だが、値段を見て俺は唸った。指名料込みで120分、40,000円。……高い。強気だ。ローカルな価格設定とは、とても思えない。高級フレンチのフルコース並みじゃないか。この店は、割引もしない。媚びない。その姿勢に、逆に俺の“食欲”が刺激された。
「よし。今日のディナー(遊び)は、奮発して特上といこう」
俺は4枚の諭吉を握りしめ、その店を選んだ。指名は『さやか』。高身長・モデル体型のトップランカー。オリエンタル美女。
待合室でネットの情報を見ると、プロフはFカップだが実際はCかD……などと書かれていたが、そんなの誤差だ。俺が求めているのは、40,000円分の“極上の癒やし”だけだ。
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ボーイに案内を告げられ、待合室から出て彼女を見た瞬間、俺の思考は停止した。
「はじめましてぇ〜!」
……でかい。顔は確かに、写真通りのオリエンタルな美人だ。それはいい。喜ぶところだ。身長もプロフィールよりかなり高い。逆サバだ。それもまあいいだろう。
だが、縦だけではなく横にも、俺の“想像という器”を遥かに超えてでかいのだ。
ヒールを履いた彼女は、まるで立ちはだかる壁のよう。むちむち……いや、パンパンの外国人のような肉体。圧がかなり凄い。空気が物理的に薄くなった気さえする。サンバの映像でこんなおばさんを見たことがあるぞ。
「お兄さん、堺東はよく来るん? え、久しぶりなん? ほなこの辺も変わったやろ〜」
ホテルの部屋に入った途端、Sayaka…いや、さやかのマシンガントークが始まった。大阪のおばちゃんのような、間断のない喋り。
……まあいい。元気なのはいいことだ。ラテンの血が入っているのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、至近距離で会話をしようとした、その時だった。
(……ん?)
俺は思わず鼻をひくつかせた。
(……く、臭い)
なんだ、この匂いは。古いコーヒーと、安物のタバコと、男なら知っているはずの“アレ”が腐ったような臭い。それらが全て混ざり合い、煮詰まったような……そう、まるで“前の汚客(おきゃく)の残留思念”をそのまま口に溜め込んでいるような、強烈な悪臭。
「でね〜、こないだウチの店長が〜」
彼女が口を開くたびに、俺の顔面に毒ガスが噴射される。鼻どころか、目が染みるような気もしてきた。
(……いかん。これはいかんぞ)
俺の玉袋が、急速に縮こまっていくのを感じる。
彼女は一向にプレイに入ろうとしない。ずっと喋っている。俺は40,000円を払って、この悪臭耐久トークショーを聞きに来たのか?
「……あの、そろそろシャワーを」「あ、ごめ〜ん! 話止まらんくて〜!」
ようやくシャワーへ。彼女がうがいをする音が聞こえる。
(頼む。消えてくれ! その臭いさえ消えれば、この巨体も“豊満なブラジル人女性”として楽しめるはずなんだ)
だが、現実は甘くなかった。ベッドに戻っても、悪臭は健在だった。
彼女の豊満な(公称)Fカップが迫ってくる。くそっ、やはりCじゃないか。いくらなんでもサバを読みすぎだ。
いかん、気を取り直そう。本来なら食いつくべき極上の果実だ。しかし、顔が近づくと、防衛本能が警報を鳴らす。
(……だめだ。箸が進まない)
いつもならこちらからも楽しむところだが、俺は諦めて全てをあちらに委ねることにした。こんなに嬉しくない“シェフのおまかせコース”は初めてだ。
(……顔を逸らして口でなんとか息をするしかない)
俺のあられもない姿に対し、彼女のテクニックは淡白だった。こちらから「こうしてほしい」とオーダーしても、「あ〜それは無理〜」と一蹴される。
味のしない料理。止まらないお喋りというBGM。そして、鼻を突く異臭。
俺は天井を見上げた。40,000円。その数字が、天井のシミになって俺を見下ろしていた。
……その後、どうやって息子が出された料理を平らげたのか、記憶は定かではない。
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ホテルを出た。外の空気は、涙が出るほど美味かった。
「……ハズレだ。大ハズレだ」
ネットには『彼女は天使』なんて書き込みもあったが、信じられない。
恐らくは普段から残飯のような物ばかりを口にしている、味覚音痴の戯れ言に違いない。俺にとっては、二度と入店したくない“地雷嬢”認定だ。
ふぅ、と溜息をつく。40,000円をドブに捨てた虚無感。だが、不思議なことに……腹が、減った。
精神的なダメージを受けた時、人間は腹が減るものなのか。俺は今、猛烈に“濃い味”を欲している。あの口臭の記憶を、もっと強烈な匂いで上書き保存したい。
俺の足は、無意識に赤い提灯の店へと向かっていた。『ニンニクラーメン』。
「……これだ」
店に入った瞬間、ガツンとくるニンニクの香り。さっきまでの悪臭とは違う、食欲をそそる暴力的な香り。俺は迷わず、ニンニク増し増しで注文した。
出てきた丼には、刻みニンニクが山のように盛られている。スープを一口。
「……うまい」
ガツン! と脳天を突き抜ける衝撃。豚骨の濃厚な脂と、生ニンニクの暴力的な辛味。
これだ。この荒々しさだ。40,000円の毒ガスが、800円のニンニクパワーで中和され、浄化されていく。まさに、毒を以て毒を制す。
俺は一心不乱に麺を啜った。チャーシューも肉厚で美味い。高い勉強代だった。だが、このラーメンに出会うための経費だったと思えば……いや、やっぱり高いな。
店を出ると、夜風が少しだけ優しくなっていた。
さて、明日はミナミで仕事だ。次こそは、当たりの店を引き当てたいものだ。
俺は口元のニンニク臭を楽しみながら、堺東の駅へと歩き出した。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・悪臭とは関係ありません。
▼ 五郎の失敗から学ぶ『店選びの極意』は、ここでこっそり公開している。
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