商談成立。上本町の喫茶店で、俺は確かに勝利した。
相手は難攻不落と言われた取引先だったが、今日の俺は何かが違った。
冴え渡るトーク、完璧な資料、そしてみなぎる自信。契約書に判が押された瞬間、俺は“ただの亀頭五郎(かめがしら・ごろう)”から、大阪の夜を統べる“選ばれし者(エリート)”へと進化したのだ。まるで、マリオのスター状態だ。触れるものすべてをなぎ倒せる気がする。
店を出ると、谷町筋には冷たい風が吹いている。街はクリスマス一色だ。浮かれたカップルたちが、イルミネーションのように点滅しながら通り過ぎていく。
「……ふん」
普段の俺なら、この光景に舌打ちの一つもしていただろう。だが、今の俺には余裕がある。懐には、少し早いが自分へのボーナス(経費の浮き)がある。
(ポン、ポン、ポン……)
立ち止まり、ネクタイを少し緩めた瞬間、身体の奥底で暴動が起きた。
「……腹が、減った……わけではない。俺は今、猛烈に……抜きたい」
勝利の美酒には、極上の肴が必要だ。俺はタクシーを拾い、行き先を告げた。
「生玉(いくたま)へ」
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大阪・生玉。古くからのラブホテル街であり、数多のデリバリーヘルスが拠点を構える欲望の丘。
今の俺に、60分10,000円の格安店は似合わない。今日の俺は、質を求める“美食家”だ。スマホを取り出し、商談の時と同じく、冷静にパネルを品定めした。まるで、高級レストランのメニューから、メインディッシュを選ぶ時のように。
以前から目をつけていた少し高級な『人妻専門店』のページを開く。だが、画面に並ぶのは無慈悲な現実だ。『ご予約満了』『待ち時間120分』『本日の受付は終了しました』……。
「……ちっ」
当然だ。今はクリスマス。世の寂しい独身男たちが、救いを求めて殺到している時間帯だ。この時間に即案内できる嬢なんて、閉店間際のスーパーに残った“衣ばかりのコロッケ”みたいなものだ。そんな油っぽい地雷を踏むわけにはいかない。
(諦めて、何か旨い物でも食って帰るか……)
そう思いかけた時だった。俺の親指が、無意識にブラウザを更新(リロード)した瞬間。
『沙織(32)』 【予約満了】➡【即ご案内!】 コース:90分25,000円(指名料込)
「……!」
電流が走った。ドタキャンだ。……25,000円、安くはない。諭吉が二人と、一葉が一人。民族大移動だ。
だが、前回の『120分40,000円』という特大の爆弾を踏んだ悪夢に比べれば、この額は“正当な対価”と言える。今の俺には、商談成功のボーナスと、研ぎ澄まされた“目利き”の自信がある。
「……安物買いで失敗するのは二流。本物は、極上の逸品を選び抜く」
俺は迷わず電話ボタンをタップした。25,000円。これは博打ではない。一年間戦い抜いた、俺という戦士への“退職金代わりのご褒美”だ。
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指定されたホテルの部屋で待つこと15分。チャイムが鳴らされ、現れた女性を見て、俺は心の中でガッツポーズをした。
「はじめまして、沙織です……」
当たりだ。場外ホームランだ。色白で整った目鼻立ち。華奢な体からは、いかにもな“女性らしさ”を感じさせる。
写真よりも少し年上に見えるが、それがかえって“人妻”としてのコクを出している。うなじから漂うのは、安っぽい香水ではなく、ほのかな柔軟剤の香り。実家に帰った時のような、安心感という名のフェロモン。きっと彼女の作る肉じゃがは美味しいはず。
普段の俺なら、ここで野獣のように「早くシャワー!」と急かすところだ。だが、今の俺はエリートだ。
「外、寒かったでしょう? 大変でしたね、こんな時期までお仕事で」
口をついて出たのは、自分でも驚くほど紳士的な言葉だった。沙織さんは一瞬きょとんとして、それから花が咲くように微笑んだ。
「……ふふ、ありがとうございます。そんなふうに気遣っていただいたの、久しぶりです」
そこからの時間は、まさに“王の休日”だった。彼女の指先は冷え切っていたが、俺の肌に触れる頃には熱を帯びていた。事務的なマニュアル対応ではない。まるで、とろ火でじっくりコトコトと煮込まれるような、濃厚な時間。
(……見える。俺には見えるぞ)
(彼女は今、単なる客としてではなく、一人の“雄(オス)”として俺を見ている)
商談で磨かれた俺のオーラが、このSランクの人妻をも魅了してしまったのか。罪な男だ、亀頭五郎。
情事の最中、彼女が耳元で漏らした「……すごい」という吐息は、演技には思えなかった。いや、そう信じたい。
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「……今日は、本当に楽しかったです」
帰り際、身支度を整える彼女の背中を見ながら、俺は確信していた。いける。今の俺なら、一線を越えられる。
俺はジャケットを羽織りながら、低く渋い声で切り出した。気分はすでに新宿の有名ハンターだ。
「沙織さん。……今度は、仕事抜きで会えませんか?」
「えっ……」
「貴女をもっと知りたい。……ダメかな?」
直球勝負。今日の商談を決めた時と同じ、勝利の方程式だ。沙織さんは困ったように眉を下げ、それから小さく溜息をついて微笑んだ。
「……もう。強引なんだから」
彼女はサイドテーブルのメモ用紙にさらさらとペンを走り書きし、四つ折りにして俺の手に握らせた。上目遣いで、俺の目をじっと見つめる。どこかその瞳が潤んで見えるのは、俺の気の所為ではないはずだ。
「これ……お店には内緒にしてくださいね?」
心臓が早鐘を打つ。勝った。俺はついに“Sランクのプライベート”という、幻の裏メニューを手に入れたのだ。聖夜の奇跡。運命の恋。やったね、ゴロー! メリークリスマス!
「……ああ。分かった。墓場まで持っていくよ」
俺はにやけそうになるのを必死で堪えながら、何とかハードボイルドな表情で頷き、そして“彼女(二重の意味で)”を見送った。
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生玉の坂を下りながら、俺は冬の空を見上げた。
こんなに綺麗だっただろうか。いつもは都会の闇に覆われた、見えないはずの星までもが輝いて見える気がする。足取りが軽い。寒くない。今の俺には、懐のメモ用紙という熱源がある。
(かけるなら、今しかない)
鉄は熱いうちに打て。商談の鉄則だ。
俺は震える手で、メモを開き、書かれた番号をスマホに入力した。プルルル……プルルル……。コール音が、ジングルベルよりも美しく響く。今日は楽しいクリスマスだ。
『……はい』
繋がった。あの、しっとりとした濡れた声が聞ける――。
『お電話ありがとうございますぅ!! 人妻ヘブン、受付の田中ですぅ!! ご指名ですかぁ!?』
「…………」
耳を疑った。そこにあったのは、絹のような吐息ではなく、ガラガラに枯れた、ドブ川を煮詰めたような野太い男の声だった。
俺はスマホを耳から離し、画面を見る。発信履歴。そして、手元のメモ。そこには綺麗な字で、さっき自分が予約した店の電話番号が書かれていた。
『もしもしぃ? お客様ぁ? 電波悪いですかぁ?』
俺は静かに通話終了ボタンを押した。
「……そうか」
白い息が漏れる。内緒にしてくれと言ったのは、『店に内緒の連絡先』ではなく、『外に誘ってくるようなバカな客には、店の番号を渡してあしらっておけ』というマニュアル対応だったのか。
彼女はプロだ。そして俺は、ただの調子に乗った客だ。完璧な商談(プレイ)だった。俺がカモであるという点を除いては。
急に、腹が減ってきた。胃袋が現実に戻れと叫んでいる。
もうさっきまでの星空は見えなくなった。代わりに坂の下に、赤い看板の牛丼屋が見える。
「……クリスマスに牛丼か。上等じゃないか」
俺は襟を立て、独り、店へと歩き出した。
今の俺には、つゆだくの温もりと、紅生姜の酸味だけがお似合いだ。やっぱり大人にサンタクロースは来ないもんだ。
※お掛けになった電話番号は、現在、受付の田中さん(40代・男性)に繋がります。
聖夜の奇跡なんてない。あるのは無慈悲な現実と、高い授業料だけだ。
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